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やさしいは罪の手
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人生で最も輝いていた瞬間を切り取られている姉は、私が知る中で、一番の笑顔をたたえてこちらを微動だにせず見つめている。
一年前にたくさんの人たちに盛大に祝福され、とても綺麗に着飾った姉は夫となる男性と腕を組んでバージンロードを歩いていた。まさか、その一年後に帰らぬ人になるとは誰も想像しえなかっただろう。
「若葉ちゃん、良かったらお茶を淹れるよ」
仏壇が置かれた隣の和室から義兄の創さんが姿を現した。スーツの上着を脱いでハンガーに掛けてきたようで、ワイシャツの袖を少し捲っていた。
「すみません、ありがとうございます」
私は正座にしていた足を少し崩し、姉の遺影を見やった。
姉は友人と食事をしてくるといって車で出かけたらしい。それが大体夜の六時過ぎ。創さんの携帯に一報が入ったのが夜の七時半近くで、ブレーキを踏むこともなく蛇行運転で歩道近くに建っていた電信柱に突っ込んだとのことだった。
幸いなことに、歩道に乗り上げることはなかったので他の怪我人を出すことはなかった。姉は頭や胸を強く打っていたようで、その場で死亡が確認された。
そして、姉が運転していた車には同乗者がいた。
姉の勤める広告会社の先輩社員にあたる、今岡という男性だった。
警察から遺留品を返してもらった時に姉が使っていた携帯電話もそのままの形で残っていた。何となく察知はついていたが、私が痕跡と思わしきメールのやり取りを一人で確認することになった。
「……今岡さんって人、奥さんも子供もいるみたいですけど、お姉ちゃんも知っていて付き合っていたみたいです」
創さんは「そうか」と小さく口にした。
何て嫌な奴だ、と思った。私自身がだ。多分、創さんは知っていたのだろう。死人に口なしとばかりに何も口に出来ない姉の所業を、ここであらためて言葉にすることではなかった。
今岡さんという男性は車に下半身を押しつぶされたことで神経に傷がつき、麻痺が残ってしまったらしい。杖をつきながらゆっくりと歩くことしか出来ないと、入院していた病院の理学療法士の人から聞いた。
創さんは今岡さんの家に連絡を入れ、今日の午前中に訪問する約束を取り付けていた。そのことを知ったのが前日の夜だったので、大学の講義を休んで私も一緒に行くことになった。
「今岡さんの家に謝罪に行くのだから、若葉ちゃんは別に来なくても大丈夫だよ」
「いえ、たった一人の姉の行動をきちんと把握できていなかった私にも責任はありますから」
今岡さんの家は都内に建つ白亜の一戸建てだった。駐車スペースには石畳が敷き詰められていて、境界フェンスの向こう側には青色の三輪車が置かれているのが見えた。
インターフォンを押すと、細い黒い縁の眼鏡を掛けた女性が顔を出した。
「主人は近くの公園に息子と出ています。良かったら中へどうぞ」
家の中は小さな子供がいるとは思えないくらいに綺麗に整えられていた。私が突っ立ている間に、創さんは奥さんに手土産の紙袋を渡していた。
「この度は、ご愁傷さまでした。まだ、色々と気持ちの整理も出来ていない時に、主人のことを気にかけていただいてすみません」
「いえ、こちらこそ、妻のことで大変ご迷惑をお掛けする形になってしまい―――」
「あの人にとって、いい薬になったと思っています」
私と創さんは無言で奥さんを見やる形になった。奥さんは表情を変えずに窓の外のベランダを見据えている。
「私と付き合っている時も、結婚をしてからも、主人の浮気癖は治りませんでした。息子が出来たら変わってくれるはず、とは思いましたが変わりませんでした。今回、奥様の一花さんにアプローチしたのも主人の方からでしたし、デートの約束を取り付けたのもこちらからでした。後遺症として若干体が不自由にはなりましたが、今後は負い目を感じながら家族のために頑張ってくれるんじゃないかと、思っています」
奥さんは口元に笑みをたたえながらそう口にした。
「これから、家族円満という形になるんでしょうか?」
今岡さんの家から戻り、私と創さんはお茶を飲みながら話をしていた。
「……どうだろうね。でも、今岡さんは受け入れてくれた家族に感謝しながら父として夫としてこれから長い人生励んでいくしかないし、その選択肢しか残されていないと思うよ」
私は伏せていた顔を上げて、創さんを見つめた。
最愛の妻を失った創さんは、いつもと変わらないように見える。憂い気で、何を考えているのか読み取れない。
昔から、創さんは、創先生はそんなミステリアスなところがあった。
「創さん、明日は日曜日だし、どこかに出かけませんか?私の家の近くにあるイタリアンが美味しいので良かったら……」
「若葉ちゃん、ごめん。ちょっと今日と明日は一人にしておいてもらっていいかな。一人で、一花と向き合いたい」
「……分かりました」
私はぺこっと一礼すると、そのまま足早に玄関まで走っていった。
私は、何をやっているんだろう。
慣れない黒のヒールを履いた所為か、爪先が痛んでしょうがなかった。
呼ばれてもいないのに、取ってつけたような理由で創さんについていって、ただただ今はどこにもいない姉の粗探しをしているだけ。
料理が得意で、誰にでも優しくて、いつも明るくて笑顔を振りまいている、名前の如く花のような姉を創さんが選ぶのも当たり前だ。
