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【宝石少年と霧の国】
彼女たちの力
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アパティアとシリカが家に突撃したのは、アガットも獣人と一緒になって見えていた。
急いで戻って加勢しなければ。負傷者を抱えたままでは不利だ。しかしそう思って、引き返そうとした足が止まる。背中を引き留めたのは、何人もの足音。侵入者のものだ。
こんな状況で頼れるのは森の母。しかし彼女は彼女で、手が離せない状況になっている。ならば、弟子である自分がこの場を持つしかない。アガットは判断すると、登りかけた坂から飛び降りる。
翻るスカートのポケットから数個の石を取り出した。それを敵ではなく、獣人が避難した湖へ投げつける。石は湖の少し手前にぶつかると、粉々に砕けた。すると、その場から薄青いシールドがドーム状に貼られる。これは、彼女が作った人工石だ。
ひとまず彼らの安全の確保は終えた。次は侵入者に騒めく獣人に指示を出す。
「皆様、慌てる必要はございません! これ以上広がらないよう、火の消化は続けてください。他の方々はわたくしと共に! 大樹に近づけさせてはなりません!」
不思議な光景だ。少女の指示に皆は頷き、従っている。森の母の弟子とはいえ、単なる人間の少女なのに。
敵は屈強な獣人の先頭に立った少女に目を疑い、隣同士で視線をかわす。彼女はそんな時でも、スカートの裾を足首まで上げて優雅に腰を折る。
「ご機嫌よう。ここから先は、わたくしたちがお相手致しますわ」
淑女としての礼儀を全うした彼女に、相手は不躾にも笑いを返した。まあ当然と言えば当然か。なにせ彼らは皆、てっきり恐ろしい魔女が立ちはだかると思っていたから。
「おいおいお嬢ちゃん、獣人に混ざって騎士様気取りか?」
「ガキは退きな。無駄に怪我するぞ」
「あら、お優しいのね。心配ご無用ですわ。お相手なさると言ったでしょう?」
アガットはしゃべりながらも、裏手から回ろうとしている敵を食い止める指示を、さり気なく出す。そして向けられる笑顔の余裕が見栄に見えないのが、敵にとっては奇妙だった。
品定めするような無数の視線が、彼女を舐め回す。どう考えても敵が有利。その体は動きやすそうなワンピース以外、携えていない。
「お相手って、もしかしてそのスカートの中でかぁ?」
「それだったら歓迎だ」
「小さくても女は女だもんな」
下衆い笑い声が、小さくも炎の中に混ざる。ざっと見たところ、敵の中に女は居ない。おそらくアパティアは自分以外の同性はあえて仲間に入れず、好みばかりを集めたのだろう。彼女一人であるならば、必然的に抑えなければならない欲がある。
「だったら嬢ちゃん、さっさと──」
からかいの言葉が、中途半端に止まった。悪寒がする。その場の仲間も、同じ寒気を感じているようだ。そんな頃、アガットの背後に居る獣人たちが、何故か少し騒めき出した。何やら彼女の後ろ姿を見て、顔を引きつらせている。
視線を下ろすと、アガットはにこやかに笑っていた。人間たちはうっと声を飲む。鮮やかな笑顔のはずなのに、その寒気が彼女からの殺意であるのを理解したのだ。
「女が男を奉仕するだなんて、ずいぶん偏った思考ですわね」
声色は変わらないが、怒りが滲み出ている。確かに彼らの言い方は非常識であり失礼だ。そして、彼女が最も嫌いな言葉でもある。
「目の前の人が必ずしも異性愛派だなんて、思わない方が宜しくてよ? それに……」
言葉を止めて、一歩、アガットの小さな靴が草を踏む。しかし彼女の行き先は、思わず後ずさった敵の元ではなかった。向かった先には、大きな岩。彼女はそれを抱きしめる。
長手袋が隠す細い腕が僅かに震えたと思った時、岩の下が見えた。
「はっ?」
