箱庭の宝石

膕館啻

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《20》

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♢月長♢
みんなが先生を気に入り始めてる。あんなことがあったのに大丈夫なの。本当に、本当に先生は酷い人じゃないのかな。もうみんなのあんな顔は見たくない。でももし、貴方が酷い人なら僕は、許さない。弱いかもしれないけど、僕がみんなを守りたい。

最初の先生は優しかった。先生というよりも、知り合いのおじいさんという感じだったけど。あの頃もほとんど勉強はしていなかったかな。みんなでお話しして、たまに先生も混ざってお茶を飲んだ。水に入れると綺麗な植物とかを集めて教室に飾ったり、押し花でメッセージカードを作ったり……一番楽しかった頃だ。既にクラスは分けられていたけど、あの子達ともここまで険悪な仲じゃなかった。僕がそういうのに疎いから、そう思うだけかもしれないけど。
先生は結構なお年で、最後まで僕達の先生でいてくれた。先生が今も生きてるのか分からないけど、さすがにもう……。辞めてしまった時は寂しかったけど、楽しい思い出が沢山だった。ここからだ全部、階段を転げるように酷くなっていったのは。
二人目の先生。彼が現れた時に、特に紅玉辺りが眉を顰めたのを感じた。彼は僕達に関わってはいけない人間だ。暑苦しい体型の彼は、中身まで暑苦しかった。汗が飛んで来そうな勢いで、自分が主役だと言わんばかりに大声を上げる。
「やあ皆! なんか凄いところにある学校だなあ。まあ大丈夫だ、俺に任せとけば楽しい学校にしてやる!」
説得力が皆無で軽そうに見えるのは、勘違いではないだろう。これからどうなるのか考えただけでも恐ろしかった。無知は怖い。彼は紅玉の一番嫌いなタイプの人間だろう。何かやらかさなければ……いいんだけど。そんな願いも虚しく、彼は簡単に紅玉に触れてしまった。紅玉は感情を失った目をしている。
「君、女の子みたいだねえ。はは! あーあーこのクラスは暗いなあ。ほら、挨拶してごらん。新しい先生が来たんだ。基本だろう、そんなことも教わってこなかったのか?」
「触るな」
紅玉のこんな声は初めて聞いた。怖くてそちらを向けない。
「何だって? お前先生に向かってなあ!」
「触るなと言ったんだ。聞こえなかったか」
「おいおい……しまえってそんな危ないものー。持ち込み禁止だぞ。ほら、渡しなさい」
ペーパーナイフが先生の出っ張った腹にぴたりとつけられていた。そこまで殺傷能力はないだろうけど、紅玉の迫力は今すぐ殺してもおかしくないものだった。
「あーあ、大人しそうに見えたけど、問題児が多そうなクラスだなぁ。まあ俺は底辺クラスも変えてきた男だからな。お前らも良い子に育ててやるよ」
先生がいなくなってから紅玉に近づく。僕はいつも、傍観者にしかなれない。
「大丈夫? あの男信じられないわ! 馴れ馴れしく触ったりしてっ」
「……汚れたな」
「こ、紅玉……」
僕も呼んだけど、出て行ってしまった。みんなのため息が揃えたように吐かれる。早急にあの男をどうにかしなければいけない。
男はいつもジャージを着ていた。スーツなんて持っていないようだ。僕らのことを気にする親がいないからか、彼は好き勝手やりたい放題だった。授業などせず、新聞や雑誌、ラジオなどを踏ん反り返った態度で聞いていた。電波が悪いのか、苛々しながら煙草を吸うこともあった。やがてここに娯楽がないことに気がつくと、一層態度が悪くなっていった。怒鳴られている校長先生が可哀想だ。間が悪く、頼りになりそうなあの人もしばらく帰って来ていない。忙しいのか、食事も何日か分を冷凍保存していた。
こんな調子が続いたからか、校内の雰囲気は最悪だった。分かりやすく荒れている訳ではないが、みんなの笑い声を聞くことは無くなっていた。僕たち同士の会話も減り、やがて部屋から出なくなった。それでも問題ないのか、あの人は何もして来ない。これで一応は平和かなと思っていた矢先だった。
「あの……な、なんですか」
なぜか僕が呼び出されていた。僕なら反抗的な態度もとらないし、大丈夫だろうとか思われたんだろう。どんなお願いをされても断るつもりだ。他の人にこの役目が回るのも嫌だったので、僕が犠牲になることにした。
「最近授業がボイコットされてんだよなぁ。これっていけないことだよねぇ?」
「……っ」
一応距離は取ってるが掴みかかられたりしたら、ひ弱な僕に逃げ場はない。
「体育ならどうだ? 君たち運動もしてないだろ。そりゃあいかんな、体を作るのは若いうちが大事なんだ。体操着は持ってるのか? ああそうだ。ないなら作ってやろう」
床を見ていたから気づかなかった。シューという音に顔を上げる。メジャーを引っ張った音らしい。
