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支配者――王
妖精……予測できない事態はジョーカーのことか。突然現れ、数人を消した。
猫……安らぎは他愛ない時間だろうか。ただのお喋りは私を癒してくれた。
天使……テンが私に安らぎを授けてくれた。皆からの愛、私からの愛も授けたことになるのか。
王……支配者。キングのことではなく、この空間を牛耳る、真の支配者。私にしかできないのなら、私が支配者になろうか。
月……誰かが見守っているというのか。静観している。何も言わずに。まさか、裏切り? 誰かが企んでいるとでもいうのか、何を? こんな空間で……できることなんて。
――君達がここで生きていけるように、私が支配してやろう。
一人で歩いていると、この場所では嗅いだことのない匂いが漂ってきた。これは、まさか。
近づくと、部屋の中にはエースがいた。そのエースの前には学習用の机ではなく、猫足の豪華なテーブルが置かれている。
「これ……」
その上には皿が乗っていた。銀色のスプーンも横に添えてある。
「ふふ、何でしょうね。突然現れたんです。これは……カレーかな。だったらライスかパンがあるはず。じゃあビーフシチュー、ですかね」
それはまだ湯気が立っていた。皿に触れると温かい。
「どうしてこんなものが」
頭の中で波が揺れた。優雅にさりげなく、しかし確実に入ってくるその記憶を、私は拒めずにいた。この盛り付け方、皿の模様、セッティングの仕方、野菜の切り方……ああ、分からない。思い出せないのに、それを知っていることだけは分かってしまう。
「食べてみましょうか」
「わ、罠かもしれないだろう。それにこんなところにあるものを食べるなんて……いや、それ以前に我々がものを食べれば、知ってしまうだろう、空腹を。これからも用意されるか分からないのに食べてしまったら……それはもう、緩やかな自殺と変わらない」
エースはテーブルに座って、皿を近づけた。
「いい匂いです。温かいうちに食べないと」
「エース、やめてくれ……」
「先生、一度考えるのをやめてみませんか。何もかも。全てを一旦放棄して、衝動のままに。ただ体が動くままに、委ねてみませんか。何かが起こったら、その時考えればいいんです。ほら、忘れてみましょう。何もかも。先生は僕と食事をする、それだけです」
操られるようにふらふらと近づいて、椅子に座る。体から力が抜け、椅子に固定されているような感覚になった。
久々に触れたスプーンは冷たかった。装飾が施されていて、自分の顔はぼやけている。
金色のラインが引かれた皿に入っているシチューは、ロウソクの光に照らされ、美しく見えた。
「いただきます」
エースが口にしたのを見てから、恐る恐る掬って口に運んだ。
「美味しい……」
「はい、とても美味しいですね。先生」
こんなに美味いものだっただろうか。熱いものが体の中心を通ると、全体に幸福感が広がっていくようだ。
しばらく夢中で食べ進めていた。いくらでも食べられそうな深い味わいに酔いしれる。恐らく、私は何度もこれを作ったはずだ。誰か大切な人の為に。その人が好きな味を研究して……。
「ああ、あっという間でした。満たされましたね、体が」
エースの頰が僅かに紅潮していた。ぱっと見では気づかないだろうが、些細な変化でも、あまり表情を変えない彼には珍しい。
幽霊だなんて、バカバカしい。私の先入観だ。彼はちゃんと生きているじゃないか、人間らしく。
「先生と一緒に食べることができて良かった」
「今度は皆の分もあるといいんだけど」
腹の中がじわりと熱い。自分自身の生を感じるには充分だった。
「幸せですね、先生」
その単語を口にするのを、一瞬躊躇った。恐らく言い慣れていない、初めてかもしれない。馴染みがないというより、禁じられた言葉のように思えた。言ってはいけない、言うことのできない……それを無視して、頭を空っぽにして呟いた。
「ああ、幸せだ」
実感は後からついてくるものなのか、不思議と多幸感に包まれていた。ちょうど良い温度のお湯に浸かっているような、思考が溶け出す感覚。
夢見心地とはこういうことか。
思考停止することが幸せへの近道だと知ったら、君は何というだろうか。貴方のことだから、それは不幸なことだと笑い飛ばすかもしれない。
「君の目は、特別なんだ」
何も考えず口に出していた。エースの声は聞こえない。
「君の瞳は、あの人が一番好きだった宝石……それを加工して作った。角度によって色が変わるんだって、嬉しそうに話していた。あの人の形見とでも言えるだろうか。君は、僕と彼との思い出でもあり、世界に対する復讐でもある」
青い光が私を映す。やはり綺麗だ。
「その価値は分からないが、この世で最も美しいものであることは確かだ」
動いていなければ見られない。感情がなければ見ることができない。その瞳から流れる涙は、私には作り出せない芸術。
「君は私を超えた。私の手から離れて、より美しくなった」
ああ、そうだ。君の目は……。
「そうか、忘れていたよ。君は引退したら、目を無くしてほしいと言っていたね。代わりに美しい宝石をはめ込んでほしいと。貴方らしいな……」
