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夢の天使
幸せになるべき人々
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飲んでも飲んでも、喉が渇いて仕方ない。食事を摂っているはずなのに、まるで満たされない。まあこれくらい、今までの不調に比べればなんでもない。そう思って過ごして1週間が経った頃だ。
「痛っ」
一緒に料理をしていると、母が指を切ってしまった。深くはないが、血が出ている。隣で鍋を混ぜていた蝶子は急いで絆創膏を持ってこようとした。そう、したのだ。意識はそう動こうと思っている。それなのに、彼女の赤茶色の瞳は、ただ真っ赤な血に釘付けだった。
「蝶ちゃん? どうしたの?」
「えっ、あ、いや、なんでもない! あ、絆創膏持って来るから、ママは水で傷口洗ってね」
薬などが入っている棚を開けながら、蝶子は心臓がバクバクと胸を叩いているのが分かった。今何を考えた?
(今……勿体無いって、思った?)
まさか。そんな感情はない。気のせいだ。血を欲しがるだなんて、まるでアニメや漫画に出る吸血鬼みたいじゃないか。
しかし否定すればするほど、体は渇きを訴える。夜に寝られないほどだ。その晩も、そっと部屋を抜け出してキッチンで水を飲む。何度も、何杯も。少しも喉は潤わないが、部屋に戻ってベッドに腰掛ける。その時、部屋の鏡に居る自分と目が合った。
「あれ、僕の目、こんな色だったっけ」
少し薄めの茶色だった。なのに今はそこに赤色が混ざっている。恐る恐る、口を開けてみた。そこには、八重歯と呼ぶには獣にあるような鋭い牙があった。
蝶子は慌てて口を手で押さえて隠す。
(嘘だ、嘘だ! 本当に、人間じゃなくなったっ?)
そう考えると、欲は素直に顔を出してくる。血が欲しい。人間の、新鮮な血が欲しい。蝶子は囁く自分の声に頭を抑えてしゃがみ込む。
耐えなければ。そうだ、具合が悪いふりをしよう。2人を悲しませるが、そうでもしないと、顔を合わせれば襲ってしまう。だが蝶子の考えは甘かった。寝込むという理由も、医者を受け入れなければ異常と見られる。彼女は大病を患った体だから、余計にだ。
鍵をかけた。最終手段だ。もう何日両親の顔を見れていないだろう。寂しい。
「蝶子、お願いだ、1度でいいから開けてくれ」
「蝶ちゃん……! 無事な顔を見せて……っ」
ただひたすら、蝶子は耳を塞いで自分に怯えるしかできない。
ドン! と激しい音が鳴った。体をびくつかせ、音が鳴ったドアの方を見る。またドン! と鳴り響くたび、鍵が揺れた。壊そうとしているのだ。家は広く豪華でも、比較的年代がある。だからきっと、いくら頑丈に作っていても、木製のドアが壊れるのは時間の問題だ。
蝶子は焦り、慌ててベッドから出ると悩んだ。咄嗟に窓の重たいカーテンを開けて、鍵を開ける。だが単純な作業なのに、急いだせいで中々上手く開けられない。窓が厳重で、鍵が2つあるせいだ。
バキッという鈍い音に、父と母の声が混ざった。ドアが蹴破られたのだ。振り返った蝶子に、母が抱き付く。
「蝶ちゃん、良かったぁ!」
「すまない、蝶子。どうしても」
蝶子の涙が流れる真っ赤な瞳に、父が気づく。その瞬間、妻と娘は赤く染まった。
血の匂いが、蝶子を興奮させる。過去に何度も吐いたから嫌悪しているはずの鉄臭い赤が、どうしてこんなにも甘く、愛しいのか。体を離して欲しい。そう思いながらも、蝶子は泣きながらしがみつく母を抱きしめ、乱暴に血を貪った。止めに入った父にも、抱き付くように襲いかかる。
