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第十一話
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こいのぼりのパイを食べ終えて宮原さんの淹れてくれたコーヒーを飲んでいると、足元にふわっとした柔らかさを感じた。
テーブルの下を覗くと、そこには金の目をした黒い塊が体を寄せていた。
「ヨル」
名前を呼びと、ふにゃーと返事をしてくれた。
「おいで」
私はヨルを下から救い上げるように抱き上げた。
ヨルは真夜中に浮かび上がる月の光を目に宿していた。
「ヨルはすっかり雫さんに懐きましたね」
「……そうなんですか?」
「ヨルは警戒心が強い猫ですから。この人は近づいてもいいと感じた人にしか懐かないと思います」
「そうなんだね……」
ヨルを膝の上に置き、頭や背中を優しく撫でてあげた。ヨルは黙ってされるがままにじっとしていた。
「雫さん、急なお願いなんですが聞いてもらえますか?」
宮原さんがこちらを真っすぐ見つめて神妙な面持ちでそう言った。
「この【月夜の森】で働いてみませんか?あ、もちろん雫さんのお仕事もありますし、無理にとは言いません。もしくは、週に二日や三日、短い時間帯だけでも構いません」
「仕事は、していません。数年前から、仕事というか外にもろくにも出られない生活をしていて……」
私は何も出来ていない自分が恥ずかしくなって俯いた。
「でも、雫さんは外に出て【月夜の森】に来てくれたじゃないですか」
宮原さんの言葉に私はぱっと顔を上げた。
「勝手な解釈かもしれませんが、雫さんは部屋から外を眺めてこの店の光を見つけて駆けつけてくれたんですよね。大きな一歩を踏み出して探し当ててくれたことは大きな勇気ですよ」
「大きな、勇気……」
そうなのだろうか。ただただ浮かび上がる光に私が入る余地があるのかも分からず、がむしゃらに走って探し当てたこの場所は、私の新しい居場所になるのだろうか。
日の下で生きていけなくても、真っ暗な闇の世界でも、誰かを助けられる存在になり得るのだろうか。
「宮原さん、こんな私でも必要とされるんでしょうか?私は、接客の仕事もしたことがないし、料理もほとんどできません。ちゃんとこのお店の店員として振舞えるのか心配で……」
「私も、人と接するのが苦手です。会社員をしていますが、システム開発なのでパソコンが主な仕事相手なので一日人と話さないこともあります。ですが、雫さんはよくまわりを見て動いて相手がどう感じているかを察してくれているように思います。それは接客をすることにおいて非常に大事なことだと思います」
宮原さんの口にすることは、初めて言われたことばかりだった。
相手の機嫌を損なわないよう顔色を窺いすぎて段々とまわりから人が離れていった。だからといって距離をつめて話そうとすると相手は警戒するし、あるいは自分に好意を持っていると勘違いされる。その誤解を解こうと試みても自分を貶めた傷付けたとなじられることもあった。
今になって、記憶の片隅に置いていた記憶を呼び覚ませてしまった。
それを打ち払うよう目を伏せると、ゆっくりと目を開いた。
「宮原さん、私、ここで働きたいです。でも、それが叶うのかどうかは親に相談してみます」
「……分かりました」
「でも、宮原さんがお店にいらっしゃるのに、何故人を雇うんですか?」
宮原さんは、少し悩むように首を傾けた。
「親の残した書物と土地、それと私の趣味をお客様に楽しんでもらうということでお店を開いたのですがいかんせん本業が忙しくなると疎かになってしまうことがずっと気がかりだったんです。新作のお菓子も色々と試す時間も欲しいですし、ここにずっと居浸ることで娘ともますます疎遠になってしまいますし……」
「宮原さん、娘さんがいらっしゃるんですか?」
私がそう言うとどこか寂しそうに口元を歪めた。
「戸籍上は、娘なんですが、あちらは親とは思っていないと思います」
「―—―?」
「あ、すみません。雫さんに自分の家庭のことを話しても仕方ないですよね」
仕方ないですよね、という宮原さんの言葉に少し傷つきながらもそれ以上は詮索することは止めておいた。
「あ、あの、私―—―」
からからん
すうっとした涼しい風と共にカウベルの音が鳴り、私は思わず目を細めた。
「あれ、お客さん?珍しいね」
響くような低い声に私はドアの方へ目をやった。
カーキ色のジャケットにベージュのズボンを履いた青年が立っていた。
眠いのか目がとろんとしており、大きなあくびをしながらゆっくりとこちらに歩いてきた。
