宝石少年の旅記録

小枝 唯

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【宝石少年と芸術の国】

芸術というもの

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 フロゥと別れ、隣の家へ繋がる階段を下りる。ジオードは、落ちないよう壁に手をつきながら渡るルルを一瞥した。一瞬だったが、向けられた視線が品定めするようなものであるのを、ルルはすぐ悟る。ジオードにとって、まだ彼は未知な存在なのだ。

「……どうやって描くんだ」
『触るの。本に描いてる』

 工房は二人は住んでいる住居の地下だった。床に作られた丸いドアを開け、梯子を渡る。
 窓が一つもないが、部屋の構造はあまり変わりない。資料本で埋まった本棚に、立てかけられる何枚もの絵。道具は床を踏むのに注意する必要がありそうだ。イーゼルには三台で支えるほど大きなキャンバスが置いてある。
 それ以外に三人の帰りを迎えたのはマネキンだった。ルルにとっては、ただの背の高い無機物。だが目が見えれば、暗がりのせいできっと叫び声を上げるだろう。

「見せてみろ」

 ジオードは空間の広さには物足りない小さな灯りをつけ、手を出した。ルルは紺の本を渡す。
 丸椅子に腰を掛けてページを開いた彼の後ろで、アルナイトが灯りの一つを近づけた。ジオードは銀縁のモノクルを通し、絵を見つめた。
 ページのめくる音が数枚もなかったため、比較的最初に描いたものを見ているのだとルルは予想できた。

「いつだ」

 ルルは指で線をなぞる。懐かしいそれは、クリスタを描いたものだ。

『三年は前』

 この本を手に入れた時は既に旅立っていた。だからこの絵は、クリスタの顔を思い出しながら描いた物。
 ジオードはページを大きく飛ばし、ついさっき描いたアルナイトとフロゥの肖像画を眺める。

「……全員、どうして目を閉じてるんだ」

 ルルは仮面の下で虹の目を丸くした。そう、彼が描く人物絵の全ては目が閉ざされている。それには理由があった。

『みんな触れると、閉じちゃうの。だから、形が分からない』
「あ~確かに目って触れないよな。自分でやっても痛いし」
「やるな馬鹿」

 瞳孔の形は、本で読んだ事があるから知識にはある。しかしだからと言って安易には書けない。種族の違いや、同種であっても個体による差というのはある。それこそ、同じ目は存在しないと言われるように。
 ルルの絵は、手の感覚を頼っているのもあって写実的だ。そこに想像が入ると、どう他に寄せても違和感の原因になってしまう。だから知識があっても、描こうとしないのだ。

「まあいい。色は?」
『さっき、初めてやったよ』
「どんなだ」
「そう言うと思って持ってきたぜ!」

 長年一緒に居るから、アルナイトは彼がどう接するかよく分かる。ジオードが先にルルの絵を見て質問をする事も、色について尋ねる事も予想していた。
 アルナイトは「じゃじゃーん」と言いながら、それまで背中に回していた両手を差し出す。ジオードは受け取った絵を、近くで見つめたり遠くで眺めたりと、しばらくの間観賞していた。そして癖のようにふんっと鼻を鳴らす。

「なってないな」
「処女作だって言ってんじゃん。先生のイジワル」
「そうじゃない。これはただの線だ」

 ルルは仮面の下で目をパチクリさせると、首を傾げた。いくら立体を絵に落としたところで、線で描いているのだから当然だ。ジオードが何を言いたいのか分からない。

「確かに、技術はある。目が見えないから他の感覚が過敏だと考えても、触れた物を正確に紙に落とし込むのは、そう簡単ではない。だがそれだけだ」
『よく分からない。絵はそういう、ものでしょう?』
「絵は生き物だ」

 ルルは隠れた目を、驚いて丸くする。そんなふうに考えた事がなかった。
 彼にとって、絵は現実にある物を平面に落とすだけの行動。思い出を、その場に閉じ込めておくための手段。その行動が楽しいだけで、絵自体に思い入れはなかった。

「絵と芸術は別物だ」

 ルルは勘違いしていた。絵を描くという事は、芸術に触れる事。簡単な遊びにすぎないのだと。だがそんな単純な事ではなかったのだ。
 宝石の心臓が、大きく跳ねるのを感じた。興奮している。全く知らない、未知の世界を知った気持ちのいい緊張感が、体を支配している。

