宝石少年の旅記録

小枝 唯

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【宝石少年と霧の国】

稚魚と鱗

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 見えていた。掠れて今にも底の無い暗闇に落ちていきそうな視界の中で。様々な、この湖の全ての色を取り込んで泳がせる、その虹色を。聞こえていた。その唇が柔らかな言葉を形作るのを。
 見た瞬間に望んだ。あなたに撫でてもらいたい。あなたの顔をもっと近くで見たい。見た瞬間に理解できた。腹の中で自分を喰らうコレを、あなたに渡さなければいけない事を。この世界が泣いてしまう前に。
 そのために、この分厚い殻は邪魔だった。

~               **              ~               **                 ~

 不思議な音が聞こえた。いろんな地を歩いても、まだ聞いた事の無い音。クォンという音は小さいのに、遠くまで反響しているようだ。それがただの音ではなく、鳴き声である事が分かった時、ルルは勢い良く起き上がった。肺の中に残る水が激痛を訴え、しばらくの間激しくむせる。
 痛みで出た涙を、暖かく湿った何かが脱ぐ取った。そして慰めるように、頬を優しく舐める。
 何があったのか頭が追いつかず、ルルはポカンと呆気に撮られ、されるがままだった。前髪からポタポタと滴る雫で、水中に居た事を思い出す。目的も思い出したところで、辺りを見回した。呼吸ができるこの場所は、間違いなく水中ではない。

 クォン……とまた声が聞こえた。小さく反響している音は、確かに目の前から聞こえる。また、何かが頬を撫でた。

『君は、誰?』

 嬉しそうに鳴いた声を頼りに手を伸ばすと、大きな両手に引き寄せられた。そう、人の形をした手だ。それを理解するよりも、体が強く抱きしめられるのが先だった。肌は赤子のように柔らかくて、やはり少し湿っている。

『ん、苦しい』

 少し身動ぐと、怯えたようにパッと解放された。
 再度手を伸ばすと、意図を察してくれたのか、顔が突き出される。触った顔は、確かに少女のようだった。しかしルルの顔よりも二倍は大きいだろうか。しばらく触って気付いた。その肌には魚のような鱗がある。下手な触り方をすれば、無数の刃となりそうな鋭利さだ。

『……もしかして、卵の子?』

 彼女は無邪気にニコニコと笑って、再び喉を震わせて涼やかな声を出した。背中に回っていた巨大な尾が、嬉しそうに地面を叩く。
 彼女は半魚人と言えばいいのだろうか。腹部の下からは、まるで蛇のような長い尾が続いている。稚魚だと思うが、人間の大人三人分はあるだろう。美しくも息を飲む迫力だ。しかし惚けている場合ではない。相手の正体が分かったはいいが、何故ここが水中ではないのかは解決していないのだから。
 そこは粗く削られた洞窟だった。クルルと喉から響く音がこだまする。音は奥へ行く事はなく、球を描くように反響した。音の広がり方が小さいように、ここは稚魚が尾を巻いて入るのに精一杯な広さだった。
 それにしても歪な洞窟だ。触れる壁は無理矢理削ったようにゴツゴツとしていて、水の影響で自然とできたとは考えにくい。稚魚が居るから、アメジストの湖からそう遠くは離れていないと思うが。
 黙々と洞窟内を調べるルルを、稚魚は大人しく見守っていた。不思議そうな横顔が面白いのだ。しかしすぐに飽きてしまう。だって少しもこちらを見てくれないから。もっと撫でたり、ぎゅっとしてほしいのに。
 稚魚は甘えるように、自分より何倍も細い彼の腹へ頭を押し付ける。まだ赤子といえども力が強く、別の所へ意識を集中させていたルルの体は、あっさり倒された。しかし背中を受け止めたのは、地面ではなく水。予想していなかった感覚に思わず水を飲んでしまった。稚魚もまさか倒れるとは思っていなかったのか、慌てて引き上げる。
 不意に呼吸が奪われた事で、ルルは数秒間固まった。無事を確かめるように稚魚に抱きしめられて、ようやく我にかえる。僅かにだが舌に残る水の味を思い出す。あれはアメジストの湖と同じだ。上半身丸ごと落ちたが地面に付かなかった。深さと風の動きが無いのを見ると、どうやらここは出入り口のようだ。

