ユダツリーは花を咲かせない

凩凪凧

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きっとどこにもマリア様はいない

その6

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 彼女はそこに立っていた。マリア様の、神様のいない場所に。
 校舎裏の、枯れ始めた木々の陰で、壁にもたれて空を仰いでいる一人の女性。
 煙草をくゆらせながら、空を見つめる彼女。
 そんな、体の凹凸がはっきりした人に、奏は恐る恐る声をかけた。

「お久しぶりです、日嗣先輩」
 顔を隠すほど長い前髪に、暗く沈んだ瞳。
 春に出会った時と全く変わらない彼女。変わったのは奏を取り巻く環境と、花をなくしたハナズオウの木だ。
「薄雪奏……。あれ以来まったく姿を見せないから、ちょっと気にしてたの」
「別に来る理由もなかったんで、すいません。私の事なんて忘れていると思っていました」
 震える唇で、なんとか答える。奏は拳をキツく握り込み、彼女をきっと睨みつける。
「で、今日はどうしたの?  私、あれ以来あなたに何かした?」
 ジロリと全身をくまなく観察される。蛇を想起するその長い瞳は、とても黒く、何もかも吸い込んでいくような気がした。
「いや、なにも」
「じゃあ、なにか?  私のタバコをチクりたい訳?」
 日嗣は煙を吐いて、気怠げに言った。ボタンをとめる訳でもなく、だらしなく羽織られているだけのブレザーが揺れる。
「私は、ただ……」
 言いかけて、奏は口を閉じる。奏は自分が具体的に何をしたいのか、奏ですらわかっていなかった。メイを守りたい、嫉妬心と向き合いたい、そう思ってここにきた。
そうして日嗣を目の前にしたがはいいが、何をすれば彼女を守れるのか、そのビジョンが明確ではなかった。
 日嗣は何も語らない。沈黙は金だ。彼女は奏が口を開くのを煙草を咥えながら待った。

「私の友達が、あなたに憧れていて。 それで、」

 奏が俯きながら言うと、日嗣は長い髪を揺らしながら笑った。
「それで、私がどんなやつか、確かめにきたって訳ね」
「そうです」

 あぁ、言ってしまった。
 奏は後悔に刹那的に陥る。
 こんなことなら、来るべきではなかった。もっと明確なビジョンを作ってから来るべきだったのだ。
 奏と日嗣の間に風が吹く。乾いた落ち葉が舞い上がり、どこか遠くへと飛ばされていく。それを眼で追った奏の脳裏に、春の桜吹雪とメイの顔が浮かんだ。
 その風はすぐさまに止み、奏の頭から幻影はかき消されていく。
 校舎裏には、奏と、日嗣しかいなかった。

 彼女は口元を歪めた。ツヤツヤとした唇から吐き出される紫煙は樹に沿って空へ上がり、薄く、消えていく。花のないハナズオウの木の下で、校舎にもたれかかる日嗣は、とても絵になっていた。それが奏には少し、悔しかった。
「まったく、そんなことするなら始めから自分で来たらいいのにね」
 日嗣は、奏のことをジロジロと見ながら、そんなことを言った。
「いえ、私が勝手に来たんです。」
「あぁ。なるほどね」
 独り合点がいったように彼女は頷く。
「何が、なるほどなんですか」

「あなたはその女の子が好きでしょう?」

 日嗣の暗い瞳はまっすぐ奏を捉える。奏は、まるですべて見透かされているような気分で、彼女の眼から視線を外すことはできなかった。
「……だったらなんですか?」
「いやぁ、青春(せいしゅん)だなぁって」
「別に青春とかじゃないですよ。 もっと汚くて爛れたものです。 私は、先輩とあの子を近づけないために来たんですから」
 奏は、震える手を必死に押さえつけて言った。自分の醜い心と向き合うのは、とても気分が悪いモノで、薄らとした吐き気が、奏を襲った。