きっと柔らかな土は、何十年と冷たく硬い肌を支えていただろう。それが今、まだ十も半ばの少女によって離された。そう、アガットは何十と大人が集まっても難しそうな岩を、あっけなく持ち上げたのだ。
「わたくしにも、好みと言うものがありましてよ!」
彼女は振りかぶるとそう叫び、声の勢いに乗せて岩を投げ飛ばした。岩は軽々空を舞い、目で追った敵の真上で重力に従って落ちた。ドスンと荒々しい音に、潰れた彼らの喉から鈍い喘ぎ声が漏れる。
アガットは少し汚れた手をパンパンと叩くと、ハッとして獣人に振り返った。恥ずかしそうに口元を隠す。
「イヤダわ、ジプスには内緒にしてくださいまし」
「アイツは喜ぶと思いますよ」
「……アガット様は健在だな」
「ああ、あの力、いつ見ても恐ろしい」
アンブルがアガットを頼りにしている大きな理由は、これだった。彼女は治癒魔法以外はそこまで得意ではない。その代わり、物理力に恐ろしく長けている。
元々は女性の平均並で、男性には及ばなかった。しかし呪いの影響なのか、子供の体になった頃から力が異常に発達した。力は岩だけでなく、数本の大木を軽々持ち上げられるほど。それを知っているからこそ、獣人は彼女に従う。
獣人から振り向いたアガットの目の前に、槍が向けられた。潰れた仲間を見送った彼らは、化け物を見る目で彼女を見つめる。ただの人間の少女が出す力ではないから、そう言われても仕方ない。それを合図に、数人が襲いかかった。獣人も彼女に続き、侵入者と武器を噛み合わせる。
アガットは小ささを生かし、大きな拳や足をひょいひょいと避ける。素早く懐に入り込み、同族だからこそ分かる弱点を思い切り蹴り上げた。少女に対して何人も取り囲んでも、呼吸を終えるうちには彼女以外誰も立っていない。
アパティアが侵入してからどれくらい経ったか。そろそろ誰も加勢しない事に、苛立つ頃だ。人間にとって、獣人の強さは圧倒的だ。釣り合う力を持つシリカは、すでに家の中。元々は共に侵入する手筈だったが、世界の王会いたさに負けたのだ。
最大の戦力を失ったせいで、一歩も進入できない。森に放った火も、順調に消化されていっている。このままでは、無事に生きたとしてもアパティアに仕置きをされるだろう。それだけは免れなければと、焦りに仲間と視線を交わした。やがて目線は、木に抱かれた家へ向く。
そうだ、まだ弓矢が残っている。これを使えば、上手くいけばアパティアごと燃えてくれるのではないか。
一人隙をつき、姿勢を正して弦を引く。気付いたアガットが手元を弾き飛ばすほんの僅かな手前、矢は放たれた。つられるように、一本二本と矢が放たれる。
鏃は刺さらず幹にぶつかり、パリンと割れる。石の中から溢れた液体が空気に触れると、大きく燃え上がった。たったの数本でも、風のせいで炎は強く育ち木を喰らっていく。
「ああ、なんて事を……!」
「アガット様!」
無防備となった彼女の背中へ、息を潜んで忍び込んだ男が、大きく剣を振りかぶる。アガットは大きくなる炎に取られていた意識を引き戻し、ほとんど反射で飛び退いた。
なんとか免れたが、空気を含んで広がったスカートが膝下まで切れた。もし瞬きに時間を使っていたら、これは皮膚だっただろう。
(みんな……どうか無事でいてくださいっ)
今すぐにでも、彼らの元へ駆けつけたい。しかし、だからこそアガットは気持ちを飲み込み、これまで以上に強く拳を握った。
~ ** ~ ** ~
金属が擦れ合う悲鳴は激しく反響している。しかし音の跳ね返り方は、なんだか奇妙だった。空間にしては篭っている。アンブルの魔法によって、シールドの中に閉じ込められているのだ。もちろんそれは、逃げる術を無くすためだ。
逆を言えばアンブルも逃げられないが、心配無用だった。魔法を使わずとも、アパティアの力は劣っている。今まで他人の力を利用してきたせいだ。
(このままでは、確実に負ける……っ。国宝さえ、王の血さえあればこんな魔女など!)
