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【宝石少年と芸術の国】
洞窟の中で
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滝口は見上げても、暗闇に紛れて見えないほど高い。そんな滝壺に激しく打ち付ける水は、いつの間にか存在を疑うほど透明なものになっていて、ルルたちが見た湖の色は消え去っていた。
滝壺に、どぽんと音を立てて何かが落ちた。透明な水の中、キラキラと煌めくそれはよく目立った。薄い宝石の膜だ。人が一人入っていそうな大きさで、しばらく川を流れていく。やがて水かさが減り、膜の塊は川から岸に打ち上げられた。
少しして、膜の内側から外へ出ようともぞもぞ動き出した。膜は比較的薄いが、材料が宝石に近いというのもあって硬い。ぐぐぐと力がこもり、ツノのように一点が突き出した。するとそこから、バリッと音を立てて破ける。
「うわっ!」
いくら頑丈でも、一度破れたらそこから脆く崩れていく。勢い余って外へ飛び出したのはアルナイト。彼女は恐る恐る外に出て、自分を包んでいた膜を不思議そうに見た。
アルナイトは滝から落ちた時に、視界から来るショックに防衛本能からすぐ気絶したが、ルルはそうはいかなかった。彼はすぐ自分と彼女と膜で包み、衝撃に備えたのだ。流石に数秒も許さない重力で落ちる最中、二人分を包めるほど大きな物は作れなかったが。
「! ルル……っ?」
状況を覚えていなくとも、この膜がルルのおかげであるのはすぐに分かった。だが肝心の本人が居ない。嫌な予感に、心臓が重く脈打つ。
「ルルー!」
ルルは喋れない。通話石はどこまで距離のある相手に、主人の言葉を届けられるのだろうか。
頭の中に声は返ってこない。聞こえるのは、少し遠くに流れる滝の音だけ。二人は同時に落ちた。ならばそう遠くに居ることはないはずだ。しかし薄暗い中、見える所に同じ宝石の膜は無い。ルルは無事なんだろうか。ちゃんと自分を庇えたんだろうか。
手元の灯りだった月の花は、ガラスの器の中で衝撃に負けてすっかり粉々になっている。
「ど、どうしよう」
暗い中に一人。それは彼女を一番怖がらせる条件だ。しっかりしなければいけない。もしかしたらルルは怪我をいているかもしれない。一人でも動かなければいけないのに、分かっているのに、足が震えてそれ以上進めなかった。
もし、もしもこのまま独り閉じ込められたら。永遠にみんなと会えなかったら。
「せんせぇっ」
悪い事ばかり考えが浮かぶ。アルナイトはとうとうその場にしゃがみ込み、頭を抱えて蹲ってしまった。
ここから出して。ひとりにしないで。わたしをここから──。
胸元が暖かい事に気づいた。鼓動が聞こえる気がする。緊張で早まっている自分の鼓動とは違う、トクントクンと柔らかな音だ。一体なんだろうと胸元に触れると、硬い物が布越しにあるのが分かった。ネックレスなんてしてないはず。しかしそう思った直後、思い出した。昨日、ルルからお守りと言われて渡されたネックレスをしているじゃないか。
アルナイトは服に入れたネックレスを引っ張り上げる。ペンダントトップになっているのは、彼女の名前ともなっているアルナイト。アルナイトという石は、色の種類が豊富だ。貰ったお守りは一つだが、その半球体のペンダントトップには、ピンク、紫、緑といったように数種類の色が混ざっていた。
(あったかい……)
これを両手で包むと、まるで誰かに抱きしめられているかのような安心感を覚える。これが暖かい限り、ルルは無事なような気がした。いや、今はそう信じるしかない。
アルナイトは立ち上がると、自分の両頬をパン! と強く叩く。少し強すぎたのか、頬が赤くてひりひりするが、今はちょうどいい。
「しっかりしろ、アルナイト!」
こんなところで一人蹲っている暇が、どこにあると言うんだ。いつもそうだ。誰かが助けてくれるとばかり甘えていた。もしルルが危険な目にあっていたら? 助けられるのは自分だけ。まだ無事な足で立って、歩くんだ。
とりあえず大声で呼ぶのはやめた。ルルへいい合図となるだろうが、彼以外の存在に聞かれる。厄介な相手だった場合、悔しいが力で勝てないだろうから。頼れるのは、この特殊な色も見える目だけ。暗闇は怖い。だがしっかり目を凝らせば、暗闇に慣れた視界はいつものように鮮やかな世界を見せる。
穴の奥に広がっていた洞窟は、灰色をしている。だがアルナイトの目には、濃密な銀色を見せていた。
(なんか、上の石と違う気がする。表面と中じゃ違うのか?)