死んでもなお、姉は創さんの心にずっと棲み続けるのだろう。
じわり、と涙が溢れてくるの感じて強く袖で顔をこすった。
アパートの階段を上がると、部屋の前に誰かが座り込んでいた。
「……奏人」
「あーやっと帰ってきたか。今日、大学にいなかったからさ、どこにいったのかと思って」
「別に、関係ないじゃない」
「何だよ、つれないなぁ。ん?どっか出かけてた?何かお洒落してんじゃん」
「とにかく、今夜は帰ってよ」
がちゃがちゃ、と鍵を開けて急いで部屋の中に入ろうとすると、奏人は強く部屋のドアを掴み、私と一緒に部屋の中に入り込んできた。
「ちょっと!今夜は帰ってって言ったじゃな―――」
噛みつくように奏人が唇をふさいだ。ぬめっとした感触が口内に入り込んでくると、私は勢いよく奏人を突き飛ばした。
「やめてよ……今夜はそんな気分じゃないの」
「いつもそんなこと言って、結局欲しがるのは若葉じゃん」
奏人は首筋に唇を当てると、そのまま甘噛みを繰り返した。
創さんとの邂逅が汚されているようで、私は何度も奏人の胸を拳で叩いた。
こんなことをさせるためによそ行きの黒のワンピースを着たんじゃない。少しでも大人っぽい服を着たからといって、創さんが眩しそうに目を細めてくれるなんて期待なんてしていない。
創さんの目には、昔から姉しか映っていないことはよく知っている。
でもこの際、姉を通してでもいい、ほんの少しでもいいから私をその目に映してくれないだろうか。
「……なんでずっと黙ってんの?」
ワンピースを胸のあたりまで下ろされても何も言わない私を見上げながら、奏人は苛立たしげに呟いた。
唇を噛み締めながら目を伏せていると、ちっと舌打ちをして離れた。
「なーんか、一気に萎えたわ。抵抗するなら抵抗するで声を上げてくれるなら燃えたのに。折角来たのに意味ないじゃん」
「……出てって。ちゃんと美玖を大事にしてあげて」
「___はぁっ?別におまえに言われたくねぇし」
奏人は大きな音を立てて扉を閉めて出ていった。
偉そうなことを言いながら、私も友人の彼氏と何度も関係を持っているから最低だと思う。拒みながらも、心のどこかで奏人が自分に欲情していることに優越感と背徳感を同時に感じているのだろう。
求められたいのは、たった一人だけなのに。
着替えるのも億劫で、私はそのままベットの中に潜り込んだ。
昔の夢を見ていた。
もうもうと天まで伸びあがる火の柱から離れて、私と姉は防火衣を着た消防隊員の傍で呆然と立ち尽くしていた。
両親と四人で遊園地で遊んだ帰り道、逆走してきた軽乗用車と正面衝突をした。息も絶え絶えの母から外に出るよう促され、私たちはわずかな隙間を頼りに外に飛び出した。
燃え上がる車を目の前に、幼い頃の私はお祭りのようだと思った。
両親を亡くした私たちを祖母が引き取って育ててくれた。祖母はビルの清掃のアルバイトや工場勤務などをして必死に育ててくれた。誕生日ケーキなどは買えないため、見切り品のカステラに生クリームを塗ってろうそくを立ててお祝いした。私たち三人は身を寄せ合って暮らしていた。
月日は流れ、ある時姉が近所からすぐの公民館の無料の学習塾に通いたいと話してきた。当時中学生だった私たちは通うことにした。私は特に勉強に不自由していなかったが、一人で通うのは不安だという姉に付き添うことになった。
そこにいたのが、当時大学生だった創先生だった。
薄い黒い縁の眼鏡を掛けて、生徒たちの質問に淡々と答える姿はあまり取っつきやすい印象を受けなかった。むしろ、表情を変えないところが不気味にすら感じていた。だけど、クラスの男子が低レベルすぎて嫌だと口にしていた姉にとって、創先生はミステリアスで大人な印象を受けていたようだった。
姉は事あるごとに創先生を呼んで質問を繰り返した。時には訊く必要のないことも訊いては楽しそうに笑っていた。最初は、姉が手を挙げていると困ったように眉をひそめていたが、何度も姉と会話をするたびに頑なだった表情が緩んでいくようになった。
私は姉が嬌声を上げるたびに、心の中でじわっとした黒い影が漂うようになった。そして、創先生が近づいてくるたびにやたらと鼓動が早まっていくようになった。
始めから、私に視線を向けてくれることなんてなかったのに。
ある日、姉が風邪を引いたため、私一人だけが学習塾に行くことがあった。創先生は表情を変えずに、いつものように優しく丁寧に分からないところは的確に教えてくれた。だけど、姉のように自然な笑顔をたたえてくれることはなかった。私の言葉では、創先生の心の引き出しを開けることは出来なかった。
中学を卒業し、いつの間にか姉は創先生と付き合うようになっていた。私を交えて、三人で出掛けることもあったが、今思えば私と姉ばかりが会話をしていたように思う。創先生は、姉に問いかけられればきちんと返したが、雑談をすることが苦手だったようだった。
いつしか姉は創先生以外の男性とも一緒に出掛けるようになっていた。
創先生の許可を得ているのか分からないが、決して別れるようなことはなかった。姉の奔放さに辟易しながらも、姉を見捨てるようなことはしない創先生にやさしさを感じていた。
大学を卒業すると、社会人になるのと同時に姉は創先生―—―いや、佐久間創さんと結婚をして正式な妻となった。
育ててくれた祖母は私が大学生になるのと同時くらいに亡くなり、結婚式には姉側の親族は私ぐらいだった。創さん側も、姉との結婚を反対していた両親は参列しなかったので、少人数のこじんまりとした結婚式を挙げた。
