宝石少年の旅記録

小枝 唯

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【宝石少年と芸術の国】

それぞれの過ち

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 フロゥは機嫌良かった。これまで悩んでいたのが馬鹿らしいと思えるくらいに。あの日から、この筆の使い方を理解してからずっと調子がいい。筆が乗らない日は無い。何にも負けない、あの鮮やかな赤を今日もたくさん取った。早く、早くキャンバスを染めたい。
 フロゥはジオードの家のドアを素通りし、工房へ向かう。以前までは習慣としていた挨拶は、省略した。わざわざ手間を必要としていたのは言うまでもなく、少なからずジオードを尊敬していたから。しかし今はどうだ? この筆さえあれば、あんなおいぼれ敵じゃない。

「……?」

 工房のドアをくぐり階段を登ってすぐ、違和感を覚えた。人が来ていた形跡がある。アルナイトか? そう思ったが、彼女のスペースに立ち入った痕跡はない。そう考えると、部外者が来たようだ。
 キャンバスの目の前に置いた絵の具を入れる小皿に、何かが転がっている。それは美しいフローライト。見覚えがなく、ルルがくれたものとは違う。そういえば彼はオリクトの民であると、頭の中で連想する。頑なに外されない仮面の下は、一体どんな石が嵌っているのだろうか。

「……人の血……オリクトの民の血で描いたら、どんなに美しいだろう」

 フロゥは美しいものが好きだ。そもそも今まで植物の命でしか、試していなかった。オリクトの民の民の血は、見た目も美しいと言われている。それで描けば、最優秀賞間違いない。
 考えれば考えるだけ、興奮で胸が高鳴る。しかしフロゥはすぐに動かなかった。オリクトの民の血はとても貴重だ。一瞬で奪ってしまえば、失敗できない。

「なら、他で練習すればいい」

 どうしようか。まずは魔獣? いや、人間で試してみたい。人間の、あの真っ赤な血だって充分生命力があり、美しいじゃないか。さぁ、ならば手始めに誰にしよう?
 そう問いかけた脳裏に、アルナイトの明るい笑顔が描かれた。陽の光のような、真っ直ぐで強く、優しい温もりを感じさせる笑顔。

(決めた)

 アルナイトにしよう。恋焦がれた相手の血なんて、この世のどんなものよりもきっと美しいに違いない。そうと決まれば迷いは無い。
 フロゥは、いつの間にか黒かった色を赤に変えた筆を握りしめ、工房からジオードたちが住む家の階段を登る。ノックして数秒、ジオードが出迎えた。彼は一瞬表情を固めたが、すぐに家に入れる。

「アルナイトは居ますか?」
「部屋で寝込んでる。あまり騒いでやるな」
「体調が優れないのですか?」
「……今は落ち着いてはいる。先に行っていろ」

 ジオードは紅茶を淹れながら、少し安堵していた。ルルたちから道具について聞いてから、様子が気になっていたのだ。しかし少し興奮気味な所を除けば、いつもと変わらない。芸術祭まで残りわずか。となれば心浮き立つ者は増えるから問題ない。だが念のため彼を説得し、画材を回収しよう。ルルたちが来たら、それを渡せばいい。
 それに、彼はアルナイトを気にかけているのも、いつも通りだ。フロゥが彼女に性別を関係なく特別な感情を抱いているのは、よく分かっていた。アルナイトに至っては分からないが、フロゥが彼女に向ける表情は誰に向けるよりも柔らかく、愛しそうに見える。
 止める気は無かった。フロゥはしっかりした青年だ。まだ未熟だが、アルナイトに足りない部分を補ってくれる。それはもちろん、フロゥにとっても同じだ。いい関係を築けるだろう。たとえ2人の間に地位という邪魔なものが立ちはだかるのなら、自分が壊す。おいぼれにできるのはそれくらいだ。

 アルナイトの部屋に来るのは、少し久しぶりだった。フロゥはそっと、音を立てないようにドアを開けて、部屋を覗く。キィっと床が軋んで音を鳴らすが、近づいてもとくに反応は無い。すぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてきた。
 額に浮かんでいる汗を、そっとタオルで拭ってやる。するとアルナイトはくすぐったそうにした。フロゥは湧き立つ感情に、筆を握りしめる。