賑やかな視界に、他の色を反射させるものが映り込んだ。遠くに何か、ここを構成している岩とは別の物が落ちている。赤や青、紫といった鮮やかな色があるそれは、見覚えがあった。
「ルル!」
声を出さないと決めたばかりなのにすっかり忘れ、アルナイトは光へ駆け寄る。洞窟に反響する音を無視するのも仕方ない。それはルルが肌身離さず身に付けている仮面の色だったから。
しかしアルナイトの顔は晴れなかった。彼女の目は間違っていなかった。ただ仮面しかなく、ルル本人が居ないのだ。幸いなのは大事にしている仮面が欠けていない事だけ。
(オレと一緒に落ちた。仮面がここにあるなら……ルルはもっと奥に居る? あれ、でもそれって)
ここは陸地。川があれば分かるがもう水は無く、仮面だけが流れて取り残されるなんてありえない。つまりアルナイトより先に意識が覚めて、捜索を始めた事になる。
ルルならきっとアルナイトを探すだろう。気付かなかった? 彼ほど気配と音に敏感ならば可能性として低い。そうなれば残ったのは第三者の存在だ。
(ルルはオリクトの民だ。しかも仮面が取れてるし、鉱石の耳もある……)
連れて行かれる理由はたくさんあった。無事を確かめようと叫びたい気持ちをぐっと堪える。その誰かが近くに居れば、ルルを遠ざけようとするはずだから。とにかく今は慎重に、一本道であろうここでルルを追おう。
仮面ももちろん持って行く。だが触れた瞬間、バチンッと小さな破裂音が痛みと一緒に襲った。アルナイトは反射的に仮面を手放す。
「いってぇ~っ! なんだ今の……?」
アルナイトはそういえば、ルルは仮面にだけ触れるのを許さなかった。てっきり大事だからだとだけ思っていたが、他の理由があるのだと理解する。そしてこれが魔法の類いであるのも、なんとなく分かった。
しかしこれでは、大事な仮面を持っていけない。ルルは絵を描く許可を出した時、仮面を外す事も許してくれた。だから他に外したくない理由があるのだと逡巡する。
「あ、そうだ!」
アルナイトは水に濡れて少し滑りながら、急いで元の滝へ急ぐ。そして何かを胸に抱えて仮面の場所に戻った。持って来たのは、宝石の膜。これはルルが作った物だから、きっと守護の魔法は拒絶反応を示さない。賭けで包み、恐る恐る持ち上げる。すると仮面は拒絶を見せなかった。
「よし! ルル、待っててくれな……!」
アルナイトは仮面を包んだ膜をさらに上着で包み、背負った荷物に入れて先を急いだ。
~ ** ~ ** ~
浮上した意識がまずルルに伝えたのは、小さな揺れ。カツン、カツンという一定の音もする。薄く霧がかった思考で誰だと警戒したが、その足音が人間ではなく四つの蹄であるのが分かった。瞬間、肺の中に残った水が激痛を訴えて激しく咳き込む。
咳きに気付いたのか、揺れが止まった。それは背中から落ちたルルへ、心配そうに顔を近づける。
「グゥ、キューッ」
喉の奥から悲痛そうな鳴き声が聞こえたと思えば、痛みの反射で出た涙をベロが舐め取った。必死に慰めようとしている様子で、敵ではないのが分かった。そしてこの感触には身に覚えがある。
ルルはそっと手を伸ばして触れた。馬のような体に、頭を飾るツノは大きく立派で、爪が当たるとポーンと鉱石の音がする。以前触れた時は植物が絡んでいたが、顔付きは間違いない。
『ドーゥ?』
ドーゥは、故郷アヴァールで過ごしていた林の中に住む魔獣。もちろん個体差はあるが、顔付きも匂いも、同種類ですぐ記憶が掘り起こされた。
