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【宝石少年と霧の国】
託し託され
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少し日が落ちてきた頃。徐々に夜がやってくるのを窓の外を眺めていたコーパルは、居ても立っても居られず、部屋を飛び出した。獣人の動きが心配なのだ。
アンブルの部屋のドアを、多少の冷静を装って叩く。しかし不安は隠せなかったのか、椅子から振り返った彼女は可笑しそうに声なく笑った。
「獣人たちの様子なら、心配しなくていいよ。もう、あと最後だ」
「そ、そうか」
コーパルは胸を撫で下ろしながらも、未だ落ち着く様子はない。金の目が、居場所を彷徨うようにキョロキョロしている。アンブルはその目元に、薄らと隈が刻まれているのを見逃さなかった。
「坊や、こっちへ来てごらん」
アンブルは整頓されたベッドに腰を下ろすと、隣をトントンと叩いた。コーパルは理由が分からずも、言われるまま指定された場に浅く座る。彼は沈黙が苦手だ。困惑と戸惑いに拳を握る。
静寂を破ろうと、コーパルが口を開いた瞬間だった。アンブルが腕を軽く引き寄せ、バランスを崩す。
「ぅわっ?」
横に揺れた視界に、ぎゅっと目をつぶる。力が入らずベッドに倒れ、柔らかなものが後頭部にぶつかった。何が起こったのかと目を開けると、見上げる形でアンブルの顔があった。頭部を支えるのは枕ではなく、彼女の膝。コーパルは突然の膝枕に目を白黒させる。起きあがろうとすると、そっと目元を優しく塞がれた。
「アンブルっ!」
「少し休みなさい。昨日も、まともに眠っていないんだろう?」
「お、俺は子供じゃないぞ」
「私にとっては、みんな子供さ。それとも、年寄りの膝は嫌か?」
視界を覆う手を退かそうとしていた自分のを、コーパルはピタリと止める。そんな事を言われたら、黙って膝を借りるしかないじゃないか。少し不貞腐れるように、暗闇の中で目を閉じて溜息をついた。
少し強引だが、こうでもしなければ彼は休まない。今後のため無理にでも、見張ってでも眠らせた方がいいのだ。
「坊やはよくやっているよ。ありがとう」
「……敵に何を言ってるんだ」
「ふふふ、お前に悪役は向いていなかったね」
笑う声があまりに優しく、コーパルは耐えられないというように、外側へ寝返りをうつ。
アンブルの少し大きな手は、髪を梳くように撫でる。それが懐かしくて暖かく、緊張に絡まった糸がゆっくり解けていくのを感じた。
(そうだ、こんな感じだった。俺が知っている、優しい手だ。どうして今……思い出すんだ)
微睡む意識の中、誰かの微笑みが見える。両手をあげてせがむと、仕方ないと言いながら抱き上げて、頭を撫でてくれる誰か。眠れないとぐずって迷惑をかけても、微笑んでこうやって膝枕をしてくれた。そして決まって、歌を口ずさむのだ。優しい子守唄。
「──青い青い空の下、耳をすませてごらん。キラキラ、キラキラ、笑う声。それは、あなたへの、祝福の歌」
「!」
コーパルは意識が覚めるのを感じ、飛び起きる。そうだ、その歌だ。彼女はその歌を、歌ってくれた。全く同じ声で。
「その、歌」
記憶を紡いで、組み合わせただけの歌だと思っていた。だが子守唄なんて、世の中にいくらでも存在する。まさかと飛び起きてから、これに気付いた。早とちりだ。
するとアンブルは、驚いて瞬かせた目を優しく、愛しそうに細めた。
「これは、私が作った歌だ」
