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1巻

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   プロローグ


「やぁ、これはこれは」

 唐突な深夜訪問に、思い切り嫌な顔をされる覚悟で通された客間で待っていた。
 けれど程なく現れたジェレミーは、清々しいほどの爽やかな笑みを浮かべて私たちを歓待してくれた。

「ようこそユリア。それにメイドのお三方。歓迎しますよ」

 一切の疑問を差し挟む気配もなく、優雅にソファに腰を下ろしてにこりと微笑む。その微笑は、私の座るソファの後ろに立ったまま、警戒するように控えているメイドたちにも等しく向けられた。

「……もしかして、知っていらしたのですか」

 その表情を見て、自然とそんな言葉が口からこぼれ出た。
 何を、とは言わなかった。それだけで彼には伝わると思ったから。
 だってあまりにもタイミングが良すぎるのだ。
 確信の滲む私の言葉に、ジェレミーが苦笑する。

「否定したら信じてくれますか」
「ええ、信じます。なんのことか分からないとあなたがおっしゃるなら、きっとそうなのでしょう。私の考えすぎです」

 もちろんその可能性のほうがよほど高い。
 自覚はないけれど実は私は発狂寸前で、訳の分からぬ妄想でジェレミーを困らせているのかもしれない。そうでないと強く言えるほど、自分の冷静さに自信はなかった。

「突然現れて何を訳の分からないことをと言われたら、今すぐにでもこの場を去りますわ」

 まっすぐにジェレミーの目を見てそう言うと、彼は苦笑の色を濃くした。

「黙っていようと思っていたのですが……」

 視線を落として嘆息する。それから私の背後に控える三人に何やら意味ありげな視線を送って、最後に私に視線を据えた。

「フェアじゃないのでやはり白状します。それを聞いてから、これからのことを判断してください」

 そう言うとジェレミーは笑みの気配を消して、これから語ることへの覚悟を決めたように、深く深く息を吐いた。
 それはどこか諦念と自嘲の混じったような、複雑な表情だった。


 やはりこれは彼の復讐なのだろうか。
 もし、彼を捨てたというニーアへの復讐に利用されているのだとしたら。
 私はそれを甘んじて受け入れるべきなのかもしれない。


    ◇◇◇


「ねぇ聞いてよユリアお姉様。彼ったら昨日もネックレスを買ってくれてね?」

 妹のニーアが、可愛らしい顔をほころばせながら話し始める。

「そのうえ薔薇の花束までくださったのよ。お花はもういらないって言ってるのに、『キミが綺麗だからどうしてもプレゼントしたくなってしまうんだ』って」

 滑らかな頬を薄紅色に染め、ハニーブロンドの髪を指先でくるくるといじっている。こちらの事情もお構いなしで、聞いてもいないことをまくし立てるのはいつものことだ。男の人とデートをするたびに、プレゼント自慢だの愛の言葉自慢だのをしにくるのはそろそろやめにしてほしい。
 ため息をつきたくなるのを堪えて、仕方なく耳を傾ける。
 わざわざ私の仕事中に執務室に来て、来客用のソファにふんぞり返ってやくたいもない話ばかり。たぶん、デートがない日はヒマなのだろう。
 追い出したり無視したりすると余計に面倒なことになるから、仕事の手を止めずに適当なタイミングで相槌を打つ。たまに感心したり羨ましがるフリをしなければならないのが億劫だ。


 生まれてからずっと両親に甘やかされてきた妹は、常に自分が優先されて当然だと思っている。そのうえ、姉の私を便利な小間使いか何かだと思っているのだ。
 両親が私をそう扱う姿を見続けてきたから仕方のないことではある。私ももう慣れてしまった。
 地味で面倒な書類仕事や領地内の視察、情報収集はいつも私。
 美人で社交的な妹は、パーティーへの顔出しのような華やかで目立つことばかり。
 当然、出会いは妹のほうが多い。というか私は皆無だ。
 きっと妹は気に入った貴族令息に好きなように嫁入りし、私は親の都合のいい家格の釣り合った相手を見繕われて婿を取らされるのだろう。
 侯爵家の長女だから、好いた相手に嫁がせろという気はなかったが、私の意見がまるで反映されないのは目に見えていた。結婚には夢も希望もない。
 両親の妹贔屓びいきはニーアが生まれてからずっとで、今更抗議する気にもなれなかった。
 書類へのサインが片付いて、一息入れるついでに彼氏自慢を続ける妹の話をもう少ししっかりと聞くことにした。
 普段ならば風の音程度に聞き流してしまうところだけど、今ニーアがお付き合いしている人には少しだけ興味があったのだ。