ドーゥは環境によって主食が異なり、ツノを形成する物質が異なるのだと、昔に本で知識を入れた。ここで生活する彼は外壁を削り取り、滝から流れる水を飲む。だから立派なツノにルルの爪がぶつかった時、鉱石の音が聞こえたのだ。少し固くもフサフサした喉から、クゥクゥと甘える声がする。
ルルはドーゥの頭を少し撫でてやってから、仮面を付けていないのに気付いた。もしかして、滝に流されたのだろうか。そう思った瞬間、心臓が緊張に重く跳ねる。
(でも……アルナイトと同時に、膜で体を包んだはず)
その証拠に、マントは濡れていない。記憶を辿ってみる。落ちる時、滝から水底まで数秒の猶予があった。視界から来る直接的な衝撃のせいでアルナイトは気絶していて、手を伸ばしても届かない位置に居た。だからとにかく守るため、お互いを柔らかくも頑丈な宝石の膜で包んだ。
『もしかして、僕を包んでいた、宝石の膜、君が、食べたの?』
ドーゥはキュウキュウと鳴きながら、ルルの頬に擦り寄る。これはそうだと判断していいのだろうか。そもそも伝わっているかすら怪しい。しかしこのドーゥの主食を考えると、膜を食べてルルを見つけたのだという予想が現実的だ。
おそらくドーゥが歩く振動が、滝から落ちた衝動で外れかけていた仮面を床に落としたのだろう。
『もう一つ、膜、なかった?』
ドーゥは尋ねながら顔を撫でられると、問いよりも嬉しそうにする。様子から見るに、やはり通話石からの声は届いていない。あの膜はそう簡単には壊れない。以前、炎と水の濁流に巻き込まれた時に、丈夫さは実証済みだ。アルナイトが無事である事を祈ろう。
ここがどこなのか、ひとまずは状況を知りたい。そう思ってキョロキョロすると、ドーゥは動きを見て何を知りたいのか理解したようだ。意識を向けるように、グゥグゥと低く鳴く。
そういえばドーゥは、ルルの意識が覚めなかったら、背中に乗せたままどこへ連れて行こうとしたのだろうか。
『君は、この先にある物を、知っているの?』
ドーゥはクゥクゥと鳴きながら、早く来いと言うように袖を引っ張る。ルルは大人しく従おうとしたが、足首から走る激痛に再びしゃがみ込んだ。どうやら落ちる時に捻挫したようで、いつの間にか靴を無くした足がじんじんと熱を持っている。見れば薄青い肌も、一部が炎症で腫れ上がり、濃い紫色になっていた。
気付くと痛みは強くなるもので、ルルは足首を撫でながら「ふぅっ」と、少し強く息を吐いた。思ったよりも痛みは重く、足を動かそうとしたがピクリともしない。
今度は小さくため息をついたルルの顔を、ドーゥが慰めるように舐める。そして目の前で四肢を屈めると、またグゥグゥと鳴いた。背中に乗れと言っているのだ。気配と声の位置が低くなったのと同時に、意味を理解したルルは、虹の目をパチクリさせて微笑んだ。
伝わらないが『ありがとう』と頭の中で文字を並べ、首を優しく撫でてから背中に乗る。椅子に腰掛けるように座ると、ドーゥは早速立ち上がって歩き出した。
洞窟の中は広く、様々な形に分かれていた。ドーゥの迷いのない足取りは、明らかに目的地を辿っている。雨水の上を通る綺麗な小川や、極端に斜めになった岩肌の小さな足場なんかを、ドーゥがぴょんぴょんと飛び越えていく。
本当に入り組んでいる。背中で大人しく揺られながら眺めていると、足が止まり、ドーゥはルルに振り返った。壁と交互に見るドーゥの行動に、ルルは青い瞳が示す場所が不自然にへこんでいるのに気付く。まるで無理に削ったような、人工的なへこみだ。
(何かの、仕掛け……?)