「え……?」
そう、これはアンブルだけの歌。知っているのは弟ならび妹弟子と、息子だけ。
彼女の小さな瞳は、光の角度で金にも見える。まさにコーパルと同じ、鮮やかな金色。
「あ、アンブル……俺は、その歌を、知っているんだ。おかしい、初めて会ったはずなのに」
水に溺れたように、言葉が辿々しい。まるで救いを求めるような、泣き出しそうな彼を、そっとアンブルの手が撫でた。何も言わないまま指先は頬を滑り、奇妙に継ぎ足された首元を撫でる。
「かあさ──」
「アンブル様!」
切り裂くような悲鳴に似た、アガットの声が部屋に轟いた。悲痛そうな声色に振り向けば、彼女は小さな体でジプスを支えている。
「じ、ジプスっ?」
「何があった」
コーパルはアガットからジプスを受け取り、そっとベッドに寝かせる。消えかかっているが呪いの痣が見えた。しかし彼はコーディエと共に居たはず。二人が真っ先に持った疑問を、アガットが告げられる前に答えた。
「魔獣の移動中、襲撃にあったんですわ!」
「何だって? コーディエはどうした」
「も、元々、僕ら、どちらかを、狙っていて……呪いが、その時……。コーディエが、僕を、庇って」
「分かったジプス。もういい、喋るんじゃない。アガット、薬を」
「はいっ」
アンブルはカーテンを開け、遠くをじっと見つめる。もうすっかり夜に侵食された空と森の境界。そこに、揺れる業火が見える。まさか、火を放ったのか?
二百を超えてもまだ若さを見せる彼女の顔に、怒りのシワが濃く刻まれた。
「コーパル、アウィンたちを呼んで来なさい」
「わ、分かった!」
コーパルはドアを破る勢いで部屋から出ていく。ジプスは、アガットが戸棚から持ってきた薬を飲ませると、いくらか苦しさが軽減されたようだ。
アンブルはその様子を確認するように一瞥し、コーパルがくぐった物とは別のドアを開けた。その先は外に繋がる小さなバルコニー。そこからは木がそびえる坂の下が見渡せる。普段は花がポツポツと見えるだけの草原だが、今は森の各地から集まった獣人たちが詰め寄っていた。
どうやら皆、アンブルが来るのを待っていたようだ。動物の血からくる本能か、森に危機が迫っているのを理解しているのだ。暗闇に反射する数々の瞳は、全員森の母からの命令を待っている。
「みんな、力をかしておくれ! 水魔法を使える者は、火の消化を。子供と負傷者、戦闘力を持たない者は湖へ。他の者は、籠の前でこれ以上の侵入を防ぐんだ。相手は人間。我々の力を見せてやろう!」
獣人たちは拳を掲げ、森の母に応えて鬨の声を上げた。それぞれが速やかに移動していく様子を見てから、アンブルも部屋へ戻る。もちろん、命令だけして終わらない。まずは湖にシールドを貼って、最前線で戦う。
アガットは既に下へ向かっているようで、アンブルも続こうとドアを開けた。と、目の前でアウィンたちが壁となっていて、ぶつかる前になんとか姿勢を正す。そうだ、彼らへの説明が先だった。
「悪いね坊やたち、手短に話そう。森に火が放たれた。まもなく敵が攻めてくるだろう。私は獣人たちと迎え撃つ。隙をついて、至急、国宝を探してくれ」
『待ってアンブル。国宝が、見つかったの。探す必要は、最初から、無かったんだ』
「国宝を探す必要が、無かっただって……?」
「──その国宝は、私の物だ!」
知らない声が、窓ガラスが派手に散る音と一緒に割って入った。アンブルは咄嗟にシールドを貼って、鋭利な欠けらから皆を守る。不躾な侵入者は二人の男女。いち早く反応したのはコーパルだった。