 日嗣はおもむろにポケットから煙草の箱とライターを取り出し、奏へと投げた。宙に弧線を描いたそれは、無事に奏の手の中に収まる。その感触に、奏は何をすればいいのかわからなかった。
「馬鹿ね、薄雪奏さんは。 そういう汚いモノとかも含めて、青春なんだって思わない?」
 ヘラリと日嗣は歯を見せて笑う。長い前髪を掻き上げる日嗣のその仕草は、とてもセクシーに思えた。
「そんなもんなんですかね」
「そんなものよ。後で大人になってから思い出して、あんなこともあったなって思い出す。それが青春。 青春ってのは今で定義するもんじゃなくて、あとから定義するものなの」
「なんか、先輩、大人びていますね。さすがタバコ吸ってるだけあります」
「あなたも吸ってみれば? それ、あげるから」
 手の中にはMARLBOROと書かれた煙草のパッケージ。奏はそれをただ見つめるだけで吸おうとせず、ポケットの中に入れるだけだった。
「知ってる? マルボロの意味」
「……なんなんですか?」
「Man always remember love because of romance only」
 やけに流暢な発音で、日嗣は述べた。
 夕暮れ時の空は、オレンジ色の他に黒が滲み出しており、どこか遠くの方に、一番星が見えた気がした。

「『男は本当の愛を見つけるために恋をする』って意味。 これが笑えるのよ。男なんてみんな穴のことしか考えていないくせにね」

 シニカルに笑うその日嗣は、煙をくすぶらせながら何を思っているのだろう。
 それを知るのはきっと、深い、深い井戸を覗き込むのと同じことだ。奏は日嗣から目を逸らすようにうつむいた。
「私は……、わかんないです。 男の人と関わらないので」
「さすがはうちのプリンス様ね。処女宣言でもしたら? たいそうファンには萌えてもらえるんじゃない?」
 その言葉が、奏の心を抉る。
「私は、そういう風に見られるのが嫌です」
 そういう風。奏は言葉を濁す。男みたいな外見の自分を認めたくないことから出てきたのか、奏は自分で苦笑する。
 きっとこの人は知らないのだ。年上の生徒から妹にしてと懇願される気分なんて本当に嫌な気分なのに。
 奏はセーターの下で立った鳥肌を上から擦った。

「だったら、なおさら男と付き合うべきじゃないの。 そうしたら、いろいろ言われることもなかったんじゃ?」
 ま、女の子を好きになっている時点でもう手遅れか、と日嗣は笑いながらつぶやく。奏はそれを言い返すことはできなかった。
 どうにも、この先輩と話すことは調子が狂う。まるで、自分をだますことが許されないような気がして苦手だ。
蛇のようなその瞳で、すべて見透かされているような気分はずっと続いていて、寒くもないのに、奏は背中がひんやり冷たくなるのを感じた。

「ま、マルボロの意味だけど、私はManは男じゃなくて、人を指すことだと思うんだよね。 そっちの方がロマンチックでなんかいいじゃん。 女は本当の愛を探していないものだと言われてるみたいでむかつくし」
「それは、素敵な考えですね」
 本当に心からそう思う。奏はタバコをもういちどまじまじと見る。

 誰だって、すぐに別れたりするような偽物ではなくて、本物が欲しいに決まっている。だから探して、誰かを好きになってみて、別れるのだ。もし、恋が運命的で、決定的なものなのだとしたら、別れるなんてことはおきないはずである。
 この世には偽物があふれていて、本物は一握りにしか存在しない。
 はたして、自分のメイに向ける思いは本物なのだろうか。
 奏は胸に手を添えた。心音が神経を通して伝わってくる。彼女のことを思うたびに、締め付けれるような気持ちでいっぱいになって、心なしか脈が速くなった気がした。
 本物だったらいいな。偽物でもいいけど。
 どちらにしても、秘めて、大切にしなければいけない気持ちだ。もう、今の自分ではこれを捨てることはできないのだから。

