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【宝石少年と芸術の国】
絵の材料
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人々が活動を開始し始めてまもない朝。神の寝床を見下ろす空はどこまでも透き通った青。服屋、ピンクローズのドアを開けながら、ファルベは小さなため息を吐いた。晴天とは真逆で、顔色が優れない。具合が悪いというよりかは、心労からくる表情に見える。
そんな彼の背後から、ゆっくりと一人が忍び寄った。別の事を考えているファルベは気付かない。
「わっ!」
「!」
突然の声に、ファルベは勢いよく振り向く。そこに居たのは、マリンだった。ファルベの気分が晴れなかったのは、恋人の安否に対してだった。偵察に行って、昨晩結局帰って来なかったのだ。
やっと帰って来た彼に、ファルベは表情を安堵と喜びの色に変えた。だが名前を呼びかけた所で我に帰ると、ふいっと顔を背ける。マリンは予想外の反応に慌てて前に回るが、また背を向けられた。
「あ、あれ? ファルベ? 僕だよ?」
「そんな顔の男、私の知り合いに居ない」
冷たい声で遮られ、マリンはさっと顔を青くさせる。そしてすがるように胸の前で指を絡めた。
「ファルベぇ! ごめんよ僕の愛しい人、許しておくれ……!」
「……知らない」
「君に見捨てられたら本当に生きていけないよっ」
そう言って背中を向けられたマリンは、膝から崩れ落ち、情けなく叫ぶ。人目なんてどうでもいい。マリンにとってはファルベが全てで、もはや見えていない。
ファルベはまるで失恋でもしたかのように泣く声に立ち止まり、仕方なさそうな息を吐く。ちょっとは怒ったのが伝わっただろうか。彼からすればきっと、少しでも場を明るくさせようと驚かせたのだろう。心配しないで、何事もなく元気に帰ったよ。いつもの僕だよと伝えるために。しかし今のファルベにその気遣いは不正解。正解は「名前を呼んでただ抱きしめる」だ。
ファルベは涙と共に溺れる声で呼ばれ、振り返った。そして神にでも祈っていそうなマリンの目の前でしゃがみ、涙が濡らす頬を拭う。涙を溜める青い瞳の目蓋にキスをして、可笑しそうに笑った。
「情けない男だな」
「だ、だってぇ」
「……ほら立って。朝食、用意できてる」
差し出された薄ピンク色の手を取って立ち上がりながら、マリンはハッと泣き止んだ。
「僕の分もっ?」
「当たり前だ。それとも、また私を独りにする気か?」
「しない、二度としないと誓うさ! 帰れなくてごめんよ……!」
握っていた手を引き寄せられ、力強く抱きしめられる。ファルベも背中に腕を回し、ようやく「おかえり」と微笑んだ。
朝食を終えたマリンは、自室の机を前に難しそうな顔をしていた。食事をしながらファルベから聞いた、昨日の出来事を頭の中で振り返る。
ルルが訪れてアヴィダンの話をした事。そして彼がくれたアクアマリン。オリクトの民が生み出す美しい鉱石は、あくまでも宝石の成分に近いもの。宝石というのは、自然界のものを人間が加工したものだからだ。
だから正確に言えば宝石ではないのだが、持つと不思議な感覚がした。冷たいはずなのに、ぬくもりを感じる。怪しいのではなく、落ち着いて、安心するような。お守りという言葉がしっくりくる、そんな感じだ。
「不思議な子だな」
空から覗く太陽に翳していたアクアマリンを、小さな巾着に入れる。そして紐を括り付けると、首に通した。お守りなら、常に身に付けておきたい。
あれからルルは変装してアヴィダンに会ったと聞くが、無事に帰れただろうか。夕方あたり、ルルたちが寝泊まりしている宿に寄ってみよう。