「お前さん、今もなお他人の手を望んでいるな?」
「……あら、心を覗くなんて、はしたないわね」
「読まなくたって分かるさ。いい加減、自分の足で立ってごらん」
「何ですって?」
黒々した剣が、アパティアの首元を飾るネックレスと空気を切った。剣先と喉が紙一重で避けられる。しかしアンブルからは、取り逃したという悔しさは見当たらない。
棘のような見た目をした剣が、空気に揺れて見えた。幻覚などではなく、剣は蛇のようにずるっとその身を伸ばす。姿を鞭へと変えた武器は、滑るようにしてアパティアの足を叩いた。避ける猶予なく足元をすくわれ、その場に崩れ落ちる。
「立てないのかい?」
捻ったようで、片足に力が入らない。アパティアは他人を求めて目を彷徨わせる。アンブルはそんな彼女に苛立つように鞭を振るった。
ヒュンッと空気の唸りが聞こえたと思えば、顔が燃えるように熱くなった。整った顔のど真ん中に、赤い地割れができる。仮面のようにした化粧が、血と涙によってグズグズに崩れた。嘆く姿はまるで化け物だ。
「馬鹿だね。他人の足で立っていた人間が、補助も無く立てるわけがないんだ」
「……っ! お前、お前なんか、王の血を手に入れたら、私の手で!」
ここまで言って、まだ分からないらしい。捉えるだけにして、事が済んだら望んだ王に裁いてもらおうと思っていた。だがもう、ここで首を落としてやろう。アンブルは鞭を再び鋭い剣に戻し、思い切り振りかぶった。
しかしグリップを握りしめた時、二人の間にコロンと何かが転がってきた。それは見覚えのある赤い石。鏃の欠片だ。割れた中から、ドロリとマグマのような液体が流れる。
まさかと、アンブルは窓へ振り返る。アパティアたちの派手な登場のせいで割れた窓から、それを皮切りにして何本もの矢が飛んできていた。液体は空気に触れた瞬間、木の床に炎となって舞踊る。窓の穴より外で砕けた石も、木肌に炎の爪痕を残す。
しかしアパティアの驚いた顔に、命令ではないというのが分かる。
「アンブル様、すぐに避難を!」
「コーパルさんも、早く……っ!」
小さな炎は瞬く間に人間の背丈を超え、シールドを破壊すると天井を焦がす。燃えたせいで足元が細くなった柱が耐えきれず、そのまま家主の背中へと倒れかかった。
なす術もなく、そのまま柱はズシンと空気を震わせながら、炎を巻き込んで横たわった。
しかしその下に、アンブルの姿は無かった。彼女は上からではなく、真横から押されて床に腰を打ち付ける。
「コーパル……ッ!」
しがみつく形で、彼女をその場から救ったのはコーパルだった。彼はかろうじて無事な右腕で、体を支えて起き上がる。そしてアンブルの無事を見て、優しく笑った。
「良かった、また、アンタを……守れた」
「坊や──」
「ルース、まだ終わってないぞ! 僕を、無視するな!」
瓦礫の中から、足を失ったシリカが這い出ながら叫んだ。しかし追い討ちをかけるように、真上に屋根の一部が崩れ落ちる。そこに悲鳴は無く、聞こえたのは微かな砕ける音だけだった。
幸せを望んだ哀れな同胞の最後は、なんて呆気ないのか。コーパルはただ、赦されるなら彼に静かな眠りをと願って目を閉じた。
壁の板も天井も剥がれ落ち、部屋の中は散々な有り様だ。コーパルの上に、火に包まれたカーテンの切れ端が舞う。アンブルは彼を抱きしめ、それから庇った。
敵の一人は、幸か不幸か襲撃によって事なきを得た。しかしアンブルはもう一人を探して、柱の向こう側を見る。アパティアが居ない。痕跡を追った視線が向いたのはドア。しっかり閉めたはずだが、無理に破った形跡があった。