「梶くん、久しぶりだね。試験は終わった?」
「うん、何とか。でもこれからエントリーシートに卒論のまとめもやっていかないと。色々とやることが山積み」
梶くんと呼ばれた青年は宮原さんの隣に座る私に視線を落とした。
「この店に来る奇特な客は俺ぐらいだと思ってたよ」
「失礼だな、でも、昨日から来てくれてるお客さまだよ。早速このお店で働いてくれないかって交渉しているんだ」
「この店で?夜11時から開く店で働くのってきついんじゃないの?」
「あ、でも、まだ働けるか分からなくて。親に訊いてみないと―――」
そう口にすると男性は一瞬にして嘲るような視線に変わった。
「いい大人なのに、自分の意思で働く働かないって決められないんだ?」
「―—―梶くん!」
男性の言葉よりも、急に声を上げた宮原さんに私は驚いて肩を震わせた。
「そういう自分の物差しで相手を判断しちゃ駄目だよ」
「……」
「あ、でも、その通りですから。実際、いい年なのに自分の意思で何も決められないし。変わらなくちゃって思うんですけど、ずっと外に出ることも難しくて……」
二人の視線に私はなかなか言葉を紡げずに下を向いてしまった。
「ゆっくりでいいんですよ。アルバイトのことも、無理だったらお客さまとしていらしてくれればいいし。お菓子のアドバイザーだけしてくれてもいいし、ヨルの遊び相手として来ていただくだけでも構いません」
「ヨル?ヨル来てるの?」
青年はぱっと顔色を変えて言った。
「梶くんはヨルが大好きだからね。でも、あまり頬ずりすると嫌がって逃げちゃうからね」
「……分かってるよ」
青年はテーブルの下や椅子の下とのぞき込み、あたりを歩き回りヨルを探している。
お店に入ってきた時は人が近づいてこないようぴりぴりとした空気を纏っていたが、ヨルと聞いた瞬間にその空気があきらかに和らいだ。
私もヨルがいると気分が高揚するので、その気持ちはよく分かる。
「宮原さん、早速今日帰ったら母に相談してみます。母には色々と人たちと話して色々な世界を知りなさいって背中を押されたんです。だから、きっと分かってくれると思うんです」
「そうですか。それは良かったです。応援してくれる家族がいてくれると心強いですよね」
「はい」
すとんと首元につかえていたものが落ちたようだった。
私は大丈夫。そう言い聞かせて前を見据えた。
コーヒーはすっかり冷めていたけれど、その冷たさが今は火照った体にちょうど良かった。
テーブルの下を覗くと、そこには金の目をした黒い塊が体を寄せていた。
「ヨル」
名前を呼びと、ふにゃーと返事をしてくれた。
「おいで」
私はヨルを下から救い上げるように抱き上げた。
ヨルは真夜中に浮かび上がる月の光を目に宿していた。
「ヨルはすっかり雫さんに懐きましたね」
「……そうなんですか?」
「ヨルは警戒心が強い猫ですから。この人は近づいてもいいと感じた人にしか懐かないと思います」
「そうなんだね……」
ヨルを膝の上に置き、頭や背中を優しく撫でてあげた。ヨルは黙ってされるがままにじっとしていた。
「雫さん、急なお願いなんですが聞いてもらえますか?」
宮原さんがこちらを真っすぐ見つめて神妙な面持ちでそう言った。
「この【月夜の森】で働いてみませんか?あ、もちろん雫さんのお仕事もありますし、無理にとは言いません。もしくは、週に二日や三日、短い時間帯だけでも構いません」
「仕事は、していません。数年前から、仕事というか外にもろくにも出られない生活をしていて……」
私は何も出来ていない自分が恥ずかしくなって俯いた。
「でも、雫さんは外に出て【月夜の森】に来てくれたじゃないですか」
宮原さんの言葉に私はぱっと顔を上げた。
「勝手な解釈かもしれませんが、雫さんは部屋から外を眺めてこの店の光を見つけて駆けつけてくれたんですよね。大きな一歩を踏み出して探し当ててくれたことは大きな勇気ですよ」
「大きな、勇気……」
そうなのだろうか。ただただ浮かび上がる光に私が入る余地があるのかも分からず、がむしゃらに走って探し当てたこの場所は、私の新しい居場所になるのだろうか。
日の下で生きていけなくても、真っ暗な闇の世界でも、誰かを助けられる存在になり得るのだろうか。
「宮原さん、こんな私でも必要とされるんでしょうか?私は、接客の仕事もしたことがないし、料理もほとんどできません。ちゃんとこのお店の店員として振舞えるのか心配で……」