甘い。美味しい。ああ、喉が潤う。欲しかった物だ。やっと満たされた。
自我を取り戻した頃、部屋も自分も真っ赤だった。呆然とした顔に涙が流れ落ちる。
「パパ、ママ……?」
か細い声が、地面に横たわる二人を呼ぶ。母の赤くなった肩を揺り動かすと、手にポタポタと涙が落ちた。赤い。拭った顔も赤くて、鋭い牙が見える唇なんて、まるでルージュでも塗ったかのようだ。妙に鮮やかな口が、引きつって歪な笑顔を作る。
「なんで……僕はっ」
「──美味しかった?」
鈴が転がるような、可愛らしい少女の声がした。聞き覚えのある声に、蝶子は勢いよく振り返る。窓辺に腰を下ろして幼なげに笑うのは、やはりあの晩に現れた天使を名乗る少女。蝶子の赤茶の瞳が、まるで怒りを表すように赤く染まる。しかし彼女は、力無さげにふらふらと立ち上がった。
数歩天使に歩み寄り、跪くように両膝を折る。天使は元気の無い様子を心底不思議そうに眺めた。
「どうしたの?」
「母と、父を、殺しました」
「うん、そうみたいだね? 見ていたけど、お腹が空いてたんでしょ? 仕方ないわ」
仕方ない? 何を言っているんだろうか。2人の大切な命を奪ったというのに。
無邪気に笑う天使の笑顔は可愛らしいのに、まるで悪魔のようだ。
「でも、疲れないでしょ? その体、病気もしないし。ね、どう?」
「違う、僕はこんなふうになりたかったんじゃない!」
「そんな事言われても困るわ。だってその体は、貴女が望んでなったのよ?」
「じ、じゃあ、元に戻してくださいっ……!」
「無理よ。言ったじゃない、一度わたしに預けたら、二度と戻らないって」
蝶子は「そんな」と呟き、絶望するように顔を俯かせる。天使はどうしてそんなに悲しむのか、よく分からないと言った様子で首をかしげるばかりだ。
「人間って、本当悲観的よね。願いが叶ったんだから喜べばいいのに。殺したと言っても、ただ遺伝子を受け継いだだけの他人じゃない」
天使にとって人間の家族というものは、ただの遺伝子や血にすぎない。どれだけ愛溢れた姿を見ても、彼らには分からないのだ。しかし天使も嘘は言っていない。石を取り込み、願いを叶えたあと、その体がどうなるかは人間次第なのだ。
天使は窓からふわりと降り立ち、力無く項垂れている蝶子の頬を包んで上げさせる。そして花咲く笑顔を見せた。
「これから、幸せになるんだよ。あ……狩人には気をつけてね? あなたの核は、貴重だから」
じゃあねと手を振り、天使は空へ帰って行った。外は晴天で、太陽が宝石みたいにキラキラして見える。まともに太陽を見たのは初めてで、のんきに綺麗だと、蝶子は思った。変わらずこの部屋は甘美な血の匂いが漂っている。
ああ、これは一体なんだろう。どうしてこんな事になったんだろう。誰が悪い? 自分にとって、生きたいという願いは許されなかったみたいだ。
「神様……僕が望んだ事は、そんなに罪ですか?」
そこから先は、正直覚えていない。ただ漠然と、死なないといけないといけないと思った。幸せになんてなる資格はない。だけど最期に、故郷の日本に帰りたかった──。
「……日本をたくさん見て、しばらくしたら、どうにかして、終わろうと思ってました。そこで、リーベ君に会ったんです」
話していると、勝手に涙が溢れてやまない。貰ったティッシュで鼻をかむ蝶子の言葉に、リーベは彼女が「急いでいる」と言っていたのを思い出した。
