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きっとどこにもマリア様はいない
その5
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果たして、誰かに恋をするとして、その相手が同性だった場合はどうしたらよいのだろうか。
『愛があればそんなの関係ない』
空澄メイにそう言ったのは奏自身だ。
しかし、本当にそうなのだろうか。奏は自分自身に問う。
はたしてそれは本物なのだろうか。奏は自分自身に問う。
自分が影で言われていることは知っている。学内で大きなシンパを持っている柊に告白されて、それを振った時から色々と酷い噂が流れた。
昨日の林道だって、きっとその一つだ。
彼女は柊の名前を口にするとき、酷く悲しい顔をしていた。
彼女をはじめとする、悲しい人たちはまるで本当の様に呪いを囁くのだ。
薄雪奏はヤリマンだ。女学校のプレイガールだ。この前、同級生を泣かせた。だなんて。
そんなことを言われるたびに、女は喉を枯らすぐらいに主張した。
自分はヘテロで、レズなんかじゃない、と。
しかし、ずっとずっと、色んなことを言われた。言われ続けた。
そうやって彼女らの悪意にさらされ続けた。
いつしか、奏は否定していくだけの気力や、精神力を失ったのだ。
減っていく友達に、どんどんと大きくなる噂。そんな中で、奏を励ましてくれたのはメイだった。そんな彼女に奏が好意めいた何かを抱き始めるのは当然の結果とも言える。
もし、自分自身が女の子を好きになってしまえば、奏にまつわる噂を自らで証明してしまうことになる。そのこともあって、奏は自分の好意を奥底にしまいこみ、決して気付かないように、重く重く蓋をしたのだ。
奏がその決意をしたのが、一年の夏だった。
それから、夏休みを挟み、陰湿な噂話は、多少はマシになったとはいえ、奏と周りとの関係性において大きく尾を引いていた。
さらに、奏と一緒にいたメイにも色々と言われたていた、というのも聞いて、奏はひどく心を痛めた。
もう、そんなことは起こしたくない。自らのせいで、彼女を傷つけたくない。
奏の恋心がひとたび外に出て、公に知らされれば、きっと酷いことが起こるだろう。人の恋心に触れただけでこうなのだ。
奏だけでなく、メイを取り巻く関係性だって変わることは間違いない。
だから、奏は人と、同級生たちと関わろうとするのを、自分から辞めたのだ。
それに加えて、メイが今、恋心に近いモノを日嗣という上級生に抱いていることに奏は気づいていた。
だから、『薄雪奏と空澄メイはデキている』なんて噂よりも、『薄雪奏は空澄メイに捨てられた』なんて事実の方がいいモノだ、なんて奏は自虐的な気持ちに陥っていた。
好きな人に、好きな人がいる。しかも、好きな人は同性だ。こんなものは、始めから攻めることをバリアで封じられているようなものだ。
好きになればなるほど辛くなるのは奏自身だということに、彼女は気づいてはいた。しかし、一度自覚した気持ちを止める術など、持ち合わせていない。
何がどう転ぼうと、奏には何も行動をおこすことはできないのだ。まっすぐ進むことが出来ない道にたどり着いてしまった彼女は、立ち止まることしかできないのだ。
今、この状況のまま、時間が止まればいいのにな、と奏は何度も思う。
「ねぇ、空澄さんが持っているポーチ、すっごい可愛いね」
放課後に突入した教室。クラスメイトの一人がメイに話しかける。それを合図にしてか、軽い暴力的な人垣がメイの周りに出来上がる。
どこか裏がありそうなぐらい白々しい笑顔を張り付けた同級生たちは口々にメイを褒め始めるのが、奏の席からでも見えた。
彼女に近づけない奏はその話声に聞き耳を立てた。
「本当だー。 すごい可愛いじゃん」
「うんうん、こんなの空澄さんにしか似合わないよ」
どうやら、クラスメイト達が褒めているのはメイの持ち物のウサギのポーチのことだろう。奏は脳裏にそれを思い描く。
確かに、ファンシーな柄のもので、少し子供っぽいモノだ。メイにしか似合わないのも納得できた。
だけれども、口々に可愛いと囁きかけるあの集団は、とても気持ち悪かった。
「ねぇ、空澄さんってどうやってお肌のケアしてるの? すごい綺麗で羨ましいなー」