マリンは腰のカバンから、薄汚れた人形を数個取り出す。これはアヴィダンの尾行を任せた木製人形だ。彼らはあくまで人形。無事尾行できても、顔を模したそこにある唇は、線にすぎない。いくらマリンが人形を愛しても、彼らが何かを言ったとしても、言葉は理解できないのだ。
ならば何故彼らに尾行をさせたのか。会話ができなくとも、見る事はできるからだ。
「ちょっと借りるよ」
人形に埋め込まれた、綺麗な青とピンクの瞳。それはマリンとよく似ている。それもそのはず、嵌っているのはローズクオーツとアクアマリンなのだ。
人形にはどれも魔力を込めている。この子たちに込めたものは、簡単に言うと情報記憶だ。この目を模した宝石に映ったものを、正確に映像化できる。だから偵察にはもってこいだった。
人形と言えど、目を取るのは少し罪悪感がある。そんなふうに思い入れをするのは、マリンが自分の目を自ら抉り取った経験があるからだろう。
全員から取り終えた宝石を、傷付かないよう丁寧に柔らかな布の上に集め、手をかぶせる。今日のような空色をした左目を閉じ、集中して深呼吸する。少しして、手の平に魔力の熱が生まれた。じわじわと、体の中に戻ってくる。やがて魔力は、主人に映像を見せた。目蓋裏にアヴィダンの背中が見えた。
アヴィダンは名声のある芸術家たちに、商談をしている。音まで録れないのがもどかしいが、特別怪しい動きではない。基本的には、自国のリベルタから持ち寄った商品を勧めていた。
その中にはジオードも居た。芸術を嗜む者は名を知るほどの巨匠だ。当然だろう。しかしジオードには何も勧めていない。ただ会話しているだけのようだ。彼が他人の話を聞くなんて珍しい。
(大丈夫かな……。一番忠告するべきなのはあいつかも。あとで顔を見に行こう)
ジオードはそう簡単に他人を信用しない。しかしアルナイトやフロゥの事を持ち出されたら、話は変わってくる。偏屈な性格をしてはいるが、弟子である二人には甘いのだ。
ジオードの自宅から出てしばらくは、特に変化のない景色が続く。街を見て回ったり、反り立っている壁を確かめるように撫でたり。小さいが国で唯一の図書館に長い間居座った。やがてまた外へ出て、国を見回っていた。
(……何か探してる?)
マリンにはただの観光には見えなかった。リベルタから同盟を結ぶために来たのだから、偵察もする。しかしそれにしては国民に見向きもしないし、まるで国の内側の何かを探しているような。
場面は祭壇広場に変わる。すると、女神像をじろじろと値踏みする彼に、見知らぬ人物が近付いていた。国民衣装ではないが、マリンは知っている服。ファルベが手がけた衣装だ。となれば、これはルルの変装。ちょうどいい。無事かどうか、少しでも確認できる。
ルルが商品とアヴァールの国石を見せると、アヴィダンはすぐ信用したようだ。アヴァールの国石をこういう時に生かすとは、改めて聡明だと思う。しかし残念だが音声は無いし、ルルの顔は布で隠されている。どんな話をしているか、全く予想ができない。
ルルが女神像を見上げ、アヴィダンも視線を上げる。すると彼は横に首を振り、意味深に身を寄せた。何やら仄暗い、企みのある笑顔。下衆の商人がよくする顔だ。するとルルが立ち上がった。本に商談の終わりを告げたのか、アヴィダンは追わずそのまま見送る。最後に何か言ったようだが、ルルはそれに応える事なく去って行った。
(良かった、ルルは無事みたいだ。でも意外と無茶な事するんだなぁ)
まあ、自分も人の事を言えないが。それでも、オリクトの民にとっては、もしも種族がバレたら大変な命懸けだ。ルルはいつもこんなふうに旅をしているのだろうか。大人しいと思っていたから、意外な一面を見れた気分だ。