「教えてくれてありがとう、チョウコ君。その天使、ずいぶんとイタズラがすぎるようだ。事前に止められなかったのを、キミに詫びたい」
「えっいや、僕はただ……僕が、悪いから」
「キミは優しい子だね。だが、勘違いしてはいけない。キミは少しも悪くない」
そう呟くリーラからは、激しい嫌悪と殺意が漏れていた。いつもと変わらずその口は弧を描いているが、紫の目だけは笑っていない。蝶子は「でも」と言いかけたが、素人でも分かるような突き刺さる感情に、言葉を詰まらせた。
「悪いのは、キミの願いを利用した天使だ」
蝶子は優しい言葉に苦しそうに、目線を下げた。
そうは言っても、蝶子は愛した2人を手にかけた。それは事実だ。彼女にとって、これまでにないほどのトラウマとなって苦しめるだろう。性格上、自分を責め続ける。
リーラは拳をぎゅっと握る蝶子に、ふと表情を緩める。腰を上げるとクローゼットの鍵を開けた。服が入っていると思っていた中が暗闇である事に、蝶子は驚いている。そんな彼女に、黒い手袋をした手が差し出された。
「おいで。キミに、見せたいものがある」
「え、は、はい」
「教会に行くのか?」
「ああ」
「わーい!」
「私も行こっかな」
リーベは嬉しそうに天と手を繋ぐ。蝶子は「教会?」と首をかしげながら恐る恐る、大きくも女性らしい手を取った。慣れている天たちを先に行かせ、リーラは「失礼」と言いながら、蝶子の細い腰に手を回した。突然の事に、彼女は体を岩のように固めた。
「ひゃわっ?」
「逸れるとまずいからね。窮屈だろうが、少しの間、我慢しておくれ」
「い、一生でも構いません」
「ははは、キミは面白い事を言うね」
リーラはカラカラ笑い、せーのと掛け声をかけてクローゼットの霧へ飛び込んだ。
思わず息を止めて目も閉じていた蝶子は、リーラに「着いたよ」と言われて、慎重に目蓋を開けた。そこは美しいステンドグラスが色鮮やかな光の影を作る、小さな教会。クローゼットの先に広がった光景とは思えず、ただ唖然とした。
「ここは、保護した人々が暮らしてる孤児院の教会だよ」
「え、え? でも、クローゼットの」
「フランスの狩人代表が魔女でね。好意で空間を繋げてもらっているんだ」
「ま、魔女」
「まあ、少しずつ慣れていってくれたまえ」
そんな事を言われても、頭の中はぐるぐるしていて大混乱だ。目が回りそうな蝶子の手を、心配そうにリーベが握る。「大丈夫か?」と顔を覗かれ、ぎこちなく頷いた。
今までの生活の中で、目の前に広がる光景や聞く話は、全てが現実味を持たない。しかし夢でも幻覚でもないのだと、なんとか言い聞かせた。
導かれるままに、隅っこにあるドアを進む。そこは大広間で、たくさんの子どもたちが各々の時間を過ごしていた。蝶子がポカンとしていると、子どもたちがリーラに気付いて笑顔を見せる。
「リーラだ~!」
「アマもいる!」
「リーベ、あーそーぼ!」
途端に3人は子どもたちに囲まれた。呆気に取られた蝶子は、揉まれながら部屋の中に弾き出される形で脱出する。すると、絵本を読んでいた2人の少女と目が合った。そっくりな顔は、一目で双子だと分かる。しかし片方の少女に違和感があった。
彼女たちは顔を見合わせ、可愛らしく微笑む。
「新しい子? こんにちは!」
「こんにちは、お姉ちゃん」
「え、いや僕は」
「わたしベティーナ!」
「わたしアーダって言うの」
「あ、えっと、蝶子。君たちも、テンシ、なの?」
「そーだよ~」
「わたしがテンシだよ~」
「アーダはお人形なの!」
