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序章

春は青春の香りがする

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 ハナズオウという木がある。それは低木と言われる種類のもので、紫がかった小さな花を幾重にも咲かせる。私立蘇芳ヶ花女学園(すおうがばなじょがくえん)の校舎裏、人目のつかないそんな場所。そこにハナズオウは咲いていた。

 彼女――薄雪奏うすゆきかなでは入学式の日に初めてそれを見た。美しいと思った。そして、今でも夢に見る。
 桜にも負けない美しさと、花を見上げる一人の女の子。まるで、春が見せた奇跡のようで、奏の網膜に強く焼き付いてしまったのだ。
 風にたなびく黒髪は長く、どこからか流されてきた桜の花びらの中でも美しかった。
 そして、彼女の隣に立った時、大きな黒目が奏へと視線をずらす。

「この花も、また綺麗ね」
 小さな唇が開き、そう言葉が投げかけられるも、奏は何も返すことが出きなかった。
 見惚れていたのだ。彼女にとっての理想の姿が、そこには立っていた。
 まるで絵の中から飛び出してきたような女の子らしい女の子、その少女が空澄そらすみメイという名前であることを知ったのは授業が始まって、すぐの時のことである。

 だから、この日において、奏はメイと喋ることすらできていない。しかし奏にとってすれば、春という熱に浮かされてみた幻か、奇跡か、それとも夢かと感じるくらいに衝撃だったのだ。
 翌日、奏は花と夢の証拠を見るために、校舎裏を訪れていた。しかし、そこにあるのはハナズオウだけであり、理想の女の子は立っていなかった。

 しかし、代わりに予想と全く違う、異質な二人がそこにいた。
 奏はとっさに物陰に隠れ、息を殺す。

 ――その木の下では二人の女性が抱き合っていた。

 校舎裏の、人気のないそこで、熱い抱擁を交わしていた。どう見てもこの学校の生徒だった。顔を熱く燃やし、唇を交し合う。そのただならぬ雰囲気に、奏は一瞬にして飲み込まれた。
 濃紺のブレザーの陰で揺れるタイは緑。それが二年生を表しているのは、入学間もない奏でも知っている。

 見てはいけない秘密の瞬間だと、強く感じた。
 だけれども、奏はその光景から目を離せなかった。
 女子高にはこういうこともあるのだと聞いていたが、都市伝説かなにかだと思っていた。
 背中に回された手はお互いを探すように、確かめるように固く締められていて、もはや二つの生物と言うよりも、一つの生物のように奏の瞳は映って見えた。

 重なる体に、重なる唇。
 花の下で抱き合う彼女たちは心までも重ね合わせているのだろうか。

 恋をしたことがなかった、恋をすることが許されなかった奏は二人を眺めながらそう思う。 

 一階の窓に映る自分の姿を彼女は顧みる。
 短く揃えられた女っ気のない黒髪。切れ長な瞳が女子よりも男子のような印象をより深くさせる。背だって女の子にしたらスラリと高く、手足だって普通よりも大きい。
 そんな自分の姿を見ると、奏は深くため息をつかざるを得ない。

 部活に入って運動するには邪魔だったからと切った髪の毛も、もう伸ばしてもいいのかもしれない。そうすれば、もう少しは女の子らしくなれる。そして、新しい出会いに対し、期待で胸を膨らませられる。
 中学までの、もっと言うなら今までの人間関係が嫌で、奏はこの学校に来たのだ。もう少しチャレンジ精神と言うものがあってもいい。変われるように髪を長くするのも悪くない。
 奏は髪の毛を触りながら、未来の変わった自分を思い浮かべる。

 結局のところ、ハナズオウの木の下に奏が求めていたものはなかった。彼女は現れなかった。もしかすると、ちょっと待てば現れるかもしれないと、そう思い、淡い期待を捨てきれずに待っていてもだ。それもそうかと、樹の下でいちゃついている女子同士を見て、軽くため息をつく。
 そうして、奏が帰ろうと足を翻した時だった。

「ねぇ」

 不意に、奏の肩が掴まれる。振り向くと、緑のタイが眼に入る。きっと、さっきの二年生だ。奏は反射的に謝った。
「すみません! 覗く気はなかったんです。 ただ、偶然で、ハナズオウを近く見ようと思ってーー」
「騒がないで、これからがいいところなんだから」
 長い髪の毛で顔の半分を隠したようなその二年生は奏の口を手で抑えた。何も言えない奏は彼女をまじまじと眺める他なかった。
 どこまでも暗く、底の見えないその黒い瞳が印象的で、熱い唇がセクシーだった。身体が密着しているからか、その体つきがハッキリとわかり、一年の違いでここまで如実に差が出るのかと、奏は落胆した。

「最近、私の特等席によくいるんだ。 あいつら」
「……特等席ですか」
「そ、特等席。 先生たちには見つからないし、好きにしていられるからさ」
 何を好きにできるんだろう。奏はそう思ったが声に出さなかった。
「なぁ、見てみてよ。 あいつらすごい大胆よ」
 手招きされて、奏は木々の陰からこそっと顔を出した。
 一種の死角となっているそこでは、一人の女の子がもう一人にかしずいていて、よくわからなかった。
「あはは、本当大胆。 今度、私もやってみようかしら」
 
 スカートの中で、同性同士で行うこと。きっと、それは触れてはいけない棘のようなもので、求めあうその気持ちが生み出す行為だろう。
 愛と性と欲と。脳を蕩けさせて猿のように盛りだす、どんな時間でも、場所でも。

