テンシを狩る者

小枝 唯

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蠱毒のテンシ

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 雑な猿ぐつわのせいで、閉まらない口から勝手に涎が垂れる。どくは屈辱に耐えながらも、連れてこられた地面に横たわっていた。隣に置かれた袋には、切り取られた手足が入っている。
 ここまで運んできたカラスは、主人であるリーラの元へ帰って行った。それまで目隠しをされていたが、床に下ろされたところで初めて外される。

(どこだ、ここ……っ?)

 室内であるのは分かるが、暗くて状況が掴めない。しかし不思議な事に、部屋に入った瞬間体にあった痛みがなくなっていた。
 リーラは、マスターの所へ連れて行くと言っていた。彼と会うのは、スカウトされた時以来だろうか。何ら変哲のない格好をした彼が組織を束ねると聞いて、最初は驚いた。いや、今でも半信半疑だ。人の良さそうな優男。そんな印象が強い彼が、刺されても平然としているような化け物を従えられるとは思わない。
 薄暗い中、一人の足が目の前に立った。そしてすぐ、芋虫のような視線を、マスターがしゃがんで覗き込む。親しみのある笑顔だが、目蓋は変わらず閉じられていた。

「久しぶりだね、独君」
「う……ぅっ」
「あぁ、そのままじゃ喋れないな」

 マスターは思い出したように、独の口からタオルを外した。独は空気と唾液が気管に入ったのか、苦しげに咳き込んだ。

「ここは、どこだっ」
「俺の家さ。正確には、家の地下。これから君に、三つの質問をする。生涯最後の質問になるだろう」
「は……?」
「君は強さを求めた。それは悪い事じゃない。この職業に就いている子は、俺も含めてみんな、何かしらに執着しているからね」

 どこかしら、ネジが飛んでいなければ一年と持たない。現に今まで、何十と数えきれない人数が辞めていった。だからこそ、決められたルールには絶対。それこそ命を天秤に賭けるくらいの守秘義務がある。そうでなければ、無法地帯だ。

「答えないって、言ったら?」
「答える」

 短い言葉で、静かな声で断言した。しかし全く重みがない。今の独には、それがむしろ不気味だった。彼は一体、どんな戦い方をするのか。どうして頂点に登り詰めたのか。
 何か動きを探ろうとする独の前に座ると、マスターは一本指を立てて見せた。

「質問一つめ。壊れたら、決して治らないもの……なんだと思う?」
「は、ふ、ふざけてんのか?」
「あぁ、もちろん時間制限はある。ヒントは、君も持っているものだ」

 人生最後の質問だなんて言うから、もっと重要なのかと思った。こんなの、だんまりを決め込んだもの勝ちだろう。一瞬でも身構えたが損した。
 やがてマスターは五からゼロへカウントダウンを刻んで行った。彼は何も答えない独に、仕方なさそうな息をついた。

「時間切れだ。答えは──」

 独の目のすぐ下を、マスターの冷たい指先が撫でる。と、同時に彼の目蓋がゆっくり開かれた。

「心だ」
「あ……?」

 独は黒に見える濃い茶色の目を唖然と見開く。マスターの目蓋の下には、想像した目玉が無かった。骨や皮膚の赤ではなく、何もない。矛盾するが、そこにあるのは虚無だ。
 独の呼吸が徐々に速くなり、脳に充分な酸素を与えられなくなった。脂汗が額に浮き、頬に伝って床に落ちる。マスターは何もしていない。ただ目蓋を開けて、見つめているだけだ。それなのに今、独を訳の分からない恐怖が襲っている。

「試しに、指に力を入れてみようかな」

 下目蓋を撫でていた指が、軽く押し込まれる。その瞬間、右目の視野が指が食い込んだ事によって、勝手に上を向いた。そのなんとも言えない気持ちの悪い感触と痛みに、独は歯を食いしばる。

「目が潰れたら、どんな痛みだと思う?」

 心底不思議そうな声を聞いた時には、独の耳にグチャッという水気を含んだ音と、自分の絶叫が鼓膜を震わせていた。
 しかしそれは、独の耳にしか聞こえていなかった。何故ならマスターの指は、ただ少し強く押しただけなの。その証拠に床に血はなく、マスターの指にも何も付着していない。

