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【宝石少年と芸術の国】

彼女の心と笑顔は

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 アルナイトの踏んだ地面が、駆け足のリズムに合わせて道を作る。もう夕飯の時間だ。探索だから、もしかしたら遅くなると言ってはいる。だがジオードの事だから、心配しているだろう。フロゥも、たぶんもう工房から家に帰っている。

(会って、挨拶だけでもしたかったなぁ)

 最近少し作業に煮詰まっている様子だったから、余計に声を掛けたかった。何か特別に励まそうとかではなく、ただいつも通りお喋りをしたい。そうすればきっといつの間にか、調子を取り戻すから。
 自宅の壁の階段を登り、そぉっと玄関を覗く。

「先生、ただいまぁ……」
「ん? アルナイト、おかえり」

 消え入りそうなか細い声に返答したのは、ジオードではなかった。居間のソファに座って、こちらに振り返りながら手を振っているのは、マリンだ。談笑をしていたのか、ジオードは彼と向き合うソファに腰を深く下ろしている。腕組みをし、ふんっと鼻を鳴らした。

「こんな時間まで外に出おって」
「ごめんー! でも遅くなるかもって言ったじゃん」
「ジオード心配してたよ」
「そんな事、俺は一言も言ってないぞ」

 ジオードはぶすっとしながら、顔のシワをさらに深くする。そして濁った白い両目でじっと見つめると、ちょいちょいと手招きした。アルナイトは「ゲンコツやだ」と後ずさるが、ジオードの睨みに負けておずおずと近寄る。
 少しカサついた、絵の具の臭いが染み付いた手が、確かめるように顔を触った。アルナイトは一体何だと思いながら、くすぐったくも大人しくする。彼女の顔の所々に、薄く切り傷があった。血は出ていないから軽度だが、ジオードの心臓を重く跳ねさせるには充分だった。

「……どこで作った。やんちゃ娘」
「んえ?」
「? あ、アルナイト、ほっぺどうしたんだい?」

 マリンもよく目を凝らして、傷を見つけた。アルナイトは傷のある場所を示され、触ってようやく僅かにピリピリした痛みに気付く。滝から落ちたり、岩を転げ落ちたりした時についたのだ。しかしあれだけのハプニングがあってこんな軽傷で済むなんて、運がいい。
 言い訳はどうしようか。2人は口が堅いだろうし、金塊に目が眩むような人物ではない。しかし万が一、別の人物に聞かれているかもしれない。ルルがそうやって、いつも警戒していたように慎重にならなければ。

「冒険の証!」

 アルナイトは薄い胸に、拳を少し強めにぶつけて堂々と言った。ジオードとマリンは彼女の言葉に顔を見合わせる。ジオードは呆れたようにため息を深く吐き、マリンは「大冒険だったんだな」と可笑しそうに笑った。
 こんなかすり傷、次の日には触っても痛みすら感じない。しかしジオードは手当せず寝るのを許さなかった。昔よりも少し不器用な手際で、ツンとする香りの湿布を傷に貼る。

「えへへ、ありがと先生」
「さっさと食べて寝ろ」
「はーい!」

 服の汚れからして、本当に大冒険だったのは分かる。しかしそんな素振りを見せないほど、アルナイトは元気に自室への階段を上がって行った。

「よく気付いたね、あんな小さなかすり傷」

 あれはじっくりアルナイトの肌を観察して、ようやく気付けるようなものだった。だがジオードは遠くに居ても気付いた。かつて芸術を生み出し続けた彼の白んだ目は、もうほとんど世界を濁らせているのにの関わらず。
 理由が誰よりもアルナイトの事を考えているからだと、マリンは分かっている。だがあえて、面白そうに言った。するとジオードは、いつものように不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「何年いると思ってる。見慣れてるだけだ」
「そういう事にしておくよ」

 マリンはあとひと口といったところまで減った紅茶を、最後まで飲み干す。ジオードの元に訪れたのは、単なる談笑のためではない。ここに何度も顔を出しているアヴィダンの事を忠告するためだ。聞けば、画材をフロゥとアルナイトに渡したと言うから、冷や汗をかいた。

「アルナイトはまだ使っていないんだろう? 何もないうちに」
「あんなのはただの道具だ。危険などない」
「ただの道具だったら、僕も何も言わないさ。なあ……お前がこんなに頑ななのは、何かあるんだろ? あの商人に、何を言われたんだい? 何を話した?」

 ジオードは口をつぐむ。この男は偏屈だ。しかし根の正直者さを隠せないのか、言動の所々に真実が混ざる。だから様子がおかしいと、マリンはすぐに気付いた。ジオードは、他人の話をきちんと聞き、冷静に情報を整理する能力がある。それなのに、まるで壁でも作ろうとしているかのようだから。

「ジオード、僕を信じてくれているかい?」
「……」
「僕はこの国でお前と友になれて、本当に良かったと思ってるんだ。大事な人には傷付いてほしくない。何か、商人に言われたんだろ?」
「お前こそ、なぜそこまでこだわる」
「……ファルベが狙われた。あの商人は、裏がある」

 本人に許可なく、話の材料にするのを躊躇していたが、マリンはアヴィダンへの嫌悪する最も強い理由を小さく呟いた。ジオードはまさかそうとは思っていなかったのか、白濁の瞳を驚愕に丸くする。