好き勝手に創さんを振り回してきた姉は、創さんととても幸せそうに並んでいた。
その隣に自分が立つことのできない悔しさや悲しさは心の奥底に閉じ込めて、私は笑顔でずっと拍手をし続けた。
「お姉ちゃん……」
目を開けると、見慣れた天井が飛び込んできた。気付くと、首のあたりが湿っていた。いつの間にか夢を見ながら涙が零れてしまったらしい。
私はゆっくりとベットから起き上がると、そのまま重い体を引きずってお風呂まで歩いて行った。簡単にシャワーを浴びると、濡れた髪の毛のままソファーに倒れこんだ。酷くお腹が空いていた。深い悲しみの淵に突き落とされていても、空腹感を感じることに思わず自嘲の笑みがこぼれた。
「……しょうがないよね、私は生きているんだから」
冷蔵庫を開けると卵とベーコンがあったので、ベーコンエッグを作ることにした。焼きあがるまでの間、残っていたスティックパンを齧りながらお湯を沸かす。大学三年生になり、段々と授業数も減ってきたので開いている時間はバイトにつぎ込んでいる。ファミレスとクリーニング屋の掛け持ちをして、ぎりぎりだけど何とか一人で生活出来ている。
コーヒーを飲みながらぼんやりしていると、スマホが点滅していることに気づいた。
【昨夜、今岡さんから頂いたお菓子を渡し忘れていたので、時間がある時に取りに来てください】
創さんからLINEが来ていたことに飛びつき、私はすぐに返信をした。
【夕方までバイトが入っているので、終わり次第そちらに向かいます】
実家に行く口実が出来たことに胸をなでおろし、私はすぐに溜まった家事に取り掛かった。
夜の六時頃、私は実家の扉の前に立っていた。
「いらっしゃい。日持ちするお菓子だから、来週とかでも大丈夫だったのに」
「いえ、明日からまた創さんもお仕事だし、早めに受け取った方がいいと思ったので」
リビングに入ると、窓際に洗濯物が雑然と置かれていた。テーブルの上も物が散乱していて食事が取れるような状態じゃなかった。あらためて、仕事をしながら家のこともこなしていた姉に尊敬の念を抱かずにはいられなかった。そして、この散らかった部屋の状態に何も感じていないのか、何も言わず創さんはキッチンの方から紙袋を取り出してきた。
「僕は甘いものが苦手でね、一花は好きだったんだけど、どうせダメにしてしまうんだったら、若葉ちゃんに食べてもらおうかと思って」
「ありがとうございます。創さん、その前にちょっとこの部屋の物を動かすことを許してもらってもいいですか?」
「……それは、別に構わないけど」
私はシンクに溜まっていた食器などを洗い、テーブルに置かれたものを空いた棚や引き出しなどに仕舞った。祖母と姉とずっと三人で住んでいた家のことだ。大体の置き場所は把握していた。創さんは特に何も口にせず、私が動く様を見つめていた。
部屋が綺麗になると、創さんは目を瞬かせてあたりをきょろきょろと見まわした。
「一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった……」
創さんの言葉に私はくすっと思わず声を漏らした、
「ついでではあるんですが、煮豚を作ってきました。煮卵とあわせて食べたら美味しいので良かったら食べてみてください。……じゃあ、私はこれで」
私は紙袋を手に早々に玄関に向かった。姉を失ったばかりの家に長居されてもいい気持ちはしないだろう。少しだけでも顔が見れたので、それだけで満足だ。
靴ひもを結んでいると、「ちょっと待って」と声が掛かった。
「……自分から一人になりたいと言ったのに、一人が寂しくて仕方ないんだ。若葉ちゃんが良かったら、もう少し一緒にいてくれないか?」
私はゆっくりと振り返り、所在なさげに立ち尽くす創さんを見上げた。
「私で良かったら。それじゃあ、一緒に煮豚を食べましょうか」
創さんはぱあっと表情を明るくした。こんな子供のような表情豊かな創さんを見るのは初めてだった。姉には日常的に向けていたのかと思うと、妬ましい気持ちがふつふつと湧いてくる。
でも、今は私を求めてくれている。それが何よりも真実だ。
生前、姉は一緒に外に出ると借りてきた猫のように大人しい人だと評していた。家では最愛の人と二人きりになれるので、最大限に甘えることができたのだろう。実家から絶縁された男と、たった一人の妹しか身寄りのいない姉は身を寄り添って生きてきた。
その姉もいなくなり、普段から人と交流することが少ない創さんは頼れる人がいなくて心細いのだろう。
だったら、私がその拠り所になればいい。
姉になることは出来なくても、創さんのために家をきれいにしておいしいご飯を作って待つことは出来る。
私を通して姉を見つめていたとしても、傍にいることができるのならば、喜んで受け入れよう。
(ずっと我慢していたんだから、それぐらいは許してくれるよね)
創さんの背中に抱き着きたいのをぐっとこらえて、私は涼しい顔のままキッチンへ向かった。
厚手のカーテンを開き、まだ日が昇る前の薄暗い外を見つめた。
姉の使っていた深紅のボーダーのエプロンを身に着け、私はフライパンと鍋を取り出した。
空気がひんやりとして、しんと静まり返っている朝の始まりのこの時間帯が私は好きだ。無音の世界に自分だけが動いていることに妙な優越感を覚えてしまう。
今朝は卵とハムときゅうりのサンドイッチを作ろう。高校の数学教師として勤めている創さんには鮭と昆布のおにぎりを握った。あまり昼ご飯にたくさん食べると午後に眠たくなってしまうらしいので控えめに。
「おはよう……若葉ちゃん早いね」