「アパティア、シリカ……!」
「久しぶりね、ルース?」
向ける笑顔はとても美しい。しかしコーパルだけは、心臓を震わせるような気持ち悪さを感じる。しかしシリカはコーパルに一切興味が無いらしい。彼に目もくれず、真っ先にルルを見つけて無邪気な笑顔を浮かべていた。
「世界の王、やっと会えたぁっ!」
「ルル、下がって」
アウィンはルルを後ろにし、杖を構える。途端に、シリカの顔はつまらなさそうに表情を失った。
「邪魔だよ」
言葉を理解する頃には、シリカはアウィンの視界から消えていた。気配は真横。風と共に、体に激痛が走る。一瞬の出来事だった。瞬きにも満たないほどの速さで、彼はアウィンを壁へ蹴り飛ばしたのだ。
『アウィン!』
ルルすらもその動きに気付けなかった。痛みに喘ぐアウィンへ駆け寄ろうとしたが、前に進めない。シリカの手が、ルルの腕を掴んで引き止めていた。彼は興奮に頬を高揚させ、手は離さないままその場に跪く。
「世界の王、ようやくお会いできて光栄です……! 僕は、貴方に出会うために、ここへ来ましたっ」
『離して』
「あんなの、どうだっていいでしょう? ねえ王様、僕に幸せをください!」
『幸せ……?』
「そう! 僕、僕は、幸せを貰うために、貴方の姿を求めていたから」
シリカは世界の王に対して、信仰深かい。王にさえ会えれば、幸せになれると信じているのだ。それは王に会えれば、この世の幸福を手に入れられるという、アダマスの教え。彼は純粋に幸せを望んで王を手に入れようとしている。
ルルは振り払おうとした腕から力を抜くと、シリカと向かい合った。
『貴方はいつから、信仰を違えたの?』
「え?」
『シリカ、貴方は幸せには、なれない』
ルルは虹の目を哀れむように細める。なんて可哀想な人なのか。他人からの幸せだけを望み、自分で幸せになろうとしない。その術を知らない。それでは一生、心は枯渇する。
シリカは絶望するように呆然とした。それまで痛いほどだった力も手から抜け、少女のような腕がするりと逃げていく。
「……そだ」
「?」
「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ! 世界の王はそんな事を言わない。王は神だ。神様は慈悲深くて、全てを幸せにする!」
『それは、夢想だ』
「違う、僕の王を返せ!」
怒りに身を任せ、シリカは世界の王その人へ襲いかかる。ルルはそれを避ける事はしなかった。しかし、来たのは風圧だけで、痛みは無い。
シリカの拳を受け止めたのは、コーパルだった。彼の重い一撃を受けたら、ひとたまりもない。それでも受け止められたのは、コーパルの体が同じ宝石だからだ。
「ルル、この哀れな同胞は、俺が裁いてもいいか?」
ルルは頷くとその場を任せ、起き上がろうとするアウィンを支える。小さな手で引っ張り上げられ、彼も腰を上げようと足を立てた。しかし、いくら脳が力を入れろと指示しても、体は背き続けた。まるで切り離されたように、足がピクリともしない。薬を飲んだはずなのに。
同時に、呼吸をするだけで激しい激痛が襲い、胸元を押さえた。鈍くも突き刺さるようなこの痛みは、骨が折れている証拠だ。怪我の状況は、ルルには分からない。アウィンはこれ以上悟られないよう、無理にでも起きあがろうと杖に体重をかける。
「坊や、これをお飲み!」
声と共に二人の元へ瓶が投げられ、ルルは反射的に受け取った。チャプンと跳ねる液体の中で、黒い花が揺れている。それはアンブルが作った薬の中でも、強力な治癒力を持つものだ。