「まるで赤ちゃんみたーい」
「いや赤ちゃんは言いすぎでしょ」
姦しくメイを褒めちぎるクラスメイト達。キャハハと快活に笑う彼女たちに加えて、メイ本人は照れたようにはにかんでいて、教室はまるで春の陽だまりの様に暖かであった。
チクリ。
奏は棘のような違和感を胸におぼえた。
「お人形さんみたいに可愛くて羨ましいな」
「日本人形みたいな?」
「そうそう、肌も白いし、目も大きいし」
口々にメイを褒め称えるクラスメイト。メイの頬や、髪を撫でつけていて、それが奏の心に暗い炎を点ける。
確かにメイは可愛い。だけれども、奏が抱く可愛いとクラスメイトの吐く毒っぽい可愛いは全く違う。
奏は苦虫を噛みつぶしたように表情を歪めた。
自らも、メイに触れたい。心行くまで彼女を堪能したい。それを抑えているというのに、クラスメイト達は軽々と行うのだ。
奏はそれが耐えられなかった。違うのだ、メイに対する思いが。
守らなきゃ。
奏の中に、強い思いが渦巻く。守るのだ。奏自身が恋を叶えることはできないなら、せめてメイを守りたいのだ。絶対的義務感。これ以上もない気持ちが、奏の中で昇華する。
「やっぱりメイちゃんのことが好きなんすね」
肩に手が置かれる感触と共に、頭上から声がした。
「なんの用だ、林道」
「ハルって呼んで言ってるじゃないすか」
睨むように空を見上げる奏に対して、林道はあっけからんと笑った。
肩をつかむ手は決して離さず、逃げられないぞ、と暗に言っているようだった。
「酷いっすよね、彼女たち」
くつくつと笑いながら、林道はメイを取り巻く集団に目を向けた。
「あんな風によってたかって皮肉を押しつけて。 メイちゃんじゃなかったら切れてるっすよ、とっくに」
「だからどうした」
「見知った可愛い女の子がみずみず蜘蛛の巣にかけられるのなんて、嫌じゃないですか」
「どういう意味」
奏の瞳はしっかりと林道のことを捉えており、今の展開に苛立ちを覚えているのか、その眉間には強く皺が寄っていた。
「あそこの真ん中の髪の長い子、柊さんのシンパの子っすよ」
メイを囲むその中で、一際きれいな女の子を林道は視線で示した。
ニヤニヤと笑った調子のままの林道に奏は吐き捨てるように言った。
「……お前だってそうじゃないの?」
「あらら、ばれてましたか」
賞賛のつもりか林道は軽く口笛を鳴らした。
さっきから誤魔化すような、ひけらかすような彼女の態度に、奏は待ちきれなかった。
肩におかれた手を強引に押しのけ、奏は林道と同じように、その足で直立する。
見下されいた体勢から、見下すような体勢になって、奏はよりいっそう、林道のことをにらみつけた。
「でも、彼女と私は違うっす。 彼女は私と違って本当に汚い奴ですから」
挑戦的に、かつ不敵に林道も奏に視線を投げかけた。
口元に浮かべられた笑みにメガネの奥の猫のような瞳に、奏は一瞬たじろぎする。
「噂、流したの彼女ですよ。 本当にただの嫉妬心と嫌がらせ目的で」
「お前だって変わらない。嫉妬心と嫌がらせの心を持っている。だから昨日だって絡んできたんでしょ?」
昨日の温室のことを思い浮かべた。
張りつめた空気に知りたくもない事実。
奏はあのような空気はこりごりだった。
「そうっすね、昨日はそれ半分、別半分ってことですね」
「……別?」
「まぁいいじゃないすか、嫉妬心なんて誰でも持っているんですから」
誤魔化すように手をひらひらとさせて、林道は奏の顔に、その顔を近づけた。
「そう、奏さんだって」
その囁き声に、奏は鳥肌を立てた。
嫉妬心や、嫌がらせの心、そして独占欲。人間なら誰しも持っている心だ。
きれいな人間なんて存在しない。だけれども、それを求め、そうありたいと思っている奏にとって、声に出されるのはショックだった。
少女マンガだって、嫉妬心や独占欲は恋のスパイスのように使われる。
そう、今の今まで、棘のように胸を刺していたのは林道の口にしたこの気持ちだ。この違和感は、この気持ちだ。
気づいてから、どんどん大きくなるこの気持ちは、もう、頭の中をどんどんと侵略する。
奏はそれを振り払うかのように、頭を大きく振った。
「何をいわせたい」
「嫉妬しているんすよね、青春さんに」
ゆっくりと、ねっとりと林道は奏にささやく。