「それで彼は宮廷料理人さえ恐れるほどの美食家だから、もう食べることは趣味というより人生なんですって」

 素敵よね、と私にはあまり理解できないセリフを誇らしげに反芻はんすうするニーアに、おや? と首を傾げた。

「伯爵様はオペラがお好きなのではなかった?」
「伯爵? 誰のこと言ってるの?」

 前に聞いていた情報と違うな、と気になって問うと、妹は怪訝そうに眉根を寄せた。

「誰って……オーウェン伯爵様よ。彼の話をしていたのではなかったの?」

 彼のことをしきりに話していたのは、つい先日のことだったように思う。
 ニーアが彼を屋敷に連れてきた時のこともよく覚えている。しっかりと人の目を見て話す、落ち着いた感じの人だった。珍しく印象に残る方だったからよく覚えている。

「ハッ、いつの話をしているのよお姉様ったら。あんな地味でつまらない男、とっくに捨ててやったわ。今付き合ってるのはフェルランド侯爵家の方よ」

 嘲笑を交えながらどこか得意げにニーアが言う。きっと前よりもさらに爵位が上の方とお付き合いできる自分が誇らしいのだろう。
 その顔はひどく歪んで見えた。
 ――また恋人が変わったのね。
 微かな苛立ちと共にそんな感想を抱く。
 花よりも宝石よりも美しいと称される妹だが、時に醜悪に見えることがある。
 そんなふうに思うのは、私の中の醜い心のせいだろうか。

「……そう。ほどほどにね」

 ニーアに答えながら、思わず眉間にシワが寄る。
 いつもはニーアの恋人が変わってもなんとも思わないのに、今日はどうしてこんなにささくれ立った気持ちになるのか。自分でもよく分からない感情の動きに首を傾げたくなる。
 妹は十六で社交界デビューして以来、その美貌を生かして恋人をとっかえひっかえしている。妹の好みは分かり易く派手な容姿で、金払いも良く歯の浮くような愛の言葉を並べ立てるお金持ちのお坊ちゃんばかりだ。
 正直、毎回紹介という名の自慢のために連れてこられても、歴代彼氏の顔の見分けはつかなかった。申し訳ないことに全員同じに見えるのだ。
 そんな恋人たちの中で、オーウェン伯爵だけは妹の好みとは外れているように思えた。
 ほぼ三ヵ月ごとに更新される男性遍歴はほとんど覚えていないが、彼だけはハッキリと記憶に残っていた。
 妹に地味と評された容姿は、確かに派手ではないが整った綺麗な造作をしていたように思う。真面目な人柄がよく伝わる丁寧な喋り方をして、若くして伯爵家当主を継いだからか金銭感覚もまともで堅実なようだった。少し話をしただけで、彼の人柄に好感を持った。
 親のお金をばらまいて遊びまわるような歴代彼氏たちに比べたら、確かにつまらなく思えるかもしれない。けれど妹もようやく身を固める前提で相手を探すようになったかと感心していたのだ。それなのに、紹介されてからまだ一ヵ月も経っていないうちに別れてしまったなんて。
 そこでイライラの理由に思い至る。
 たぶんこれはそう、勿体ないと思ってしまっているのだ。ニーアがオーウェン伯爵と結婚しないことを。今まで妹が連れてきた中で、唯一と言えるくらいにまともな人だったから。
 彼ならこの奔放な妹も落ち着くことだろう。そして妹が嫁いだ後も、我がブラクストン侯爵家と良いお付き合いを続けていけるはず。そう思える相手だった。
 今自慢している彼氏はもう別人らしく、確かによく聞けばいつものパターンの軽薄なノロケだ。
 どれだけお金を使ってもらえるか。
 どれだけ素晴らしい愛の言葉をもらえたか。
 それら全てが、イコール自分の価値だとでも言わんばかりだ。
 まったくもって羨ましくもなんともないのだけど、妹は本気で私が悔しがると思って話しているらしい。まだノロケ足りない様子だったけれど、残念ながらそのなんとか侯爵様の話には興味が持てない。
 時計を見ると、休憩から十分が経過していた。
 次はミスの許されない経理仕事だ。さすがに喋り続けるニーアがいては集中できないので、適当なところで切り上げて部屋から追い払ってしまいたい。