『大丈夫、びっくりしただけ。君が、僕をここに、連れて来たんだね? ありがとう』

 頭を撫でられると、稚魚は嬉しそうにキュルルルと鳴く。

 しかし何故稚魚は呼吸ができるのだろう。彼女と会話ができないから憶測でしかないが、あの卵の中は空気で満たされていたのかもしれない。成長して大人になるまで、水中で呼吸できないと考えると納得できる。アメジストの鱗を普段採取するのは、アンブルだと言っていた。これはあとで彼女に聞こう。本に残せない代わり、きちんと記憶として自分の頭に刻みたい。
 甘く鳴る喉の音に、別の音が混ざった。洞穴の中では大きく反響し、ルルは一体何かと辺りを見る。しかし音はすぐ近くで鳴っていた。それは稚魚の腹。

『お腹、空いたの?』

 稚魚は丸い目をパチクリさせ、にっこりと笑顔を作った。彼女たちは何を食べるのだろう? 肉食であるなら、今食材は目の前に居る事になるが。
 逡巡しているルルの目の前で、口が大きく開かれる。鋭い歯が何本もあった。骨なんて簡単に砕いてしまいそうなほどに立派な牙だ。しかし彼女の顔はルルを通り越し、背後にある壁に向かった。そのまま壁に歯を立て、当たり前のように噛み砕く。ガリゴリと豪快な音に、ルルはポカンとしてその様子を眺めた。

(この子たちの、ご飯……湖の土地自体、なんだ)

 岩肌の不思議な手触りの理由はこれだったのか。この空洞は、意図して洞窟になったわけではない。おそらくは、親が子の餌を取っているうちに出来上がった物だったのだ。
 岩が小刻みに砕かれる音には、宝石を主食としているルルにとって、多少の空腹を促す。さすがに鉱石だとしても、このままでは食べられないが。

 しばらく食事の様子を見守り続け、ルルの鼻は嫌な臭いを嗅ぎ取った。それはあの侵食された赤黄岩と全く同じもの。臭いの先は稚魚が今まさに食べようとしている岩肌からだ。

『待って!』

 ルルは咄嗟に目の前を塞ぎ、彼女を抱きしめてなんとか動きを止めた。彼女は胸元にしがみつくルルにキョトンとしたが、嬉しそうに背中に腕を回す。

『ここ、食べちゃダメ。体に、良くないから』

 きっとこの声は聞こえていないだろうが、それでも頬を撫でたり頭を撫でたりと、仕草で必死に伝えた。
 森は徐々に、何かしらの原因によって穢されている。どこかを中心に少しずつ汚染されていっているのならば、親が湖の底の壁を掘って作られた空洞の一部が穢れていてもおかしくない。どうにかできないだろうか。しかしこれほど大きいのを食べるのは無理だ。最も汚染されている物でも見つけられれば、これ以上の汚染は防げる。

(このままにしていたら、またこの子が──あれ?)

 そこまで悩んで、ふと気付く。この稚魚が卵の中の子だとすれば、ずいぶん元気だ。あんなに、動けないくらい弱っていたのに。
 壁をなぞっていた指が、妙に深い亀裂に引っかかった。手の平に収まる程度の大きさで、ここだけ不自然に深い。まるで無理矢理にでも掘り起こしたような。

『ねえ、ここは、どうしたの?』

 一つの可能性に、ルルは振り返って窪みを指で示す。稚魚は少しの間、不思議そうに指を嗅いだり舐めたりした。だがその指が何かを指しているのだと気付いたのか、クオンと鳴くと、出入り口の水の中に入っていった。
 伝わっただろうか。もし一人残されたら、道が分からないから手も足も出せない。信じて待ちながら、伺うように水面を覗く。少しして僅かに水が揺れたと思ったその時、ザパッと派手に水飛沫をあげて稚魚が頭を出した。待っていたのが嬉しかったのか、彼女はそのままの勢いでルルにかぶさるように抱きついた。

