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第十六話
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【月夜の森】において、宮原さんがバリスタ&キッチンスタッフ、私がホールスタッフという業務形態に分けられるようだった。
ただ、宮原さんが仕事の繁忙期にお店を開けられない時には、私が一人で対応しなくてはならない。そのためには、早い内からコーヒーの淹れ方や、カフェが提供するフードやスイーツの製造も担当しなくてはならないので、覚えなければならないことがたくさんある。
私の表情が曇りがちになっていることに気が付いたのか、宮原さんは落ち着かせるように私の肩に手を置いた。
「大丈夫ですよ。覚えることはたくさんありますけど、まずはホールでの接客を学んでいきましょう。私の仕事も起伏はありますけど、システム統合で仕事量も大分調整出来るようになりましたし、カフェ運営に支障は出ないと思います。まぁ、いざとなったら、ヘルプを頼みます」
「ヘルプですか?」
「ほら、雫さんも以前会ったかと思いますが、梶くん。彼は普段、カフェのキッチンスタッフとして働いているので、フード関係の悩みにも乗ってもらっているんですよ」
上機嫌の宮原さんと違い、私はあまり明るい気持ちにはなれなかった。
(どんな旧時代を生きてる家庭に育ったんだよ―――)
あの言葉を思い出すたびに心がもやっとして、自然と眉をひそめてしまう。
「……大丈夫です。あの人に頼らなくても、早くコーヒーのことやフード関係のことも覚えて、宮原さんの役に立ってみせるので」
「雫さん?」
カラン
その時、微かにドアベルの音がして、私は勢いよくドアの方に顔を向けた。
(接客の基本として、まずはお店に来てくれた歓迎の言葉として―――)
「い、いらっしゃいませっっ!」
深夜のブックカフェにそぐわないくらいの大きな声が出てしまった。
「……びっくりしたね、新しい子、雇ったの?」
白髪をたくわえ、ベージュのスーツに帽子をかぶり、銀色の杖を片手にゆっくりと紳士がそこには立っていた。
びっくりした、と言われたことで歓迎の第一声の声量を大きく間違えてしまったことに気づいた。私は恥ずかしさのあまり、顔を伏せて、そこからそのまま動けなくなってしまった。
「―—―五十嵐さん。お久しぶりです」
宮原さんがとっさに五十嵐さんと呼んだ紳士に近寄り、深々とお辞儀をした。五十嵐さんは表情を変えずに、帽子を取った。
「妻の一周忌が、最近済んでね。少しずつ進めていた身辺整理も落ち着いて、生活も元のようになったんだけど、やっぱり妻の不在が慣れなくてね……夜もぐっすりと眠ることがなくなってしまった。夜を一人で過ごしているとね、寂しいというか、世界に一人取り残されたような気分になってね。まわりの家の光が次々に消えていくたびに、ああ、今夜も置いて行かれてしまった、乗り遅れてしまったという気分になる」
五十嵐さんのその言葉に、私は息をのんだ。
周りの光や喧噪や気配がある時間帯は、私もまだ世界の一員として存在していいのだと許可されている気持ちになる。だけど、一人窓の外を見つめていると、見えない列車に住民が次々に乗り込んで、名も知らない未知の駅へ旅立ってしまっているように感じられる。
置いていかないで欲しい。
私も、其処へ、連れて行って欲しい。
声を上げられず、虚空に手を伸ばしてみても、空を掴むだけで私は地上に一人残されてしまう。
「いっそのこと、ずっと意識がなくなってくれればいいのにって、思うことがあります」
私はいつの間にかそう呟いていた。
はっと気が付くと、五十嵐さんは真っすぐにこちらを見つめていた。
「す、すみません。訳の分からないことを口にして―――」
「貴女も、夜を拒みながらも、夜にしか生きられない……?」
五十嵐さんの言葉に、私は唇を噛みしめながら力なくうなづいた。
「そうでしたか。ならば、貴女もこの【月夜の森】に呼ばれたのですね」
呼ばれた、そう考えたことはなかったけれど、窓から見えた強い強い光、あれは私を導くための光だったのかもしれない。
「五十嵐さんは父の学生時代からの友人で、私も小さい頃からよく面倒を見てもらっていたんですよ。父の蔵書には五十嵐さんのものも交じってますよね?」