急いで戻って加勢しなければ。負傷者を抱えたままでは不利だ。しかしそう思って、引き返そうとした足が止まる。背中を引き留めたのは、何人もの足音。侵入者のものだ。
こんな状況で頼れるのは森の母。しかし彼女は彼女で、手が離せない状況になっている。ならば、弟子である自分がこの場を持つしかない。アガットは判断すると、登りかけた坂から飛び降りる。
翻るスカートのポケットから数個の石を取り出した。それを敵ではなく、獣人が避難した湖へ投げつける。石は湖の少し手前にぶつかると、粉々に砕けた。すると、その場から薄青いシールドがドーム状に貼られる。これは、彼女が作った人工石だ。
ひとまず彼らの安全の確保は終えた。次は侵入者に騒めく獣人に指示を出す。
「皆様、慌てる必要はございません! これ以上広がらないよう、火の消化は続けてください。他の方々はわたくしと共に! 大樹に近づけさせてはなりません!」
不思議な光景だ。少女の指示に皆は頷き、従っている。森の母の弟子とはいえ、単なる人間の少女なのに。
敵は屈強な獣人の先頭に立った少女に目を疑い、隣同士で視線をかわす。彼女はそんな時でも、スカートの裾を足首まで上げて優雅に腰を折る。
「ご機嫌よう。ここから先は、わたくしたちがお相手致しますわ」
淑女としての礼儀を全うした彼女に、相手は不躾にも笑いを返した。まあ当然と言えば当然か。なにせ彼らは皆、てっきり恐ろしい魔女が立ちはだかると思っていたから。
「おいおいお嬢ちゃん、獣人に混ざって騎士様気取りか?」
「ガキは退きな。無駄に怪我するぞ」
「あら、お優しいのね。心配ご無用ですわ。お相手なさると言ったでしょう?」
アガットはしゃべりながらも、裏手から回ろうとしている敵を食い止める指示を、さり気なく出す。そして向けられる笑顔の余裕が見栄に見えないのが、敵にとっては奇妙だった。
品定めするような無数の視線が、彼女を舐め回す。どう考えても敵が有利。その体は動きやすそうなワンピース以外、携えていない。
「お相手って、もしかしてそのスカートの中でかぁ?」
「それだったら歓迎だ」
「小さくても女は女だもんな」
下衆い笑い声が、小さくも炎の中に混ざる。ざっと見たところ、敵の中に女は居ない。おそらくアパティアは自分以外の同性はあえて仲間に入れず、好みばかりを集めたのだろう。彼女一人であるならば、必然的に抑えなければならない欲がある。
「だったら嬢ちゃん、さっさと──」
からかいの言葉が、中途半端に止まった。悪寒がする。その場の仲間も、同じ寒気を感じているようだ。そんな頃、アガットの背後に居る獣人たちが、何故か少し騒めき出した。何やら彼女の後ろ姿を見て、顔を引きつらせている。
視線を下ろすと、アガットはにこやかに笑っていた。人間たちはうっと声を飲む。鮮やかな笑顔のはずなのに、その寒気が彼女からの殺意であるのを理解したのだ。
「女が男を奉仕するだなんて、ずいぶん偏った思考ですわね」
声色は変わらないが、怒りが滲み出ている。確かに彼らの言い方は非常識であり失礼だ。そして、彼女が最も嫌いな言葉でもある。
「目の前の人が必ずしも異性愛派だなんて、思わない方が宜しくてよ? それに……」
言葉を止めて、一歩、アガットの小さな靴が草を踏む。しかし彼女の行き先は、思わず後ずさった敵の元ではなかった。向かった先には、大きな岩。彼女はそれを抱きしめる。
長手袋が隠す細い腕が僅かに震えたと思った時、岩の下が見えた。
「はっ?」
きっと柔らかな土は、何十年と冷たく硬い肌を支えていただろう。それが今、まだ十も半ばの少女によって離された。そう、アガットは何十と大人が集まっても難しそうな岩を、あっけなく持ち上げたのだ。
「わたくしにも、好みと言うものがありましてよ!」