『おかえり。どこに、行っていたの?』

 巨大な背びれがある背中を撫でながらルルが問いかけると、彼女は思い出したように体を離した。そして絵に描いたように綺麗な弧を描いた口を、目の前でがぱっと開ける。
 舌の上に乗るのは、手の平サイズの石。その光を反射しない漆黒の鉱石から漂う香りは、まさに汚染の素と呼べるほど醜悪なものだった。思わず呆気に取られていたルルはハッとし、稚魚から鉱石を受け取る。
 どうして稚魚がこれを持っているのか。行動からするに、彼女はわざとこの石を取り出して別の所へ置いていた。

『もしかして、君の元気が、無かったのは……この石を、隠していたから?』

 稚魚は喉を鳴らしてルルに甘え始める。そう、この洞窟は親が作った物ではなかった。卵の台座にはいくつか稚魚が通り抜けられる管が、食糧の岩肌に繋がっている。ここはその一つなのだ。
 稚魚は湖の汚染を知っていた。気付いたのは、岩が美味しくないという些細な変化。なんだか嫌な味で、これ以上食べてはいけないと本能が警告を示している。だがそれと共に、その汚染を止めなければとも思った。まだ自由に水の中を泳いでいないし、何より母の腕に抱かれたい。自分たちの生きる場を壊したくなかった。
 だから稚魚は考えた。もっと美味しくない岩があれば、それを取り除いてしまおうと。そして、この石を綺麗にしてくれる誰かが来るまで、隠してしまおうと。それでも考えは甘く、徐々に体が苦しくなっていく。そしてそれを見た母は悲しみに嘆いて我を忘れてしまった。だから常に鳴いた。その声も絶え絶えになった頃、彼が来たのだ。
 母の攻撃から身を挺して庇ってくれた彼を、どうしても助けたかった。稚魚はなんとか力を振り絞り、ルルの体を抱えて、空気がある空洞へ連れて来た。指一本動かすのに億劫だった体は、不思議と彼に触れると力を取り戻していた。そこで稚魚は、自分が待っていた誰かが彼であると理解したのだ。

『ありがとう、待っていてくれて。ごめんね、遅くなってしまって』

 平然を装っているが、持つだけで火傷するような痛みを感じる。これを体内に招くのは少し躊躇うが、方法が他に無い。
 ルルは少し大きめな鉱石を二つに割って口へ含み、噛み砕いて飲み込んだ。ジリッとした火に触れた痛みが、体の中で破裂する。赤黄岩の時も痛みはあったが、これはそれを遥かに上回った。痛みにからだが震えて自然と背を丸める。体の中で石が溶け、じわじわと何かが染めていく。
 グルルと慌てたような低い声が聞こえた。稚魚は心配そうにルルの背中を撫でて顔を覗く。

『だい、じょうぶ』

 頭で言葉を作るのも精一杯だった。早く終わらせなければ。ルルは目を閉じると意識を痛みの中心へ集中させ、胸の前で両手を握った。やがて指の隙間から微かな光が零れる。それは少しずつ小さくなり、ルルが姿勢を正す頃にはもう消えていた。
 興味津々な稚魚に両手を開いて見せる。中には、角度によって本来の美しい紫の輝きを見せる鉱石が転がっていた。すると稚魚は目をキラキラさせて興奮し、それをパクッと口に入れてしまった。

(あ……でも、この子のご飯だし、いいよね)

 飴玉のように口の中で転がす彼女の頬を撫で、ルルも微かに口角を緩める。もうここは安心だ。これ以上汚染は進まないだろう。それでも、既に汚染されていた場所は、今はどうにもできなかった。元に戻すには、汚染が始まった原因をどうにかしなければならない。おそらく探索する間、他にも汚染された場所を見つけるだろう。それを追えばきっと根本に辿り着ける。
 思考を捻らせていると、クオンと稚魚が意識を向けさせるように鳴いた。何かとそちらを向くと、彼女は自分の尾に手を這わせ、鱗を一枚ペリッと剥いだ。両手で持つほどの大きなそれを咄嗟に受け取ったルルは、驚いて鱗と稚魚を交互に見た。

(そういえば……鱗を、取りに来たんだ。アメジストの、鱗)

 これがそうなのだろうか。鱗が比喩でないのだとしたら、きっとそうだろう。それに、お礼として渡されたものを受け取らないわけにはいかない。ありがたく受け取る事にしよう。

『ありがとう』

 ルルは鱗を胸にし、稚魚の頬にキスをした。
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