「そうだね。私は父の社宅に住んでいたからあまり自分の本を置けず、よく貴弘の家に置かせてもらっていたんだよ。あまりも預けすぎて、どれが自分のものなのか分からなくなってしまった。だから、大貴くんが蔵書を読めるブックカフェを作ると聞いた時、嬉しかったんだよ。貴弘は、本を読み終えると必ず読了日を巻末に記していたんだ。そんなことをしたら古本屋に持ち込めないからね、私はしなかったけれど、記載があるものと無いもので蔵書の区別がつく。だから、学生時代に読んだものと久々に対面した時、同時に学生時代の自分にも久々に再会することが出来た。もちろん、貴弘の蔵書も私が読まないものばかりで興味深かったから、それもたくさん目にすることが出来て嬉しかったよ。ただ、70過ぎの老体に深夜帯に出かけて本を読むという行為はなかなか骨が折れるものでね。しばらく店から遠ざかっていたよ。でも、喜美子が急に体調を崩してね。あっという間に私を置いて亡くなってしまった。喜美子と一緒に過ごす日々は私の人生そのものでね。私たちには子供が出来なかったから、ずっと夫婦二人だけで生きてきた。急に半身を失うと、色々な気力も半減してしまってね。杖をついているものの何とか自分一人で歩けるし、ご飯も作れるし、お風呂にも入れる。週に二日、掃除や洗濯をしてくれるヘルパーさんには来てもらっているが、前のように生きようとする理由が見つからなくなってしまった。無意識に、睡眠をとらなければ、寿命が縮んであっというまに人生を終えることが出来るんじゃないだろうか、そんなことを考えてしまっている。死のあこがれが、頭の片隅に残されている」
「五十嵐さん、そんなことを言ったら父が悲しみます。五十嵐さんと碁を打つことが父の楽しみなんですから」
「はっはっは、そうか、そうだったな。貴弘は昔から私と打ちたがるんだが、全く成長しなくてな。そうか……」
五十嵐さんの目じりにうっすらと涙が浮かんでいるのが見えた。
五十嵐さんは私とは違い、日中も生き、夜も死を連想させられる象徴としながらも身を預けて生きている。私は、日中は自分を殺し意識を殺し、無いものとして心の奥底にその身を沈めている。そして、目を覚まし生きる世界として夜の闇を選択している。選択する自由すらもなく、死を待ち続けるというのはなんと酷な世界だろう。
死と隣り合わせとしたこの限られた狭い世界で、私は五十嵐さんに何を提供できるのだろうか。
ただ、宮原さんが仕事の繁忙期にお店を開けられない時には、私が一人で対応しなくてはならない。そのためには、早い内からコーヒーの淹れ方や、カフェが提供するフードやスイーツの製造も担当しなくてはならないので、覚えなければならないことがたくさんある。
私の表情が曇りがちになっていることに気が付いたのか、宮原さんは落ち着かせるように私の肩に手を置いた。
「大丈夫ですよ。覚えることはたくさんありますけど、まずはホールでの接客を学んでいきましょう。私の仕事も起伏はありますけど、システム統合で仕事量も大分調整出来るようになりましたし、カフェ運営に支障は出ないと思います。まぁ、いざとなったら、ヘルプを頼みます」
「ヘルプですか?」
「ほら、雫さんも以前会ったかと思いますが、梶くん。彼は普段、カフェのキッチンスタッフとして働いているので、フード関係の悩みにも乗ってもらっているんですよ」
上機嫌の宮原さんと違い、私はあまり明るい気持ちにはなれなかった。
(どんな旧時代を生きてる家庭に育ったんだよ―――)
あの言葉を思い出すたびに心がもやっとして、自然と眉をひそめてしまう。
「……大丈夫です。あの人に頼らなくても、早くコーヒーのことやフード関係のことも覚えて、宮原さんの役に立ってみせるので」
「雫さん?」
カラン
その時、微かにドアベルの音がして、私は勢いよくドアの方に顔を向けた。
(接客の基本として、まずはお店に来てくれた歓迎の言葉として―――)
「い、いらっしゃいませっっ!」
深夜のブックカフェにそぐわないくらいの大きな声が出てしまった。
「……びっくりしたね、新しい子、雇ったの?」
白髪をたくわえ、ベージュのスーツに帽子をかぶり、銀色の杖を片手にゆっくりと紳士がそこには立っていた。
びっくりした、と言われたことで歓迎の第一声の声量を大きく間違えてしまったことに気づいた。私は恥ずかしさのあまり、顔を伏せて、そこからそのまま動けなくなってしまった。
「―—―五十嵐さん。お久しぶりです」