ルルがどんな会話をしていたか気になる。目が見えないし魔法が使えない種族だから、この映像を直接見せられないのが残念だが。それでも情報を共有しておきたい。
視界が暗くなる。映像が終わったのだ。人形が帰ってくるのが遅かったが、それにしては映像が少ない。だが全員帰って来た。
(アヴィダンに気付かれた? それにしては無傷……。念の為、新しい目に取り替えよう)
もし帰って来たのがアヴィダンの手口だとすれば、動かすのに重要である宝石に仕掛けがされているかもしれない。考えすぎかもしれないが、最悪な出来事を思いつくだけ搾り出して、それ用の策を取るのは生き残るのに鍵となる。用心するに越した事はないのだから。
~ ** ~ ** ~
フロゥは筆を置き、悩ましそうに顔をしかめて深くため息をついた。ジオードが工房の鍵を開けてからすぐ、キャンバスと向き合った。そうして何時間経ったか、もう昼過ぎ。
心が晴れない。描けば描くほど、霧がかかるようにモヤモヤする。絶えないため息はまるで、胸に巣食う霧を吐き出そうとしているかのようだ。
(こんなので、僕は芸術祭に出せるんだろうか)
フロゥの絵は独創的な中に繊細さがある。彼が見た世界を心と頭の中で混ぜ合わせ、独自の色と形で再現する。だから正解がなく、本人も迷走しやすい。
特に彷徨う原因となるのは、自信のなさだろう。フロゥは自分に厳しい性格で、長所を自覚するのが苦手だ。これでも長い間筆を取って生きた。だから基礎も応用技術もそれなりにあるのは自負している。だが芸術というのはその先にあるのだ。
フロゥは置いたままの筆を持てず、隅に寄ったキャンバスを見る。アルナイトの作品だ。フロゥは国民から彼女と並べて見られている。同じ優勝候補だ。優勝者の座は五人。そのうちの一人が、国宝を扱う権利を手にできる最終優勝者。フロゥが目指すのはそこだ。
だが彼には国宝以外の目的があった。彼にとっては一世一代で、人生を変える目的。それは告白。アルナイトに、好きであるという言葉を伝える事。もし最終優勝者になれたら、少しは自分に自信が持てるから。
フロゥはアルナイトが女性であるのを知らない。しかし性別関係なく、彼女の性格に惹かれていた。底抜けのない明るさに、相手のため一生懸命になる思いやり。自分にはない、真っ直ぐとして誰にも譲らない心を持つ彼女。自分にはもったいない存在。それでも伝えたかった。
フロゥは同性愛派でも、異性愛派でもない。だから相手がどちらだろうと関係なかった。問題はアルナイトがどうかだ。
「……アルナイト」
こんな時、彼女だったら背中を叩いて鼓舞するだろうか。それとも褒める? それか問題を探そうと、一緒に首をかしげるだろうか。
ルルと探索しに行ったとジオードから聞いている。詳しく聞けば、二人で協力し合って日を分け、芸術祭に向けて仕上げるのだとか。アルナイトの絵は、彼女の頭で完成している。という事は、間違いなく素晴らしい作品が完成するというのは、約束された。
考えるだけで、早くその素晴らしいものを見たい。ライバルとかではなく、観客の一人として楽しみだった。
(明日は会えるだろうか。きっとあいつの笑顔を見たら、モヤモヤも消える)
それほど、フロゥにとってアルナイトは太陽の存在だ。
下から、階段をゆっくり上がってくる音がした。聞き慣れた足音はジオードのだと分かる。すぐ予想していた顔が見えた。ジオードは何も言わず、絵を眺めた。そして筆を置いているフロゥを見る。
「進まないか」
「……はい」
「外には出たか」
「はい、時々」
「絵の材料が不足してるんじゃないか?」
フロゥは急いで自分のスペースを見る。しかし絵の具も筆も、必要なものや試そうと思っていた物も揃っている。そう思っていると、ジオードは「違う」と短く言った。
