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40 仮初めの恋人③
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リストのトップにある名前。
ヒューゴ・ヴァランシー。
それはカラプタリアの宰相の名だ。
「……これは?」
ランドルフが問う。
「宰相のヒューゴは王妃の信頼篤く、なんでも言うことを聞く男」
冷めた声音でアシュリーが答えた。
ならばこれは腐敗に手を染めた悪徳役人リストかと、もう一度紙面に視線を落とす。
そこには十人以上の名前と役職、それにそれぞれの容姿の特徴が記されていた。
「……でもそれは見せかけだけ。ヒューゴはわたくしの指示に従っているの。わたくしがそうしなさいと命じたから」
「なんだって」
苦笑まじりに続けられた言葉に目を瞠る。
「ヒューゴは徐々に腐敗していく宮廷にずっと警鐘を鳴らし続けていた。陛下や王妃に直接意見することもあったわ。そしてある日、王妃のわたくしへの仕打ちに気づいてしまった」
ぎゅっと自分の身体を抱きしめて眉根を寄せる。
その表情には悔恨が滲んでいた。
「今にもナタリアを殺しに行きそうな彼を止めた。そんなことをすれば反逆罪で捕まってしまうのは明白だったから。だから言ったの。いつか必ずわたくしがこの状況を変えてみせる。それまで王妃の味方のフリで情報を引き出してわたくしに報せなさいと」
そうすれば無茶なことはしないでしょう、とアシュリーが苦笑する。
だからアシュリーの持つ情報量が異様なほど多かったのか。
そう納得するのと同時に、年若い少女が自分の苦境に救いを求めず死地に飛び込もうとする大人を止められる心の強さが眩しかった。
「だけどそんなもの、一時しのぎの嘘でしかなかったわ」
アシュリーの表情が暗いものへと変わる。
「だってわたくしにはなんの策もなかった。死んでほしくなくてわたくしは嘘をついたの。ヒューゴもきっと分かっていたでしょうね。分かっていて従ってくれたのよ」
罪を告白するようにアシュリーが言う。目には涙が滲んでいた。
ずっと罪悪感に圧し潰されそうだったのだろう。
立ち上がり、苦しそうに吐き出すアシュリーをそっと抱きしめる。
「……嫌ですわね。一度涙腺が緩んだらもう戻らなくなってしまったわ」
一粒こぼれた涙を拭って、アシュリーはランドルフの胸に頭を預けて苦く笑う。
「……リストにある名前は、わたくしの味方になってくれた者たちのものです」
「ああ」
「宮廷で王妃の味方のフリで働いている者も、地下牢に幽閉されている者もいます。どうか彼らに慈悲を」
「約束する」
ランドルフが躊躇なく承諾すると、アシュリーはホッと小さく嘆息した。
「弟は何も知りません。ただ陛下と王妃に愛され甘やかされて育っただけ」
気に食わない拷問の時に言っていた。
弟が可愛いと。それは本心だったのだろう。王妃の憎悪を知らず、真っ直ぐに姉を慕う幼い弟。
「ワガママだと分かっている。だけどどうか傷つけないでほしいの」
その腹違いの弟を真剣に擁護するアシュリーに心が痛む。
自分と違ってぬくぬくと育った弟を、恨んでも妬んでも許される立場にあったのに。
自分を一心に慕う幼子をただ守りたいと望むアシュリーの健気さに、ランドルフは何度だって胸を打たれる。
「分かった。誓おう。誰の血も流させないと」
弟だけではない。彼女の真の望みはこれだろう。
ランドルフにはもう分かっていた。たとえ自分がどれだけ虐げられようと、彼女は相手も同じ目に遭えとは思わないのだと。
アシュリーの優しさに少しでも応えられるように。
ランドルフは真摯な眼差しでアシュリーに約束した。
「……ありがとう。でも、どうか無茶はしないで」
心配そうに眉根を寄せて、アシュリーがランドルフを見上げる。
彼女が無事を祈ってくれるなら、誰にも負けはしない。
そんなふうに思えた。
「さあ、今日はもうゆっくり休め。部屋まで送ろう」
ジゼルを呼ぼうかとも思ったが、離れがたくて自ら申し出る。
けれどアシュリーは困ったような表情でうつむいてしまった。
彼女の立場なら憂いは尽きないだろう。
だがもう夜というよりは朝に近い時間だ。少しでも身体を休めた方がいい。
「どうした? まだ何かあるなら」
明日聞こう、と続けようとしたランドルフの手を握られて、言葉が途切れる。
「……今夜もここで寝てはダメ?」
頬を紅潮させて上目遣いに問う。
少し幼い口調は、狙っているのかと問いただしたくなるほどに甘かった。
こんなことを言われて断れる男がいるだろうか。
「だっ、だってわたくし昨夜のことを何も覚えていないもの。あなたばかりズルいわ」
何も言えずにいるランドルフを見て、機嫌を損ねたと思ったのかアシュリーが言い訳のように言葉を重ねる。
「きゃっ」
ランドルフは無言でアシュリーを抱き上げ、ベッドまで運ぶとそっと華奢な身体を横たえた。
「……ああ、着替えが必要か」
そこで初めてアシュリーがワンピースのままだということに気づいて、自分の動揺ぶりが恥ずかしくなる。
「ふふっ、ジゼルを呼ばなくてはですわね」
アシュリーが無邪気に笑い、起き上がる。
「今夜は抱きしめて眠ってくださいましね」
それからランドルフの手を取って、愛おしそうに頬を擦り寄せる。
抱きしめるだけで眠ることがどれだけ難しいか。