「そろそろ真面目にやりたいから、お喋りはおしまいにしましょう」
「えぇ~、お姉様だって聞きたいでしょう? フェルランド侯爵家のアンドリュー様よ? とても素晴らしい方なの。今度連れてくるわね。お姉様にも紹介したいの。会ってくださるわよね?」
「はいはい。時間があればね」
「引きこもりなのだからいつでもヒマでしょう? こんな雑用なんてパパッと片付けて、ニーアの話を聞いてよ!」

 ニーアはどうしてもまだ自慢したいのか、不機嫌を隠しもせずに文句を言ってきた。

「では手伝ってくださる?」

 にっこり笑って問うと、彼女は「そんな気分じゃないわ」とすんなり引き下がってくれた。一度だって書類仕事をしたことがない彼女には、任せたところで何も分からないだろうけど。

「もうっ! お姉様ったら、かわいい妹の愛する人のお話くらい聞いてくださってもいいのに」

 可愛らしくむくれて見せるが、微かに嘲笑の気配が含まれているのは見逃さなかった。
 たぶん、私が妹の話に嫉妬して追い出したがっていると思っているのだろう。ただ純粋に興味がないだけなのに、こういうやりとりの積み重ねで、ニーアは私が彼女を羨んでいると判断しているようだ。

「あなたが幸せだというのはもう十分に分かっているわ。だから仕事をさせてちょうだい」
「ふん、もういいわ。お姉様といても退屈だもの。お母様にショッピングに連れてってもらおっと」

 軽やかに立ち上がり、来た時と同様に挨拶もなく執務室を出ていく。
 私は今更その身勝手さに呆れることもなく、ただペンを持つ手の動きを再開させた。

「……相変わらず、頭の中にお花が咲き乱れているご様子で」

 書類仕事の整頓を手伝ってくれていたメイドのアニーが、閉じた扉に視線をやって冷めた口調で言う。

「アニー、言葉が過ぎるわよ」

 小柄なアニーより頭一つ分高いしっかり者のハンナが、私のためにお茶を淹れ直してくれながらたしなめるように言う。

「ニーア様ってぇ、あたしたちの存在まったく見えてないですよねぇ」

 のんびり掃除をしながら、おっとりした口調でジェマが言う。高い棚の上のホコリを取ろうと頑張っているけれど、大きな胸が少し邪魔そうだ。

「爵位の高い男しか見えない『特別性』の目を持っているのよ」
「あまり羨ましくない『特別』ね」
「あら、中身はともかく、金持ち爵位持ちの男を見つける目は確かよ?」
「頭にもお胸にも栄養がいかなかった分はそれですかねぇ?」
「……三人とも、外でそんな話をしたらダメよ?」

 途切れることなく話しながらも仕事の手を止めない三人に、感心半分呆れ半分に注意をする。こんなこと、ニーアや他の使用人に聞かれたら大変だ。

「はぁい」
「わかってますってばユリア様」
「アニーはちょっと信用ならないわ」
「なんでよ!」

 ハンナの言葉にアニーが驚いた顔になる。

「だってあんたたまに小さく毒づいてるじゃない」
「あ、それあたしも聞いたことあるぅ」
「ウッソいつ!?」

 彼女たちの軽妙な会話を聞きながら思わず笑みがこぼれる。
 有能なメイドも三人集まれば賑やかだ。けれど彼女たちの騒々しさは、不思議と耳に心地良い。おかげで先程感じた苛立ちはすっかり影を潜め、妹の新しい恋人の名前もすでに忘れ去ってしまっていた。
 妹の自慢話では止まりがちな私の手も、今は好きな音楽でも聴いているかのように順調にペンを走らせている。
 家族の誰からも顧みられない寂しい屋敷の中で、彼女たちだけが私の心の支えだった。



