常闇の王の調べ

山神まつり

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第九話

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駅を出ると、祝日の早い時間帯にも関わらず駅前には人が溢れていた。
調たちが降り立った西口はパルコやイオンなどの商業施設がいくつも立ち並んでおり、外食チェーン店も多く出店している。変わって東口は図書館や市役所、市民ホールなどの公共施設や住宅街がメインの比較的閑静な街並みで形成されている。対極な街並みだが、遊ぶのと住むので特化しているのは、住民にとって住みやすいのだろう。
パルコは歩いて三分ほど先にある。そこに至るまで、イタリアンや中華など様々な店を通過するので、ついつい腹の虫が反応してしまう。今は早い時間帯のせいか、あまり食欲もわいていない。しかし、朝から営業しているカフェの前に置かれた看板などについつい目が行ってしまう。
「兄さん、朝ごはん食べたばかりなのに、もうお腹空いたの?」
「いや、そういうわけじゃないんだが、あまりこちらに来ることもないし、目新しい店には反応してしまうものだろう?」
「女子高生とかじゃないんだからさー僕は江本さんの美味しいご飯を兄さんと食べられるだけで十分幸せだよ」
律人は心底嬉しそうにそう答えた。他意は一切ないのだろう。調は何だか自身が与えられた幸せをきちんと享受しない人間であることを提示されたようで、あまりいい気持ちにならなかった。
パルコの白い建物が見えた時、後ろを歩いていた律人が「あっ」と急に声を上げた。
「どうしたんだ?」
「兄さん、ごめん。ちょっとそこに百円ショップがあるから寄ってもいい?」
「いいけど、何を買うんだ?」
「ふふ、内緒」
そのまま、律人は百円ショップに入った。珍しく早い時間帯に開いているな、と思ったらコンビニ内に設置されたショップだったようで、二十四時間営業しているらしい。調は特に買いたいものがなかったので、律人とは離れた場所で並べられた品々をそれとなく見ていた。
「おまたせ、兄さん」
律人は背中に何かを隠しているようだった。そして、
「じゃーん、これから僕だって誰も気づかないよね?」
やけに大仰に言い放った。律人は赤い縁の眼鏡を掛けていた。しかも、両目とも星形になっており、かなり奇妙な様相になっている。
「これ、この前テレビでどっかの司会者が受け狙いか何かで掛けてたんだよね。あまりもおかしいからあらためて僕が誰かとか気にする人は出てこないかと思って」
「……うーん、まぁ、律人が良ければそれでいい」
星形眼鏡の男はにかっと白い歯をむき出しに笑った。

パルコはまだ閉店前だったが、二階にまで続く階段を上ると大きな中庭が広がっており、好きに住民が入って寛いでいいスペースになっている。その端に少し古びたグランドピアノが置かれている。何でも、何年も前に廃校になった小学校のピアノをここに移動してきたという話だった。野ざらしだとピアノが痛んでしまうので、普段はパルコ内に仕舞われている。入口の守衛の人に言えば鍵を開けてもらえて、ピアノを外に動かすことが出来る。
「もっと駅構内とか、ビルの最上階とか置き場所を考えて設置すればいいのにね。いちいち移動させるのが不便だよ」
律人はブツブツ言いながら調とピアノを中庭に移動させた。キャスターがついているが、大人二人が一緒に押して動かせるほどの重さだ。
そして、まだパルコも営業していない時間帯なので、人の出入りも少ない。これなら思い切りピアノが弾けるだろう。
「じゃあ、兄さん。何か弾いてほしいのとかあったりする?」
急にリクエストが来たので、調はすぐに返事が出来ず考え込んでしまった。
「……幻想即興曲とか?」
「ショパンが最初に作った即興曲だね」
律人はすうっと息を吸うと、一度目を閉じた。そして、ゆっくりと両手を鍵盤に撫でるように添えた。