「同じ性別の子を好きになるって、本当の愛じゃないんですかね」
 いったい何を言っているんだろうか。奏は自分自身がわからなくなった。
 敵に自分の悩みをぶちまけるなんて、本当どうかしている。

「本当か偽物かなんて本当はどうでもいいんじゃないの?」
 日嗣はどこか遠くの方を見ながら小さく呟いた。
「薄雪は自分が安心できる理由が欲しいんだろう? レズビアンであることの正当な理由が」
 そんな彼女の言葉はザクリと奏の心に突き刺さる。
 図星だった。色々と頭で考えてしまうのも、本当の愛なんて曖昧なものことを求めてしまうのも、全部が全部、自分が安心したいからだ。
 絶対的で永久的なものの中に浸っていたい。いつまでも、どこまえでも、ずっと。
 きっと、私は恋をするのが怖かったのだ。メイにぶつかっていくのが怖かったのだ。

「やっぱり煙草、吸ってみたら? 本当の愛の味がわかるかもね」
 うつむいた奏に、日嗣はケラリと笑って声をかけた。ぼーっと考えに耽っている間に彼女は奏の目の前まで来ていたらしく、奏の手のひらから箱を奪い、煙草を取り出した。
「私、未成年ですし……」
 拒否しようと突き出した腕も虚しく、彼女の手にとらわれてしまう。柔らかくて、すべすべしたそれは、自分の浅黒い手ととても違っていて、なんだか悔しかった。
「私も未成年よ、いいからほら」

 優しく、口元に煙草があてがわれる。すでに奏の顔の目と鼻の先に、日嗣の顔が来ており、その甘い香りに、胸がドキリと音をたてた。
 あ、今唇に手が触れた。
 わかってはいたが、いや、そうなることをわかっていたからこそ、奏は赤面する。たかが指ぐらいとは思うかもしれないが、狙いすましたかのように、日嗣の細い指は、奏の口内へと入り込んだのだ。
 白く冷たいそれは、奏の口内を弄った。優しく、だけど激しく、奏は口の中を犯されたのだ。
 口から離れていく指には、白く光る糸が垂れていて、その濡れて光る指を、日嗣はこれ見よがしに舐めるのだ。いやらしく、丁寧に、耽美に、蠱惑的に。
 奏の心拍数はもちろん急上昇した。自らでも、耳まで赤面していることは感じ取れたわけで、その状況に、体と頭は完全にショートしていた。

 なぜこんなことをするのか、なぜ、そのように性的に挑発するのだ。
 奏の脳内に、柊の言葉が浮かぶ。
『彼女はバイだ。 同性愛者だ。 それに加えて、しょっちゅう誰かを泣かすくらいに遊びが激しい』
 メイに手をださせない為に、近づいたというのに、自分がその毒牙にかかるなんて。
 ミイラ取りがミイラになるなんて言葉があるが、まさにその通りだ。奏は火照った頭で考える。
 こんな展開はわけがわからない。

「火、点けてあげる」
 手は押さえつけられたまま、壁に追いやれたまま、奏はポケットをまさぐられる。自分の服という一部の中で、異物が動いているのがとてもくすぐたかった。
 あぁ、これが話題の壁ドンなのだろう、という考えが、薄らぼんやりする奏の頭の片隅を巡る。
「……自分でできますよ」
 顔が、身体がやけに近い。自分の体温が熱くなっていることが日嗣に悟られてしまう。それよりも、この体勢のままでは絶対的に危ない。
 そう思った奏は身をよじり、日嗣と距離を離そうとしたが、彼女の手は力強く腕をつかんでいて、にっちもさっちもうまくいかなかった。
 そんな様子をあえて無視してか、日嗣は奏の耳元でささやきかける。
「吸いながらじゃないとつかないの」
 火が付いたライターが奏の目の前でゆらゆらとひしめき、まるで催眠術にかけられているような錯覚に彼女は陥った。
 日嗣の声に導かれてか、奏は無意識に息を吸う。そして、彼女の胸の上下に合わせてか、日嗣は火を差し出した。
「ほら、点いた」
 暗い、赤の光りが灯される。薄く日嗣の顔を照らしているそれを奏はどこか美しいと思った。そして、その彼女の煙を大きく吸い込む。
「苦っ……」
「青春の味よ」
 ヘラリと笑みを浮かべた日嗣は、奏の眼を覗き込む。黒い、大きな瞳の中に、自分の姿が映っているような気がして、奏は煙草の煙を、ごくりと飲み込んでしまった。
「女が女を好きでも何も問題ないでしょ? それは個人の問題。 自分が自分に罰を与えるかって話」
「どういう意味ですか」
「よく考えてねってこと」