   第一章


 ふと手を止め窓の外を見ると、いつの間にか月が高くまで昇っていることに気付く。ペンを置いて軽く伸びをすると、身体のあちこちがパキパキと乾いた音を立てた。書類はだいぶ減ったけれど、まだ寝ることはできなさそうだ。
 成人してからも両親に逆らうことなく黙々と過ごすうち、二十一歳の誕生日を迎える頃には家の仕事はほとんど私任せになっていた。いずれは婿を取って私が家を継ぐことになるのだし、その点に関しては別に不満はない。ただ、さっさと相手を見つけてくれないことには跡継ぎも残せない。もう誰でもいいから婿を連れてこいという投げやりな心境になっていたけれど、両親は相変わらず妹に夢中で私のことはほったらかしだ。
 何も変わらない状況に、ため息しか出てこない。
 お父様たちはブラクストン侯爵家を潰してしまう気だろうか。それならそれで、私の気持ちは楽になるのだけれど。
 そんな縁起でもないことを思いながら、目の前に積み上げられた書類をハンナたちと地道に片付けていく日々だ。
 そうして夏が終わり秋も半ばに差し掛かる頃、ニーアが珍しく体調を崩した。両親とニーアが参加予定の舞踏会を明日に控え、その準備を楽しげにしているのを横目に、領主の業務をこなしていた中でのことだった。

「大丈夫かいニーア。私の可愛い天使。ああ可哀想に。こんなに苦しそうなのに代わってあげることもできないなんて」
「ニーアちゃん、欲しいものはなんでも言うのよ? フルーツなら食べられるかしら。それともお菓子がいい?」

 ベッドに横たわるニーアに、甲斐甲斐しく世話を焼く両親を見てため息が漏れる。彼らはニーアがもう小さな子供ではないということが分からないらしい。
 書類にどうしても父のサインが必要で、執務室にも部屋にもいなかったからまっすぐ妹の部屋に来てみたらこれだ。父も母も、この世の終わりみたいな顔でニーアのベッドに貼りついている。

「……お父様。こちらにサインをいただきたいのですが」
「うるさい! この状況が見えていないのか! 妹が苦しんでいるのにサインだと!? そんなものお前で勝手にやっておけ! まったく悪魔のような娘だな……」

 いくら待っていても終わりが見えないので入口から遠慮がちに声をかけると、父が振り返りものすごい剣幕で捲し立ててきた。
 こんな状況で仕事の話をすれば、邪険にされるのなんて分かりきっていた。けれど急ぎの用だったから仕方なく来たのに。娘可愛さで、公文書偽造を当主自身が進言するなんてどうかしている。
 ため息を通り越して頭痛がしてきた。

「ああニーア……明日はせっかく大規模な舞踏会だったのに……おまえを見初めるものがたくさんいただろう……かわいそうに……」

 もう私との話は終わったとばかりにベッドに向き直り、目に涙を浮かべながら父が言う。
 これ以上彼氏を増やしてどうする気だろう。
 冷めた頭でそんなことを思う。
 父はニーアの男遊びがそこまで激しいのを知らないから仕方ないけれど。
 一年前までなら、スパンは短くとも、一応その時どきに一人としか付き合っていなかったニーアも、今では余裕の同時進行だ。たぶん、うっすら記憶に残っている限りでは、今すでに五人と付き合っているはず。一人か二人は私が知っている時点から入れ替わっている気もするけれど。
 正直、毎日のようにとっかえひっかえしてたから、さすがに疲れが溜まって風邪を引いたんじゃないかと思っている。
 もうすぐ冬だ。最近は朝晩冷えるようになってきたから、そのせいもあるだろう。

「ニーアちゃんなら王侯貴族の全てのハートを射止めたでしょうに……」

 大袈裟ではなく本気でそう思っているらしい母が、目許をハンカチで拭いながら嘆く。

「いいのよママ……今回のドレス、出来上がりを見たらあんまりニーアに似合ってなかったし……あれはお姉様に譲ってあげて……暗い色だからきっとお姉様にぴったりだわ……」

 わざとらしいくらい弱々しい口調でニーアが言う。食欲がないのは本当らしいから仮病ではないのだろうけど、弱ってなお私を馬鹿にすることを忘れない。ベッドから起き上がることもできずにいるにもかかわらず私を嘲笑う。
 それさえも両親には天使の微笑みに見えているのだろう。

「そうね、ニーアちゃんにはもっと明るくて華やかな色が似合うわ。次のパーティにはまた新しいドレスを仕立てましょうねっ」
「優しい子だニーア。こんなにつらい時にも人でなしな姉に施しを与えてやるなんて……!」