「創さん、おはようございます。ご飯、出来てますよ」
創さんは寝ぐせで頭がぼさぼさだったが、隠すこともせずにキッチンを覗き込んだ。
「お昼ご飯まで……本当にありがとう。若葉ちゃんもこれから講義があるのに、本当に申し訳ない」
「いいんですよ。自分自身のお昼ご飯も一緒に用意をしたので。ついでです」
創さんのために一生懸命用意した、なんて言わない。あくまで、ついでと念押しすることに意味がある。
創さんと向かい合って朝食をとる。創さんは最近、うっすらとだが嬉しかったり楽しかったりすると笑みを浮かべるようになった。大きな進歩だと思う。
「今日もなるべく早めに帰るようにするよ。いってきます」
「いってらっしゃい」
私は小さく手を振った。
あの後、私は一人暮らししていた部屋を出て、実家に戻ってきた。
一緒に暮らしませんか?と提案すると、創さんは一瞬ためらうような表情を向けたが頷いてくれた。そして、創さんに今後好きな人が出来たり、私に出て行って欲しくなったらちゃんと言ってほしいことも告げた。
押しつけがましい愛情は重いだけなので、一時的なもので構わないと言っておけば創さんも罪悪感などに縛られることはないだろう。
私はあくまで最愛の人の妹という立場のままで構わないのだ。
大学の講義が終わると、外のベンチで一人昼食をとっていた。創さんも同じものを食べていると考えるだけで幸せに感じる。
ふと、視線を感じて顔を上げると頬に強い衝撃を浴びた。その勢いで、せっかく作った昆布のおにぎりが床に転げ落ちてしまった。
「なんで殴られたかは、自分が一番分かってるよね」
肩を震わせて、目に強い怒りを滲ませた女性が立っていた。周りに数人の友人たちが囲んでいる。
「美玖……」
「最近、やたらと約束はすっぽかすし、LINEも返してくれないから誰か別の女がいるとは思っていたけど、あんただったとはね!」
いつかこの日が来るとは思っていた。美玖が悲しむことはわかっていたのに、抗うことをせずに奏人の訪問を撥ね退けることをしなかった。
「あんたみたいな地味な女、奏人から行くとは思わないからどうせ無理やり誘ったんでしょ?姉も不倫して事故死して、姉妹そろってビッチじゃん!恥ずかしくないわけ?」
「若葉、何とか言いなよー」
「今更言い訳しても無駄だと思うけどー」
くすくすと下卑た笑い声に、私は俯いたままだった。酷くのどが渇いていた。
「とにかく、もうあんたのことは友達とは思わないから。学部であんたの噂は持ちきりだと思うよ。居場所がなくなって大変だね」
何も言わない私に痺れを切らしたのか、そのまま美玖たちは離れていった。騒ぎに何人かはこちらを見やりながらひそひそと話していたが、私は残ったおにぎりを食べずにその場を離れた。
バイトの帰りに近くのスーパーで買い物をし、家路についた。
近所の人から頂いた白菜がたくさん余っているので、今夜は白菜のクリームシチューにしよう。
まだ創さんは帰っていないようなので、急いで作ろう。野菜を取り出し、ルーを探している内にキッチンの奥にある引き出しに目をとめた。
姉の事故に関して、警察の人と話している時に妙なことを聞いた。歩道の電信柱に衝突する際に横を通った通行人の人が証言をしていたことだ。姉は衝突をする寸前には、すでにハンドルに顔を突っ伏していた。つまり、気を失っていたというのだ。ハンドルを切り返す措置もせず、ブレーキ痕も現場になかった。
キッチンの奥の引き出しを開けると、通帳や印鑑のさらに奥に1シートの薬がジップロックに入ったまま今も置かれている。誰にも気づかれないよう隠されているようだ。前に、家の片づけをしている際に目に入ってきた。
調べてみると、非ベンゾジアゼピン系睡眠薬の即効性があるタイプのものだった。1錠分だけ使用されているというのも不可解だ。
ずっと、創さんのやさしさに甘えながら別れることはなく浮き名を流し続けた姉。
そんな姉を創さんは愛し続けた。愛し続けて愛し続けて愛しているが故に、どうしても姉の長年の奔放な行いを許すことができなかったのかもしれない。
がちゃがちゃ、と鍵を開ける音がして、私はあわてて引き出しを閉めた。
創さんはシチューを美味しそうに食べている。ビーフシチューよりクリームシチューの方が好きだと、姉が話していたことを思い出したからだ。
「若葉ちゃん、大学にアルバイトまでしてるのに、ご飯まで作ってもらって本当に申し訳ない。テストが近いから、なかなか早く帰ってこれなくて」
「大丈夫ですよ。誰かのために料理をするのが好きなので。何か食べたいものがあったら遠慮なく言ってくださいね」
「うん、ありがとう」
創さんは人参が少し苦手らしい。だけど、残さないよう少しずつ食べている。その様がうさぎのようで、私は思わず笑みが漏れた。
贖罪のように、こうしてご飯を作ったところで私が美玖や奏人にしてきたことは許されることではないだろう。傷つけて苦しめて、きちんと真実を見据えようとしない私を姉は眉間にしわを寄せて恨みがましい目で見下ろしているのかもしれない。
だけど、私は今ここにある幸せだけを享受したい。ずっとずっと手に入れたかった日常を私だけのものにしたい。
それが、周りから非常識だと罵られようとも。
「若葉ちゃん?どうしたの?」
「え……?」
私は笑みを浮かべながら、いつの間にかはらはらと涙を零していた。
創さんは触れていいのかためらっていたが、そっと私の頬に指をあてた。ひんやりとした感触が、じわりと指先から段々と熱を帯びていく。
私はその指に自分の指をからめた。創さんは何も言わずに見つめていた。