わざわざ窪ませているのだから、何かを嵌めればいいのだろう。意図は読めるが、なんの石を嵌めればいいかまでは分からない。
悩むルルの頬を、ドーゥが舐める。くすぐったそうにする虹の目の近くを、主張するようにつんつんと突いた。ルルは繰り返される仕草に気付き、目元を指で触る。そうか、入り口での石がルルの石だった。だから同じ石を使えばいい。
握りしめた薄青い手から、淡く虹色の光が零れる。出来上がった石の形は、窪みの大きさに合わせて、ルルの手の平くらいだ。薄い板のようなそれを、そっと嵌め込んだ。
「……?」
何も起きない。仕掛けが動くような音も聞こえなかった。ルルの石でなければ、一体何を入れるのが正解なのか。
ドーゥが嵌めた石をツンツンと突く。器用に外れた石が、地面にカラカラと落ちて滑った。ドーゥは音を辿っているルルにグゥグゥと鳴き、薄青い手を舐めた。意識を向けさせるように手をいじり、鼻の上に乗せる。また新しい石を作れと言っているのだろうか。
(……違う)
ドーゥはとても賢い。甘える事もあるが、行動の一つ一つに必ず意味がある方が多い。たとえば今は手を主張しているが、さっきは確かに目を示していた。その変化は、ルルの行動から起こったものだ。
手と、目。ルルの石は必要としている。だが作ったものではダメだった。
盲目の虹色が、自分の手をじっと見つめる。しんと静まる洞窟の中、はっと息を呑んだ音はよく響いた。
『……僕?』
虹の目を持つ者の手。ドーゥはそう伝えようとしていたのではないだろうか。もしそうならば、ここを通る者も作った者も限られている。幻の石を瞳に持つのは、世界の王と二対の騎士。
(比較的、石が新しい。なら……本来、僕と居るはずの、騎士がここに来た?)
ルルは浅い窪みに手を添えた。すると、ズズズと重たいものを引きずる音が、振動と共に響き渡る。入り口と同じように、ルルの手を中心にして岩の扉が開いた。
進もうとしたドーゥは、トントンとルルに優しく叩かれて不思議そうに振り返る。
『あのね、僕の友達が、まだ居るの』
ここはルルが居なければ通れない。ならば尚更、アルナイトを置いて先には進めない。彼女は暗闇が嫌いだから、これ以上独りにしたくなかった。
ルルは通じないと分かりつつも頭で呟き、手を握って石を作った。手の器で転がるのは、数種類の色が混ざっているアルナイト。彼女にお守りとして渡した物と同じだ。ドーゥに見せると、意図を察したのか鼻を動かした。やがて口を開けたから中に放ると、ボリボリと美味しそうに噛み砕いて飲み込んだ。
『お願い』
ルルはドーゥの首を撫で、鼻先にキスをする。同意を示すように、ドーゥは鼻を鳴らて頭をグイッと押し付けた。しかし道を引き返そうとした時だ。ドーゥの長い耳とルルの鉱石の耳を、誰かの叫び声が震わせる。
『アルナイト……!』
何度も聞いたこの声は、間違いなく彼女だ。急かす心に体が前のめると、ドーゥは応えて駆け出す。ルルは振り落とされないよう、首に捕まりながらアルナイトの声をたどった。
滝壺に、どぽんと音を立てて何かが落ちた。透明な水の中、キラキラと煌めくそれはよく目立った。薄い宝石の膜だ。人が一人入っていそうな大きさで、しばらく川を流れていく。やがて水かさが減り、膜の塊は川から岸に打ち上げられた。
少しして、膜の内側から外へ出ようともぞもぞ動き出した。膜は比較的薄いが、材料が宝石に近いというのもあって硬い。ぐぐぐと力がこもり、ツノのように一点が突き出した。するとそこから、バリッと音を立てて破ける。
「うわっ!」