「今日の空の色はなんだ」
「え? あ……」
分からない。ずっと悩んでいて、地面ばかり見ていたせいだ。そう言えば、ここ数日はずっと視界が下ばかり見ていた気がする。
言葉が詰まった事で、ジオードはやはりと仕方なさそうな息を鼻から吐く。彼にとって重要なのは部屋で考える事ではない。外で見て、聞いて、感じる事。五感で感じ取るのが、フロゥにとっての材料集めとなるのだ。
「で、ですが時間が」
「それ以上辛気臭い顔をすると、それなりの絵にしかならんぞ。お前はそんな絵を描きたいのか」
「い、いいえ!」
思わず立ち上がったフロゥに、ジオードは階段を降りながら鼻を鳴らす。
「筆が持てるようになるまで帰るな」
「はいっ」
フロゥは帰っていくジオードへ深く頭を下げる。彼が去ってすぐ、外に行くため荷物をまとめた。厚紙でできた小さなスケッチブックと、外でも書きやすい小さな筆を一本。あとは何かあった時用にルナーも少し。
階段を滑り降り、勢いよく工房のドアから出て行く。外へ行くと考えた時、行きたい場所も頭に浮かんだ。神の寝床の足元に当たる場所で、空高く聳え立つ塔がある。そこは展望台となっていて、国全体が一望できた。そこでならゆっくり考えられるし、次に行くべき所も分かるだろう。
悩んで固まっていた体が、ジオードの助言でこんなに動くようになった。やはり彼は尊敬するべき巨匠で、最高の師匠だとフロゥは胸に刻み直す。
塔に着いて、ドアを開ける。そこには上へ上がる階段が長く続いていた。一段目に足をかけた時、フロゥはもう一つ自分以外の足が階段を踏んだ音を聞く。しかし音は遠く響いていて、最上階にいるのが分かった。先客がいるようだ。一人でじっくりできないのは残念だが、塔はみんなのもの。
フロゥはここ数日で一番軽い足取りを感じながら、階段を登って行った。
最上階まで来る頃には、若くてもさすがに息が上がる。ドアを開け、彼を迎えたのは膨大な景色と、一人の男。フロゥを見て、親しげに微笑んだのは、アヴィダンだった。
そんな彼の背後から、ゆっくりと一人が忍び寄った。別の事を考えているファルベは気付かない。
「わっ!」
「!」
突然の声に、ファルベは勢いよく振り向く。そこに居たのは、マリンだった。ファルベの気分が晴れなかったのは、恋人の安否に対してだった。偵察に行って、昨晩結局帰って来なかったのだ。
やっと帰って来た彼に、ファルベは表情を安堵と喜びの色に変えた。だが名前を呼びかけた所で我に帰ると、ふいっと顔を背ける。マリンは予想外の反応に慌てて前に回るが、また背を向けられた。
「あ、あれ? ファルベ? 僕だよ?」
「そんな顔の男、私の知り合いに居ない」
冷たい声で遮られ、マリンはさっと顔を青くさせる。そしてすがるように胸の前で指を絡めた。
「ファルベぇ! ごめんよ僕の愛しい人、許しておくれ……!」
「……知らない」
「君に見捨てられたら本当に生きていけないよっ」
そう言って背中を向けられたマリンは、膝から崩れ落ち、情けなく叫ぶ。人目なんてどうでもいい。マリンにとってはファルベが全てで、もはや見えていない。
ファルベはまるで失恋でもしたかのように泣く声に立ち止まり、仕方なさそうな息を吐く。ちょっとは怒ったのが伝わっただろうか。彼からすればきっと、少しでも場を明るくさせようと驚かせたのだろう。心配しないで、何事もなく元気に帰ったよ。いつもの僕だよと伝えるために。しかし今のファルベにその気遣いは不正解。正解は「名前を呼んでただ抱きしめる」だ。
ファルベは涙と共に溺れる声で呼ばれ、振り返った。そして神にでも祈っていそうなマリンの目の前でしゃがみ、涙が濡らす頬を拭う。涙を溜める青い瞳の目蓋にキスをして、可笑しそうに笑った。