 奏は腕に立った鳥肌をさする。胸の中で沸き立つモヤモヤとした気持ちを、奏には定義することが出来なかった。
 反対に嬉々として輝かせる先輩を見て、奏はどうしてこのような状況になったのかと思った。
 裏切りの木。ハナズオウを近くで見たくてここへやってきたのだ。
 奏は、入学式の前、ここで見た女の子を思い出す。

 横にいる先輩や、奥で盛り合う二年生とは違う、春の妖精。
 目が大きく、背が小さく小柄で、左の前髪の編み込みがやけに印象的な女の子。
 その子はきっとあの花を見上げていた。
 ハナズオウの花弁に混じる、桜の花びらが、風に乗って、女の子の周りを漂い、それは神秘的で、幻想的だった。
 彼女は今でも夢に見る。
 今日だって、ハナズオウの木が見たかったなんてのはブラフだ。あの女の子を探しに来たのが本命である。

「ねぇ、ハナズオウの花言葉、知ってる?」
 そっと、耳元で囁かれる。その吐息が、少しくすぐったく感じて、奏の体は跳ね上がりそうになった。
 この高校に入っての直後、入学ガイダンスでの祈りの際に先生が言っていたのをで、奏は頭はすぐに思い出すことができた。

 ハナズオウは別名として『ユダの木(ユダツリー)』と呼ばれている。主にイタリアなどのヨーロッパ地方、キリスト圏での名称だ。その謂れは、この木の下でユダが首を吊ったから、という安直明々なものである。
 キリストを裏切った贖罪に首を吊ったユダが流したその血は、元の白い花を赤く染め上げて、今の色へと変質させた。そう、言い伝えが残されている、らしい。
 ユダツリー、ハナズオウの花言葉は『裏切り』である。

 だから、奏は端的に答えて見せる。
「裏切り? ですか」
「そう、裏切り。 そして、目覚め」
「目覚め?」
 新しく聞くワードに奏は目をパチクリさせる。確か、キリスト教では処刑された後に、キリストが神様になって再び目覚めるとかどうとか、なんて話を奏は頭の片隅で思い出す。
 目の前の先輩はヘラリと笑って、奏の瞳を覗き込んだ。
「何が目覚めたんだろうね、花蘇芳の木によってさ」
「……キリスト、ですかね?」
「かもね」
 まるで、そうではないかのような言い草に、奏は横目で花蘇芳の下を見る。

「じゃあさ、あそこで情熱的に愛し合っている二人は幸せだと思う?」
「…………幸せなんじゃないんですかね? 愛し合っているなら」
 少しだけ考えて奏は答えた。長い前髪からのぞく、真っ暗闇な彼女の瞳はこちらを見ているにもかかわらず、どこか遠くを見つめているようだった。
「愛は時に重しになって人の上にのしかかるのよ。 ねぇ、あなたは恋をしたことある?」
「ない、ですけど」
「恋は毒よ、人を弱くさせる甘美な毒」
「漫画とかだったら、『恋をしたから強くなれた』なんてよく聞きますけどね」
「安い陶酔よ、そんなの。 ……本当に薄っぺらい、ね」
「先輩は恋をしたことあるんですか?」

 風が吹いた。狭い校舎裏に敷き詰められた桜の花びらが空を舞い、彼女たちの姿を一瞬隠す。それと同時に、先輩の眼はどこか遠い虚空から、奏の目の前へと戻ってくる。奏は短い髪を掻き上げた。
「そうね、どう見える?」
 挑発的な視線を先輩は送る。まるで試されているかのようだ。奏はどこか怖くなって目を逸らす。
「経験豊富なんじゃないですか? よくわかんないですけど」
「そうね、経験上はね。 でもね、本物の好きの目の前ではそんな経験なんて苦いだけ」
「苦い?」
「意味がなくて、無駄で、それでいて苦しいってこと」
 濁った眼で、口元を歪ませながら先輩は答えた。
 奏は彼女の様子から、想像できることを口に出そうとした。
「先輩、もしかして……」
 それは一瞬のことだ。
 桜の木の下、奏の頬に柔らかい感触が押し付けられる。奏の鼓動は瞬時に高まり、頬は桜色に紅潮した。
「何するんですか?」
「一年生でしょ? 餞別よ、餞別」
 意味ありげにうふっと笑う先輩から、奏は焦って身を離す。赤くなり、その感触が残った頬を抑えながら、奏は大きく地面を踏み鳴らした。
「そんなに嫌がらなくてもいいのに」
「嫌っていうか突然あんなこと――」
 奏が叫ぶと、先輩はまたしても花のように笑った。紙の隙間から見えるその美しい漆黒の眼は爛々と輝いていた。
「あ、じゃあ嫌ではないんだ」
「嫌です」
 奏はぴしゃりとそう言い放つのと同じ瞬間、始業十分前のチャイムが鳴り響く。
 いつの間にか、ハナズオウの木の下には誰もいなく、校舎裏に残されているのは奏とその先輩の二人だけだった。
「おっと、もう行かないとね。 また、機会があったら会いましょう? この木の下でね」
 そう言い残して桜の花びらにまぎれるように、彼女は私の前から去って行った。
 顔を隠すほどの長い黒髪。切れ長の真黒な瞳。張りがあってピンク色下唇がセクシー。おまけに胸も大きく、腰は細い。それで、鼻腔をくすぐるのは煙草の香り。そんな名前の知らない彼女。

 その先輩の名前を、日嗣青春ひつぎあおはるだと知ったのは少し後の話だった。
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