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32 最後の拷問④
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「なにがきっかけだったのかしら。もう覚えてはいませんわ。たぶん、何かわたくしが反論したのでしょうね。あなたは間違っていると」
奇妙に口元を歪めて、アシュリーがまぶたを伏せた。
「頬を叩かれたの。容赦のない平手打ちだった」
ランドルフの手をそっと握り返しながら、アシュリーが言う。
「今にして思えば可愛いものだったけれど。あの時は初めて叩かれた衝撃と痛みで、何も言えなくなってしまった」
淡々と語るその口調が、逆に生々しく感じるのはどうしてだろう。
一国の王女としてぬくぬくと育てられてきた十代の少女が、義理とはいえ母親から攻撃を受けたのだ。
そのショックの大きさは計り知れない。
「ただでさえ憎い女の娘だったのに、その上生意気なわたくしが腹に据えかねていたのでしょう。思わず手が出たという顔でしたけど、痛みを与えれば大人しくなるとナタリアは知ってしてしまった」
その先は聞かなくても想像できてしまった。
生来攻撃性の強い性格をしていたらしいナタリアなら、歯止めを失うまですぐだっただろう。
「……痛みに強い、のは、そのせいか」
なにが痛みに強いだ。
自分で言っていて反吐が出そうだった。
沈痛な表情で問うランドルフに、アシュリーが笑う。
「ええ、そういうことですわ。痛みで黙らせるという手段が、泣き叫ぶわたくしを見るという目的に変わるのは早かった」
加虐の悦びを覚えた人間の行為はあっという間にエスカレートする。
王妃という立場では正義も口実も必要なく、止める人間もいなければなおさらだ。
「ナタリアは誰もいない場所で、服を着たら見えない位置を選んでいた。狂っていたのではなく、元々の性質なのでしょうね」
冷静に分析している場合かと言いたかったけれど、彼女にとって暴力はすでに日常と化しているのだろう。
取り乱すこともなく、おそらくここに連れてこられるまでずっとされてきたであろうことを語る。
「痛いのが怖くて何も言えなくなった。何も言わなくても痛みを与えられるようになった。泣けば泣くほど喜んだ。だから泣くのをやめた。痛みに顔を歪めることすら。慣れって恐ろしいですわね」
恐ろしい内容を口にしながらアシュリーは淑やかに微笑む。
自分のことなのに、物語を伝え聞かせるように。
彼女は痛みに慣れたのでも強くなったのでもなく、度重なる虐待に耐え切れず感情を殺しただけだ。
表情に出なくなるほど痛みを与え続けられたのだと知って、ランドルフは嗚咽がこみ上げそうになるのを必死に耐えた。
「誰も、止めなかったのか」
「知っているのはナタリアの信奉者だけ。自分たちが優遇されさえすれば、それで良かったのでしょう」
ナタリアの横暴によって宮廷に残されたのはナタリアの取り巻きのみ。
アシュリーへの行為を、黙認するだけならまだマシな方だったのかもしれない。
「国王は」
「父は……気づいていた、とわたくしは思っているわ」
アシュリーの顔が悲しみに歪む。だがそれも一瞬だけだった。
「もともと流されやすい人でしたの。婚前にナタリアと深い仲になったのも、母と結婚したのもそう」
まるで他人事のように冷めた目で言う。
まだ二十年も生きていない少女がしていい目ではなかった。
「ナタリアが怖かったのでしょう。わたくしを生贄にすれば、自分が標的にされることはない」
「クズですね」
それまで黙って聞いていたロランが吐き捨てるように言う。
「ふふ、陛下曰く『私は弱い』のだそうですわ。弱いことは罪ではないと言いたいのでしょう」
アシュリーが悲し気に笑う。
見て見ぬふりを続け、散々彼女を救わない言い訳をしてきたのだろう。
「一国の王が弱いままでいるのは大罪だ」
ランドルフが呻くように言う。
腹が立って仕方なかった。
娘が酷い目に遭っているのを知っていて、何もしない父親になんの価値があるというのか。
弱い自覚があるなら強くなるよう努力すべきだ。
弱い王はそれだけで国を衰退させる。