2人はアハハと笑う。アーダを見た時の違和感の理由が分かった。絵本のページを捲る手も、球体が関節の役割を示している。蝶子はまともに相槌を打てないまま、周囲を見渡してみた。誰もがみんな、確かに人間とは違う、同胞の感覚があった。
こんなにテンシが居るのか。いや、そんな事よりも、こんなにたくさんの子どもが天使に願いを叶えてもらわなければならない状況だったのか。
「まあ貴女、大丈夫?」
揉まれて追い出された姿勢のままでいた蝶子に、包帯を所々に巻いた女性が手を差し伸べる。握った手も包帯に巻かれていて、なんだか握った感覚が不思議だ。
「ありがとう、ございます……あの」
「私はカルラよ。ドイツで保護されたの。貴女は日本の子ね? 英語が上手だわ。よろしくね」
「僕は、蝶子です。でも僕、両親を、殺して……それで」
ごにょごにょと言葉を濁らせる蝶子に、カルラは「あら」と驚いた顔を一瞬する。だが彼女はすぐに微笑み、小さく震える手を両手で包んだ。
「私は夫を殺したわ」
「え?」
「夫は暴力的な人でね。毎日お祈りをしていたら、天使が来たの。そうしたら、こんな体になってしまったわ」
「やあカルラ、突然来てすまないね。レーレは居るかな?」
「ええ、医務室にいらっしゃいますわ」
リーラは人間より耳がいい。子どもたちに囲まれながらでも、2人の小さな会話は少しだけ聞こえていた。蝶子の戸惑う表情の理由も分かっている。
天にリーベを任せ、リーラは蝶子に「歩きながら話そう」と、廊下に促す。蝶子は部屋を一瞥し、小さく頷いた。
しばらく、長い廊下を踏む踵の音だけが響いている。蝶子はカルラやアーダたち、そして楽しげな保護の子たちを思い出していた。
「双子の両親はあまり優しくなくてね、アーダは、ベティーナを守るために、人形となった。あの子の歯は、人間の骨も噛み砕く」
「……、……」
「カルラの体は触れれば最後、細菌に感染して死に至る。みんな、あらゆる形で罪を犯した。絶望から脱するために。それでもキミは、彼らが幸せになるべきではないと、思うかい?」
蝶子は足元に視線を落とし、小さく首を横に振った。みんな幸せになるために、足掻くために、誤った力を手に入れたのか。自分と同じように。
「ワタシは天使が嫌いなわけじゃない。キミらのような純粋な願いを、楽園化のために利用する奴らが許せないんだ。まあ、こんな英雄を気取ってはいるが、ワタシも個人的な事情があって狩人になっているわけだがね」
彼らを保護すると決めたのだって、優しくしようとした善意からではない。自分への慰めに近かった。だが少しでもその土台を作る手助けをしたいのは、心からの気持ち。そのためにリーラは金を惜しまないし、時間も注ぎ込む。
「リーベだってそうだよ? あの子はワタシの手を取るのを選んだ。だからワタシは後悔させない。何故ならあの子たちはみんな、幸せになるためにここに居るのだから。さあ、キミはどうかな?」
リーラは治療室の前で立ち止まり、蝶子に振り返ると手を差し伸べた。
「痛っ」
一緒に料理をしていると、母が指を切ってしまった。深くはないが、血が出ている。隣で鍋を混ぜていた蝶子は急いで絆創膏を持ってこようとした。そう、したのだ。意識はそう動こうと思っている。それなのに、彼女の赤茶色の瞳は、ただ真っ赤な血に釘付けだった。
「蝶ちゃん? どうしたの?」
「えっ、あ、いや、なんでもない! あ、絆創膏持って来るから、ママは水で傷口洗ってね」
薬などが入っている棚を開けながら、蝶子は心臓がバクバクと胸を叩いているのが分かった。今何を考えた?