「情けない男だな」
「だ、だってぇ」
「……ほら立って。朝食、用意できてる」
差し出された薄ピンク色の手を取って立ち上がりながら、マリンはハッと泣き止んだ。
「僕の分もっ?」
「当たり前だ。それとも、また私を独りにする気か?」
「しない、二度としないと誓うさ! 帰れなくてごめんよ……!」
握っていた手を引き寄せられ、力強く抱きしめられる。ファルベも背中に腕を回し、ようやく「おかえり」と微笑んだ。
朝食を終えたマリンは、自室の机を前に難しそうな顔をしていた。食事をしながらファルベから聞いた、昨日の出来事を頭の中で振り返る。
ルルが訪れてアヴィダンの話をした事。そして彼がくれたアクアマリン。オリクトの民が生み出す美しい鉱石は、あくまでも宝石の成分に近いもの。宝石というのは、自然界のものを人間が加工したものだからだ。
だから正確に言えば宝石ではないのだが、持つと不思議な感覚がした。冷たいはずなのに、ぬくもりを感じる。怪しいのではなく、落ち着いて、安心するような。お守りという言葉がしっくりくる、そんな感じだ。
「不思議な子だな」
空から覗く太陽に翳していたアクアマリンを、小さな巾着に入れる。そして紐を括り付けると、首に通した。お守りなら、常に身に付けておきたい。
あれからルルは変装してアヴィダンに会ったと聞くが、無事に帰れただろうか。夕方あたり、ルルたちが寝泊まりしている宿に寄ってみよう。
マリンは腰のカバンから、薄汚れた人形を数個取り出す。これはアヴィダンの尾行を任せた木製人形だ。彼らはあくまで人形。無事尾行できても、顔を模したそこにある唇は、線にすぎない。いくらマリンが人形を愛しても、彼らが何かを言ったとしても、言葉は理解できないのだ。
ならば何故彼らに尾行をさせたのか。会話ができなくとも、見る事はできるからだ。
「ちょっと借りるよ」
人形に埋め込まれた、綺麗な青とピンクの瞳。それはマリンとよく似ている。それもそのはず、嵌っているのはローズクオーツとアクアマリンなのだ。
人形にはどれも魔力を込めている。この子たちに込めたものは、簡単に言うと情報記憶だ。この目を模した宝石に映ったものを、正確に映像化できる。だから偵察にはもってこいだった。
人形と言えど、目を取るのは少し罪悪感がある。そんなふうに思い入れをするのは、マリンが自分の目を自ら抉り取った経験があるからだろう。
全員から取り終えた宝石を、傷付かないよう丁寧に柔らかな布の上に集め、手をかぶせる。今日のような空色をした左目を閉じ、集中して深呼吸する。少しして、手の平に魔力の熱が生まれた。じわじわと、体の中に戻ってくる。やがて魔力は、主人に映像を見せた。目蓋裏にアヴィダンの背中が見えた。
アヴィダンは名声のある芸術家たちに、商談をしている。音まで録れないのがもどかしいが、特別怪しい動きではない。基本的には、自国のリベルタから持ち寄った商品を勧めていた。
その中にはジオードも居た。芸術を嗜む者は名を知るほどの巨匠だ。当然だろう。しかしジオードには何も勧めていない。ただ会話しているだけのようだ。彼が他人の話を聞くなんて珍しい。
(大丈夫かな……。一番忠告するべきなのはあいつかも。あとで顔を見に行こう)
ジオードはそう簡単に他人を信用しない。しかしアルナイトやフロゥの事を持ち出されたら、話は変わってくる。偏屈な性格をしてはいるが、弟子である二人には甘いのだ。
ジオードの自宅から出てしばらくは、特に変化のない景色が続く。街を見て回ったり、反り立っている壁を確かめるように撫でたり。小さいが国で唯一の図書館に長い間居座った。やがてまた外へ出て、国を見回っていた。
(……何か探してる?)
