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第十話
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ごとん、という強い力に押し付けられるように私は闇の底に落とされた。
誰かが後頭部を強く掴み、何の慈しみもなくその身を放り出され、私は声を上げることも出来なかった。
いつもはひんやりと心地よいほどの暗い昏い闇の底は、静謐で傲慢な欲がにたりと口を広げて私を待ち構えているようだった。
怖い怖い怖い―――
私は夢中で空を掴もうともがくが、それは徒労に終わり、どんどんと底のさらに仄暗い底の底へと誘われていくようだった。
《雫―—―》
誰かが呼ぶ声が聞こえる。
呼ぶ、声、誰を?
雫って、私の名前だった?
「―—―雫!」
覚醒させるのには十分なくらいの強い声に、私ははっと目を覚ました。
「大丈夫!?何かされたの?」
私が返事をせずにいると、母は私の様子に何か気付いたようだった。
「白檀の香り……あの人がこの家に来たのね?」
今まで見たことのないような悔しさに唇を嚙みしめる母に私は戸惑いながらもこくりと頷いた。
「雫、ごめんなさい。あなたを遅くまで一人にしてしまったせいね」
母はぎゅっと力強く私を抱きしめた。
「ごめんなさい、雫。でも、もう少しなのよ。もう少しで、あなたを助けられる……」
「お母さん……?」
母は顔を上げると、私の後方にある箪笥に目をやった。
箪笥の引き出しはいくつも開けっ放しで服も数枚あたりに散らかっていた。
「そう、雫は出かけようとしていたのね。昨日と同じ場所に」
「どうして分かるの?」
「分かるわよ。ずっと、守ってきたから」
母はじっと私を見つめると、何かを決心したように目を伏せた。
「……行ってきなさい。いえ、近くまでお母さんも行くわ。そこからは雫の好きにしなさい」
「いいの?」
「雫のように夜にしか生きられない世界もあるのよ。だったら、そこから無理やり脱しようとして自分を曲げることはない。その限られた世界に順応していけばいいのよ」
何年ぶりだろうか。
私は母と手をつないでゆっくりと夜の街を歩いていた。
母は遠くを見据えながら、足取りを合わせてくれていた。
私はまだまだ母の子供なのだ、と思うと何とも気恥ずかしい思いが湧き上がってきた。
昨夜はただ光の在処を夢中で無計画に探し回っていたが、今日は隣に母がいて、私はほんのりと浮かび上がる光の道を辿るだけなので心が急かされることはなかった。
母がいる心強さを感じたのも久しくなかったかもしれない。
「あ、この角を曲がった先の住宅地の中にあるの。【月夜の森】っていうブックカフェだった」
「そう―――」
母はぴたりと歩みを止め、私をゆっくりと見据えた。
「私は家に戻るけど、雫は納得するまでそこにいなさい。そこで、色々な人たちと色々な話をしてきなさい。今は闇の世界でしか生きられないかもしれないけど、そこには一筋の光が必ずあるって知ることが出来ると思うから」
「……うん」
「いってらっしゃい」
私は母の手を放し、そのまま前だけを見つめて歩き出した。
後方からは母の視線を感じているが、虚空を張り付けるような冷たいものではなかった。
隣には母はおらず、私一人だ。
だけど、自分を待ってくれている空間があると思わせてくれるだけで温かくて強い気持ちを手に入れられる。
からん
ドアを開くと同時にドアベルが鳴った。
昨日は付いてなかったように思えたが、雫はそのままゆっくりと店の中に入った。
音に気づいたのか、入り口付近から宮原さんが顔だけをひょこっと覗かせた。
「雫さん?来てくれたんですね」
「はい」
宮原さんの嬉しそうな声に、私の背筋にも力が入った。
「ドアベル、付けたんです。お客様が来ないだろうと仕事に没頭しちゃうと来客に気づかないことが多くて……」
宮原さんはお盆に何かを乗せて運んできた。
「今日は冷凍のパイシートでパイを作ってみたんです。こどもの日は過ぎちゃったんですけど、こいのぼりを象ってみたんです。良かったらいかがですか?」
「頂きたいです」
私は中央の席に着いた。
「昨日は遅くなっちゃいましたけど、大丈夫でしたか?」
「あ、大丈夫です。怒られることもなかったですし」
「そうですよね。雫さんも大人の女性ですものね。おうちの方もそう干渉はしないですよね」
「干渉……」
干渉、父が行っていることは行き過ぎた干渉なのだろうか。
「こいのぼりにキウイやバナナ、黄桃やみかんを乗せているんです。果物のアレルギーとかは大丈夫ですか?」
「果物は全部大好きです」
こいのぼりの目玉がこちらを見上げているようだった。
「こいのぼりの目玉はホイップクリームですか?」
「あ、そうです。クリームの上にチョコレート菓子が乗せてあるんです」
こいのぼりをフォークで刺す時に罪悪感を感じながらもそのままはむっと口に入れた。
「……美味しいです。チーズの味もする」
「マスカルポーネチーズもパイに挟んでいるんです」
こいのぼりはチーズの酸味とクリームの甘さにさくさくのパイの食感でとても美味しかった。
「来年はもっと早めにこいのぼりスイーツを考えないとですね。ロールケーキなんかも試作してみたいですね。雫さん、また味見してもらえますか?」
「ぜひしたいです」
来年の今頃もこの【月夜の森】に私は出入り出来ているのだろうか。
未来のことは分からない。
けれど、宮原さんと食べるこいのぼりパイの味を私は忘れないだろうと思う。
誰かが後頭部を強く掴み、何の慈しみもなくその身を放り出され、私は声を上げることも出来なかった。
いつもはひんやりと心地よいほどの暗い昏い闇の底は、静謐で傲慢な欲がにたりと口を広げて私を待ち構えているようだった。
怖い怖い怖い―――
私は夢中で空を掴もうともがくが、それは徒労に終わり、どんどんと底のさらに仄暗い底の底へと誘われていくようだった。
《雫―—―》
誰かが呼ぶ声が聞こえる。
呼ぶ、声、誰を?