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「あれ、僕の目、こんな色だったっけ」
少し薄めの茶色だった。なのに今はそこに赤色が混ざっている。恐る恐る、口を開けてみた。そこには、八重歯と呼ぶには獣にあるような鋭い牙があった。
蝶子は慌てて口を手で押さえて隠す。
(嘘だ、嘘だ! 本当に、人間じゃなくなったっ?)
そう考えると、欲は素直に顔を出してくる。血が欲しい。人間の、新鮮な血が欲しい。蝶子は囁く自分の声に頭を抑えてしゃがみ込む。
耐えなければ。そうだ、具合が悪いふりをしよう。2人を悲しませるが、そうでもしないと、顔を合わせれば襲ってしまう。だが蝶子の考えは甘かった。寝込むという理由も、医者を受け入れなければ異常と見られる。彼女は大病を患った体だから、余計にだ。
鍵をかけた。最終手段だ。もう何日両親の顔を見れていないだろう。寂しい。
「蝶子、お願いだ、1度でいいから開けてくれ」
「蝶ちゃん……! 無事な顔を見せて……っ」
ただひたすら、蝶子は耳を塞いで自分に怯えるしかできない。
ドン! と激しい音が鳴った。体をびくつかせ、音が鳴ったドアの方を見る。またドン! と鳴り響くたび、鍵が揺れた。壊そうとしているのだ。家は広く豪華でも、比較的年代がある。だからきっと、いくら頑丈に作っていても、木製のドアが壊れるのは時間の問題だ。
蝶子は焦り、慌ててベッドから出ると悩んだ。咄嗟に窓の重たいカーテンを開けて、鍵を開ける。だが単純な作業なのに、急いだせいで中々上手く開けられない。窓が厳重で、鍵が2つあるせいだ。
バキッという鈍い音に、父と母の声が混ざった。ドアが蹴破られたのだ。振り返った蝶子に、母が抱き付く。
「蝶ちゃん、良かったぁ!」
「すまない、蝶子。どうしても」
蝶子の涙が流れる真っ赤な瞳に、父が気づく。その瞬間、妻と娘は赤く染まった。
血の匂いが、蝶子を興奮させる。過去に何度も吐いたから嫌悪しているはずの鉄臭い赤が、どうしてこんなにも甘く、愛しいのか。体を離して欲しい。そう思いながらも、蝶子は泣きながらしがみつく母を抱きしめ、乱暴に血を貪った。止めに入った父にも、抱き付くように襲いかかる。
甘い。美味しい。ああ、喉が潤う。欲しかった物だ。やっと満たされた。
自我を取り戻した頃、部屋も自分も真っ赤だった。呆然とした顔に涙が流れ落ちる。
「パパ、ママ……?」
か細い声が、地面に横たわる二人を呼ぶ。母の赤くなった肩を揺り動かすと、手にポタポタと涙が落ちた。赤い。拭った顔も赤くて、鋭い牙が見える唇なんて、まるでルージュでも塗ったかのようだ。妙に鮮やかな口が、引きつって歪な笑顔を作る。
「なんで……僕はっ」
「──美味しかった?」
鈴が転がるような、可愛らしい少女の声がした。聞き覚えのある声に、蝶子は勢いよく振り返る。窓辺に腰を下ろして幼なげに笑うのは、やはりあの晩に現れた天使を名乗る少女。蝶子の赤茶の瞳が、まるで怒りを表すように赤く染まる。しかし彼女は、力無さげにふらふらと立ち上がった。
数歩天使に歩み寄り、跪くように両膝を折る。天使は元気の無い様子を心底不思議そうに眺めた。
「どうしたの?」
「母と、父を、殺しました」
「うん、そうみたいだね? 見ていたけど、お腹が空いてたんでしょ? 仕方ないわ」
仕方ない? 何を言っているんだろうか。2人の大切な命を奪ったというのに。
無邪気に笑う天使の笑顔は可愛らしいのに、まるで悪魔のようだ。
「でも、疲れないでしょ? その体、病気もしないし。ね、どう?」
「違う、僕はこんなふうになりたかったんじゃない!」
「そんな事言われても困るわ。だってその体は、貴女が望んでなったのよ?」
「じ、じゃあ、元に戻してくださいっ……!」