手の平サイズの瓶をルルから貰い、アウィンは一気に飲み干す。苦味を持つ花が喉を通った頃、痛みは嘘のように治っていた。
「ここはいい。国宝の元へ急ぐんだ!」
「はい!」
『アウィン、こっち』
「待てぇ!」
部屋に向けた背中を、アパティアが追いかける。すると、触れそうになった手が弾かれた。よく見れば、魔法陣が淡い線で浮かび上がっている。
「行かせるわけがないだろう? お前には、まだ礼が済んでいないんだ」
アンブルの顔は笑みを浮かべてはいるが、言葉の中には殺意が垣間見えた。肩まで高さへ上げられた手に、魔法陣が現れる。中を探っていた彼女の手は、鋭い剣を持って抜き出された。
容赦なくアパティアへ振られた刃は黒く渦巻き、見たところただの金属ではない。アパティアは舌打ちすると、両手にした短剣で防いだ。
「魔女って、ずいぶん野蛮なのね」
「お前さんには負けるよ」
直接交えたわけではないが、アパティアは強者を何人も見てきた。だからこそ、アンブルの強さがよく分かる。魔女のくせに剣術も持ち得ているのは想定外だ。このままでは、国宝の元へ行けない。なんとしても、王を足止めしなくては。
アパティアは距離を取った僅かな瞬間、腕を高く上げた。何が来るかと身構えたアンブルは、細い目を丸くする。見慣れた艶やかな茶色の羽根が、床に落ちた。
「コーディエ……!」
舞い降りた鷹は、姿を人に変える。鋭い青の目には、いつも存在する光が見えなかった。
連れ攫われたと聞いてから、こうなる未来は考えていた。しかし、洗脳に打ち勝ってくれると、心のどこかで淡い期待もしていたのだ。
手にした両剣がアンブルに向けられる。彼女にとって、コーディエは我が子も同然。そう簡単に傷付けないだろう。アパティアの予想通り、彼女の刃は動揺に揺らいだ。しかし振り上げられた両剣は、突然何かに弾き飛ばされる。それは風の刃。
アパティアも魔女の端くれだ。見えた刃の軌道を辿った目は、ベッドに向けられる。息も絶え絶えに、ジプスが起き上がってこちらに手をかざしていた。
「師匠には……手を出させない」
まさかあのフクロウが生きていたとは。アパティアはその生命力に少し感心しながらも、迷惑そうに顔をしかめる。
「死に損ないが。ふふ、でもちょうどいいわ。大事なお友達の手で死になさいな。お前、相手をしておやり」
多少の足止めになってしまうが、どうせあの獣人はすぐに死ぬ。呪いの痛みが終わったとはいえ、瀕死であるのに代わりないのだから。
アンブルの部屋のドアを、多少の冷静を装って叩く。しかし不安は隠せなかったのか、椅子から振り返った彼女は可笑しそうに声なく笑った。
「獣人たちの様子なら、心配しなくていいよ。もう、あと最後だ」
「そ、そうか」
コーパルは胸を撫で下ろしながらも、未だ落ち着く様子はない。金の目が、居場所を彷徨うようにキョロキョロしている。アンブルはその目元に、薄らと隈が刻まれているのを見逃さなかった。
「坊や、こっちへ来てごらん」
アンブルは整頓されたベッドに腰を下ろすと、隣をトントンと叩いた。コーパルは理由が分からずも、言われるまま指定された場に浅く座る。彼は沈黙が苦手だ。困惑と戸惑いに拳を握る。
静寂を破ろうと、コーパルが口を開いた瞬間だった。アンブルが腕を軽く引き寄せ、バランスを崩す。
「ぅわっ?」
