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【宝石少年と霧の国】

帰還

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 アメジストの湖に入って、どのくらい時間が経ったか分からない。目的は果たしたのだから、地上で待っている三人の元へ早く帰ろう。
 出入り口で揺れる水面を見つめていると、稚魚がクォンと鳴いた。そしてズルンと体を沈めると、頭と両手を差し出してくる。どうやら元の水中に連れて行ってくれるようだ。言葉に甘え、ルルは彼女の大きな手の平に自分の手を重ねた。

 狭い空洞の中、稚魚の体は器用に泳いでいく。泳ぐ速さに、繋いだ手が振り解かれそうになる。稚魚は水圧に苦しそうなルルに気付いたのか、体を引き寄せて腕の中に包んだ。
 まるで弾き出されるかのような勢いで、目の前が開けた。元の湖に戻ってきたのだ。

「!」

 ルルは思わず息を呑みそうになった口を、必死で塞ぐ。強い視線を感じた。いや、視線だけじゃなく、圧倒的な存在感を肌で感じる。
 目の前を遮ったそれは、どこか稚魚と姿形の面影がある。低い声が聞こえた。それは荒さを取り除かれてはいるが、確かに先程まで嘆いていた親の声だ。さっきとまるで別人だから気付かなかった。殺気が無いだけでこうも変わるのか。ルルと稚魚を見つめる赤い目は、打って変わって母のそれだ。
 子が嬉しそうに鳴くと、親は愛しそうに応える。地に響くような声。それでも包み込むような優しさを感じる。彼女は我が子に頷くと、何メートルもの体を舞うように泳がせる。踊るそこは、乱心の末に薙ぎ倒された花吹雪の林。
 その時だった。優雅に泳ぐ柔らかな体から、キラキラとした粒子が降り注ぐ。光の粒は水に優しく揺られながら、無惨に倒れた木々の上に音無く落ちた。粒子は仄暗い木肌に溶け、共に枝も岩肌に一体化するようにすうっと消える。黒と言うに相応しい地面は、一瞬、地上も貫きそうな紫の輝きを放った。
 ルルはそのすぐあと、無数の動きを肌で感じた。身動いだのが分かったのか、稚魚は抱きしめていた体を解放すると、手を引いて地面に降りた。つま先の地面を、何かが割って顔を出す。小さな光の粒に見えるそれは、木の芽。
 低くも高く感じる音がした。音の調子で、なんとなく鳴き声ではなく歌なのだと理解できた。小さな芽は、母の歌に惹かれるように、瞬く間に成長していった。不思議だ。木の成長する音なんて、こんな水中では無音に近い。それなのに、パキパキ、サワサワと木の呼吸が聞こえる。
 母と子が共に鳴く。それに合わせるように、大輪が枝先に咲き乱れた。嵐が過ぎ去ったような林の残骸は、呼吸するように元の姿──いや、新たな息吹によってそれ以上に美しい姿になっていた。

 ルルの体とそう変わらない手が、目の前に差し出される。彼はそれに怯える事なく、座って応えるように両手を伸ばした。どこか申し訳なさそうに、恐る恐る顔を寄せた母の頬に、ルルは優しく口付けをする。母は驚いたような顔をしたが、すぐ目を優しく細め、額を合わせた。
 そろそろ呼吸が苦しくなってきた。そこで首に稚魚の腕が巻きつく。気付いて振り返ると、手を上へ引っ張る仕草をした。どうやら途中まで案内してくれるようだ。彼女の泳ぐ速さだったら、息が途絶える前に辿り着けるだろう。ルルは頷き、大きな手を取って母に見送られた。

~               **              ~               **                 ~

 地上でも風すら水を動かさないせいで、まるで時間が止まったかのようだ。そんな揺れる事の無い水面がルルを飲み込んで、そのくらい経っただろうか。
 コーパルは、紫の鏡に映る自分に飽き飽きするほど見つめていた。不安さに止まってはいられず、しかし待つしかできない今、金の目だけがうろうろと彷徨っている。

「コーパル殿、そうずっと見ていたら貴方も落ちてしまいますよ」
「そうは言っても……水の中だぞ。こことは違って、音だって少ない」
「信じて待つしかありません」

 コーパルを宥めるアウィンの姿に、ジプスは苦笑いした。そう正論を言う彼だって、首から下がる懐中時計を数分ごとに確認しているじゃないか。もちろんジプスだって心配していないわけじゃない。彼に至っては、気が狂いそうなもどかしさを隠すのに必死なのだ。
 例えばルルに何かあっても、二人は潜る事ができる。最悪泳げなくても浮く事だって。しかしジプスにはそのどちらもできない。他人のためと豪語して飛び込めば、助けるのではなく助けられる立場になるのは目に見えている。だから、陸で彼が来た時にできる最大限のサポートの準備に専念する他無いのだ。
 ジプスが肩に背負った荷物の中から取り出したのは、両手で持つ大きさのガラスの筒。中には、半透明の宝石が無数に敷き詰められている。

「それは何だ?」
「太陽のカケラです」
「そんなにたくさん? よく集めましたね」
「火の洞窟と言うのがあるんですが、その付近に生成されるんですよ」

 太陽のカケラというのは、強い熱が集まるという条件を満たした場所でしか、自然生成されない。見た目からは想像できないくらいの熱を発するその石は、地上の太陽と呼ばれる。そしてそれを削った物を、太陽のカケラと呼ぶのだ。
 ジプスは水差しを袋から取り出す。花の蕾を象った栓を抜き、筒の中に注いだ。
 地上の太陽は近寄り難いほどの熱を常に発しているが、削るとたちまち収まる。太陽のカケラを発熱させるには、真逆の冷水に触れさせる必要があった。カケラは水の重さにガランと僅かに沈む。それぞれの中心から黄色の光が漏れ、やがて薄暗いここに小さな太陽が作られた。筒から、少し離れていても伝わるくらい熱が放たれる。

「焚き火代わりか?」
「そうです」

 ここには焚き火に使えるような木も無いが、そもそも火を灯してはいけなかった。とは言え、上がってきたルルをそのまま放置すれば、病気知らずのオリクトの民でも体に良くないだろう。
 ひとまず出迎える準備は整った。あとは無事を祈るしかない。

 カチコチと、懐中時計の音だけが時を刻んでいる事を証明する。離れていた長針と短針が真上で重なった時、水面が波打った。
 懲りずに湖を覗き続けていたコーパルが、変化にいち早く気付く。

「来た……!」

 その声に残りの二人も側に駆け寄る。固唾を呑んで見守るのは、瞬きの時間にも満たない。それでも永遠かと思えた時、水飛沫と共にルルの頭が上がった。

「今引き上げますね!」

 伸ばされた手を、コーパルとジプスが掴んで引き上げる。間を置かずに濡れた体へ、アウィンが自分のコートを触れないマントの代わりに肩へかけた。
 ルルは少し乱れた呼吸を整え、雫の絶えない頭をブルブルと思い切り振った。そして、心配そうな三人の視線に頬を緩める。

『ただいま、みんな』
「おかえりなさいルル。待っていましたよ」

 アウィンは早口に言うと、無事を確かめるようにルルの冷たい体を抱きしめる。

『濡れちゃうよ?』
「構いません」

 ルルは可笑しそうにふふっと息を吐き、彼の背中に腕を回した。
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