「無理よ。言ったじゃない、一度わたしに預けたら、二度と戻らないって」
蝶子は「そんな」と呟き、絶望するように顔を俯かせる。天使はどうしてそんなに悲しむのか、よく分からないと言った様子で首をかしげるばかりだ。
「人間って、本当悲観的よね。願いが叶ったんだから喜べばいいのに。殺したと言っても、ただ遺伝子を受け継いだだけの他人じゃない」
天使にとって人間の家族というものは、ただの遺伝子や血にすぎない。どれだけ愛溢れた姿を見ても、彼らには分からないのだ。しかし天使も嘘は言っていない。石を取り込み、願いを叶えたあと、その体がどうなるかは人間次第なのだ。
天使は窓からふわりと降り立ち、力無く項垂れている蝶子の頬を包んで上げさせる。そして花咲く笑顔を見せた。
「これから、幸せになるんだよ。あ……狩人には気をつけてね? あなたの核は、貴重だから」
じゃあねと手を振り、天使は空へ帰って行った。外は晴天で、太陽が宝石みたいにキラキラして見える。まともに太陽を見たのは初めてで、のんきに綺麗だと、蝶子は思った。変わらずこの部屋は甘美な血の匂いが漂っている。
ああ、これは一体なんだろう。どうしてこんな事になったんだろう。誰が悪い? 自分にとって、生きたいという願いは許されなかったみたいだ。
「神様……僕が望んだ事は、そんなに罪ですか?」
そこから先は、正直覚えていない。ただ漠然と、死なないといけないといけないと思った。幸せになんてなる資格はない。だけど最期に、故郷の日本に帰りたかった──。
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話していると、勝手に涙が溢れてやまない。貰ったティッシュで鼻をかむ蝶子の言葉に、リーベは彼女が「急いでいる」と言っていたのを思い出した。
「教えてくれてありがとう、チョウコ君。その天使、ずいぶんとイタズラがすぎるようだ。事前に止められなかったのを、キミに詫びたい」
「えっいや、僕はただ……僕が、悪いから」
「キミは優しい子だね。だが、勘違いしてはいけない。キミは少しも悪くない」
そう呟くリーラからは、激しい嫌悪と殺意が漏れていた。いつもと変わらずその口は弧を描いているが、紫の目だけは笑っていない。蝶子は「でも」と言いかけたが、素人でも分かるような突き刺さる感情に、言葉を詰まらせた。
「悪いのは、キミの願いを利用した天使だ」
蝶子は優しい言葉に苦しそうに、目線を下げた。
そうは言っても、蝶子は愛した2人を手にかけた。それは事実だ。彼女にとって、これまでにないほどのトラウマとなって苦しめるだろう。性格上、自分を責め続ける。
リーラは拳をぎゅっと握る蝶子に、ふと表情を緩める。腰を上げるとクローゼットの鍵を開けた。服が入っていると思っていた中が暗闇である事に、蝶子は驚いている。そんな彼女に、黒い手袋をした手が差し出された。
「おいで。キミに、見せたいものがある」
「え、は、はい」
「教会に行くのか?」
「ああ」
「わーい!」
「私も行こっかな」
リーベは嬉しそうに天と手を繋ぐ。蝶子は「教会?」と首をかしげながら恐る恐る、大きくも女性らしい手を取った。慣れている天たちを先に行かせ、リーラは「失礼」と言いながら、蝶子の細い腰に手を回した。突然の事に、彼女は体を岩のように固めた。
「ひゃわっ?」
「逸れるとまずいからね。窮屈だろうが、少しの間、我慢しておくれ」
「い、一生でも構いません」
「ははは、キミは面白い事を言うね」
リーラはカラカラ笑い、せーのと掛け声をかけてクローゼットの霧へ飛び込んだ。
思わず息を止めて目も閉じていた蝶子は、リーラに「着いたよ」と言われて、慎重に目蓋を開けた。そこは美しいステンドグラスが色鮮やかな光の影を作る、小さな教会。クローゼットの先に広がった光景とは思えず、ただ唖然とした。