「俺はね、物理的に他人を傷付ける事はできないんだ」

 独はもがき苦しみながらも、かろうじてその言葉を耳で拾っていた。しかし信じられない。だって体には、まるで火の中にいるような熱が確かに襲っているのだ。

「嘘じゃない。ハッキリ言うと、君が受けているその痛みや感覚は全て幻覚なんだ」

 マスターは再びそっと独の顔を両手で包み、空虚な両目で見つける。

「こうやって見つめたり、触れた相手へ言葉通りの感覚を与えられる。まあ、俺が経験したもの限定で……という条件もあるけどね」

 独は喋る余裕すらない。幻覚だと言われても、痛みは引かない。激痛の熱に反して、少しずつ体が冷たくなっていくのも分かる。必死に頭へ「この痛みは嘘だ」と言い張っても、受け入れてくれない。
 マスターの指が体へ移動し、背中部分を示すように触れた。

「本当だよ? 試しに……臓器を一つ、爆発させてみようか」
「がっ!」

 ひゅっと喉から歪な呼吸音がした。瞬間、耐えきれずに独は腹の中の物を全て吐き出す。もちろん臓器なんて破裂していない。しかし痛みや気持ちの悪さは本物で、虚になった目が上を向いた。

「ショック死も気絶も駄目だ」

 言葉が耳に届くと、独の意識は強制的に戻った。痛みが続いているのに意識を飛ばせないのは地獄でしかない。

「幸運な事に、君にはトラウマとなる記憶がないらしい。だから、体の痛みに頼ろうと思ったんだ」

 マスターは様々な能力を持っている。その中で一番狩人たちに恐れられているのが、この幻覚だ。触れれば、見つめられたら最後、最も見たくない過去を頭に蘇らせられる。たとえ過去がなくとも、痛みで膝から崩れるだろう。
 本人は地味な能力だと言っているが、とんでもない。傷付いていない体と、脳を支配する痛み。そのチグハグが続けば、精神は簡単に崩壊する。

「言ったろう? 壊れて治らないものは、心だと。たとえ立ち直れても、所詮は傷口に包帯を巻いているだけ。体と違って、心の傷が塞がる事は決してない。さあ、二問目だ」

 言い終えたと同時に、マスターはパンッと手を叩いた。瞬間、目が覚めるように独の体から痛みが消えた。

「あ、ぁ……はっ?」
「今、君は何を望む?」

 痛みは嘘のようだ。だが独は、ただ体をガタガタ震わせるだけ。嘘だと分かってもなお、脳に刻まれた痛みが心を支配している。
 彼はマスターを見ただけで、ひっと情けない悲鳴を上げた。そして歯の根の合わない口で、小さく懇願した。

「こ、ころ、してくれ、も、いやだ」

 独はうわ言のように、痛いと繰り返す。それを見下ろすマスターの表情は、なんだかつまらなさそうだった。

「そうか……僕の勘違いか」

 マスターは独り言のように呟く。彼がすぐ殺さず、わざわざ質問を用意していたのは、独に期待をしていたからだった。
 手も足もなく、絶望的なトラウマを植えつけられても、まだ立ち上がろうとするんじゃないかと。もし再び立つ力を欲していたら、喜んでその機会を与える気でいた。

(リーラに似ていると思ったけど、残念だな)

 リーラはまだ狩人となる前、とある事情によって、テンシと天使を無差別に狩っていた。独と同じように、誰よりも破壊的な強さを望んで。
 そして仲間に引き入れてから数年は、やはり反抗的だった。何度も単独行動をして仲間の話も聞かず、がむしゃらに敵へ突っ込み、無茶をする。彼女は黒歴史だと言うが、その時にはそれなりの理由があったのだ。
 だから、独も這い上がるための力を望むと期待したのだ。何故ならリーラがそうだったから。あの力は、普通の生活すらできないか弱い少女が、一度絶望的な地獄に落ちて、立ち上がる事を望んだ結果なのだ。
 闘志に燃える瞳を見られるかと思ったが、想像以上に彼の強さへの執着に中身がなかった。覚悟もなければ、ただの娯楽の延長線。狩人に招いた事が可哀想になってくる。