「アルナイト、僕の絵の材料になってくれ」

 今にも彼女に筆先が触れそうなその時、少女のようなまつ毛が震え、淡い灰色の目がフロゥを不思議そうに見た。

「んぇ……?」
「!」
「へへ、フロゥだあ」

 何が嬉しいのか、アルナイトはふにゃっと笑う。筆が視界の端に映ったと、ぼんやりと頭の中で理解する。自分に何かする気なのだ。身動きができない今、抵抗する術はない。しかし彼女は叫ぶ事もせず、ただ笑った。
 フロゥはぐらりと目の前が揺らぐのを感じた。頭が痛い。自分は何をしているのか、よく分からなくなってくる。

「僕、は」
「何をしている」

 ジオードの声に、フロゥは大袈裟に見えるほど体を跳ねさせる。その拍子、ポシェットの中に入れていた荷物がバサバサと床に散らばった。ジオードの目の前に広がったのは、手の平サイズのスケッチブック。開かれたページは、狂気的に赤く染まっていた。
 ジオードは見開いた目を、別の事実を探すようにフロゥを見る。彼の手に、赤い筆が握られていのに気づいた。渡した時は、あんな色ではなかった。

「……お前、何をしていた?」
「……、……」
「近くの花畑を枯らしたのはお前か?」

 塔の側にある花畑や、祭壇公園などに咲く植物。それらは、岩に囲まれたアルティアルには、とても貴重な緑だった。しかしそれらが、ここ数日で枯れているという情報を、五大柱として入手している。
 フロゥの青緑色の目が逸らされる。ジオードは紅茶を乗せたトレイの存在を忘れたように投げ捨て、フロゥの細い両肩を荒々しく掴んだ。この青年がそんな事をするはずない。信じられない。

「フロゥ!」
「…………筆が」
「なにっ?」
「ふ、筆が、欲していたんだ……。命が欲しいと。そうすれば、僕の絵は、より美しくなるから!」

 感極まった様子で叫ぶフロゥの目は爛々としていて、どこか焦点が合っていない。フロゥはこんな顔だったろうか? まるで飢えた浮浪者のようだ。確かにこのままいけば、最優秀賞を取るのは簡単だ。それはジオードが望んだ通りの筋書き。彼が最優秀賞の座につけば、アルナイトが国宝を手にする事はなくなる。
 アヴィダンに言った。アルナイトの記憶は意図して消えたのだと。そして彼女の心を守るためには、二度と思い出させてはいけないのだと。暗闇の中に閉じ込められ、ただ光を望んだ彼女。爪が禿げ、血の線で壁を汚しながら泣いて謝る姿は、ジオードだけが覚えている。
 そして彼女との約束も。死に別れる直前、彼女はただ娘の幸せを望んだ。だからそのために───。

-貴方は、間違えてはいけない-

 どうして今、ルルの言葉が浮かんだのだろう。何も知らない、あんな子供の戯言なのに。

「……俺は、何もかも間違えていたのか」

 何を今更。最初から分かっていたじゃないか。アルナイトが成長していくにつれ、自分の役目はもう終わっていると気付いていた。最初こそ、自分がついていなければ夜に寝る事すらできなかった彼女。しかし今は、もう手を繋がなくても1人で歩ける。
 心配するフリをして、この選択が正しかったと安心したいだけだった。だが間違っていた。そうでなければ、将来のある弟子をこんな目にあわせない。
 口から零れた言葉は小さすぎて、フロゥの耳にまでは届いていない。

「お前は何も悪くない。全て俺の責任だ」

 その瞬間、フロゥは脳を激しく揺さぶられたような目眩を感じた。まるで夢から覚めたかのように、意識がハッキリするのを覚える。

「アルナイトを頼む」

 耳元でそう囁かれた気がした。意識の混濁のせいで、その囁きがジオードのものであると気付くのに、フロゥには時間が必要だった。

「ジオード、様……?」

 ようやく立てるようになった頃、そこには眠るアルナイトと自分しか居なかった。
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