いくら頑丈でも、一度破れたらそこから脆く崩れていく。勢い余って外へ飛び出したのはアルナイト。彼女は恐る恐る外に出て、自分を包んでいた膜を不思議そうに見た。
アルナイトは滝から落ちた時に、視界から来るショックに防衛本能からすぐ気絶したが、ルルはそうはいかなかった。彼はすぐ自分と彼女と膜で包み、衝撃に備えたのだ。流石に数秒も許さない重力で落ちる最中、二人分を包めるほど大きな物は作れなかったが。
「! ルル……っ?」
状況を覚えていなくとも、この膜がルルのおかげであるのはすぐに分かった。だが肝心の本人が居ない。嫌な予感に、心臓が重く脈打つ。
「ルルー!」
ルルは喋れない。通話石はどこまで距離のある相手に、主人の言葉を届けられるのだろうか。
頭の中に声は返ってこない。聞こえるのは、少し遠くに流れる滝の音だけ。二人は同時に落ちた。ならばそう遠くに居ることはないはずだ。しかし薄暗い中、見える所に同じ宝石の膜は無い。ルルは無事なんだろうか。ちゃんと自分を庇えたんだろうか。
手元の灯りだった月の花は、ガラスの器の中で衝撃に負けてすっかり粉々になっている。
「ど、どうしよう」
暗い中に一人。それは彼女を一番怖がらせる条件だ。しっかりしなければいけない。もしかしたらルルは怪我をいているかもしれない。一人でも動かなければいけないのに、分かっているのに、足が震えてそれ以上進めなかった。
もし、もしもこのまま独り閉じ込められたら。永遠にみんなと会えなかったら。
「せんせぇっ」
悪い事ばかり考えが浮かぶ。アルナイトはとうとうその場にしゃがみ込み、頭を抱えて蹲ってしまった。
ここから出して。ひとりにしないで。わたしをここから──。
胸元が暖かい事に気づいた。鼓動が聞こえる気がする。緊張で早まっている自分の鼓動とは違う、トクントクンと柔らかな音だ。一体なんだろうと胸元に触れると、硬い物が布越しにあるのが分かった。ネックレスなんてしてないはず。しかしそう思った直後、思い出した。昨日、ルルからお守りと言われて渡されたネックレスをしているじゃないか。
アルナイトは服に入れたネックレスを引っ張り上げる。ペンダントトップになっているのは、彼女の名前ともなっているアルナイト。アルナイトという石は、色の種類が豊富だ。貰ったお守りは一つだが、その半球体のペンダントトップには、ピンク、紫、緑といったように数種類の色が混ざっていた。
(あったかい……)
これを両手で包むと、まるで誰かに抱きしめられているかのような安心感を覚える。これが暖かい限り、ルルは無事なような気がした。いや、今はそう信じるしかない。
アルナイトは立ち上がると、自分の両頬をパン! と強く叩く。少し強すぎたのか、頬が赤くてひりひりするが、今はちょうどいい。
「しっかりしろ、アルナイト!」
こんなところで一人蹲っている暇が、どこにあると言うんだ。いつもそうだ。誰かが助けてくれるとばかり甘えていた。もしルルが危険な目にあっていたら? 助けられるのは自分だけ。まだ無事な足で立って、歩くんだ。
とりあえず大声で呼ぶのはやめた。ルルへいい合図となるだろうが、彼以外の存在に聞かれる。厄介な相手だった場合、悔しいが力で勝てないだろうから。頼れるのは、この特殊な色も見える目だけ。暗闇は怖い。だがしっかり目を凝らせば、暗闇に慣れた視界はいつものように鮮やかな世界を見せる。
穴の奥に広がっていた洞窟は、灰色をしている。だがアルナイトの目には、濃密な銀色を見せていた。
(なんか、上の石と違う気がする。表面と中じゃ違うのか?)