「私も、人と接するのが苦手です。会社員をしていますが、システム開発なのでパソコンが主な仕事相手なので一日人と話さないこともあります。ですが、雫さんはよくまわりを見て動いて相手がどう感じているかを察してくれているように思います。それは接客をすることにおいて非常に大事なことだと思います」
宮原さんの口にすることは、初めて言われたことばかりだった。
相手の機嫌を損なわないよう顔色を窺いすぎて段々とまわりから人が離れていった。だからといって距離をつめて話そうとすると相手は警戒するし、あるいは自分に好意を持っていると勘違いされる。その誤解を解こうと試みても自分を貶めた傷付けたとなじられることもあった。
今になって、記憶の片隅に置いていた記憶を呼び覚ませてしまった。
それを打ち払うよう目を伏せると、ゆっくりと目を開いた。
「宮原さん、私、ここで働きたいです。でも、それが叶うのかどうかは親に相談してみます」
「……分かりました」
「でも、宮原さんがお店にいらっしゃるのに、何故人を雇うんですか?」
宮原さんは、少し悩むように首を傾けた。
「親の残した書物と土地、それと私の趣味をお客様に楽しんでもらうということでお店を開いたのですがいかんせん本業が忙しくなると疎かになってしまうことがずっと気がかりだったんです。新作のお菓子も色々と試す時間も欲しいですし、ここにずっと居浸ることで娘ともますます疎遠になってしまいますし……」
「宮原さん、娘さんがいらっしゃるんですか?」
私がそう言うとどこか寂しそうに口元を歪めた。
「戸籍上は、娘なんですが、あちらは親とは思っていないと思います」
「―—―?」
「あ、すみません。雫さんに自分の家庭のことを話しても仕方ないですよね」
仕方ないですよね、という宮原さんの言葉に少し傷つきながらもそれ以上は詮索することは止めておいた。
「あ、あの、私―—―」
からからん
すうっとした涼しい風と共にカウベルの音が鳴り、私は思わず目を細めた。
「あれ、お客さん?珍しいね」
響くような低い声に私はドアの方へ目をやった。
カーキ色のジャケットにベージュのズボンを履いた青年が立っていた。
眠いのか目がとろんとしており、大きなあくびをしながらゆっくりとこちらに歩いてきた。
「梶くん、久しぶりだね。試験は終わった?」
「うん、何とか。でもこれからエントリーシートに卒論のまとめもやっていかないと。色々とやることが山積み」
梶くんと呼ばれた青年は宮原さんの隣に座る私に視線を落とした。
「この店に来る奇特な客は俺ぐらいだと思ってたよ」
「失礼だな、でも、昨日から来てくれてるお客さまだよ。早速このお店で働いてくれないかって交渉しているんだ」
「この店で?夜11時から開く店で働くのってきついんじゃないの?」
「あ、でも、まだ働けるか分からなくて。親に訊いてみないと―――」
そう口にすると男性は一瞬にして嘲るような視線に変わった。
「いい大人なのに、自分の意思で働く働かないって決められないんだ?」
「―—―梶くん!」
男性の言葉よりも、急に声を上げた宮原さんに私は驚いて肩を震わせた。
「そういう自分の物差しで相手を判断しちゃ駄目だよ」
「……」
「あ、でも、その通りですから。実際、いい年なのに自分の意思で何も決められないし。変わらなくちゃって思うんですけど、ずっと外に出ることも難しくて……」
二人の視線に私はなかなか言葉を紡げずに下を向いてしまった。
「ゆっくりでいいんですよ。アルバイトのことも、無理だったらお客さまとしていらしてくれればいいし。お菓子のアドバイザーだけしてくれてもいいし、ヨルの遊び相手として来ていただくだけでも構いません」
「ヨル?ヨル来てるの?」
青年はぱっと顔色を変えて言った。
「梶くんはヨルが大好きだからね。でも、あまり頬ずりすると嫌がって逃げちゃうからね」
「……分かってるよ」
青年はテーブルの下や椅子の下とのぞき込み、あたりを歩き回りヨルを探している。
お店に入ってきた時は人が近づいてこないようぴりぴりとした空気を纏っていたが、ヨルと聞いた瞬間にその空気があきらかに和らいだ。
私もヨルがいると気分が高揚するので、その気持ちはよく分かる。
「宮原さん、早速今日帰ったら母に相談してみます。母には色々と人たちと話して色々な世界を知りなさいって背中を押されたんです。だから、きっと分かってくれると思うんです」
「そうですか。それは良かったです。応援してくれる家族がいてくれると心強いですよね」
「はい」
すとんと首元につかえていたものが落ちたようだった。
私は大丈夫。そう言い聞かせて前を見据えた。
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