強くなることを諦めたなら、初めから王になどなるべきではない。
「そうね……あの人に王の自覚があったら、いくら過去に候補の一人だったとはいえナタリアを王妃になどしなかったでしょうね」
アシュリーがくすくすと無邪気に笑う。遠い昔の出来事のように。
「……アシュリー様の不名誉な噂も王妃の仕業ですか?」
痛ましい表情をしながらロランが聞く。
アシュリーが苦笑を滲ませながら頷いた。
「カラプタリアはできるだけ戦争を引き延ばしたいの。民から重税を搾り取る理由が必要だから」
こちらからの停戦協定を受け入れないくせに、積極的に戦闘を仕掛けてくるでもない理由はそれか。
カラプタリアにとっては自国民が豊かになるための戦争ではなく、一部の特権階級が贅沢をするためでしかなかったのだ。
そんなもののせいで、アストラリスの国民は長年本当の平穏を得ることもできずにいたのだ。
「民衆に苦しい生活を強いる憎き敵は国王ではなく、アストラリスでなくてはならないというわけか」
「ええ。その上で国民の悪感情を回避するためのガス抜きが必要だった」
貼り付けたような笑みでアシュリーが言う。
「その対象にわたくしは適任だったのね」
長引く戦争のためと重税を課され続けているのに、一向に改善の兆しがない。
前線では激しい戦闘が行われていると言われれば信じざるを得ず、補給物資や摩耗した武器の補強のために増税を甘んじて受け入れて。
その上横暴な領主に魔法も禁じられ、暮らしは苦しくなるばかり。
だけど王家は国のために頑張っている。
ただ一人を除いて。
国庫を食いつぶすほどの贅沢三昧の強欲王女。
彼女のせいで自分たちは苦しい生活を強いられているのだ。
そんな噂がまことしやかに流れれば、抑圧された民衆たちのフラストレーションが向かう先はただ一つ。
「あの女のせいで自分たちは苦しいのだと。不満はすべてわたくしにぶつけられた」
一国の王女が国民の前に出ていって直接言い訳することなどできなかっただろう。
仮にそうしようとしても、間違いなくナタリアが阻止したはずだ。
アシュリーはただ自分への憎しみが増大していくのを見ていることしかできなかった。
八方塞がりの中、彼女はただ孤独に耐えることしかできなかったのだろう。
奇妙に口元を歪めて、アシュリーがまぶたを伏せた。
「頬を叩かれたの。容赦のない平手打ちだった」
ランドルフの手をそっと握り返しながら、アシュリーが言う。
「今にして思えば可愛いものだったけれど。あの時は初めて叩かれた衝撃と痛みで、何も言えなくなってしまった」
淡々と語るその口調が、逆に生々しく感じるのはどうしてだろう。
一国の王女としてぬくぬくと育てられてきた十代の少女が、義理とはいえ母親から攻撃を受けたのだ。
そのショックの大きさは計り知れない。
「ただでさえ憎い女の娘だったのに、その上生意気なわたくしが腹に据えかねていたのでしょう。思わず手が出たという顔でしたけど、痛みを与えれば大人しくなるとナタリアは知ってしてしまった」
その先は聞かなくても想像できてしまった。
生来攻撃性の強い性格をしていたらしいナタリアなら、歯止めを失うまですぐだっただろう。
「……痛みに強い、のは、そのせいか」
なにが痛みに強いだ。
自分で言っていて反吐が出そうだった。
沈痛な表情で問うランドルフに、アシュリーが笑う。
「ええ、そういうことですわ。痛みで黙らせるという手段が、泣き叫ぶわたくしを見るという目的に変わるのは早かった」
加虐の悦びを覚えた人間の行為はあっという間にエスカレートする。
王妃という立場では正義も口実も必要なく、止める人間もいなければなおさらだ。
「ナタリアは誰もいない場所で、服を着たら見えない位置を選んでいた。狂っていたのではなく、元々の性質なのでしょうね」
冷静に分析している場合かと言いたかったけれど、彼女にとって暴力はすでに日常と化しているのだろう。
取り乱すこともなく、おそらくここに連れてこられるまでずっとされてきたであろうことを語る。
「痛いのが怖くて何も言えなくなった。何も言わなくても痛みを与えられるようになった。泣けば泣くほど喜んだ。だから泣くのをやめた。痛みに顔を歪めることすら。慣れって恐ろしいですわね」