宮原さんがとっさに五十嵐さんと呼んだ紳士に近寄り、深々とお辞儀をした。五十嵐さんは表情を変えずに、帽子を取った。
「妻の一周忌が、最近済んでね。少しずつ進めていた身辺整理も落ち着いて、生活も元のようになったんだけど、やっぱり妻の不在が慣れなくてね……夜もぐっすりと眠ることがなくなってしまった。夜を一人で過ごしているとね、寂しいというか、世界に一人取り残されたような気分になってね。まわりの家の光が次々に消えていくたびに、ああ、今夜も置いて行かれてしまった、乗り遅れてしまったという気分になる」
五十嵐さんのその言葉に、私は息をのんだ。
周りの光や喧噪や気配がある時間帯は、私もまだ世界の一員として存在していいのだと許可されている気持ちになる。だけど、一人窓の外を見つめていると、見えない列車に住民が次々に乗り込んで、名も知らない未知の駅へ旅立ってしまっているように感じられる。
置いていかないで欲しい。
私も、其処へ、連れて行って欲しい。
声を上げられず、虚空に手を伸ばしてみても、空を掴むだけで私は地上に一人残されてしまう。
「いっそのこと、ずっと意識がなくなってくれればいいのにって、思うことがあります」
私はいつの間にかそう呟いていた。
はっと気が付くと、五十嵐さんは真っすぐにこちらを見つめていた。
「す、すみません。訳の分からないことを口にして―――」
「貴女も、夜を拒みながらも、夜にしか生きられない……?」
五十嵐さんの言葉に、私は唇を噛みしめながら力なくうなづいた。
「そうでしたか。ならば、貴女もこの【月夜の森】に呼ばれたのですね」
呼ばれた、そう考えたことはなかったけれど、窓から見えた強い強い光、あれは私を導くための光だったのかもしれない。
「五十嵐さんは父の学生時代からの友人で、私も小さい頃からよく面倒を見てもらっていたんですよ。父の蔵書には五十嵐さんのものも交じってますよね?」
「そうだね。私は父の社宅に住んでいたからあまり自分の本を置けず、よく貴弘の家に置かせてもらっていたんだよ。あまりも預けすぎて、どれが自分のものなのか分からなくなってしまった。だから、大貴くんが蔵書を読めるブックカフェを作ると聞いた時、嬉しかったんだよ。貴弘は、本を読み終えると必ず読了日を巻末に記していたんだ。そんなことをしたら古本屋に持ち込めないからね、私はしなかったけれど、記載があるものと無いもので蔵書の区別がつく。だから、学生時代に読んだものと久々に対面した時、同時に学生時代の自分にも久々に再会することが出来た。もちろん、貴弘の蔵書も私が読まないものばかりで興味深かったから、それもたくさん目にすることが出来て嬉しかったよ。ただ、70過ぎの老体に深夜帯に出かけて本を読むという行為はなかなか骨が折れるものでね。しばらく店から遠ざかっていたよ。でも、喜美子が急に体調を崩してね。あっという間に私を置いて亡くなってしまった。喜美子と一緒に過ごす日々は私の人生そのものでね。私たちには子供が出来なかったから、ずっと夫婦二人だけで生きてきた。急に半身を失うと、色々な気力も半減してしまってね。杖をついているものの何とか自分一人で歩けるし、ご飯も作れるし、お風呂にも入れる。週に二日、掃除や洗濯をしてくれるヘルパーさんには来てもらっているが、前のように生きようとする理由が見つからなくなってしまった。無意識に、睡眠をとらなければ、寿命が縮んであっというまに人生を終えることが出来るんじゃないだろうか、そんなことを考えてしまっている。死のあこがれが、頭の片隅に残されている」
「五十嵐さん、そんなことを言ったら父が悲しみます。五十嵐さんと碁を打つことが父の楽しみなんですから」
「はっはっは、そうか、そうだったな。貴弘は昔から私と打ちたがるんだが、全く成長しなくてな。そうか……」
五十嵐さんの目じりにうっすらと涙が浮かんでいるのが見えた。
五十嵐さんは私とは違い、日中も生き、夜も死を連想させられる象徴としながらも身を預けて生きている。私は、日中は自分を殺し意識を殺し、無いものとして心の奥底にその身を沈めている。そして、目を覚まし生きる世界として夜の闇を選択している。選択する自由すらもなく、死を待ち続けるというのはなんと酷な世界だろう。
死と隣り合わせとしたこの限られた狭い世界で、私は五十嵐さんに何を提供できるのだろうか。
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