雫って、私の名前だった?
「―—―雫!」
覚醒させるのには十分なくらいの強い声に、私ははっと目を覚ました。
「大丈夫!?何かされたの?」
私が返事をせずにいると、母は私の様子に何か気付いたようだった。
「白檀の香り……あの人がこの家に来たのね?」
今まで見たことのないような悔しさに唇を嚙みしめる母に私は戸惑いながらもこくりと頷いた。
「雫、ごめんなさい。あなたを遅くまで一人にしてしまったせいね」
母はぎゅっと力強く私を抱きしめた。
「ごめんなさい、雫。でも、もう少しなのよ。もう少しで、あなたを助けられる……」
「お母さん……?」
母は顔を上げると、私の後方にある箪笥に目をやった。
箪笥の引き出しはいくつも開けっ放しで服も数枚あたりに散らかっていた。
「そう、雫は出かけようとしていたのね。昨日と同じ場所に」
「どうして分かるの?」
「分かるわよ。ずっと、守ってきたから」
母はじっと私を見つめると、何かを決心したように目を伏せた。
「……行ってきなさい。いえ、近くまでお母さんも行くわ。そこからは雫の好きにしなさい」
「いいの?」
「雫のように夜にしか生きられない世界もあるのよ。だったら、そこから無理やり脱しようとして自分を曲げることはない。その限られた世界に順応していけばいいのよ」
何年ぶりだろうか。
私は母と手をつないでゆっくりと夜の街を歩いていた。
母は遠くを見据えながら、足取りを合わせてくれていた。
私はまだまだ母の子供なのだ、と思うと何とも気恥ずかしい思いが湧き上がってきた。
昨夜はただ光の在処を夢中で無計画に探し回っていたが、今日は隣に母がいて、私はほんのりと浮かび上がる光の道を辿るだけなので心が急かされることはなかった。
母がいる心強さを感じたのも久しくなかったかもしれない。
「あ、この角を曲がった先の住宅地の中にあるの。【月夜の森】っていうブックカフェだった」
「そう―――」
母はぴたりと歩みを止め、私をゆっくりと見据えた。
「私は家に戻るけど、雫は納得するまでそこにいなさい。そこで、色々な人たちと色々な話をしてきなさい。今は闇の世界でしか生きられないかもしれないけど、そこには一筋の光が必ずあるって知ることが出来ると思うから」
「……うん」
「いってらっしゃい」
私は母の手を放し、そのまま前だけを見つめて歩き出した。
後方からは母の視線を感じているが、虚空を張り付けるような冷たいものではなかった。
隣には母はおらず、私一人だ。
だけど、自分を待ってくれている空間があると思わせてくれるだけで温かくて強い気持ちを手に入れられる。
からん
ドアを開くと同時にドアベルが鳴った。
昨日は付いてなかったように思えたが、雫はそのままゆっくりと店の中に入った。
音に気づいたのか、入り口付近から宮原さんが顔だけをひょこっと覗かせた。
「雫さん?来てくれたんですね」
「はい」
宮原さんの嬉しそうな声に、私の背筋にも力が入った。
「ドアベル、付けたんです。お客様が来ないだろうと仕事に没頭しちゃうと来客に気づかないことが多くて……」
宮原さんはお盆に何かを乗せて運んできた。
「今日は冷凍のパイシートでパイを作ってみたんです。こどもの日は過ぎちゃったんですけど、こいのぼりを象ってみたんです。良かったらいかがですか?」
「頂きたいです」
私は中央の席に着いた。
「昨日は遅くなっちゃいましたけど、大丈夫でしたか?」
「あ、大丈夫です。怒られることもなかったですし」
「そうですよね。雫さんも大人の女性ですものね。おうちの方もそう干渉はしないですよね」
「干渉……」
干渉、父が行っていることは行き過ぎた干渉なのだろうか。
「こいのぼりにキウイやバナナ、黄桃やみかんを乗せているんです。果物のアレルギーとかは大丈夫ですか?」
「果物は全部大好きです」
こいのぼりの目玉がこちらを見上げているようだった。
「こいのぼりの目玉はホイップクリームですか?」
「あ、そうです。クリームの上にチョコレート菓子が乗せてあるんです」
こいのぼりをフォークで刺す時に罪悪感を感じながらもそのままはむっと口に入れた。
「……美味しいです。チーズの味もする」
「マスカルポーネチーズもパイに挟んでいるんです」
こいのぼりはチーズの酸味とクリームの甘さにさくさくのパイの食感でとても美味しかった。
「来年はもっと早めにこいのぼりスイーツを考えないとですね。ロールケーキなんかも試作してみたいですね。雫さん、また味見してもらえますか?」
「ぜひしたいです」
来年の今頃もこの【月夜の森】に私は出入り出来ているのだろうか。
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けれど、宮原さんと食べるこいのぼりパイの味を私は忘れないだろうと思う。
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