「分かった、遊ぶのはやめよう。最後の質問だ。大天使を連れてくるように……誰に頼まれた?」

 いつの間にかマスターの目蓋は閉じられている。それでも独は、もう争う気を無くしていた。ただこの痛みをどうにかしたくて、未だに震える唇をなんとか開く。

「ぎ、ゔぁ、あ」
「なんだって?」
「ぎ、ギヴァー……ううそじゃ、ない、そ、そう名乗った!」
「…………脳破壊」

 マスターは独の額に指を起き、呟いた。次の瞬間独は体を大きく跳ねさせ、口から泡を吹いて目を剥いた。体はしばらく痙攣していたが、やがて完全に動きを止める。ショック死だ。
 しかしそんな彼に目もくれず、マスターは驚いたように、もう一度「ギヴァー」と繰り返した。

「ギヴァー? どうして大天使を? まさかあの人が? いや、そんなありえない。だけど……」

 同名でなければ、ギヴァーはマスターにとって大切な存在。そしてテンシ狩りを結成する理由の一つでもあった。それは遠い昔、別れる前にした約束を果たすため。

「幸せな世界を作ると、約束したじゃないか。それなのに、どうして楽園を? どうして、僕の敵となっているんだ……? それに、ならリーラが追っているのは」

 まるで、今は居ないその人へ縋るように、マスターはブツブツと呟く。今彼は必死に理解しようとし、頭を整理しようとしている。だが整理すればするほど信じられないのに、現実味を帯びていった。彼ならば、大天使を作る力を持っているから。

「ギヴァー、貴方はどこに居るんだ?」

 マスターは独に見向きせず、思考の海に沈んだまま、地下室を出て行った。

 しんと静まる地下室で、独は一人残された。時計すらないここでは、空気の流れの音が聞こえそうだ。そんな静かな場所に、微かな音が響いた。

「ぁ……ぅ、う」

 うめき声は、開きっぱなしの独の口から洩れる。彼は生きていた。マスターが動揺した影響で殺し損ねたのだ。しかしもはや、死んでいると言っても過言ではない。
 今独が望むのは、痛みからの解放と家への帰還。ただ楽になりたい。帰りたい。そんな本能的なもの。
 不安定な視界の中、コロンと何かが転がった。それは翡翠色をした不恰好な石のネックレス。ギヴァーから貰った、大天使の散らばった核だ。幸か不幸か散々暴れた反動で、服に隠していた石が外へ出たのだ。

(きれいだ)

 独はただ、そう思った。精神的な攻撃とは言え、もう脳は半分壊れていた。そんな状態で、ギヴァーや核について覚えているはずはない。ただ綺麗で、落ち着く。だから惹かれた。無性にそれが欲しかった。
 手足のない体で芋虫のように這い、それを口にする。今は口でしかそれを手にできない。すると核は、喉へ吸い込まれるように飲み込まれた。

「……っ!」

 心臓が大きく跳ねた。体が沸騰するように熱い。熱に喘ぐ顔が、ぐにゃりと崩れて原型が消えた。
 皮膚が、肉が溶けている。顔だけではなく体もだ。熱は内側から侵食し、臓器、骨、血、肉がじわじわと溶かされているのが分かった。人だった中身が完全に溶け出し、服も飲み込む。だがそれ以上中身が広がる事はなかった。
 人間であった原型がなくなった頃、少しずつ固まっていったのだ。やがてそれは一つの塊になる。残ったのは、まるで大きな蛹。

 独の体を包み込んだ蛹は、しばらくすると小さく震え出した。僅かな亀裂が入り、たちまち大きくなると粉々に砕ける。羽化したのは、巨大な真っ白い蛾。
 しかし奇妙な事に、翅が包む体部分は人間の手足。蛹を中から砕いた四本の手に、二本の足を持っていた。そう、ただの蛾ではなくテンシだ。本能的に残った望みを、核がテンシとして生まれ変わらせる形で叶えたのだ。
 彼は自身の八つの目で、新しい体を見据える。

「はは、はははははっ!」

 響くのは、数人が混ざったような濁った笑い声。
 痛みが消えたどころか、力が溢れてくる。そうだ、自分はこんな所でのたれ死んでいい存在じゃない。上に立つ存在だ。この体がその証拠。浮かび上がるのはリーラとマスター。しかし同じ轍は踏まない。

「まずは……食事だ」

 ただ彼らを殺すのでは気が済まない。苦しみを与えて少しずつ殺す。そのためには、まだ力を蓄えなければ。
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