「ほら、測ってやるからこっちに来い」
嫌な予感がして逃げようとした瞬間、腕が強く引っ張られた。その痛みに動きが止まる。
「痛っ」
左腕が捻り上げられる。右腕が体を押さえつけるように、お腹側へ回ってきた。
「嫌だっ離して!」
「大人しくしろ! じゃなきゃもっと痛い目に合うぞ。全く何の為にこんなクソみてえなところに来たと思ってるんだ」
「やめて……ください」
恐怖や嫌悪感で動けなくなっていた。体は冷たいのに頬を伝う涙だけが熱い。体に太い腕が這って、鳥肌と吐き気が一気に襲ってくる。気持ち悪い。怖い。助けて助けて助けて助けて。心の中で叫ぶ。助けて。
僕が実際叫べていたのかは分からない。何かを強く願った後に、獣のような声が響いた。
「ざく、ろ……?」
椅子を持ち上げて、荒い息を吐いている。その目はいつも柘榴を見ていた僕でも、見たことのないものだった。それをぼうっと見つめていると、もう一回それを振り上げた。鈍い音が聞こえる。今度は声が聞こえなかった。それでも柘榴は何度か繰り返す。
「……っはぁ、……げ、っちょう」
掠れた大丈夫? という声と、手が差し出された。僕は涙を拭って、それを握り返す。いつのまにか震えは止まっていた。
「柘榴……っ柘榴!」
「もう、大丈夫……ごめんね、月長」
「柘榴……は、悪くないよ」
血が床に流れている気がしたが、僕の目は彼しか捉えていなかった。また助けてくれた。やっぱり柘榴は僕の……。
「ここから出よう。あんなのは放っておいて」
一つ下がったところの廊下で抱きしめられていた。痛いところはない? 他に触られたところは? と心配してくれている。
いけないと分かっていながら、高揚を抑えきれなかった。触れている部分が熱くて気持ちいい。さっきまであんな怖かったのに。柘榴がいれば僕は大丈夫だ。
「私がもっと早く来ていれば、月長に怖い思いをさせなくて済んだのに」
「ううん……来てくれて嬉しい」
ぴったりくっついている。良かった……柘榴はまだ僕のことを大事に思ってくれているみたいだ。でも分かってる。柘榴が僕に抱く気持ちは、僕のとは違うって。だから言えない。この気持ちは言えない。今のこの状態で、充分幸せだから。
「よりにもよって月長を狙うなんて……許せない」
ちょっとだけ、ううん僕で良かったと思っていることは伝えない。ずるいけど僕が可哀想だと柘榴が心配してくれる。他の子よりも。
柘榴の優しい香りがする胸元に顔を押しつける。それだけでまた泣いてしまいそうなほど満たされた。柘榴の鼓動が聞こえる。結構早い。いつも僕達を指先で転がすように澄ましている彼の、人間らしさを感じて余計に愛おしくなった。その切なさに涙が滲んできたけど、それを怖かったのかと勘違いした柘榴の手がまた僕の頭を撫でた。
「柘榴……っ、ありがとう」
「月長、私は何があっても貴方を守るから。一番大切なの。もう一人にならないで。貴方を失ったらと思うと……本当に怖い」
暖かい、幸せ……好き。伝えたいけど、言ったら困らせてしまう。もう僕のことを守ってくれなくなるかもしれない。僕のこと、嫌いになるかも……嫌だ。距離を置かれるのは嫌だ。でも……。
「僕は、ダメな子だ……っ何回も柘榴は言ってくれていたのに……またこうなって」
「……そう、だね」
少し低くなった声に、熱がサッと引いた。良かった、これ以上余計なことを言わないで。
「私が話しにくい雰囲気を作ってしまっていたかな。何でも話してってずっと言ってるのに……でも月長の気持ちも分かるから。私に相談したら心配するとか、困らせるって思っちゃうんでしょ」
構えていたけど、次に聞こえたのはやっぱり優しい言葉だった。柘榴は僕の何倍も大きくて、包み込んでしまう。逆に僕が何を言っても、彼の心を突き破ることはできない。その壁はきっと一生壊せない。だから留めておこう。今は仲間として、家族として好きだと言っておこう。
「そういう優しいところが好きだから、困っちゃうんだけど」
くすっと柔らかい笑い声が頭上から降ってきた。柘榴は僕にとって、姉であり母であり――神のような存在だ。
もしかして彼は死んでしまったのではないか、そう思ったけど生きていた。包帯を頭に巻いた先生は誰かに怒鳴り散らしている。多分校長にだ。あれだけ元気なら大丈夫だろう。いなくなっても良かったのに。
僕達は昨日のことをみんなに話した。先生を追い出そう。これに反対する人はもちろんいなかった。落とし穴を掘って、落ちたところに上からネットを被せて閉じ込めようとか、そこら辺にある雑草をお茶だと偽って飲ませてみようとか、幼稚かもしれないけど、そんなことを考えている間はなんだか楽しかった。
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