 立ち行く煙が彼女たちの間に漂う。儚いそのカーテンの向こう側の、日嗣が何を考えているのか奏にはよくわからなかった。
「で、どう?  私は貴方の友達と愛し合うに値する?」
「それは、よくわかりません」
 初めて吸う煙草はとても煙臭く、何度もむせながら奏は答えた。
 日嗣の空いた腕が、奏の髪を撫でた。くすぐったいそれのせいか、煙草のせいか。奏は目を細める。
「わかんないことだらけだね。でも、そのほうがいいかも」
「わからないことだらけの方が、人生楽しいってこと?」
「自分で確かめられるってことよ」
 悪戯っぽくクスリと笑って、日嗣は奏に顔を近づけた。心臓の音が聞こえそうな距離。奏はゆっくりと視線を彼女から逸らす。
 口から煙草が離れ、地面に落ちる。日嗣はそれをぐしゃりと潰した。
「ねぇ、私の噂知っている?」
 奏の脳裏に、あの先輩から聞いた話が蘇る。
「……援交している、ってことですか?」
「それもあるけどさ、言いたいこととは違うかな?」
「女好きで遊び――」
 奏が最後まで言い切る前に、日嗣はそれを遮った。
「それはさ、どう思う?」
 鼻と鼻とがぶつかりそうな距離。きっと、進まなくても、進んだとしても、もう戻れない。
 敵対する日嗣青春という人物と自ら出あったのが運の尽きだ。
 別に彼女に惹かれているわけでもない。好きになってしまったわけでもない。ただ、狂い始めた歯車は、どれだけ止めようとしたっても、戻ってくれなかった。狂って、狂って、からからと一人で回る。
 どうしようもないことなんていくつもある。
 自分が女の子が好きなことだとか。好きな子が全然違う人のことを好きだとか。
 そんな状況で嫉妬心や汚い心は簡単に湧き上がる。
 それは人が抱える普遍的で、絶対的な罪だ。奏はそれを拒否しようとした。柊は抱えながらも戦い、林道はその心に従った。

 拒否しようとしたからこんなことになったのかもしれない、奏は冷たくなった頭でそう考えた。
 もし、もし自分だけでなく、彼女の嫉妬心も独占できるなら、毒牙にかからず、嫉妬心で泣いてくれるだけならば、それでもいいかもしれない。
 日嗣青春と、空澄メイを出会わせ、触れさせることがなければ……。

 奏は日嗣の問いに答えるかのように、ゆっくりと彼女の体に身を重ねた。
 
 初めての経験だ。キスすることなんて。
 だけど、自分が生け贄になることで彼女が救われるなら、笑顔が曇らないなら安いものなのだろう。
 奏はいつの間にか自分が涙を流していることに気づいた。
 初めてのキスはあこがれの少女漫画のような展開に憧れていたのに、なんて詰まる胸の奥で考えた。

 涙が指先で掬われる。優しいその手つきは、そのまま頬を撫で、奏の口を開かせた。
 熱い舌が隙間からねじ込まれる。いやらしく誘うように絡み付くそれを、奏は否定するでもなく受け入れた。もはやなるようにしかならないのだという、一種の諦観が奏の中にはあった。

 どちらの味なのだろうか。その口づけは、煙草の匂いがした。


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