賑やかな視界に、他の色を反射させるものが映り込んだ。遠くに何か、ここを構成している岩とは別の物が落ちている。赤や青、紫といった鮮やかな色があるそれは、見覚えがあった。
「ルル!」
声を出さないと決めたばかりなのにすっかり忘れ、アルナイトは光へ駆け寄る。洞窟に反響する音を無視するのも仕方ない。それはルルが肌身離さず身に付けている仮面の色だったから。
しかしアルナイトの顔は晴れなかった。彼女の目は間違っていなかった。ただ仮面しかなく、ルル本人が居ないのだ。幸いなのは大事にしている仮面が欠けていない事だけ。
(オレと一緒に落ちた。仮面がここにあるなら……ルルはもっと奥に居る? あれ、でもそれって)
ここは陸地。川があれば分かるがもう水は無く、仮面だけが流れて取り残されるなんてありえない。つまりアルナイトより先に意識が覚めて、捜索を始めた事になる。
ルルならきっとアルナイトを探すだろう。気付かなかった? 彼ほど気配と音に敏感ならば可能性として低い。そうなれば残ったのは第三者の存在だ。
(ルルはオリクトの民だ。しかも仮面が取れてるし、鉱石の耳もある……)
連れて行かれる理由はたくさんあった。無事を確かめようと叫びたい気持ちをぐっと堪える。その誰かが近くに居れば、ルルを遠ざけようとするはずだから。とにかく今は慎重に、一本道であろうここでルルを追おう。
仮面ももちろん持って行く。だが触れた瞬間、バチンッと小さな破裂音が痛みと一緒に襲った。アルナイトは反射的に仮面を手放す。
「いってぇ~っ! なんだ今の……?」
アルナイトはそういえば、ルルは仮面にだけ触れるのを許さなかった。てっきり大事だからだとだけ思っていたが、他の理由があるのだと理解する。そしてこれが魔法の類いであるのも、なんとなく分かった。
しかしこれでは、大事な仮面を持っていけない。ルルは絵を描く許可を出した時、仮面を外す事も許してくれた。だから他に外したくない理由があるのだと逡巡する。
「あ、そうだ!」
アルナイトは水に濡れて少し滑りながら、急いで元の滝へ急ぐ。そして何かを胸に抱えて仮面の場所に戻った。持って来たのは、宝石の膜。これはルルが作った物だから、きっと守護の魔法は拒絶反応を示さない。賭けで包み、恐る恐る持ち上げる。すると仮面は拒絶を見せなかった。
「よし! ルル、待っててくれな……!」
アルナイトは仮面を包んだ膜をさらに上着で包み、背負った荷物に入れて先を急いだ。
~ ** ~ ** ~
浮上した意識がまずルルに伝えたのは、小さな揺れ。カツン、カツンという一定の音もする。薄く霧がかった思考で誰だと警戒したが、その足音が人間ではなく四つの蹄であるのが分かった。瞬間、肺の中に残った水が激痛を訴えて激しく咳き込む。
咳きに気付いたのか、揺れが止まった。それは背中から落ちたルルへ、心配そうに顔を近づける。
「グゥ、キューッ」
喉の奥から悲痛そうな鳴き声が聞こえたと思えば、痛みの反射で出た涙をベロが舐め取った。必死に慰めようとしている様子で、敵ではないのが分かった。そしてこの感触には身に覚えがある。
ルルはそっと手を伸ばして触れた。馬のような体に、頭を飾るツノは大きく立派で、爪が当たるとポーンと鉱石の音がする。以前触れた時は植物が絡んでいたが、顔付きは間違いない。
『ドーゥ?』
ドーゥは、故郷アヴァールで過ごしていた林の中に住む魔獣。もちろん個体差はあるが、顔付きも匂いも、同種類ですぐ記憶が掘り起こされた。
