宝石少年の旅記録

小枝 唯

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【宝石少年と霧の国】

木の家で

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 耳の奥に心地良く響く歌声。外から部屋の中へまで響き渡り、ルルはそれを辿って自室のドアをくぐった。階段を降りる最中も、歌は誘うように聞こえている。あの歌声はアウィンのものだ。彼が外で歌っている。
 イリュジオンに来て数日。まだ木の家でやる事があるから、外に出られない。鉱石の耳を通じても歌が小さいのだから、おそらくアウィンは遠くで歌っているだろう。だから少しでも近くで堪能したくて、本とガラスペンを持って部屋を出たのだ。
 歌が終わる前にと早る気持ちを抑えながら、ゆっくりと玄関へ向かう。もう少しで、この家の構造を理解できそうだった。全て描き終えたら、もっとイリュジオンの奥へ行くつもりだ。

(あ……また形、変わってる)

 二日前まではここで階段が終わり、リビングへの扉があった。しかし今は、階段終わりのすぐ先に新しい階段が現れている。おそらく、リビングへの扉は右に続く道を行けば着くだろう。しかしルルの足は微動だにしない。
 気になる。新しい道の先が。この家は大体の形は変わらないが、細かな部分はころころ変わる。例えばアンブルたちの部屋や客室、リビングなどの必要な部屋は、無くならないし勝手に変化もしない。それでも軸である木の気まぐれで、突然展望台が現れたり花の迷路ができたりするのだ。
 全くもって動きが読めないそれは、好奇心を掻き立てるものでしかない。

(今日は何だろう)

 描く描かないはこの際一旦置いておこう。明日には消えるかもしれない部屋なのだ。体感しておかなければ損だろう。
 ルルの意識はすっかり新しい部屋へ持っていかれる。彼の足もそれに抗う気は一切無いらしく、新しい階段を上り始めた足取りはどこか軽そうだった。

 階段は長くて細い。終わりに不安を感じ始めた頃、ようやく空間が開けたのが分かった。目を潰すような眩しい光が注ぐそこは、広々としたバルコニー。一歩でも足を踏み込めば、香りが脳を満たすほどに花が咲き乱れている。
 先客である蝶たちが、ルルを歓迎するように周りを飛んだ。歌が聞こえる。外だからか、先程よりもハッキリと。ルルはしばらくの間、呆然と佇んでいた。

「──おい、どうした?」
「!」

 意識を引き戻したのはコーパルの声だった。ハッとして振り返れば、彼は心配そうに顔を覗き込んでいる。

「大丈夫か?」
『……うん、大丈夫。ただ、とっても綺麗で、見惚れていたの』

 コーパルはその表現に、驚いたようだ。そう、ルルはこの空間の鮮やかさを、目ではなく体で味わっているということに。音や風、香り全てが美しく、まるで溶けそうなほどに彼は我を忘れていた。

『綺麗だね、ここ』
「……ああ、そうだな。昨日までは、なかったようだが」
『木が作って、くれたんだよ』
「怖くないのか? いつ消えるか、分からないんだぞ」
『だから、触れるんだよ。消えてしまったら、もったいない』

 コーパルはその返答に、もどかしそうな顔をした。言いたかったのはそうじゃない。この家は気まぐれだ。いつか閉じ込められるかもしれないし、放り出されるかもしれない。そういった、絶え間ない変化の先にある未知が怖いのだ。
 ルルはそんなしかめたコーパルの頬をそっと撫でる。虹の瞳は、まるで微笑むように細くなった。

『大丈夫。先の事は、分からないけど……今、この時だけは、僕は変わらないから。貴方が誰だろうと、独りにしないから、怖がらなくて、いいよ』

 変わる事、留まれない事の恐怖は絶対に免れない。変化を楽しめる者であろうとも、必ず一瞬だろうと恐怖するはずだ。ルルでさえ期待の影にある恐怖に息を呑むのだから、怖くないだなんて、嘘は言えない。
 その場限りの慰めは嫌いだ。だから保証できる今だけは、安心して欲しかった。記憶が無く、自分が分からない彼にとって少しでも憩いとなり、全てを取り戻したあとも良い記憶として残るように。

 指先にまで感じていた頬の強張りが、ふと緩んだのを感じた。ルルは離れると、促すようにバルコニーの手すりに身を預け、両手を広げる。

『とっても綺麗で、素敵だね』

 コーパルは僅かな間、自分の視力を疑った。こちらに優しい表情をするルルが、妙に眩しく見えたから。風によって舞い散る花びらと共になびく髪や、はためく服。それらは何も特別ではないはずなのに、何故だか現実味が無いほど美しく見える。見た事も無いが、まるで神だと例えられるだろう。

「……ああ、そうだな」
『もっと、こっちじゃないと、外見えないよ?』
「いや、いい。ここで充分綺麗だから」
『そう?』

 強い風が吹き、手すりに置かれた本がパラパラとめくられる。ルルは落ちてしまう前にと、慌てて本を胸に抱いた。

「何故本を?」
『この家の事を、少し描こうと、思ったんだ。外で、歌を聴きながら』
「歌?」
『アウィンの歌。多分籠の外で、歌っているから……聞こえないと思う』

 3人分のベッドは置けそうな広いバルコニーには、いくつかのハンモックが太い枝から吊られていた。ルルは空間の気配を辿り、一つを手繰り寄せて座る。背中に草のクッションがあって、とても座り心地がいい。