この手が罪に濡れていたとしても、離さずに、ずっと傍にいたい。
私はそのまま強く頬に押し当てて、目を閉じた。
一年前にたくさんの人たちに盛大に祝福され、とても綺麗に着飾った姉は夫となる男性と腕を組んでバージンロードを歩いていた。まさか、その一年後に帰らぬ人になるとは誰も想像しえなかっただろう。
「若葉ちゃん、良かったらお茶を淹れるよ」
仏壇が置かれた隣の和室から義兄の創さんが姿を現した。スーツの上着を脱いでハンガーに掛けてきたようで、ワイシャツの袖を少し捲っていた。
「すみません、ありがとうございます」
私は正座にしていた足を少し崩し、姉の遺影を見やった。
姉は友人と食事をしてくるといって車で出かけたらしい。それが大体夜の六時過ぎ。創さんの携帯に一報が入ったのが夜の七時半近くで、ブレーキを踏むこともなく蛇行運転で歩道近くに建っていた電信柱に突っ込んだとのことだった。
幸いなことに、歩道に乗り上げることはなかったので他の怪我人を出すことはなかった。姉は頭や胸を強く打っていたようで、その場で死亡が確認された。
そして、姉が運転していた車には同乗者がいた。
姉の勤める広告会社の先輩社員にあたる、今岡という男性だった。
警察から遺留品を返してもらった時に姉が使っていた携帯電話もそのままの形で残っていた。何となく察知はついていたが、私が痕跡と思わしきメールのやり取りを一人で確認することになった。
「……今岡さんって人、奥さんも子供もいるみたいですけど、お姉ちゃんも知っていて付き合っていたみたいです」
創さんは「そうか」と小さく口にした。
何て嫌な奴だ、と思った。私自身がだ。多分、創さんは知っていたのだろう。死人に口なしとばかりに何も口に出来ない姉の所業を、ここであらためて言葉にすることではなかった。
今岡さんという男性は車に下半身を押しつぶされたことで神経に傷がつき、麻痺が残ってしまったらしい。杖をつきながらゆっくりと歩くことしか出来ないと、入院していた病院の理学療法士の人から聞いた。
創さんは今岡さんの家に連絡を入れ、今日の午前中に訪問する約束を取り付けていた。そのことを知ったのが前日の夜だったので、大学の講義を休んで私も一緒に行くことになった。
「今岡さんの家に謝罪に行くのだから、若葉ちゃんは別に来なくても大丈夫だよ」
「いえ、たった一人の姉の行動をきちんと把握できていなかった私にも責任はありますから」
今岡さんの家は都内に建つ白亜の一戸建てだった。駐車スペースには石畳が敷き詰められていて、境界フェンスの向こう側には青色の三輪車が置かれているのが見えた。
インターフォンを押すと、細い黒い縁の眼鏡を掛けた女性が顔を出した。
「主人は近くの公園に息子と出ています。良かったら中へどうぞ」
家の中は小さな子供がいるとは思えないくらいに綺麗に整えられていた。私が突っ立ている間に、創さんは奥さんに手土産の紙袋を渡していた。
「この度は、ご愁傷さまでした。まだ、色々と気持ちの整理も出来ていない時に、主人のことを気にかけていただいてすみません」
「いえ、こちらこそ、妻のことで大変ご迷惑をお掛けする形になってしまい―――」
「あの人にとって、いい薬になったと思っています」
私と創さんは無言で奥さんを見やる形になった。奥さんは表情を変えずに窓の外のベランダを見据えている。
「私と付き合っている時も、結婚をしてからも、主人の浮気癖は治りませんでした。息子が出来たら変わってくれるはず、とは思いましたが変わりませんでした。今回、奥様の一花さんにアプローチしたのも主人の方からでしたし、デートの約束を取り付けたのもこちらからでした。後遺症として若干体が不自由にはなりましたが、今後は負い目を感じながら家族のために頑張ってくれるんじゃないかと、思っています」
奥さんは口元に笑みをたたえながらそう口にした。
「これから、家族円満という形になるんでしょうか?」
今岡さんの家から戻り、私と創さんはお茶を飲みながら話をしていた。
「……どうだろうね。でも、今岡さんは受け入れてくれた家族に感謝しながら父として夫としてこれから長い人生励んでいくしかないし、その選択肢しか残されていないと思うよ」
私は伏せていた顔を上げて、創さんを見つめた。
最愛の妻を失った創さんは、いつもと変わらないように見える。憂い気で、何を考えているのか読み取れない。
昔から、創さんは、創先生はそんなミステリアスなところがあった。
「創さん、明日は日曜日だし、どこかに出かけませんか?私の家の近くにあるイタリアンが美味しいので良かったら……」
「若葉ちゃん、ごめん。ちょっと今日と明日は一人にしておいてもらっていいかな。一人で、一花と向き合いたい」
「……分かりました」
私はぺこっと一礼すると、そのまま足早に玄関まで走っていった。
私は、何をやっているんだろう。
慣れない黒のヒールを履いた所為か、爪先が痛んでしょうがなかった。
呼ばれてもいないのに、取ってつけたような理由で創さんについていって、ただただ今はどこにもいない姉の粗探しをしているだけ。
料理が得意で、誰にでも優しくて、いつも明るくて笑顔を振りまいている、名前の如く花のような姉を創さんが選ぶのも当たり前だ。
死んでもなお、姉は創さんの心にずっと棲み続けるのだろう。
じわり、と涙が溢れてくるの感じて強く袖で顔をこすった。
アパートの階段を上がると、部屋の前に誰かが座り込んでいた。
「……奏人」
「あーやっと帰ってきたか。今日、大学にいなかったからさ、どこにいったのかと思って」