知らないであろうアシュリーを、ランドルフは初めて恨めしく思った。
ヒューゴ・ヴァランシー。
それはカラプタリアの宰相の名だ。
「……これは?」
ランドルフが問う。
「宰相のヒューゴは王妃の信頼篤く、なんでも言うことを聞く男」
冷めた声音でアシュリーが答えた。
ならばこれは腐敗に手を染めた悪徳役人リストかと、もう一度紙面に視線を落とす。
そこには十人以上の名前と役職、それにそれぞれの容姿の特徴が記されていた。
「……でもそれは見せかけだけ。ヒューゴはわたくしの指示に従っているの。わたくしがそうしなさいと命じたから」
「なんだって」
苦笑まじりに続けられた言葉に目を瞠る。
「ヒューゴは徐々に腐敗していく宮廷にずっと警鐘を鳴らし続けていた。陛下や王妃に直接意見することもあったわ。そしてある日、王妃のわたくしへの仕打ちに気づいてしまった」
ぎゅっと自分の身体を抱きしめて眉根を寄せる。
その表情には悔恨が滲んでいた。
「今にもナタリアを殺しに行きそうな彼を止めた。そんなことをすれば反逆罪で捕まってしまうのは明白だったから。だから言ったの。いつか必ずわたくしがこの状況を変えてみせる。それまで王妃の味方のフリで情報を引き出してわたくしに報せなさいと」
そうすれば無茶なことはしないでしょう、とアシュリーが苦笑する。
だからアシュリーの持つ情報量が異様なほど多かったのか。
そう納得するのと同時に、年若い少女が自分の苦境に救いを求めず死地に飛び込もうとする大人を止められる心の強さが眩しかった。
「だけどそんなもの、一時しのぎの嘘でしかなかったわ」
アシュリーの表情が暗いものへと変わる。
「だってわたくしにはなんの策もなかった。死んでほしくなくてわたくしは嘘をついたの。ヒューゴもきっと分かっていたでしょうね。分かっていて従ってくれたのよ」
罪を告白するようにアシュリーが言う。目には涙が滲んでいた。
ずっと罪悪感に圧し潰されそうだったのだろう。
立ち上がり、苦しそうに吐き出すアシュリーをそっと抱きしめる。
「……嫌ですわね。一度涙腺が緩んだらもう戻らなくなってしまったわ」
一粒こぼれた涙を拭って、アシュリーはランドルフの胸に頭を預けて苦く笑う。
「……リストにある名前は、わたくしの味方になってくれた者たちのものです」
「ああ」
「宮廷で王妃の味方のフリで働いている者も、地下牢に幽閉されている者もいます。どうか彼らに慈悲を」
「約束する」
ランドルフが躊躇なく承諾すると、アシュリーはホッと小さく嘆息した。
「弟は何も知りません。ただ陛下と王妃に愛され甘やかされて育っただけ」
気に食わない拷問の時に言っていた。
弟が可愛いと。それは本心だったのだろう。王妃の憎悪を知らず、真っ直ぐに姉を慕う幼い弟。
「ワガママだと分かっている。だけどどうか傷つけないでほしいの」
その腹違いの弟を真剣に擁護するアシュリーに心が痛む。
自分と違ってぬくぬくと育った弟を、恨んでも妬んでも許される立場にあったのに。
自分を一心に慕う幼子をただ守りたいと望むアシュリーの健気さに、ランドルフは何度だって胸を打たれる。
「分かった。誓おう。誰の血も流させないと」
弟だけではない。彼女の真の望みはこれだろう。
ランドルフにはもう分かっていた。たとえ自分がどれだけ虐げられようと、彼女は相手も同じ目に遭えとは思わないのだと。
アシュリーの優しさに少しでも応えられるように。
ランドルフは真摯な眼差しでアシュリーに約束した。
「……ありがとう。でも、どうか無茶はしないで」
心配そうに眉根を寄せて、アシュリーがランドルフを見上げる。
彼女が無事を祈ってくれるなら、誰にも負けはしない。
そんなふうに思えた。
「さあ、今日はもうゆっくり休め。部屋まで送ろう」
ジゼルを呼ぼうかとも思ったが、離れがたくて自ら申し出る。
けれどアシュリーは困ったような表情でうつむいてしまった。
彼女の立場なら憂いは尽きないだろう。
だがもう夜というよりは朝に近い時間だ。少しでも身体を休めた方がいい。
「どうした? まだ何かあるなら」
明日聞こう、と続けようとしたランドルフの手を握られて、言葉が途切れる。
「……今夜もここで寝てはダメ?」
頬を紅潮させて上目遣いに問う。
少し幼い口調は、狙っているのかと問いただしたくなるほどに甘かった。
こんなことを言われて断れる男がいるだろうか。
「だっ、だってわたくし昨夜のことを何も覚えていないもの。あなたばかりズルいわ」
何も言えずにいるランドルフを見て、機嫌を損ねたと思ったのかアシュリーが言い訳のように言葉を重ねる。
「きゃっ」
ランドルフは無言でアシュリーを抱き上げ、ベッドまで運ぶとそっと華奢な身体を横たえた。
「……ああ、着替えが必要か」
そこで初めてアシュリーがワンピースのままだということに気づいて、自分の動揺ぶりが恥ずかしくなる。
「ふふっ、ジゼルを呼ばなくてはですわね」
アシュリーが無邪気に笑い、起き上がる。
「今夜は抱きしめて眠ってくださいましね」
それからランドルフの手を取って、愛おしそうに頬を擦り寄せる。
抱きしめるだけで眠ることがどれだけ難しいか。
知らないであろうアシュリーを、ランドルフは初めて恨めしく思った。
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