その焦りも何も見えない息遣いに、ふわりと香るリンゴのように甘い香りが、奏には鬱陶しく感じた。
「答えないってことはイエスって判断しますけど」
「そうだと言ったら、何するつもりだ」
「何もしないっすよ」
林道は繰り返して言う。
「私は何もしないっす。 その代わり、彼女たちがそれをしったらどうなると思います?」
奏はもう一度、メイの周りの集団を横目で見た。
悪意に満ちて見える彼女らが、もし私のことを知ったらどう思うだろうか。
そんな想像が奏の悪意に火をつける。
「一昨日、柊さんは噂の出どころである彼女たちに向かって約束させました。 今後一切、奏さんに関する噂は一切話しませんって」
顔を離し、同じように集団を見る林道は、昨日よりもお喋りで、その口は止まるところところを知らなかった。
「どうやら柊さんのその行動が、さらに彼女らの機嫌を損ねたらしいんすよ。 どうしてそんなに奏さんに構うの?って具合っすね」
それは、林道も同じことじゃないのだろうか。
そんな嫉妬を浮かばせるのは林道も同じことではないのだろうか。
「それで、今度見つけた嫌がらせの道具が、メイさんっすね」
奏は、目の前で意地悪く笑う林道をまじまじと見た。
うわさを流さず、メイも目の敵にしない彼女はいったい、その嫉妬心をどこに隠しているのだろうか。
奏にはそれがわからず、ただ、何も感じさせずに口を動かす林道が怖かった。
「もう一回言いますよ、奏さんがメイさんのことが好きで、メイさんが青春さんのこと、好きだって知ったら、彼女らはどうするっすかねぇ」
そう言って、考えたくもないことを迫る彼女が怖かった。
林道の、その見え隠れする悪意は、奏の眼をそらさせる。
「……何が目的かさっさと言ってよ!」
「そう熱くなんないでくださいよ、別に取って食おうなんてわけじゃないんすから」
ゆっくりと肩におかれた手。視線を向けた林道はただ笑っていた。
奏は手を振り払い、キッと彼女をにらむ。
「立派な脅しよ、これは」
林道はふっと微笑む。今まで二人の間に張りつめていた空気が、一気に弛緩したような気がした。
「そうっすね、じゃあ脅されてください、これから奏さんは温室には入らないでください、絶対に」
「……それだけ?」
震える声で、奏は確かめた。
それに答えるように林道は頷く。
「あとは写真部と園芸部の部室にもできるだけ近づかないでほしいっすね」
林道は用が済んだとみてか、奏に背を向けた。その濃紺のブレザーに向かって、奏は小さな声でつぶやく。
「お前、やっぱり柊のことが好きなんじゃない」
「別に私は否定していないっすよ。 嫉妬心も、汚い心も。 恋愛ってそういうもんなんすから」
しっかりと聞こえていたみたいで、林道はすぐに答えを返した。
面食らった奏は、少し迷って、また小さな声で呟いた。
「……約束は守るよ」
「それがいいっすね。 私も言いふらしたりはしませんっすから」
それを最後に、林道は教室の出口に向かって歩き出す。
そして、何かを思い出したかのように、振り返った。
「あと、奏さんも汚い心、見せていいんすよ。 それも含めて本当なんすから」
「本当?」
「ええ、汚いものも含めての本物っす」
言葉を残した林道が、夕焼けの中に消えていくまで、奏はずっと息を抜けなかった。
教室内に目線をやると、すでにメイの姿もなく、ただ一人、奏しか残っていなかった。
今日、この状況で、メイがいないのは少し、都合がいい。
奏は自らのカバンを肩にかけ、林道と同じように教室を後にする。
目的はあった。今までくすぶっていたそれが、林道によって掘り出されたといってもいいだろう。
嫉妬心や、独占欲。奏が抱えているそれを、消しに行くのだ。
やけに重く感じるその足を動かして、奏は目的地へと向かった。
本当。林道はそんな言葉を使った。本当、本物なんてものがあるなら、誰か見せて欲しい。
この世に溢れているのは全部、本物の偽物にしか思えてならない。
奏は自分の胸に手を当てる。
きっとこの自分の気持ちでさえも、紛れもない偽物なのだ。
誰も定義することのできないその本物を、定義することは可能なのか。
嫉妬心や、独占欲や、そういうものを含めても、本物だといえるのだろうか。
奏の頭の中で、本当と偽物という言葉が入り混じる。