『……見たい』
「あん?」
『ジオードの絵を、見たい。知りたい。僕、絵は、ただの手段だと、思っていたの。でも、そうじゃないと、今、初めて知った。もっと、知りたい』

 ルルは我慢ならず身を乗り出し、意思表示するようにジオードに顔を近付ける。頭に響く声は一定の音を保っている。それでも、不思議と大きく響いているように聞こえ、興奮しているのはなんとなく分かった。
 ジオードは勢いに濁った白い目を戸惑いに瞬かせると、距離を取るように顔を逸らした。

「……好きにしろ」
「ルル、こっちに乾いたやつあるから見ようぜ!」

 アルナイトに手を引かれ、ルルは部屋に取り付けられた小さなドアをくぐった。絵は工房の中にもあるのに、どこへ行くのかと首を傾げた。連れられて来たのは倉庫。中は過去に仕上げた彫刻や絵画がぎっしり詰まっていた。

『これ、全部ジオードの?』
「そ、すげーよなぁ。もう何十年も芸術家なんだ。ホントはこれ以上あると思うんだけどさ、オレたち引っ越して来たから」

 幼い頃の記憶がないアルナイトには、ジオードといつからいたか分からない。それでも、覚えている彼の姿はいつも創造に尽くしていた。だからアルナイトも、画家の道に立ったのだ。

「これとか?」

 奥の方から、埃避けの布をかぶせた絵をいくつか引っ張り出す。アルナイトが選んだのは、風景画、抽象画、自画像をそれぞれ一枚ずつ。
 風景画は、どこかの丘から満点の星空を映した湖を見下ろしている景色。抽象画はいくつもの油絵の具を分厚く塗り、まるで引き裂くように切り込みが入っていて、触ってもその様子がよく分かった。自画像は薄暗い中でこちらを睨むような視線をよこすジオードだ。
 どれも当たり前だが完成度が高く、いい絵だ。だが、だからこそルルは一つ確信する。

「ルル? どした?」
『……僕には、やっぱりできない』

 絵画に触ったのは初めてだ。しかし普段から描いているのだから、彼の技術が高いのは理解できる。そう、たったそれだけだ。技術面以外、心でそれを感じる事ができない。それはやはり、どうしたって見えなければどうしようもない感覚なのだ。
 ルルは力なくアルナイトの手を握る。

『どうしよう……こんなに、分からないのは、初めてなの。なのに僕、絵を描きたい』

 アルナイトは開きかけた口を、迷った末に閉じた。頭に響く小さな声が悲痛そうで、迂闊に喋れない。まだ若くとも芸術家である彼は分かる。他人を感動させるには、その本人が感動しなければ伝わらないというのを。
 ルルは本気で描きたいと思っている。だからこそ、最初から盲目であるために生まれた差は、その場しのぎの慰めの言葉でなんか埋まらない。アルナイトはただ、人よりも冷たい薄青い手をギュッと握り返すしかできないでいた。

「絵画にこだわる理由はなんだ?」

 しんとしている中、ジオードの問いにルルはきょとんとする。絵は描きたい。だからと言って、確かにどうしても絵画でなければならないのかと言われれば、そこに執着する理由はない。
 ジオードはアルナイトが持って来た絵を、少し懐かしそうに見つめた。

「俺はたまたま、絵画で他人の心を動かせた。マリンは絵なんざ描けんが、人形劇で人を虜にする。俺はヤツのような劇は思い付かん」

 ジオードはルルに才能があると知っていた。何故なら彼は、できない事をできないと認められたから。間違った者は、憧れというだけで自分に見合わないと認められず、本来の才を見逃す。自分を理解するだけでも立派な事なのだ。

「……これを書き続けられるのは、好きなだけじゃないだろ」

 ジオードはそう言って紺色の本をルルに返すと、倉庫から工房へ戻って行った。
 仮面下の虹の目が、これまでの旅を共にしてきた本をじっと見つめる。そういえば、これを読んだ友人たちはみな、とても楽しそうだった。一緒に旅をしている気分になると言う者も居れば、歳に関係なく、旅に出てみたいと言う者も居た。