「最悪な事が起きる前に、防ぎたいんだ。お前もアルナイトやフロゥを守るべきだろう?」
「……傷は塞がらないんだ。隠して、ようやく楽になる」
「彼女の体も心も、彼女だけのものだよ」

 ジオードはふいっと顔を逸らす。マリンは居た堪れず、息を深く吐いた。怒りはない。ただ悲しさだけがあった。優しい者の心は、いつも悪者の餌になる。そして食われた者の心は簡単には戻らない。

「アルナイトを、お前が信じず、誰が信じる?」
「…………」
「分かった。でもこれだけは忘れないで。お前が誰を何をしようと、僕はずっとそばに居る。お前の事を思っている存在が居るというのを、絶対に忘れないでくれ」
「……分かってる」

 小さく掠れた低い返答に、マリンは安心したように微笑んだ。と、思い出したように「そうだ」と呟いて辺りを見る。ジオードは視線をうろうろさせるマリンに、なんだと訝しんだ。

「ルルから、ジオードを貰ってない?」
「ああ……お守りとか言ってたが」
「あぁ良かった。一晩貸してくれないか? ネックレスにしてあげるよ。そうすれば無くさないだろ?」
「別に、置いてあるだけでいいだろ。ただの石だ」
「いや、アレはただの宝石じゃない」

 マリンの真剣な表情に、ジオードは眉根を寄せながらも、布に包んで棚に眠らせたお守りを持って来た。確かにほんの僅かな暖かさを感じるが、気のせいだろう。オリクトの民は確かに人智を超えた生物だが、生んだ宝石にぬくもりがあるなんて、聞かない話だ。

「あの子は多分、ただのオリクトの民じゃない」
「はあ? じゃあなんだって言うんだ。こんな小さな国に訪れる理由が無いだろ。いい感性の持ち主ではあるが」
「もしかしたら、世界の王かもね」

 ジオードは目を瞬かせ、考え込むように顔をしかめた。マリンの種族でもある長寿の耳長族は、人間よりも自然に深く愛された生き物。そういう存在は、世界の王に本能的に敏感だ。だが、だとしてもあんな小さな子供が、神の写し身とは考えがたい。
 マリンにとって、ルルの不思議な言動はそう考えるに違和感が無かった。伝承は所詮伝承にすぎない。

「そうでなくても、あの子の言葉は聞いた方が良さそうだ。じゃあ明日、お守りのネックレス持って来るよ。おやすみ」
「勝手にしろ」

 最後、やっといつも通りのジオードが見られたと、マリンは少し嬉しそうに笑って帰っていった。
 ジオードはドアが閉まり、シンとした部屋の中で自分にため息を吐く。

「違う」

 アヴィダンを信用している訳じゃない。まさかファルベに手を出しているとは思わなかったが、彼が怪しい商人であるのも分かっていた。それでも手を取ってしまうのは、それでも口車に乗ってしまうのは……全て、彼が持つ呪縛のせい。
 アルナイトが忘れた代わりに、ジオードは永遠に覚えている。

「……アイツがまた壊れた時、俺はもう支えられないんだ」

 それがとても恐ろしいのだ。この病気が進んでいけば、もうアルナイトを守れないから。
 こんなおいぼれ、どうなってもいい。罪人となろうとも、嫌われようとも、あの子の心を守らなければいけない。その義理がある。恩がある。そしてあの子の笑顔と未来には、その価値があるのだ。
 ジオードは時計の針が真夜中を示すのに気付き、腰を上げる。夜だからか、妙な考えが頭を掻き乱して仕方ない。もしルルが世界の王ならば、自分を裁いてくれるだろうか。全てを正しく導く存在ならば、もう自分は身を引くべきか?

(……そういえば、フロゥの絵はどうなった? 帰って来てから、すぐ工房にこもったようだが)

 ジオードも自分の工房で作業していたため、その後の様子を見れなかった。
 家から出て、すぐ隣の工房の鍵を開ける。まだ乾いていないのか、布はかからずそのままだ。フロゥの絵は、誰が見ても印象に残り、彼の作品だと分かるくらいに特徴的だ。ジオードの作品はアルナイトと同様に、基本細い筆で始まり、完結するため真逆の術。

(行き詰まりは解けたか)

 多くの技術を知り、巨匠と呼ばれても完璧などは存在しない。行き詰まった苦しさを抜ければ、新たな自分になるのは確かだ。しかしその苦しみを知っているから、早く抜け出してほしいと弟子には思ってしまう。
 大胆かつ、繊細な作品。フロゥの心が表れている。

「……ん?」

 やけに目を惹く場所があった。空のような、深い海のような、そんな空間に咲く一輪の花のようなもの。赤い絵の具一色だけだが、なんだかその赤が妙に鮮やかだ。
 嫌な予感がする。ジオードは一瞬にして、道具の説明がアヴィダンの口調で頭に駆け巡った。あの道具には魔法が無かった。だからただの画材のはず。命を吸い取るだなんて、そんな事はありえない。だが目の前の小さな赤は、血のようだと表現するのが最も相応しい。
 ジオードはフロゥの道具箱を漁った。丁寧にしまわれているが、そこには渡した筆だけがなかった。

「……いや、ただ手に馴染んだだけだ。そうだ。このままフロゥが最優秀に選ばれれば、アルナイトは何も思い出す事はない……それでいい。それで……いいだろう? 俺は、間違っているか、サファイア?」

 自分に言い聞かせるような言葉は、最後には消えそうな小ささになっていた。その最後の問に答える者は、もう存在しない。
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