立ち上がり、足を進める彼女の顔は、安や焦りが表れていた。
しかし、その踏み出す一歩には、もはや迷いはなかった。
『愛があればそんなの関係ない』
空澄メイにそう言ったのは奏自身だ。
しかし、本当にそうなのだろうか。奏は自分自身に問う。
はたしてそれは本物なのだろうか。奏は自分自身に問う。
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昨日の林道だって、きっとその一つだ。
彼女は柊の名前を口にするとき、酷く悲しい顔をしていた。
彼女をはじめとする、悲しい人たちはまるで本当の様に呪いを囁くのだ。
薄雪奏はヤリマンだ。女学校のプレイガールだ。この前、同級生を泣かせた。だなんて。
そんなことを言われるたびに、女は喉を枯らすぐらいに主張した。
自分はヘテロで、レズなんかじゃない、と。
しかし、ずっとずっと、色んなことを言われた。言われ続けた。
そうやって彼女らの悪意にさらされ続けた。
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減っていく友達に、どんどんと大きくなる噂。そんな中で、奏を励ましてくれたのはメイだった。そんな彼女に奏が好意めいた何かを抱き始めるのは当然の結果とも言える。
もし、自分自身が女の子を好きになってしまえば、奏にまつわる噂を自らで証明してしまうことになる。そのこともあって、奏は自分の好意を奥底にしまいこみ、決して気付かないように、重く重く蓋をしたのだ。
奏がその決意をしたのが、一年の夏だった。
それから、夏休みを挟み、陰湿な噂話は、多少はマシになったとはいえ、奏と周りとの関係性において大きく尾を引いていた。
さらに、奏と一緒にいたメイにも色々と言われたていた、というのも聞いて、奏はひどく心を痛めた。
もう、そんなことは起こしたくない。自らのせいで、彼女を傷つけたくない。
奏の恋心がひとたび外に出て、公に知らされれば、きっと酷いことが起こるだろう。人の恋心に触れただけでこうなのだ。
奏だけでなく、メイを取り巻く関係性だって変わることは間違いない。
だから、奏は人と、同級生たちと関わろうとするのを、自分から辞めたのだ。
それに加えて、メイが今、恋心に近いモノを日嗣という上級生に抱いていることに奏は気づいていた。
だから、『薄雪奏と空澄メイはデキている』なんて噂よりも、『薄雪奏は空澄メイに捨てられた』なんて事実の方がいいモノだ、なんて奏は自虐的な気持ちに陥っていた。
好きな人に、好きな人がいる。しかも、好きな人は同性だ。こんなものは、始めから攻めることをバリアで封じられているようなものだ。
好きになればなるほど辛くなるのは奏自身だということに、彼女は気づいてはいた。しかし、一度自覚した気持ちを止める術など、持ち合わせていない。
何がどう転ぼうと、奏には何も行動をおこすことはできないのだ。まっすぐ進むことが出来ない道にたどり着いてしまった彼女は、立ち止まることしかできないのだ。
今、この状況のまま、時間が止まればいいのにな、と奏は何度も思う。
「ねぇ、空澄さんが持っているポーチ、すっごい可愛いね」
放課後に突入した教室。クラスメイトの一人がメイに話しかける。それを合図にしてか、軽い暴力的な人垣がメイの周りに出来上がる。
どこか裏がありそうなぐらい白々しい笑顔を張り付けた同級生たちは口々にメイを褒め始めるのが、奏の席からでも見えた。
彼女に近づけない奏はその話声に聞き耳を立てた。
「本当だー。 すごい可愛いじゃん」
「うんうん、こんなの空澄さんにしか似合わないよ」
どうやら、クラスメイト達が褒めているのはメイの持ち物のウサギのポーチのことだろう。奏は脳裏にそれを思い描く。
確かに、ファンシーな柄のもので、少し子供っぽいモノだ。メイにしか似合わないのも納得できた。
だけれども、口々に可愛いと囁きかけるあの集団は、とても気持ち悪かった。
「ねぇ、空澄さんってどうやってお肌のケアしてるの? すごい綺麗で羨ましいなー」
「まるで赤ちゃんみたーい」
「いや赤ちゃんは言いすぎでしょ」
姦しくメイを褒めちぎるクラスメイト達。キャハハと快活に笑う彼女たちに加えて、メイ本人は照れたようにはにかんでいて、教室はまるで春の陽だまりの様に暖かであった。