冒頭、力強いオクターブの響きから始まり、左手が流麗に奏でるアルペジオにのって右手が幻想的で即興的なフレーズを奏でる。中間部はがなりと曲想が変わり、詩情を伴った美しく繊細な旋律が響き渡る。そして、楽曲は再び冒頭の部分に戻り、美しい旋律が奏でられ静かに終曲をする。ピアノを習い始めて、少し上達してくると弾きたいと憧れる曲の代表だ。
調は今まで一度も律人のピアノを弾いている姿を見たことがなかった。コンクールにももちろん行ったことがない。父にも母にも誘われなかったというのもあるが、選ばれなかった自分が選ばれた者の音楽を目の当たりにしたところで、感銘を受けることはないと思ったからだ。これ以上、みじめな思いをしたくなかった。選ばれなかったら選ばれなかった者としての矜持くらいはある。目を背けて、自分の世界に閉じこもることこそが保身に繋がると疑いもしなかったあの頃。
だけど、今目の前で優雅に鍵盤を泳ぐ律人の姿を見ていると、その選択は間違いではなかっただろうかと思えてきた。保身が矜持がなんだ。ただ、素直に律人の音楽を体中に浴びて聞いて堪能すれば良かったのではないだろうか。
律人の音楽を聞いて、本人に「良かったよ」と感想を述べるだけで良かったんだ。
それだけで、こんなにも長い間、調自身も律人自身も自身の檻に閉じこもることなく、もっと早い段階で分かり合えていたんじゃないだろうか。
「―――兄さん?」
幻想即興曲が終わり、調はしばらく呆けたようにそこに佇んでいたようだった。
「……うん、凄く良かった。もっと律人の聞かせてほしい」
律人の表情は星形眼鏡のせいであまり読めないが、口元は嬉しそうに緩んでいた。
「ショパンだと幻想ボロネーズが人気が高いけど、僕は舟歌が好きかなぁ。十分近くあるからちょっと長いんだけど」
「聞かせてくれないか?」
「うん、分かった」
心地よい舟の揺れから始まり、目の前を水面の輝きがきらきらと輝いているかのようだった。舟は広い海に出たかと思えば、流れのほとんどないところへいったりと趣を変える。途中の転調で少し不安を思わせる流れに変わるが、始めよりも波が出てきて少しだけ舟が横に揺れている。その後も柔らかなゆったりとした揺れにうとうとと意識が飛びかけるが、急にさわやかな風が吹いてきて流れが出てきて明るい兆しを向ける。自身が舟に乗って旅をしているようだった。くるくると周りの景色が変わり、幻想的な世界へと飛び出していく感覚を呼び起こしてくれる。気づくと、律人の音色に惹かれてか何人もの人が中庭に集まってきていた。
星形眼鏡の明らかに不審な男が煌びやかな曲を奏でている姿が面白いのか、数人の人が携帯で写真を撮っていた。
舟旅が終わると、拍手喝采が巻き起こった。
舟歌(バルガローレ)に集中していたせいか、急に巻き起こった拍手に律人はびっくりしているようだった。照れたように頭を掻き、一礼をする。
その後は律人のお気に入りのジブリの曲を自分なりにアレンジしたものや、テレビで流れていたCMの曲を律人なりのオリジナル要素の解釈を加えて弾いたりと多彩な曲を披露した。
律人はとても楽しそうだ。ここでピアノを弾いている男が、コンクールでその名を世間に轟かせていた一ノ瀬律人だと知っているのは多分調だけだろう。誇らしく思うのと同時に、この才能をこの瞬間に亡きものとして葬り去っていいものかと懊悩せざるを得なかった。
だけど、律人の最後の舞台を見届けると約束したのだ。
自ら音楽の神を手放そうとしている律人の姿を目に焼き付けて、調は今までの功績を讃えて迎えようと思った。
観客が少しずつはけていくと、律人はゆっくりと椅子に座り直し、静かにピアノを見つめていた。徐に、ぽーんとドの音を弾いてから、体を大きく後ろに捻った。
「そんなに才能があるのに手放すなんて勿体ない―――って思った?」
「……いや、今はそうは思っていない」
「じゃあ、何て?」
「むしろ、今までよく頑張ったな、お疲れ様って労いたいと思う」
調の言葉に律人はくるっと体を前に向けた。そして、そのまま微かに肩を震わせた。