恐ろしい内容を口にしながらアシュリーは淑やかに微笑む。
自分のことなのに、物語を伝え聞かせるように。
彼女は痛みに慣れたのでも強くなったのでもなく、度重なる虐待に耐え切れず感情を殺しただけだ。
表情に出なくなるほど痛みを与え続けられたのだと知って、ランドルフは嗚咽がこみ上げそうになるのを必死に耐えた。
「誰も、止めなかったのか」
「知っているのはナタリアの信奉者だけ。自分たちが優遇されさえすれば、それで良かったのでしょう」
ナタリアの横暴によって宮廷に残されたのはナタリアの取り巻きのみ。
アシュリーへの行為を、黙認するだけならまだマシな方だったのかもしれない。
「国王は」
「父は……気づいていた、とわたくしは思っているわ」
アシュリーの顔が悲しみに歪む。だがそれも一瞬だけだった。
「もともと流されやすい人でしたの。婚前にナタリアと深い仲になったのも、母と結婚したのもそう」
まるで他人事のように冷めた目で言う。
まだ二十年も生きていない少女がしていい目ではなかった。
「ナタリアが怖かったのでしょう。わたくしを生贄にすれば、自分が標的にされることはない」
「クズですね」
それまで黙って聞いていたロランが吐き捨てるように言う。
「ふふ、陛下曰く『私は弱い』のだそうですわ。弱いことは罪ではないと言いたいのでしょう」
アシュリーが悲し気に笑う。
見て見ぬふりを続け、散々彼女を救わない言い訳をしてきたのだろう。
「一国の王が弱いままでいるのは大罪だ」
ランドルフが呻くように言う。
腹が立って仕方なかった。
娘が酷い目に遭っているのを知っていて、何もしない父親になんの価値があるというのか。
弱い自覚があるなら強くなるよう努力すべきだ。
弱い王はそれだけで国を衰退させる。
強くなることを諦めたなら、初めから王になどなるべきではない。
「そうね……あの人に王の自覚があったら、いくら過去に候補の一人だったとはいえナタリアを王妃になどしなかったでしょうね」
アシュリーがくすくすと無邪気に笑う。遠い昔の出来事のように。
「……アシュリー様の不名誉な噂も王妃の仕業ですか?」
痛ましい表情をしながらロランが聞く。
アシュリーが苦笑を滲ませながら頷いた。
「カラプタリアはできるだけ戦争を引き延ばしたいの。民から重税を搾り取る理由が必要だから」
こちらからの停戦協定を受け入れないくせに、積極的に戦闘を仕掛けてくるでもない理由はそれか。
カラプタリアにとっては自国民が豊かになるための戦争ではなく、一部の特権階級が贅沢をするためでしかなかったのだ。
そんなもののせいで、アストラリスの国民は長年本当の平穏を得ることもできずにいたのだ。
「民衆に苦しい生活を強いる憎き敵は国王ではなく、アストラリスでなくてはならないというわけか」
「ええ。その上で国民の悪感情を回避するためのガス抜きが必要だった」
貼り付けたような笑みでアシュリーが言う。
「その対象にわたくしは適任だったのね」
長引く戦争のためと重税を課され続けているのに、一向に改善の兆しがない。
前線では激しい戦闘が行われていると言われれば信じざるを得ず、補給物資や摩耗した武器の補強のために増税を甘んじて受け入れて。
その上横暴な領主に魔法も禁じられ、暮らしは苦しくなるばかり。
だけど王家は国のために頑張っている。
ただ一人を除いて。
国庫を食いつぶすほどの贅沢三昧の強欲王女。
彼女のせいで自分たちは苦しい生活を強いられているのだ。
そんな噂がまことしやかに流れれば、抑圧された民衆たちのフラストレーションが向かう先はただ一つ。
「あの女のせいで自分たちは苦しいのだと。不満はすべてわたくしにぶつけられた」
一国の王女が国民の前に出ていって直接言い訳することなどできなかっただろう。
仮にそうしようとしても、間違いなくナタリアが阻止したはずだ。
アシュリーはただ自分への憎しみが増大していくのを見ていることしかできなかった。
八方塞がりの中、彼女はただ孤独に耐えることしかできなかったのだろう。
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