「ここは、保護した人々が暮らしてる孤児院の教会だよ」
「え、え? でも、クローゼットの」
「フランスの狩人代表が魔女でね。好意で空間を繋げてもらっているんだ」
「ま、魔女」
「まあ、少しずつ慣れていってくれたまえ」
そんな事を言われても、頭の中はぐるぐるしていて大混乱だ。目が回りそうな蝶子の手を、心配そうにリーベが握る。「大丈夫か?」と顔を覗かれ、ぎこちなく頷いた。
今までの生活の中で、目の前に広がる光景や聞く話は、全てが現実味を持たない。しかし夢でも幻覚でもないのだと、なんとか言い聞かせた。
導かれるままに、隅っこにあるドアを進む。そこは大広間で、たくさんの子どもたちが各々の時間を過ごしていた。蝶子がポカンとしていると、子どもたちがリーラに気付いて笑顔を見せる。
「リーラだ~!」
「アマもいる!」
「リーベ、あーそーぼ!」
途端に3人は子どもたちに囲まれた。呆気に取られた蝶子は、揉まれながら部屋の中に弾き出される形で脱出する。すると、絵本を読んでいた2人の少女と目が合った。そっくりな顔は、一目で双子だと分かる。しかし片方の少女に違和感があった。
彼女たちは顔を見合わせ、可愛らしく微笑む。
「新しい子? こんにちは!」
「こんにちは、お姉ちゃん」
「え、いや僕は」
「わたしベティーナ!」
「わたしアーダって言うの」
「あ、えっと、蝶子。君たちも、テンシ、なの?」
「そーだよ~」
「わたしがテンシだよ~」
「アーダはお人形なの!」
2人はアハハと笑う。アーダを見た時の違和感の理由が分かった。絵本のページを捲る手も、球体が関節の役割を示している。蝶子はまともに相槌を打てないまま、周囲を見渡してみた。誰もがみんな、確かに人間とは違う、同胞の感覚があった。
こんなにテンシが居るのか。いや、そんな事よりも、こんなにたくさんの子どもが天使に願いを叶えてもらわなければならない状況だったのか。
「まあ貴女、大丈夫?」
揉まれて追い出された姿勢のままでいた蝶子に、包帯を所々に巻いた女性が手を差し伸べる。握った手も包帯に巻かれていて、なんだか握った感覚が不思議だ。
「ありがとう、ございます……あの」
「私はカルラよ。ドイツで保護されたの。貴女は日本の子ね? 英語が上手だわ。よろしくね」
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「私は夫を殺したわ」
「え?」
「夫は暴力的な人でね。毎日お祈りをしていたら、天使が来たの。そうしたら、こんな体になってしまったわ」
「やあカルラ、突然来てすまないね。レーレは居るかな?」
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しばらく、長い廊下を踏む踵の音だけが響いている。蝶子はカルラやアーダたち、そして楽しげな保護の子たちを思い出していた。
「双子の両親はあまり優しくなくてね、アーダは、ベティーナを守るために、人形となった。あの子の歯は、人間の骨も噛み砕く」
「……、……」
「カルラの体は触れれば最後、細菌に感染して死に至る。みんな、あらゆる形で罪を犯した。絶望から脱するために。それでもキミは、彼らが幸せになるべきではないと、思うかい?」
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「ワタシは天使が嫌いなわけじゃない。キミらのような純粋な願いを、楽園化のために利用する奴らが許せないんだ。まあ、こんな英雄を気取ってはいるが、ワタシも個人的な事情があって狩人になっているわけだがね」
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