ドーゥは環境によって主食が異なり、ツノを形成する物質が異なるのだと、昔に本で知識を入れた。ここで生活する彼は外壁を削り取り、滝から流れる水を飲む。だから立派なツノにルルの爪がぶつかった時、鉱石の音が聞こえたのだ。少し固くもフサフサした喉から、クゥクゥと甘える声がする。
ルルはドーゥの頭を少し撫でてやってから、仮面を付けていないのに気付いた。もしかして、滝に流されたのだろうか。そう思った瞬間、心臓が緊張に重く跳ねる。
(でも……アルナイトと同時に、膜で体を包んだはず)
その証拠に、マントは濡れていない。記憶を辿ってみる。落ちる時、滝から水底まで数秒の猶予があった。視界から来る直接的な衝撃のせいでアルナイトは気絶していて、手を伸ばしても届かない位置に居た。だからとにかく守るため、お互いを柔らかくも頑丈な宝石の膜で包んだ。
『もしかして、僕を包んでいた、宝石の膜、君が、食べたの?』
ドーゥはキュウキュウと鳴きながら、ルルの頬に擦り寄る。これはそうだと判断していいのだろうか。そもそも伝わっているかすら怪しい。しかしこのドーゥの主食を考えると、膜を食べてルルを見つけたのだという予想が現実的だ。
おそらくドーゥが歩く振動が、滝から落ちた衝動で外れかけていた仮面を床に落としたのだろう。
『もう一つ、膜、なかった?』
ドーゥは尋ねながら顔を撫でられると、問いよりも嬉しそうにする。様子から見るに、やはり通話石からの声は届いていない。あの膜はそう簡単には壊れない。以前、炎と水の濁流に巻き込まれた時に、丈夫さは実証済みだ。アルナイトが無事である事を祈ろう。
ここがどこなのか、ひとまずは状況を知りたい。そう思ってキョロキョロすると、ドーゥは動きを見て何を知りたいのか理解したようだ。意識を向けるように、グゥグゥと低く鳴く。
そういえばドーゥは、ルルの意識が覚めなかったら、背中に乗せたままどこへ連れて行こうとしたのだろうか。
『君は、この先にある物を、知っているの?』
ドーゥはクゥクゥと鳴きながら、早く来いと言うように袖を引っ張る。ルルは大人しく従おうとしたが、足首から走る激痛に再びしゃがみ込んだ。どうやら落ちる時に捻挫したようで、いつの間にか靴を無くした足がじんじんと熱を持っている。見れば薄青い肌も、一部が炎症で腫れ上がり、濃い紫色になっていた。
気付くと痛みは強くなるもので、ルルは足首を撫でながら「ふぅっ」と、少し強く息を吐いた。思ったよりも痛みは重く、足を動かそうとしたがピクリともしない。
今度は小さくため息をついたルルの顔を、ドーゥが慰めるように舐める。そして目の前で四肢を屈めると、またグゥグゥと鳴いた。背中に乗れと言っているのだ。気配と声の位置が低くなったのと同時に、意味を理解したルルは、虹の目をパチクリさせて微笑んだ。
伝わらないが『ありがとう』と頭の中で文字を並べ、首を優しく撫でてから背中に乗る。椅子に腰掛けるように座ると、ドーゥは早速立ち上がって歩き出した。
洞窟の中は広く、様々な形に分かれていた。ドーゥの迷いのない足取りは、明らかに目的地を辿っている。雨水の上を通る綺麗な小川や、極端に斜めになった岩肌の小さな足場なんかを、ドーゥがぴょんぴょんと飛び越えていく。
本当に入り組んでいる。背中で大人しく揺られながら眺めていると、足が止まり、ドーゥはルルに振り返った。壁と交互に見るドーゥの行動に、ルルは青い瞳が示す場所が不自然にへこんでいるのに気付く。まるで無理に削ったような、人工的なへこみだ。
(何かの、仕掛け……?)