チクリ。
奏は棘のような違和感を胸におぼえた。
「お人形さんみたいに可愛くて羨ましいな」
「日本人形みたいな?」
「そうそう、肌も白いし、目も大きいし」
口々にメイを褒め称えるクラスメイト。メイの頬や、髪を撫でつけていて、それが奏の心に暗い炎を点ける。
確かにメイは可愛い。だけれども、奏が抱く可愛いとクラスメイトの吐く毒っぽい可愛いは全く違う。
奏は苦虫を噛みつぶしたように表情を歪めた。
自らも、メイに触れたい。心行くまで彼女を堪能したい。それを抑えているというのに、クラスメイト達は軽々と行うのだ。
奏はそれが耐えられなかった。違うのだ、メイに対する思いが。
守らなきゃ。
奏の中に、強い思いが渦巻く。守るのだ。奏自身が恋を叶えることはできないなら、せめてメイを守りたいのだ。絶対的義務感。これ以上もない気持ちが、奏の中で昇華する。
「やっぱりメイちゃんのことが好きなんすね」
肩に手が置かれる感触と共に、頭上から声がした。
「なんの用だ、林道」
「ハルって呼んで言ってるじゃないすか」
睨むように空を見上げる奏に対して、林道はあっけからんと笑った。
肩をつかむ手は決して離さず、逃げられないぞ、と暗に言っているようだった。
「酷いっすよね、彼女たち」
くつくつと笑いながら、林道はメイを取り巻く集団に目を向けた。
「あんな風によってたかって皮肉を押しつけて。 メイちゃんじゃなかったら切れてるっすよ、とっくに」
「だからどうした」
「見知った可愛い女の子がみずみず蜘蛛の巣にかけられるのなんて、嫌じゃないですか」
「どういう意味」
奏の瞳はしっかりと林道のことを捉えており、今の展開に苛立ちを覚えているのか、その眉間には強く皺が寄っていた。
「あそこの真ん中の髪の長い子、柊さんのシンパの子っすよ」
メイを囲むその中で、一際きれいな女の子を林道は視線で示した。
ニヤニヤと笑った調子のままの林道に奏は吐き捨てるように言った。
「……お前だってそうじゃないの?」
「あらら、ばれてましたか」
賞賛のつもりか林道は軽く口笛を鳴らした。
さっきから誤魔化すような、ひけらかすような彼女の態度に、奏は待ちきれなかった。
肩におかれた手を強引に押しのけ、奏は林道と同じように、その足で直立する。
見下されいた体勢から、見下すような体勢になって、奏はよりいっそう、林道のことをにらみつけた。
「でも、彼女と私は違うっす。 彼女は私と違って本当に汚い奴ですから」
挑戦的に、かつ不敵に林道も奏に視線を投げかけた。
口元に浮かべられた笑みにメガネの奥の猫のような瞳に、奏は一瞬たじろぎする。
「噂、流したの彼女ですよ。 本当にただの嫉妬心と嫌がらせ目的で」
「お前だって変わらない。嫉妬心と嫌がらせの心を持っている。だから昨日だって絡んできたんでしょ?」
昨日の温室のことを思い浮かべた。
張りつめた空気に知りたくもない事実。
奏はあのような空気はこりごりだった。
「そうっすね、昨日はそれ半分、別半分ってことですね」
「……別?」
「まぁいいじゃないすか、嫉妬心なんて誰でも持っているんですから」
誤魔化すように手をひらひらとさせて、林道は奏の顔に、その顔を近づけた。
「そう、奏さんだって」
その囁き声に、奏は鳥肌を立てた。
嫉妬心や、嫌がらせの心、そして独占欲。人間なら誰しも持っている心だ。
きれいな人間なんて存在しない。だけれども、それを求め、そうありたいと思っている奏にとって、声に出されるのはショックだった。
少女マンガだって、嫉妬心や独占欲は恋のスパイスのように使われる。
そう、今の今まで、棘のように胸を刺していたのは林道の口にしたこの気持ちだ。この違和感は、この気持ちだ。
気づいてから、どんどん大きくなるこの気持ちは、もう、頭の中をどんどんと侵略する。
奏はそれを振り払うかのように、頭を大きく振った。
「何をいわせたい」
「嫉妬しているんすよね、青春さんに」
ゆっくりと、ねっとりと林道は奏にささやく。
その焦りも何も見えない息遣いに、ふわりと香るリンゴのように甘い香りが、奏には鬱陶しく感じた。
「答えないってことはイエスって判断しますけど」
「そうだと言ったら、何するつもりだ」
「何もしないっすよ」