『そっか、僕はこれで……』

 元々、これを読んだ人が自分と同じように、旅や見ず知らずの国の情景に胸を高鳴らせて欲しかったから書き始めたのだ。そのために伝え方や見やすさなどを考えたじゃないか。

「ルル?」

 どうして忘れていたのか。最も身近に、求めるものはあったのだ。
 ルルは心配そうに顔を覗き込んだアルナイトに、ほんの少し嬉しそうな表情を見せた。

『見つけたよ。僕の芸術』

 アルナイトは頭に響くしっかりとした音に、ぱっと顔を明るくさせた。


 工房で筆を動かしていたジオードは、雨音とは別の音に目をしかめていた。何やら倉庫からやかましい二人分の駆けて来る音がする。そう思っていれば、すぐアルナイトとルルが走って来た。

「せんせー! ルルが見つけたって!」
「やかましい!」

 ジオードが振り返ると、二人が嬉しそうに立っている。ルルが本を大事そうに抱えているのを見て、彼は見つけたという意味が予想できた。

『ありがとう、ジオード』
「何がだ。別に何もしとらん」

 そうは言っても、ルルにはジオードがこの答えを導くために手を引いてくれたのを知っている。そうでなければ、わざわざ絵画にこだわる必要のない事も、この本を書く本当の理由にも気付かせてはくれないだろう。
 やはり彼は、ぶっきらぼうなだけで優しい人だ。

『僕、この本を、展示するよ。そのために、アルティアルの事も、調べなくちゃ』
「オレたちに協力して欲しいんだって!」
「はあ? なんで俺も要るんだ」
『少しでいい。服の事、知りたいんだ。男女で、違うでしょ? だからアルナイトと、ジオードで』

 ルルは言葉を途中で止め、首を傾げた。空気が変わった。アルナイトもジオードも、何故か驚いてルルを見ている。

『どうしたの?』
「オレと先生のは同じだぜ?」
『そうなの? アルティアルは、男女同じ?』
「いや……どうしてそう思った」
『だってアルナイトは、女性でしょ?』

 また空気が変わる。だが今度は二人別々の感情だと、ルルは肌で察した。
 アルナイトは目を輝かせ、ジオードは何故か緊張したように表情を固めている。

「すっげー! よく分かったな!」
『どう言う事?』
「へへへ、オレが女だって分かったの、ルルが初めてなんだ」

 そう、アルナイトは女性。だが人称、口調、服装共に男性を纏っている。

「……何故分かった?」

 ジオードの声はいつも通りに聞こえる。だがルルの鉱石の耳にだけは、僅かな震えも伝わって来た。ルルは心底不思議そうに答える。

『匂い。種族に寄るけど、男女で、匂いが違う。僕はいつも、それで判断する』
「え、オレ臭い?」
『ううん。生き物ならみんな、ある匂いだよ』

 特に汗や水に濡れた時などが一番、鼻腔をくすぐるだろうか。ルルにとってそれが当たり前。他のみんなもそれで判断できると思っていた。だからそれが特殊な事で、本来なら意識しても嗅げない程度の匂いであるのを初めて知った。

『どうして、男性の格好? 好きだから?』
「んー、昔っからだしなぁ」
「おい」

 頭を傾げるアルナイトの思考を、ジオードの声が遮る。彼は白濁色の目を、時計へ向けた。もう雨雲の上で月が上がっている。

「もうこんな時間?! ルルごめんな、暗くなっちまった!」
『あ……ううん、大丈夫。今日はもう、帰るね。また』
「あ待って、途中まで送る! 雨避け持って来るな!」

 アルナイトは慌ただしく自室へ駆け込んでいった。残されたルルがドア前に立った時、ジオードに手を掴まれた。
 ルルを見る彼の目は、いつもよりもどこか必死さを含ませている。ルルはそれに気付いていないかのように首を傾げた。

『なぁに?』
「…………今日知った事を、他言するな」
「あー先生、ルル痛いってー」

 アルナイトの声に、ジオードはぱっと手を離す。そこまで力は入っていなかったから、別に痛くはなかった。むしろ、どこか怯えるように震えていた。
 赤く分厚い布でできた雨避けをかぶって、アルナイトが先に外へ出る。土砂降りだ。ルルは遅れて外に出ながら、ジオードだけに囁いた。

『約束』

 雨の中、太陽のような笑顔でいるアルナイトの隣に立つと、いつも通り手を繋ぐ。ルルは握り返しながら、見送るジオードに振り返って緩く手を振った。
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