「別に、関係ないじゃない」
「何だよ、つれないなぁ。ん?どっか出かけてた?何かお洒落してんじゃん」
「とにかく、今夜は帰ってよ」
がちゃがちゃ、と鍵を開けて急いで部屋の中に入ろうとすると、奏人は強く部屋のドアを掴み、私と一緒に部屋の中に入り込んできた。
「ちょっと!今夜は帰ってって言ったじゃな―――」
噛みつくように奏人が唇をふさいだ。ぬめっとした感触が口内に入り込んでくると、私は勢いよく奏人を突き飛ばした。
「やめてよ……今夜はそんな気分じゃないの」
「いつもそんなこと言って、結局欲しがるのは若葉じゃん」
奏人は首筋に唇を当てると、そのまま甘噛みを繰り返した。
創さんとの邂逅が汚されているようで、私は何度も奏人の胸を拳で叩いた。
こんなことをさせるためによそ行きの黒のワンピースを着たんじゃない。少しでも大人っぽい服を着たからといって、創さんが眩しそうに目を細めてくれるなんて期待なんてしていない。
創さんの目には、昔から姉しか映っていないことはよく知っている。
でもこの際、姉を通してでもいい、ほんの少しでもいいから私をその目に映してくれないだろうか。
「……なんでずっと黙ってんの?」
ワンピースを胸のあたりまで下ろされても何も言わない私を見上げながら、奏人は苛立たしげに呟いた。
唇を噛み締めながら目を伏せていると、ちっと舌打ちをして離れた。
「なーんか、一気に萎えたわ。抵抗するなら抵抗するで声を上げてくれるなら燃えたのに。折角来たのに意味ないじゃん」
「……出てって。ちゃんと美玖を大事にしてあげて」
「___はぁっ?別におまえに言われたくねぇし」
奏人は大きな音を立てて扉を閉めて出ていった。
偉そうなことを言いながら、私も友人の彼氏と何度も関係を持っているから最低だと思う。拒みながらも、心のどこかで奏人が自分に欲情していることに優越感と背徳感を同時に感じているのだろう。
求められたいのは、たった一人だけなのに。
着替えるのも億劫で、私はそのままベットの中に潜り込んだ。
昔の夢を見ていた。
もうもうと天まで伸びあがる火の柱から離れて、私と姉は防火衣を着た消防隊員の傍で呆然と立ち尽くしていた。
両親と四人で遊園地で遊んだ帰り道、逆走してきた軽乗用車と正面衝突をした。息も絶え絶えの母から外に出るよう促され、私たちはわずかな隙間を頼りに外に飛び出した。
燃え上がる車を目の前に、幼い頃の私はお祭りのようだと思った。
両親を亡くした私たちを祖母が引き取って育ててくれた。祖母はビルの清掃のアルバイトや工場勤務などをして必死に育ててくれた。誕生日ケーキなどは買えないため、見切り品のカステラに生クリームを塗ってろうそくを立ててお祝いした。私たち三人は身を寄せ合って暮らしていた。
月日は流れ、ある時姉が近所からすぐの公民館の無料の学習塾に通いたいと話してきた。当時中学生だった私たちは通うことにした。私は特に勉強に不自由していなかったが、一人で通うのは不安だという姉に付き添うことになった。
そこにいたのが、当時大学生だった創先生だった。
薄い黒い縁の眼鏡を掛けて、生徒たちの質問に淡々と答える姿はあまり取っつきやすい印象を受けなかった。むしろ、表情を変えないところが不気味にすら感じていた。だけど、クラスの男子が低レベルすぎて嫌だと口にしていた姉にとって、創先生はミステリアスで大人な印象を受けていたようだった。
姉は事あるごとに創先生を呼んで質問を繰り返した。時には訊く必要のないことも訊いては楽しそうに笑っていた。最初は、姉が手を挙げていると困ったように眉をひそめていたが、何度も姉と会話をするたびに頑なだった表情が緩んでいくようになった。
私は姉が嬌声を上げるたびに、心の中でじわっとした黒い影が漂うようになった。そして、創先生が近づいてくるたびにやたらと鼓動が早まっていくようになった。
始めから、私に視線を向けてくれることなんてなかったのに。
ある日、姉が風邪を引いたため、私一人だけが学習塾に行くことがあった。創先生は表情を変えずに、いつものように優しく丁寧に分からないところは的確に教えてくれた。だけど、姉のように自然な笑顔をたたえてくれることはなかった。私の言葉では、創先生の心の引き出しを開けることは出来なかった。
中学を卒業し、いつの間にか姉は創先生と付き合うようになっていた。私を交えて、三人で出掛けることもあったが、今思えば私と姉ばかりが会話をしていたように思う。創先生は、姉に問いかけられればきちんと返したが、雑談をすることが苦手だったようだった。
いつしか姉は創先生以外の男性とも一緒に出掛けるようになっていた。
創先生の許可を得ているのか分からないが、決して別れるようなことはなかった。姉の奔放さに辟易しながらも、姉を見捨てるようなことはしない創先生にやさしさを感じていた。
大学を卒業すると、社会人になるのと同時に姉は創先生―—―いや、佐久間創さんと結婚をして正式な妻となった。
育ててくれた祖母は私が大学生になるのと同時くらいに亡くなり、結婚式には姉側の親族は私ぐらいだった。創さん側も、姉との結婚を反対していた両親は参列しなかったので、少人数のこじんまりとした結婚式を挙げた。
好き勝手に創さんを振り回してきた姉は、創さんととても幸せそうに並んでいた。
その隣に自分が立つことのできない悔しさや悲しさは心の奥底に閉じ込めて、私は笑顔でずっと拍手をし続けた。
「お姉ちゃん……」