マリンにはただの観光には見えなかった。リベルタから同盟を結ぶために来たのだから、偵察もする。しかしそれにしては国民に見向きもしないし、まるで国の内側の何かを探しているような。
場面は祭壇広場に変わる。すると、女神像をじろじろと値踏みする彼に、見知らぬ人物が近付いていた。国民衣装ではないが、マリンは知っている服。ファルベが手がけた衣装だ。となれば、これはルルの変装。ちょうどいい。無事かどうか、少しでも確認できる。
ルルが商品とアヴァールの国石を見せると、アヴィダンはすぐ信用したようだ。アヴァールの国石をこういう時に生かすとは、改めて聡明だと思う。しかし残念だが音声は無いし、ルルの顔は布で隠されている。どんな話をしているか、全く予想ができない。
ルルが女神像を見上げ、アヴィダンも視線を上げる。すると彼は横に首を振り、意味深に身を寄せた。何やら仄暗い、企みのある笑顔。下衆の商人がよくする顔だ。するとルルが立ち上がった。本に商談の終わりを告げたのか、アヴィダンは追わずそのまま見送る。最後に何か言ったようだが、ルルはそれに応える事なく去って行った。
(良かった、ルルは無事みたいだ。でも意外と無茶な事するんだなぁ)
まあ、自分も人の事を言えないが。それでも、オリクトの民にとっては、もしも種族がバレたら大変な命懸けだ。ルルはいつもこんなふうに旅をしているのだろうか。大人しいと思っていたから、意外な一面を見れた気分だ。
ルルがどんな会話をしていたか気になる。目が見えないし魔法が使えない種族だから、この映像を直接見せられないのが残念だが。それでも情報を共有しておきたい。
視界が暗くなる。映像が終わったのだ。人形が帰ってくるのが遅かったが、それにしては映像が少ない。だが全員帰って来た。
(アヴィダンに気付かれた? それにしては無傷……。念の為、新しい目に取り替えよう)
もし帰って来たのがアヴィダンの手口だとすれば、動かすのに重要である宝石に仕掛けがされているかもしれない。考えすぎかもしれないが、最悪な出来事を思いつくだけ搾り出して、それ用の策を取るのは生き残るのに鍵となる。用心するに越した事はないのだから。
~ ** ~ ** ~
フロゥは筆を置き、悩ましそうに顔をしかめて深くため息をついた。ジオードが工房の鍵を開けてからすぐ、キャンバスと向き合った。そうして何時間経ったか、もう昼過ぎ。
心が晴れない。描けば描くほど、霧がかかるようにモヤモヤする。絶えないため息はまるで、胸に巣食う霧を吐き出そうとしているかのようだ。
(こんなので、僕は芸術祭に出せるんだろうか)
フロゥの絵は独創的な中に繊細さがある。彼が見た世界を心と頭の中で混ぜ合わせ、独自の色と形で再現する。だから正解がなく、本人も迷走しやすい。
特に彷徨う原因となるのは、自信のなさだろう。フロゥは自分に厳しい性格で、長所を自覚するのが苦手だ。これでも長い間筆を取って生きた。だから基礎も応用技術もそれなりにあるのは自負している。だが芸術というのはその先にあるのだ。
フロゥは置いたままの筆を持てず、隅に寄ったキャンバスを見る。アルナイトの作品だ。フロゥは国民から彼女と並べて見られている。同じ優勝候補だ。優勝者の座は五人。そのうちの一人が、国宝を扱う権利を手にできる最終優勝者。フロゥが目指すのはそこだ。
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フロゥは同性愛派でも、異性愛派でもない。だから相手がどちらだろうと関係なかった。問題はアルナイトがどうかだ。
「……アルナイト」
こんな時、彼女だったら背中を叩いて鼓舞するだろうか。それとも褒める? それか問題を探そうと、一緒に首をかしげるだろうか。
ルルと探索しに行ったとジオードから聞いている。詳しく聞けば、二人で協力し合って日を分け、芸術祭に向けて仕上げるのだとか。アルナイトの絵は、彼女の頭で完成している。という事は、間違いなく素晴らしい作品が完成するというのは、約束された。