「ここで描くのか?」
『うん』
「……見ていてもいいか?」
『いいよ』

 ルルはハンモックの中心から少し寄って、コーパルへ視線を向ける。すると彼はポカンとする。後ろから少し覗けるだけで良かったのに、まさか半分席を譲られるとは思わなかった。
 無言の譲り合いが続いたが、強い視線に耐えきれなかったのはコーパルだった。彼は時間を稼ぐかのように、頭を掻いて視線を迷わせる。そうしてようやく、隣に腰を下ろした。もちろん少し浮かせている。そうでもしなければ互いの体重差で傾き、描くのに支障をきたすだろう。
 ルルは本を開く。布製の硬い表紙はそれまで重りだったのか、風によって紙がパラパラと勝手にめくられる。コーパルは不思議に思い、何度か瞬きをした。一瞬しか見えなかった紙全てが、黒く見えたからだ。しかしそれは、所狭しと記された旅の記録であるとすぐに理解した。
 これを一人で書いたのか。本当に、心から好きでなければ続かない。彼は人生の全てを愛しているのだ。ここまでとはいかなくとも、自分も記憶を失う前は、心を焦がすものがあっただろうか。

 細かなメモの下に、解体図のような家の絵があった。ルルはその隣に新しい図を描いていく。手足と鼻、耳を頼りに脳に刻んだ全てを、本へ移していった。
 木の家は複雑だが、簡単に言えば螺旋階段のようだった。部屋は木の中に作られる。必要とされる部屋は基本的に外側に作られ、通路や階段は中央に現れるからだ。その他、気まぐれで出来る小部屋などは、場所に限られないが。ここまでハッキリと意思を持って動く木は初めてだから、本当は違うかもしれない。正解と不正解を話し合えればいいが、これもまた悪い事ではないかもしれない。この方が、読んだ相手の想像力をかき立てられるだろう。
 そう考え、ようやく完成した木の家にルルは満足そうに一息ついた。しかし終わりではないようで、本は閉じられない。

「次は何を書くんだ?」
『ん……みんなを描く』
「みんな?」

 新しいページがめくられてペン先が置かれる。黒いインクが滲んだ一瞬後、迷い無くペンは紙面を泳ぎ、見覚えのある顔を描いた。

「アウィンか?」

 ルルは少し嬉しそうに頷いた。彼は手を動かしつつも時折り、心地良さそうに目を閉じる仕草をする。おそらく歌を聴いているのだろう。
 コーパルは線を追うのに夢中になっていた。中性的で女性のような顔立ちだから、初めて見た時は声を聞くまでどっちなのか、判断できなかったのが第一印象なのを思い出す。
 見えたって難しいのに、触っただけで特徴を理解している事に感心する。線は次にアンブルを描き、アガット、ジプス、コーディエ、そして自分を描いた。改めて自分はこんな顔なのかと、思わず確かめるように頬を触る。

「俺は、どんな顔だと思った?」

 ルルは手を止めてこちらを向く。目が合った時、コーパルは我にかえるようにハッとする。なんてつまらない、意味の無い事で手を止めさせたんだろうか。しばらくして、ふふっと笑ったような息が聞こえた。

『髭、チクチク』

 まさかの感想に、コーパルは数秒間呆気に取られたようにポカンとした。そしてたちまち赤面し、隠すように顎を手で覆う。
 確かに鏡を見た時に生えていると思ったが、全く気にしなかった。もう少し身だしなみを整えた方がいいのだろうか。そもそも記憶が真っさらだから、この状態が自分の普通なのか分からない。考えれば考えるほど答えが分からず、頭がぐるぐるしてきた。
 ルルは目を左右に迷わせるコーパルをじっと不思議そうに見つめる。鏡と睨めっこしていたって、彼が求めるものなど分かるはずなんてないのに。

『……コーパルは、何が好き?』
「何が……? いや、分からない」
『じゃあ、探しに行こう』
「え?」

 それまで僅かにあったハンモックの傾きが消えた事で、コーパルはルルが立ち上がった事を理解した。見上げると、虹の瞳が空を見上げていたのは一瞬で、すぐに落とされて視線が交わる。
 目が合ったと思ったと同時、まだ子供のような薄青い手に腕を引き寄せられた。少女のような力がぐいぐいと引っ張るものだから、反射的に慌てて立ち上がる。だが突然の事で足元がおぼつかない。

「ど、どこへ?」
『どこへでも』
「急じゃないか」
『急じゃない。貴方は、どこへでも行けるんだから……ここで、何も見ずに悩むのは、もったいないよ。自由なんだから』

 自由という言葉に、コーパルは数回、ゆっくりと瞬きをする。
 確かにそうか。その場に止まって悩むという簡単な行為は、誰だってできる。厄介な事に、こうしていると頭は余計に回るくせに、一向に答えを見つけようとしない。げんに、この家から出るという答えは無かった。

『行く?』
「ああ、行こう」

 コーパルは淡くとも、初めて穏やかな笑顔を作っていた。
 自分にあるのは、虚無の絶望だけではない。こうやって、目の前で導いてくれる相手が居る。ならばその相手が気づかせてくれた自由に広がる選択肢の中で、自分よりはるか幼いこの手について行くという選択を取ろう。
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