目を開けると、見慣れた天井が飛び込んできた。気付くと、首のあたりが湿っていた。いつの間にか夢を見ながら涙が零れてしまったらしい。
私はゆっくりとベットから起き上がると、そのまま重い体を引きずってお風呂まで歩いて行った。簡単にシャワーを浴びると、濡れた髪の毛のままソファーに倒れこんだ。酷くお腹が空いていた。深い悲しみの淵に突き落とされていても、空腹感を感じることに思わず自嘲の笑みがこぼれた。
「……しょうがないよね、私は生きているんだから」
冷蔵庫を開けると卵とベーコンがあったので、ベーコンエッグを作ることにした。焼きあがるまでの間、残っていたスティックパンを齧りながらお湯を沸かす。大学三年生になり、段々と授業数も減ってきたので開いている時間はバイトにつぎ込んでいる。ファミレスとクリーニング屋の掛け持ちをして、ぎりぎりだけど何とか一人で生活出来ている。
コーヒーを飲みながらぼんやりしていると、スマホが点滅していることに気づいた。
【昨夜、今岡さんから頂いたお菓子を渡し忘れていたので、時間がある時に取りに来てください】
創さんからLINEが来ていたことに飛びつき、私はすぐに返信をした。
【夕方までバイトが入っているので、終わり次第そちらに向かいます】
実家に行く口実が出来たことに胸をなでおろし、私はすぐに溜まった家事に取り掛かった。
夜の六時頃、私は実家の扉の前に立っていた。
「いらっしゃい。日持ちするお菓子だから、来週とかでも大丈夫だったのに」
「いえ、明日からまた創さんもお仕事だし、早めに受け取った方がいいと思ったので」
リビングに入ると、窓際に洗濯物が雑然と置かれていた。テーブルの上も物が散乱していて食事が取れるような状態じゃなかった。あらためて、仕事をしながら家のこともこなしていた姉に尊敬の念を抱かずにはいられなかった。そして、この散らかった部屋の状態に何も感じていないのか、何も言わず創さんはキッチンの方から紙袋を取り出してきた。
「僕は甘いものが苦手でね、一花は好きだったんだけど、どうせダメにしてしまうんだったら、若葉ちゃんに食べてもらおうかと思って」
「ありがとうございます。創さん、その前にちょっとこの部屋の物を動かすことを許してもらってもいいですか?」
「……それは、別に構わないけど」
私はシンクに溜まっていた食器などを洗い、テーブルに置かれたものを空いた棚や引き出しなどに仕舞った。祖母と姉とずっと三人で住んでいた家のことだ。大体の置き場所は把握していた。創さんは特に何も口にせず、私が動く様を見つめていた。
部屋が綺麗になると、創さんは目を瞬かせてあたりをきょろきょろと見まわした。
「一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった……」
創さんの言葉に私はくすっと思わず声を漏らした、
「ついでではあるんですが、煮豚を作ってきました。煮卵とあわせて食べたら美味しいので良かったら食べてみてください。……じゃあ、私はこれで」
私は紙袋を手に早々に玄関に向かった。姉を失ったばかりの家に長居されてもいい気持ちはしないだろう。少しだけでも顔が見れたので、それだけで満足だ。
靴ひもを結んでいると、「ちょっと待って」と声が掛かった。
「……自分から一人になりたいと言ったのに、一人が寂しくて仕方ないんだ。若葉ちゃんが良かったら、もう少し一緒にいてくれないか?」
私はゆっくりと振り返り、所在なさげに立ち尽くす創さんを見上げた。
「私で良かったら。それじゃあ、一緒に煮豚を食べましょうか」
創さんはぱあっと表情を明るくした。こんな子供のような表情豊かな創さんを見るのは初めてだった。姉には日常的に向けていたのかと思うと、妬ましい気持ちがふつふつと湧いてくる。
でも、今は私を求めてくれている。それが何よりも真実だ。
生前、姉は一緒に外に出ると借りてきた猫のように大人しい人だと評していた。家では最愛の人と二人きりになれるので、最大限に甘えることができたのだろう。実家から絶縁された男と、たった一人の妹しか身寄りのいない姉は身を寄り添って生きてきた。
その姉もいなくなり、普段から人と交流することが少ない創さんは頼れる人がいなくて心細いのだろう。
だったら、私がその拠り所になればいい。
姉になることは出来なくても、創さんのために家をきれいにしておいしいご飯を作って待つことは出来る。
私を通して姉を見つめていたとしても、傍にいることができるのならば、喜んで受け入れよう。
(ずっと我慢していたんだから、それぐらいは許してくれるよね)
創さんの背中に抱き着きたいのをぐっとこらえて、私は涼しい顔のままキッチンへ向かった。
厚手のカーテンを開き、まだ日が昇る前の薄暗い外を見つめた。
姉の使っていた深紅のボーダーのエプロンを身に着け、私はフライパンと鍋を取り出した。
空気がひんやりとして、しんと静まり返っている朝の始まりのこの時間帯が私は好きだ。無音の世界に自分だけが動いていることに妙な優越感を覚えてしまう。
今朝は卵とハムときゅうりのサンドイッチを作ろう。高校の数学教師として勤めている創さんには鮭と昆布のおにぎりを握った。あまり昼ご飯にたくさん食べると午後に眠たくなってしまうらしいので控えめに。
「おはよう……若葉ちゃん早いね」
「創さん、おはようございます。ご飯、出来てますよ」
創さんは寝ぐせで頭がぼさぼさだったが、隠すこともせずにキッチンを覗き込んだ。
「お昼ご飯まで……本当にありがとう。若葉ちゃんもこれから講義があるのに、本当に申し訳ない」