考えるだけで、早くその素晴らしいものを見たい。ライバルとかではなく、観客の一人として楽しみだった。
(明日は会えるだろうか。きっとあいつの笑顔を見たら、モヤモヤも消える)
それほど、フロゥにとってアルナイトは太陽の存在だ。
下から、階段をゆっくり上がってくる音がした。聞き慣れた足音はジオードのだと分かる。すぐ予想していた顔が見えた。ジオードは何も言わず、絵を眺めた。そして筆を置いているフロゥを見る。
「進まないか」
「……はい」
「外には出たか」
「はい、時々」
「絵の材料が不足してるんじゃないか?」
フロゥは急いで自分のスペースを見る。しかし絵の具も筆も、必要なものや試そうと思っていた物も揃っている。そう思っていると、ジオードは「違う」と短く言った。
「今日の空の色はなんだ」
「え? あ……」
分からない。ずっと悩んでいて、地面ばかり見ていたせいだ。そう言えば、ここ数日はずっと視界が下ばかり見ていた気がする。
言葉が詰まった事で、ジオードはやはりと仕方なさそうな息を鼻から吐く。彼にとって重要なのは部屋で考える事ではない。外で見て、聞いて、感じる事。五感で感じ取るのが、フロゥにとっての材料集めとなるのだ。
「で、ですが時間が」
「それ以上辛気臭い顔をすると、それなりの絵にしかならんぞ。お前はそんな絵を描きたいのか」
「い、いいえ!」
思わず立ち上がったフロゥに、ジオードは階段を降りながら鼻を鳴らす。
「筆が持てるようになるまで帰るな」
「はいっ」
フロゥは帰っていくジオードへ深く頭を下げる。彼が去ってすぐ、外に行くため荷物をまとめた。厚紙でできた小さなスケッチブックと、外でも書きやすい小さな筆を一本。あとは何かあった時用にルナーも少し。
階段を滑り降り、勢いよく工房のドアから出て行く。外へ行くと考えた時、行きたい場所も頭に浮かんだ。神の寝床の足元に当たる場所で、空高く聳え立つ塔がある。そこは展望台となっていて、国全体が一望できた。そこでならゆっくり考えられるし、次に行くべき所も分かるだろう。
悩んで固まっていた体が、ジオードの助言でこんなに動くようになった。やはり彼は尊敬するべき巨匠で、最高の師匠だとフロゥは胸に刻み直す。
塔に着いて、ドアを開ける。そこには上へ上がる階段が長く続いていた。一段目に足をかけた時、フロゥはもう一つ自分以外の足が階段を踏んだ音を聞く。しかし音は遠く響いていて、最上階にいるのが分かった。先客がいるようだ。一人でじっくりできないのは残念だが、塔はみんなのもの。
フロゥはここ数日で一番軽い足取りを感じながら、階段を登って行った。
最上階まで来る頃には、若くてもさすがに息が上がる。ドアを開け、彼を迎えたのは膨大な景色と、一人の男。フロゥを見て、親しげに微笑んだのは、アヴィダンだった。
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こっそり呟いた瞬間、
《願いを聞き届けてあげるよ!》
何故か全くの別人になってしまっていたアシュレイ。目の前で、アシュレイが倒れて意識不明になるのを見ることになる。
「よくも、義妹にこんなことを!皇子、婚約はなかったことにしてもらいます!」
義父と義兄はアシュレイが状況を理解する前に、アシュレイの体を持ち去ってしまう。
今までミュシャを崇めてアシュレイを冷遇してきた取り巻き達は、次々と不幸に巻き込まれてゆき…ついには、ミュシャや皇子まで…
ひたすら一人づつざまあされていくのを、呆然と見守ることになってしまった公爵令嬢と、怒り心頭の義父と義兄の物語。
はたしてアシュレイは元に戻れるのか?
剣と魔法と妖精の住む世界の、まあまあよくあるざまあメインの物語です。
ざまあが書きたかった。それだけです。
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