「そう、僕は頑張った。小さい頃からいろんなものを犠牲にしてあの人たちの言うとおりに音楽に打ち込んだ。最初は様々な表情を見せる音楽と向き合えるのがとても楽しかったよ。でも、自主的に音楽と向き合えなくなって、次第に苦しくなった。苦しくて苦しくて仕方がないのに、あの人たちは僕に強制的に音楽を背負わせようとする。それは善意でも何でもない。親のエゴが行き過ぎたむしろ悪意だよ」
律人は一気にそうまくし立てると、ふうっと大きく息を吐いた。
「音楽一家の賜物と言われるたびに、僕自身の功績を誰も見てくれていないと思ってた。兄さんだってそうだよ。僕の存在に気付いているはずなのに、見ない振りをした。誰も僕を救ってくれないと絶望してた」
「それは……」
「でも、ある時に周りの視線が羨望から畏怖に変わった時期があったんだ。僕に覚えはなかったけどね。母も急に僕に固執するのを止めた。ふっと肩の力が抜けたよ。でも、それを契機と思って篠が原の高等部の進学を辞退したよ。ああ、これで普通の人生を歩めると思って飛び上がるように嬉しかったね」
「そうだったのか。ずっと、律人は俺とは違う世界の人間だと思って、勝手に線引きしていたのかもしれない。苦しんでいたことに気付いてやれなくて申し訳なかった」
「ううん、もう終わったことだから。さっきはちょっと愚痴っちゃったけど。僕は今日こうして久々に鍵盤に触れてよかったよ。未練は全くなかったけれど、何のお別れの言葉もなく、離れてしまうのも少し心残りだったしね。よし、じゃあ、ピアノを仕舞って出かけようか。僕、兄さんと観たい映画があったんだよ」
「そうだな、じゃあ―――」
「一ノ瀬、一ノ瀬律人!」
絞り出すような声に、調と律人は声の方向を向いた。観客はすべていなくなっていたと思っていたが、小柄な少年がこちらを睨みつけるように見つめていた。
「律人、知り合いか?」
「あれは……」
少年は大股でこちらに近づいてくる。調は害を加えようとする可能性があると思い、律人を隠すように前に出た。
「兄さん、大丈夫。篠が原の時の同級生」
「え?」
「一ノ瀬だよな。そんな変な眼鏡を掛けていたって俺は気づいていたぞ。小さい頃からおまえとは切磋琢磨して耳がおかしくなるくらいに聞きまくっていた音だからな、間違いない。なんでこんなところで弾いているんだ?おまえは、こんなところでストリートピアノをやっている人間じゃないだろう?大きなコンクールに出て、今のような舟歌を披露するべき才能の持ち主だろう?」
「西窪、君は僕を買いかぶりすぎだよ。それに僕はもう普通科の高校に通い始めているし、今日で完全にピアノの弾き納めだから。戻ることはないよ」
「ふざけるな!俺は認めないぞ。おまえに勝つために毎日毎日血がにじむような努力をしてきたんだ。コンクールで、またお前と戦うために。もし、篠が原に戻りづらいんだったら、俺の父から許してもらうよう要望を出してもらうから―――」
「許してもらう?」
調の言葉に律人も心底分からないように首を傾げた。そして、もうそこに西窪という少年はいないかのようにピアノの椅子を片付け始めた。
「おい、一ノ瀬!」
「ごめん、西窪くんと言ったよな。俺は一ノ瀬律人の兄だが、許してもらうってどういうことなんだ?」
「……え?一ノ瀬から、話を聞いていないんですか?」
「本人は、覚えていないっていうんだ」
「お、覚えていない……?あれほどのことをして?」
西窪は唇を震わせて、怯えた顔をした。
「兄さん、早くしないと映画に間に合わないよ」
「ああ、西窪くん、ちょっと待っててくれ」
調は服のポケットから小さなメモ帳とペンを取り出した。外出先で何かあった時のために常に入れておいたのが功を奏した。
「これ、俺の携帯の連絡先。時間があるときに連絡をくれないか?篠が原で何があったのか、教えてほしい。あ、出来れば直接話を聞きたい」
調がメモを渡すと、西窪は困惑の表情を浮かべたが、こくりと小さく頷いた。
「兄さん!僕一人じゃピアノ動かせないよ」
「あ、ああ、すまない」
調と律人は二人でピアノを再度パルコに仕舞い、そのまま中庭を離れた。ぽつんと佇む西窪を律人は一瞥もしなかった。
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