彼女は振りかぶるとそう叫び、声の勢いに乗せて岩を投げ飛ばした。岩は軽々空を舞い、目で追った敵の真上で重力に従って落ちた。ドスンと荒々しい音に、潰れた彼らの喉から鈍い喘ぎ声が漏れる。
アガットは少し汚れた手をパンパンと叩くと、ハッとして獣人に振り返った。恥ずかしそうに口元を隠す。
「イヤダわ、ジプスには内緒にしてくださいまし」
「アイツは喜ぶと思いますよ」
「……アガット様は健在だな」
「ああ、あの力、いつ見ても恐ろしい」
アンブルがアガットを頼りにしている大きな理由は、これだった。彼女は治癒魔法以外はそこまで得意ではない。その代わり、物理力に恐ろしく長けている。
元々は女性の平均並で、男性には及ばなかった。しかし呪いの影響なのか、子供の体になった頃から力が異常に発達した。力は岩だけでなく、数本の大木を軽々持ち上げられるほど。それを知っているからこそ、獣人は彼女に従う。
獣人から振り向いたアガットの目の前に、槍が向けられた。潰れた仲間を見送った彼らは、化け物を見る目で彼女を見つめる。ただの人間の少女が出す力ではないから、そう言われても仕方ない。それを合図に、数人が襲いかかった。獣人も彼女に続き、侵入者と武器を噛み合わせる。
アガットは小ささを生かし、大きな拳や足をひょいひょいと避ける。素早く懐に入り込み、同族だからこそ分かる弱点を思い切り蹴り上げた。少女に対して何人も取り囲んでも、呼吸を終えるうちには彼女以外誰も立っていない。
アパティアが侵入してからどれくらい経ったか。そろそろ誰も加勢しない事に、苛立つ頃だ。人間にとって、獣人の強さは圧倒的だ。釣り合う力を持つシリカは、すでに家の中。元々は共に侵入する手筈だったが、世界の王会いたさに負けたのだ。
最大の戦力を失ったせいで、一歩も進入できない。森に放った火も、順調に消化されていっている。このままでは、無事に生きたとしてもアパティアに仕置きをされるだろう。それだけは免れなければと、焦りに仲間と視線を交わした。やがて目線は、木に抱かれた家へ向く。
そうだ、まだ弓矢が残っている。これを使えば、上手くいけばアパティアごと燃えてくれるのではないか。
一人隙をつき、姿勢を正して弦を引く。気付いたアガットが手元を弾き飛ばすほんの僅かな手前、矢は放たれた。つられるように、一本二本と矢が放たれる。
鏃は刺さらず幹にぶつかり、パリンと割れる。石の中から溢れた液体が空気に触れると、大きく燃え上がった。たったの数本でも、風のせいで炎は強く育ち木を喰らっていく。
「ああ、なんて事を……!」
「アガット様!」
無防備となった彼女の背中へ、息を潜んで忍び込んだ男が、大きく剣を振りかぶる。アガットは大きくなる炎に取られていた意識を引き戻し、ほとんど反射で飛び退いた。
なんとか免れたが、空気を含んで広がったスカートが膝下まで切れた。もし瞬きに時間を使っていたら、これは皮膚だっただろう。
(みんな……どうか無事でいてくださいっ)
今すぐにでも、彼らの元へ駆けつけたい。しかし、だからこそアガットは気持ちを飲み込み、これまで以上に強く拳を握った。
~ ** ~ ** ~
金属が擦れ合う悲鳴は激しく反響している。しかし音の跳ね返り方は、なんだか奇妙だった。空間にしては篭っている。アンブルの魔法によって、シールドの中に閉じ込められているのだ。もちろんそれは、逃げる術を無くすためだ。
逆を言えばアンブルも逃げられないが、心配無用だった。魔法を使わずとも、アパティアの力は劣っている。今まで他人の力を利用してきたせいだ。
(このままでは、確実に負ける……っ。国宝さえ、王の血さえあればこんな魔女など!)