「いいんですよ。自分自身のお昼ご飯も一緒に用意をしたので。ついでです」
創さんのために一生懸命用意した、なんて言わない。あくまで、ついでと念押しすることに意味がある。
創さんと向かい合って朝食をとる。創さんは最近、うっすらとだが嬉しかったり楽しかったりすると笑みを浮かべるようになった。大きな進歩だと思う。
「今日もなるべく早めに帰るようにするよ。いってきます」
「いってらっしゃい」
私は小さく手を振った。
あの後、私は一人暮らししていた部屋を出て、実家に戻ってきた。
一緒に暮らしませんか?と提案すると、創さんは一瞬ためらうような表情を向けたが頷いてくれた。そして、創さんに今後好きな人が出来たり、私に出て行って欲しくなったらちゃんと言ってほしいことも告げた。
押しつけがましい愛情は重いだけなので、一時的なもので構わないと言っておけば創さんも罪悪感などに縛られることはないだろう。
私はあくまで最愛の人の妹という立場のままで構わないのだ。
大学の講義が終わると、外のベンチで一人昼食をとっていた。創さんも同じものを食べていると考えるだけで幸せに感じる。
ふと、視線を感じて顔を上げると頬に強い衝撃を浴びた。その勢いで、せっかく作った昆布のおにぎりが床に転げ落ちてしまった。
「なんで殴られたかは、自分が一番分かってるよね」
肩を震わせて、目に強い怒りを滲ませた女性が立っていた。周りに数人の友人たちが囲んでいる。
「美玖……」
「最近、やたらと約束はすっぽかすし、LINEも返してくれないから誰か別の女がいるとは思っていたけど、あんただったとはね!」
いつかこの日が来るとは思っていた。美玖が悲しむことはわかっていたのに、抗うことをせずに奏人の訪問を撥ね退けることをしなかった。
「あんたみたいな地味な女、奏人から行くとは思わないからどうせ無理やり誘ったんでしょ?姉も不倫して事故死して、姉妹そろってビッチじゃん!恥ずかしくないわけ?」
「若葉、何とか言いなよー」
「今更言い訳しても無駄だと思うけどー」
くすくすと下卑た笑い声に、私は俯いたままだった。酷くのどが渇いていた。
「とにかく、もうあんたのことは友達とは思わないから。学部であんたの噂は持ちきりだと思うよ。居場所がなくなって大変だね」
何も言わない私に痺れを切らしたのか、そのまま美玖たちは離れていった。騒ぎに何人かはこちらを見やりながらひそひそと話していたが、私は残ったおにぎりを食べずにその場を離れた。
バイトの帰りに近くのスーパーで買い物をし、家路についた。
近所の人から頂いた白菜がたくさん余っているので、今夜は白菜のクリームシチューにしよう。
まだ創さんは帰っていないようなので、急いで作ろう。野菜を取り出し、ルーを探している内にキッチンの奥にある引き出しに目をとめた。
姉の事故に関して、警察の人と話している時に妙なことを聞いた。歩道の電信柱に衝突する際に横を通った通行人の人が証言をしていたことだ。姉は衝突をする寸前には、すでにハンドルに顔を突っ伏していた。つまり、気を失っていたというのだ。ハンドルを切り返す措置もせず、ブレーキ痕も現場になかった。
キッチンの奥の引き出しを開けると、通帳や印鑑のさらに奥に1シートの薬がジップロックに入ったまま今も置かれている。誰にも気づかれないよう隠されているようだ。前に、家の片づけをしている際に目に入ってきた。
調べてみると、非ベンゾジアゼピン系睡眠薬の即効性があるタイプのものだった。1錠分だけ使用されているというのも不可解だ。
ずっと、創さんのやさしさに甘えながら別れることはなく浮き名を流し続けた姉。
そんな姉を創さんは愛し続けた。愛し続けて愛し続けて愛しているが故に、どうしても姉の長年の奔放な行いを許すことができなかったのかもしれない。
がちゃがちゃ、と鍵を開ける音がして、私はあわてて引き出しを閉めた。
創さんはシチューを美味しそうに食べている。ビーフシチューよりクリームシチューの方が好きだと、姉が話していたことを思い出したからだ。
「若葉ちゃん、大学にアルバイトまでしてるのに、ご飯まで作ってもらって本当に申し訳ない。テストが近いから、なかなか早く帰ってこれなくて」
「大丈夫ですよ。誰かのために料理をするのが好きなので。何か食べたいものがあったら遠慮なく言ってくださいね」
「うん、ありがとう」
創さんは人参が少し苦手らしい。だけど、残さないよう少しずつ食べている。その様がうさぎのようで、私は思わず笑みが漏れた。
贖罪のように、こうしてご飯を作ったところで私が美玖や奏人にしてきたことは許されることではないだろう。傷つけて苦しめて、きちんと真実を見据えようとしない私を姉は眉間にしわを寄せて恨みがましい目で見下ろしているのかもしれない。
だけど、私は今ここにある幸せだけを享受したい。ずっとずっと手に入れたかった日常を私だけのものにしたい。
それが、周りから非常識だと罵られようとも。
「若葉ちゃん?どうしたの?」
「え……?」
私は笑みを浮かべながら、いつの間にかはらはらと涙を零していた。
創さんは触れていいのかためらっていたが、そっと私の頬に指をあてた。ひんやりとした感触が、じわりと指先から段々と熱を帯びていく。
私はその指に自分の指をからめた。創さんは何も言わずに見つめていた。
この手が罪に濡れていたとしても、離さずに、ずっと傍にいたい。
私はそのまま強く頬に押し当てて、目を閉じた。
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