横に揺れた視界に、ぎゅっと目をつぶる。力が入らずベッドに倒れ、柔らかなものが後頭部にぶつかった。何が起こったのかと目を開けると、見上げる形でアンブルの顔があった。頭部を支えるのは枕ではなく、彼女の膝。コーパルは突然の膝枕に目を白黒させる。起きあがろうとすると、そっと目元を優しく塞がれた。
「アンブルっ!」
「少し休みなさい。昨日も、まともに眠っていないんだろう?」
「お、俺は子供じゃないぞ」
「私にとっては、みんな子供さ。それとも、年寄りの膝は嫌か?」
視界を覆う手を退かそうとしていた自分のを、コーパルはピタリと止める。そんな事を言われたら、黙って膝を借りるしかないじゃないか。少し不貞腐れるように、暗闇の中で目を閉じて溜息をついた。
少し強引だが、こうでもしなければ彼は休まない。今後のため無理にでも、見張ってでも眠らせた方がいいのだ。
「坊やはよくやっているよ。ありがとう」
「……敵に何を言ってるんだ」
「ふふふ、お前に悪役は向いていなかったね」
笑う声があまりに優しく、コーパルは耐えられないというように、外側へ寝返りをうつ。
アンブルの少し大きな手は、髪を梳くように撫でる。それが懐かしくて暖かく、緊張に絡まった糸がゆっくり解けていくのを感じた。
(そうだ、こんな感じだった。俺が知っている、優しい手だ。どうして今……思い出すんだ)
微睡む意識の中、誰かの微笑みが見える。両手をあげてせがむと、仕方ないと言いながら抱き上げて、頭を撫でてくれる誰か。眠れないとぐずって迷惑をかけても、微笑んでこうやって膝枕をしてくれた。そして決まって、歌を口ずさむのだ。優しい子守唄。
「──青い青い空の下、耳をすませてごらん。キラキラ、キラキラ、笑う声。それは、あなたへの、祝福の歌」
「!」
コーパルは意識が覚めるのを感じ、飛び起きる。そうだ、その歌だ。彼女はその歌を、歌ってくれた。全く同じ声で。
「その、歌」
記憶を紡いで、組み合わせただけの歌だと思っていた。だが子守唄なんて、世の中にいくらでも存在する。まさかと飛び起きてから、これに気付いた。早とちりだ。
するとアンブルは、驚いて瞬かせた目を優しく、愛しそうに細めた。
「これは、私が作った歌だ」
「え……?」
そう、これはアンブルだけの歌。知っているのは弟ならび妹弟子と、息子だけ。
彼女の小さな瞳は、光の角度で金にも見える。まさにコーパルと同じ、鮮やかな金色。
「あ、アンブル……俺は、その歌を、知っているんだ。おかしい、初めて会ったはずなのに」
水に溺れたように、言葉が辿々しい。まるで救いを求めるような、泣き出しそうな彼を、そっとアンブルの手が撫でた。何も言わないまま指先は頬を滑り、奇妙に継ぎ足された首元を撫でる。
「かあさ──」
「アンブル様!」
切り裂くような悲鳴に似た、アガットの声が部屋に轟いた。悲痛そうな声色に振り向けば、彼女は小さな体でジプスを支えている。
「じ、ジプスっ?」
「何があった」
コーパルはアガットからジプスを受け取り、そっとベッドに寝かせる。消えかかっているが呪いの痣が見えた。しかし彼はコーディエと共に居たはず。二人が真っ先に持った疑問を、アガットが告げられる前に答えた。
「魔獣の移動中、襲撃にあったんですわ!」
「何だって? コーディエはどうした」
「も、元々、僕ら、どちらかを、狙っていて……呪いが、その時……。コーディエが、僕を、庇って」
「分かったジプス。もういい、喋るんじゃない。アガット、薬を」
「はいっ」
アンブルはカーテンを開け、遠くをじっと見つめる。もうすっかり夜に侵食された空と森の境界。そこに、揺れる業火が見える。まさか、火を放ったのか?