「お前さん、今もなお他人の手を望んでいるな?」
「……あら、心を覗くなんて、はしたないわね」
「読まなくたって分かるさ。いい加減、自分の足で立ってごらん」
「何ですって?」
黒々した剣が、アパティアの首元を飾るネックレスと空気を切った。剣先と喉が紙一重で避けられる。しかしアンブルからは、取り逃したという悔しさは見当たらない。
棘のような見た目をした剣が、空気に揺れて見えた。幻覚などではなく、剣は蛇のようにずるっとその身を伸ばす。姿を鞭へと変えた武器は、滑るようにしてアパティアの足を叩いた。避ける猶予なく足元をすくわれ、その場に崩れ落ちる。
「立てないのかい?」
捻ったようで、片足に力が入らない。アパティアは他人を求めて目を彷徨わせる。アンブルはそんな彼女に苛立つように鞭を振るった。
ヒュンッと空気の唸りが聞こえたと思えば、顔が燃えるように熱くなった。整った顔のど真ん中に、赤い地割れができる。仮面のようにした化粧が、血と涙によってグズグズに崩れた。嘆く姿はまるで化け物だ。
「馬鹿だね。他人の足で立っていた人間が、補助も無く立てるわけがないんだ」
「……っ! お前、お前なんか、王の血を手に入れたら、私の手で!」
ここまで言って、まだ分からないらしい。捉えるだけにして、事が済んだら望んだ王に裁いてもらおうと思っていた。だがもう、ここで首を落としてやろう。アンブルは鞭を再び鋭い剣に戻し、思い切り振りかぶった。
しかしグリップを握りしめた時、二人の間にコロンと何かが転がってきた。それは見覚えのある赤い石。鏃の欠片だ。割れた中から、ドロリとマグマのような液体が流れる。
まさかと、アンブルは窓へ振り返る。アパティアたちの派手な登場のせいで割れた窓から、それを皮切りにして何本もの矢が飛んできていた。液体は空気に触れた瞬間、木の床に炎となって舞踊る。窓の穴より外で砕けた石も、木肌に炎の爪痕を残す。
しかしアパティアの驚いた顔に、命令ではないというのが分かる。
「アンブル様、すぐに避難を!」
「コーパルさんも、早く……っ!」
小さな炎は瞬く間に人間の背丈を超え、シールドを破壊すると天井を焦がす。燃えたせいで足元が細くなった柱が耐えきれず、そのまま家主の背中へと倒れかかった。
なす術もなく、そのまま柱はズシンと空気を震わせながら、炎を巻き込んで横たわった。
しかしその下に、アンブルの姿は無かった。彼女は上からではなく、真横から押されて床に腰を打ち付ける。
「コーパル……ッ!」
しがみつく形で、彼女をその場から救ったのはコーパルだった。彼はかろうじて無事な右腕で、体を支えて起き上がる。そしてアンブルの無事を見て、優しく笑った。
「良かった、また、アンタを……守れた」
「坊や──」
「ルース、まだ終わってないぞ! 僕を、無視するな!」
瓦礫の中から、足を失ったシリカが這い出ながら叫んだ。しかし追い討ちをかけるように、真上に屋根の一部が崩れ落ちる。そこに悲鳴は無く、聞こえたのは微かな砕ける音だけだった。
幸せを望んだ哀れな同胞の最後は、なんて呆気ないのか。コーパルはただ、赦されるなら彼に静かな眠りをと願って目を閉じた。
壁の板も天井も剥がれ落ち、部屋の中は散々な有り様だ。コーパルの上に、火に包まれたカーテンの切れ端が舞う。アンブルは彼を抱きしめ、それから庇った。
敵の一人は、幸か不幸か襲撃によって事なきを得た。しかしアンブルはもう一人を探して、柱の向こう側を見る。アパティアが居ない。痕跡を追った視線が向いたのはドア。しっかり閉めたはずだが、無理に破った形跡があった。
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