君に託したその目で、色んな世界を見てくれないか。あの人が見られなかった、美しいものを全て……。
妖精……予測できない事態はジョーカーのことか。突然現れ、数人を消した。
猫……安らぎは他愛ない時間だろうか。ただのお喋りは私を癒してくれた。
天使……テンが私に安らぎを授けてくれた。皆からの愛、私からの愛も授けたことになるのか。
王……支配者。キングのことではなく、この空間を牛耳る、真の支配者。私にしかできないのなら、私が支配者になろうか。
月……誰かが見守っているというのか。静観している。何も言わずに。まさか、裏切り? 誰かが企んでいるとでもいうのか、何を? こんな空間で……できることなんて。
――君達がここで生きていけるように、私が支配してやろう。
一人で歩いていると、この場所では嗅いだことのない匂いが漂ってきた。これは、まさか。
近づくと、部屋の中にはエースがいた。そのエースの前には学習用の机ではなく、猫足の豪華なテーブルが置かれている。
「これ……」
その上には皿が乗っていた。銀色のスプーンも横に添えてある。
「ふふ、何でしょうね。突然現れたんです。これは……カレーかな。だったらライスかパンがあるはず。じゃあビーフシチュー、ですかね」
それはまだ湯気が立っていた。皿に触れると温かい。
「どうしてこんなものが」
頭の中で波が揺れた。優雅にさりげなく、しかし確実に入ってくるその記憶を、私は拒めずにいた。この盛り付け方、皿の模様、セッティングの仕方、野菜の切り方……ああ、分からない。思い出せないのに、それを知っていることだけは分かってしまう。
「食べてみましょうか」
「わ、罠かもしれないだろう。それにこんなところにあるものを食べるなんて……いや、それ以前に我々がものを食べれば、知ってしまうだろう、空腹を。これからも用意されるか分からないのに食べてしまったら……それはもう、緩やかな自殺と変わらない」
エースはテーブルに座って、皿を近づけた。
「いい匂いです。温かいうちに食べないと」
「エース、やめてくれ……」
「先生、一度考えるのをやめてみませんか。何もかも。全てを一旦放棄して、衝動のままに。ただ体が動くままに、委ねてみませんか。何かが起こったら、その時考えればいいんです。ほら、忘れてみましょう。何もかも。先生は僕と食事をする、それだけです」
操られるようにふらふらと近づいて、椅子に座る。体から力が抜け、椅子に固定されているような感覚になった。
久々に触れたスプーンは冷たかった。装飾が施されていて、自分の顔はぼやけている。
金色のラインが引かれた皿に入っているシチューは、ロウソクの光に照らされ、美しく見えた。
「いただきます」
エースが口にしたのを見てから、恐る恐る掬って口に運んだ。
「美味しい……」
「はい、とても美味しいですね。先生」
こんなに美味いものだっただろうか。熱いものが体の中心を通ると、全体に幸福感が広がっていくようだ。
しばらく夢中で食べ進めていた。いくらでも食べられそうな深い味わいに酔いしれる。恐らく、私は何度もこれを作ったはずだ。誰か大切な人の為に。その人が好きな味を研究して……。
「ああ、あっという間でした。満たされましたね、体が」
エースの頰が僅かに紅潮していた。ぱっと見では気づかないだろうが、些細な変化でも、あまり表情を変えない彼には珍しい。
幽霊だなんて、バカバカしい。私の先入観だ。彼はちゃんと生きているじゃないか、人間らしく。
「先生と一緒に食べることができて良かった」
「今度は皆の分もあるといいんだけど」
腹の中がじわりと熱い。自分自身の生を感じるには充分だった。
「幸せですね、先生」
その単語を口にするのを、一瞬躊躇った。恐らく言い慣れていない、初めてかもしれない。馴染みがないというより、禁じられた言葉のように思えた。言ってはいけない、言うことのできない……それを無視して、頭を空っぽにして呟いた。
「ああ、幸せだ」
実感は後からついてくるものなのか、不思議と多幸感に包まれていた。ちょうど良い温度のお湯に浸かっているような、思考が溶け出す感覚。
夢見心地とはこういうことか。
思考停止することが幸せへの近道だと知ったら、君は何というだろうか。貴方のことだから、それは不幸なことだと笑い飛ばすかもしれない。
「君の目は、特別なんだ」
何も考えず口に出していた。エースの声は聞こえない。
「君の瞳は、あの人が一番好きだった宝石……それを加工して作った。角度によって色が変わるんだって、嬉しそうに話していた。あの人の形見とでも言えるだろうか。君は、僕と彼との思い出でもあり、世界に対する復讐でもある」
青い光が私を映す。やはり綺麗だ。
「その価値は分からないが、この世で最も美しいものであることは確かだ」
動いていなければ見られない。感情がなければ見ることができない。その瞳から流れる涙は、私には作り出せない芸術。
「君は私を超えた。私の手から離れて、より美しくなった」
ああ、そうだ。君の目は……。
「そうか、忘れていたよ。君は引退したら、目を無くしてほしいと言っていたね。代わりに美しい宝石をはめ込んでほしいと。貴方らしいな……」
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