二百を超えてもまだ若さを見せる彼女の顔に、怒りのシワが濃く刻まれた。
「コーパル、アウィンたちを呼んで来なさい」
「わ、分かった!」
コーパルはドアを破る勢いで部屋から出ていく。ジプスは、アガットが戸棚から持ってきた薬を飲ませると、いくらか苦しさが軽減されたようだ。
アンブルはその様子を確認するように一瞥し、コーパルがくぐった物とは別のドアを開けた。その先は外に繋がる小さなバルコニー。そこからは木がそびえる坂の下が見渡せる。普段は花がポツポツと見えるだけの草原だが、今は森の各地から集まった獣人たちが詰め寄っていた。
どうやら皆、アンブルが来るのを待っていたようだ。動物の血からくる本能か、森に危機が迫っているのを理解しているのだ。暗闇に反射する数々の瞳は、全員森の母からの命令を待っている。
「みんな、力をかしておくれ! 水魔法を使える者は、火の消化を。子供と負傷者、戦闘力を持たない者は湖へ。他の者は、籠の前でこれ以上の侵入を防ぐんだ。相手は人間。我々の力を見せてやろう!」
獣人たちは拳を掲げ、森の母に応えて鬨の声を上げた。それぞれが速やかに移動していく様子を見てから、アンブルも部屋へ戻る。もちろん、命令だけして終わらない。まずは湖にシールドを貼って、最前線で戦う。
アガットは既に下へ向かっているようで、アンブルも続こうとドアを開けた。と、目の前でアウィンたちが壁となっていて、ぶつかる前になんとか姿勢を正す。そうだ、彼らへの説明が先だった。
「悪いね坊やたち、手短に話そう。森に火が放たれた。まもなく敵が攻めてくるだろう。私は獣人たちと迎え撃つ。隙をついて、至急、国宝を探してくれ」
『待ってアンブル。国宝が、見つかったの。探す必要は、最初から、無かったんだ』
「国宝を探す必要が、無かっただって……?」
「──その国宝は、私の物だ!」
知らない声が、窓ガラスが派手に散る音と一緒に割って入った。アンブルは咄嗟にシールドを貼って、鋭利な欠けらから皆を守る。不躾な侵入者は二人の男女。いち早く反応したのはコーパルだった。
「アパティア、シリカ……!」
「久しぶりね、ルース?」
向ける笑顔はとても美しい。しかしコーパルだけは、心臓を震わせるような気持ち悪さを感じる。しかしシリカはコーパルに一切興味が無いらしい。彼に目もくれず、真っ先にルルを見つけて無邪気な笑顔を浮かべていた。
「世界の王、やっと会えたぁっ!」
「ルル、下がって」
アウィンはルルを後ろにし、杖を構える。途端に、シリカの顔はつまらなさそうに表情を失った。
「邪魔だよ」
言葉を理解する頃には、シリカはアウィンの視界から消えていた。気配は真横。風と共に、体に激痛が走る。一瞬の出来事だった。瞬きにも満たないほどの速さで、彼はアウィンを壁へ蹴り飛ばしたのだ。
『アウィン!』
ルルすらもその動きに気付けなかった。痛みに喘ぐアウィンへ駆け寄ろうとしたが、前に進めない。シリカの手が、ルルの腕を掴んで引き止めていた。彼は興奮に頬を高揚させ、手は離さないままその場に跪く。
「世界の王、ようやくお会いできて光栄です……! 僕は、貴方に出会うために、ここへ来ましたっ」
『離して』
「あんなの、どうだっていいでしょう? ねえ王様、僕に幸せをください!」
『幸せ……?』
「そう! 僕、僕は、幸せを貰うために、貴方の姿を求めていたから」
シリカは世界の王に対して、信仰深かい。王にさえ会えれば、幸せになれると信じているのだ。それは王に会えれば、この世の幸福を手に入れられるという、アダマスの教え。彼は純粋に幸せを望んで王を手に入れようとしている。
ルルは振り払おうとした腕から力を抜くと、シリカと向かい合った。
『貴方はいつから、信仰を違えたの?』
「え?」
『シリカ、貴方は幸せには、なれない』
ルルは虹の目を哀れむように細める。なんて可哀想な人なのか。他人からの幸せだけを望み、自分で幸せになろうとしない。その術を知らない。それでは一生、心は枯渇する。
シリカは絶望するように呆然とした。それまで痛いほどだった力も手から抜け、少女のような腕がするりと逃げていく。
「……そだ」
「?」
「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ! 世界の王はそんな事を言わない。王は神だ。神様は慈悲深くて、全てを幸せにする!」