林道は繰り返して言う。
「私は何もしないっす。 その代わり、彼女たちがそれをしったらどうなると思います?」
奏はもう一度、メイの周りの集団を横目で見た。
悪意に満ちて見える彼女らが、もし私のことを知ったらどう思うだろうか。
そんな想像が奏の悪意に火をつける。
「一昨日、柊さんは噂の出どころである彼女たちに向かって約束させました。 今後一切、奏さんに関する噂は一切話しませんって」
顔を離し、同じように集団を見る林道は、昨日よりもお喋りで、その口は止まるところところを知らなかった。
「どうやら柊さんのその行動が、さらに彼女らの機嫌を損ねたらしいんすよ。 どうしてそんなに奏さんに構うの?って具合っすね」
それは、林道も同じことじゃないのだろうか。
そんな嫉妬を浮かばせるのは林道も同じことではないのだろうか。
「それで、今度見つけた嫌がらせの道具が、メイさんっすね」
奏は、目の前で意地悪く笑う林道をまじまじと見た。
うわさを流さず、メイも目の敵にしない彼女はいったい、その嫉妬心をどこに隠しているのだろうか。
奏にはそれがわからず、ただ、何も感じさせずに口を動かす林道が怖かった。
「もう一回言いますよ、奏さんがメイさんのことが好きで、メイさんが青春さんのこと、好きだって知ったら、彼女らはどうするっすかねぇ」
そう言って、考えたくもないことを迫る彼女が怖かった。
林道の、その見え隠れする悪意は、奏の眼をそらさせる。
「……何が目的かさっさと言ってよ!」
「そう熱くなんないでくださいよ、別に取って食おうなんてわけじゃないんすから」
ゆっくりと肩におかれた手。視線を向けた林道はただ笑っていた。
奏は手を振り払い、キッと彼女をにらむ。
「立派な脅しよ、これは」
林道はふっと微笑む。今まで二人の間に張りつめていた空気が、一気に弛緩したような気がした。
「そうっすね、じゃあ脅されてください、これから奏さんは温室には入らないでください、絶対に」
「……それだけ?」
震える声で、奏は確かめた。
それに答えるように林道は頷く。
「あとは写真部と園芸部の部室にもできるだけ近づかないでほしいっすね」
林道は用が済んだとみてか、奏に背を向けた。その濃紺のブレザーに向かって、奏は小さな声でつぶやく。
「お前、やっぱり柊のことが好きなんじゃない」
「別に私は否定していないっすよ。 嫉妬心も、汚い心も。 恋愛ってそういうもんなんすから」
しっかりと聞こえていたみたいで、林道はすぐに答えを返した。
面食らった奏は、少し迷って、また小さな声で呟いた。
「……約束は守るよ」
「それがいいっすね。 私も言いふらしたりはしませんっすから」
それを最後に、林道は教室の出口に向かって歩き出す。
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「あと、奏さんも汚い心、見せていいんすよ。 それも含めて本当なんすから」
「本当?」
「ええ、汚いものも含めての本物っす」
言葉を残した林道が、夕焼けの中に消えていくまで、奏はずっと息を抜けなかった。
教室内に目線をやると、すでにメイの姿もなく、ただ一人、奏しか残っていなかった。
今日、この状況で、メイがいないのは少し、都合がいい。
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嫉妬心や、独占欲。奏が抱えているそれを、消しに行くのだ。
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本当。林道はそんな言葉を使った。本当、本物なんてものがあるなら、誰か見せて欲しい。
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奏は自分の胸に手を当てる。
きっとこの自分の気持ちでさえも、紛れもない偽物なのだ。
誰も定義することのできないその本物を、定義することは可能なのか。
嫉妬心や、独占欲や、そういうものを含めても、本物だといえるのだろうか。
奏の頭の中で、本当と偽物という言葉が入り混じる。
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