わざわざ窪ませているのだから、何かを嵌めればいいのだろう。意図は読めるが、なんの石を嵌めればいいかまでは分からない。
悩むルルの頬を、ドーゥが舐める。くすぐったそうにする虹の目の近くを、主張するようにつんつんと突いた。ルルは繰り返される仕草に気付き、目元を指で触る。そうか、入り口での石がルルの石だった。だから同じ石を使えばいい。
握りしめた薄青い手から、淡く虹色の光が零れる。出来上がった石の形は、窪みの大きさに合わせて、ルルの手の平くらいだ。薄い板のようなそれを、そっと嵌め込んだ。
「……?」
何も起きない。仕掛けが動くような音も聞こえなかった。ルルの石でなければ、一体何を入れるのが正解なのか。
ドーゥが嵌めた石をツンツンと突く。器用に外れた石が、地面にカラカラと落ちて滑った。ドーゥは音を辿っているルルにグゥグゥと鳴き、薄青い手を舐めた。意識を向けさせるように手をいじり、鼻の上に乗せる。また新しい石を作れと言っているのだろうか。
(……違う)
ドーゥはとても賢い。甘える事もあるが、行動の一つ一つに必ず意味がある方が多い。たとえば今は手を主張しているが、さっきは確かに目を示していた。その変化は、ルルの行動から起こったものだ。
手と、目。ルルの石は必要としている。だが作ったものではダメだった。
盲目の虹色が、自分の手をじっと見つめる。しんと静まる洞窟の中、はっと息を呑んだ音はよく響いた。
『……僕?』
虹の目を持つ者の手。ドーゥはそう伝えようとしていたのではないだろうか。もしそうならば、ここを通る者も作った者も限られている。幻の石を瞳に持つのは、世界の王と二対の騎士。
(比較的、石が新しい。なら……本来、僕と居るはずの、騎士がここに来た?)
ルルは浅い窪みに手を添えた。すると、ズズズと重たいものを引きずる音が、振動と共に響き渡る。入り口と同じように、ルルの手を中心にして岩の扉が開いた。
進もうとしたドーゥは、トントンとルルに優しく叩かれて不思議そうに振り返る。
『あのね、僕の友達が、まだ居るの』
ここはルルが居なければ通れない。ならば尚更、アルナイトを置いて先には進めない。彼女は暗闇が嫌いだから、これ以上独りにしたくなかった。
ルルは通じないと分かりつつも頭で呟き、手を握って石を作った。手の器で転がるのは、数種類の色が混ざっているアルナイト。彼女にお守りとして渡した物と同じだ。ドーゥに見せると、意図を察したのか鼻を動かした。やがて口を開けたから中に放ると、ボリボリと美味しそうに噛み砕いて飲み込んだ。
『お願い』
ルルはドーゥの首を撫で、鼻先にキスをする。同意を示すように、ドーゥは鼻を鳴らて頭をグイッと押し付けた。しかし道を引き返そうとした時だ。ドーゥの長い耳とルルの鉱石の耳を、誰かの叫び声が震わせる。
『アルナイト……!』
何度も聞いたこの声は、間違いなく彼女だ。急かす心に体が前のめると、ドーゥは応えて駆け出す。ルルは振り落とされないよう、首に捕まりながらアルナイトの声をたどった。
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4/20ようやく誤字チェックが完了しました
もしまだ、何かお気づきの点がありましたら、ご報告お待ち申し上げておりますm(_)m
いったん終了します
思いがけずに長くなってしまいましたので、各単元ごとはショートショートなのですが(笑)
平民女性に転生して、下剋上をするという話も面白いかなぁと
気が向いたら書きますね
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