 感極まったようにニーアの手を握る二人に、馬鹿らしくなってとうとう部屋を出る。
 領主様のお許しも出たことだし、私が書類に父の名を書いておこう。
 早く仕事の続きをしなければと足早に廊下を歩く。
 ふと足を止めてうつむいた。視界がいつのまにか暗い。
 外はもう夜だ。窓からはわずかな星明りしか入ってきていない。
 短くため息をついて、明かりの満ちたニーアの部屋とは対照的に真っ暗な廊下を再び歩き始める。
 私の執務室に続く廊下はいつも暗い。屋敷の隅っこの自室兼執務室。両親や妹の部屋とは遠く離れた場所にある。他に誰も行かないのにもったいないからと、廊下に明かりを灯すことも許してくれないのだ。
 妹が体調不良を訴えれば、両親はあんなふうに飽きもせず妹の部屋に入り浸り、自ら世話を焼いている。
 私が一週間床に伏せるような病気になった時には、親しくもないメイドが出入りするのみだった。その頃すでにジェマたちは仕えていてくれたのに、彼女たちが出入りするのをニーアが意地悪で阻止していたのだ。ロクに身動きもできない高熱の中、耐えがたい孤独を与えた張本人は今、両親だけでなくお気に入りの使用人たちに囲まれている。
 妹はパーティーのたびにドレスを新調してもらえるのに、私は妹が気まぐれにくれるお下がりだけ。姉なのにお下がりなのだ。それさえ着ていく場所がない。
 その扱いにはもう慣れたつもりでいたのに、こうやってあからさまな差別を目にすると、どうしても気分が沈みがちになってしまう。
 馬鹿みたいだ。何をまだ期待なんてしているのだろう。
 泣きそうになるのをぐっと堪えて歩き出す。こんなことでへこんでいる場合ではない。
 執務室に戻れば、今日中に片付けなくてはならない書類が山積みなのだから。


「ああユリア様! いかがでしたか?」

 部屋の扉を開けると、パッと明るい光が目に飛び込んで、アニーが心配そうに駆け寄ってきた。

「廊下はお寒かったでしょう。何度か様子を見に伺ったのですが、埒が明かなそうだったので」
「せめてもと思ってお部屋を暖めておきましたぁ!」

 ハンナがカーディガンを肩に掛けてくれて、ジェマが敬礼の真似事をする。その言葉の通り部屋の中は暖かく、いつの間にか強張っていた身体から力が抜けていく。

「……ありがとう。おかげさまでなんとかなりそう」

 使い古された私のカーディガンはところどころ毛玉ができていたけれど、とても暖かかった。


   ◇◇◇


 窓から差し込む日差しをそのままに、書類にペンを走らせる。
 少し眩しかったが、カーテンは開けたままにしていた。陽光の刺激で、まだ眠い頭が冴えていくのが好きだった。

「何をしている。早く着替えなさい」
「は?」

 唐突に執務室のドアが開いて、仕事中にもかかわらず父が不機嫌な顔を覗かせた。

「着替えならもう済ませておりますが」
「馬鹿が。そんなみすぼらしい格好で何を言う」

 冷たい目と声で見下すように言う。
 みすぼらしい服しか与えてこなかったのは自分たちのくせに、なぜそんなことを言われなくてはならないのか。ニーアの十分の一でも服飾費を割いてもらえていたら、擦り切れた服を繕う必要もなかったのに。

「髪も顔もひどい。メイドをつけてやるから昼までになんとかしてこい」
「ですから、さっきからなんなのですか。いつもと同じように仕事をしているだけでしょう」
「いつもとは違うから着替えろと言っている。頭の悪い奴だ」

 顔を歪めうんざりしたように言われてカチンとくる。説明不足なのは明らかに父のほうなのに、なぜ私が侮辱され続けているのだろう。
 自分に非はないのに、言い返す勇気はなかった。文句を言えば簡単に捨てられてしまう。
 小さい頃から本能的に分かっていて、我慢するのが癖になってしまっているのだ。

「……察しが悪くて申し訳ありません。今日は、何か特別なことがあるのでしょうか」

 怒りを抑え込んでなんとかそれだけ口にする。
 父はわざとらしく深いため息をついた後、「反抗的な娘だ」と呟いた。結局は私が何を言おうと気に食わないのだろう。

「心優しいニーアが、自分の代わりにお前を今日の舞踏会に出席させてやれと言った。出会いのない可哀想なお前をおもんぱかってな。感謝しろ」

 そんなこと言われても、余計なことをとしか思えない。


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