『それは、夢想だ』
「違う、僕の王を返せ!」
怒りに身を任せ、シリカは世界の王その人へ襲いかかる。ルルはそれを避ける事はしなかった。しかし、来たのは風圧だけで、痛みは無い。
シリカの拳を受け止めたのは、コーパルだった。彼の重い一撃を受けたら、ひとたまりもない。それでも受け止められたのは、コーパルの体が同じ宝石だからだ。
「ルル、この哀れな同胞は、俺が裁いてもいいか?」
ルルは頷くとその場を任せ、起き上がろうとするアウィンを支える。小さな手で引っ張り上げられ、彼も腰を上げようと足を立てた。しかし、いくら脳が力を入れろと指示しても、体は背き続けた。まるで切り離されたように、足がピクリともしない。薬を飲んだはずなのに。
同時に、呼吸をするだけで激しい激痛が襲い、胸元を押さえた。鈍くも突き刺さるようなこの痛みは、骨が折れている証拠だ。怪我の状況は、ルルには分からない。アウィンはこれ以上悟られないよう、無理にでも起きあがろうと杖に体重をかける。
「坊や、これをお飲み!」
声と共に二人の元へ瓶が投げられ、ルルは反射的に受け取った。チャプンと跳ねる液体の中で、黒い花が揺れている。それはアンブルが作った薬の中でも、強力な治癒力を持つものだ。
手の平サイズの瓶をルルから貰い、アウィンは一気に飲み干す。苦味を持つ花が喉を通った頃、痛みは嘘のように治っていた。
「ここはいい。国宝の元へ急ぐんだ!」
「はい!」
『アウィン、こっち』
「待てぇ!」
部屋に向けた背中を、アパティアが追いかける。すると、触れそうになった手が弾かれた。よく見れば、魔法陣が淡い線で浮かび上がっている。
「行かせるわけがないだろう? お前には、まだ礼が済んでいないんだ」
アンブルの顔は笑みを浮かべてはいるが、言葉の中には殺意が垣間見えた。肩まで高さへ上げられた手に、魔法陣が現れる。中を探っていた彼女の手は、鋭い剣を持って抜き出された。
容赦なくアパティアへ振られた刃は黒く渦巻き、見たところただの金属ではない。アパティアは舌打ちすると、両手にした短剣で防いだ。
「魔女って、ずいぶん野蛮なのね」
「お前さんには負けるよ」
直接交えたわけではないが、アパティアは強者を何人も見てきた。だからこそ、アンブルの強さがよく分かる。魔女のくせに剣術も持ち得ているのは想定外だ。このままでは、国宝の元へ行けない。なんとしても、王を足止めしなくては。
アパティアは距離を取った僅かな瞬間、腕を高く上げた。何が来るかと身構えたアンブルは、細い目を丸くする。見慣れた艶やかな茶色の羽根が、床に落ちた。
「コーディエ……!」
舞い降りた鷹は、姿を人に変える。鋭い青の目には、いつも存在する光が見えなかった。
連れ攫われたと聞いてから、こうなる未来は考えていた。しかし、洗脳に打ち勝ってくれると、心のどこかで淡い期待もしていたのだ。
手にした両剣がアンブルに向けられる。彼女にとって、コーディエは我が子も同然。そう簡単に傷付けないだろう。アパティアの予想通り、彼女の刃は動揺に揺らいだ。しかし振り上げられた両剣は、突然何かに弾き飛ばされる。それは風の刃。
アパティアも魔女の端くれだ。見えた刃の軌道を辿った目は、ベッドに向けられる。息も絶え絶えに、ジプスが起き上がってこちらに手をかざしていた。
「師匠には……手を出させない」
まさかあのフクロウが生きていたとは。アパティアはその生命力に少し感心しながらも、迷惑そうに顔をしかめる。
「死に損ないが。ふふ、でもちょうどいいわ。大事なお友達の手で死になさいな。お前、相手をしておやり」
多少の足止めになってしまうが、どうせあの獣人はすぐに死ぬ。呪いの痛みが終わったとはいえ、瀕死であるのに代わりないのだから。
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ファンタジー
ソフィは小さな村で暮らしていた。特技は治癒魔法。ところが、村人のマークの命を救えなかったことにより、村全体から、無視されるようになった。食料もない、お金もない、ソフィは仕方なく旅立った。冒険の旅に。
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