宝石少年の旅記録

小枝 唯

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【宝石少年と霧の国】

愛の魔法

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 振り返ったルルの視線が扉に向く。その変化に気付いた頃、駆けて来る音は全員の耳に分かるくらいの大きさになっていた。数秒の間も無く、扉が乱暴に開かれた。肩で息をして走って来たのはアウィン。普段は冷静な顔は血相変え、青ざめている。

『どうしたの?』
「ジプス殿が……!」

 慌てすぎたのか荒い呼吸で乾いた喉を詰まらせて、それ以上の言葉は咳に埋もれる。しかしアガットとアンブルはその言葉だけで理解したようだ。アガットはドレスの裾を摘んで駆け出し、アウィンの真横を器用に過ぎ去っていった。

「あの子の様子は?」
「痣が胸の中心に……」
「分かった。コーパル、あの子の部屋へ行って、ベッドの用意をしてくれるかい? 水の用意も頼む」
「あ、ああ、分かった」

 アンブルは早口に言って、コーパルがドアを潜ったのを見届けると、アガットが向かった方へ走っていった。彼女のあとに付いたアウィンをルルも追う。着慣れない服を着ているせいか、少しよろけた。転びそうになった手を、アウィンが引き寄せてなんとか姿勢を保つ。

「ルル、その服は?」
『あ……アガットのを、二人で着合ってたの。アウィンたちに、見せたくて。何があらの?』
「作業中、急に胸を押さえて倒れたんです。おそらく呪いが進行したのだと」

 ルルはハッとする。さっきアガットが自分だけではなく、ジプスも呪いを受けていると言っていたのを思い出した。途端に虹の目が不安定に揺れ、不気味に青白くなる。アウィンはそれを見て、何か察したようだった。

「失礼」

 華奢に見える腕が、ルルの背中と肘裏に回る。触れたと思った瞬間、走りながらも器用にひょいと抱えられた。ここから先、階段を下る事になる。ただでさえ見えず危ないのだから、裾の長い服では急げない。それに、このまま普通に走っていては間に合わないかもしれなかった。二人は居場所が分かっているようだが、ジプスが居るのは少し距離がある場所なのだ。
 アウィンは階段を二段飛び越して駆け下りながら目を閉じる。呼吸を一定に保ち、振動が襲う足元へ意識を向けた。長い足に、どこからか吹きだした風がまとう。すると滑るかのように走る速度が増した。
 ルルは息を詰まらせる突風に目を閉じ、アウィンの首にギュッと捕まる。まるで飛んでいるような速さで、こうしていないと落ちそうだ。

 ガサガサと頬を草が撫でつけて通っていく。アウィンは家を飛び出し、すぐ裏にある木々の間に入った。大樹を囲むこの空間は、皆、命の籠と呼ぶらしい。
 籠と表現されるほど絡み合った木々を抜けると、すぐ坂になった。滑るようにそこを降り、低木のトンネルが二人を迎える。鉱石の耳が、別の誰かがガサガサと駆ける音を聞いた。おそらくアンブルのものだろう。辿るようにアウィンは屈んでそこを走り抜けた。
 トンネルは短く、すぐにドーム状に空間が開けた。天井には色とりどりな、鮮やかな木ノ実がぶら下がっている。二人はそれを採っていたのだろう。実が半分ほど入った籠が置かれていた。そしてそのすぐ近くには──。

『ジプス……!』

 草むらに倒れる彼と、その傍にアガットの気配があった。ルルはアウィンに降ろされ、駆け寄った。何もできる事は無いと知っている。それでも、彼が生きている証拠に触れなければ、こちらも生きた心地がしなかった。

「ああ、ジプス……! もう、この子ったら、無茶をするんだから」

 彼女たちも今駆けつけたようだ。間に合ったのか、アガットはホッと胸を撫で下ろしている。隣に座り込んだルルに気付いて、優しく微笑んで頭を撫でた。彼女の安心など分からない虹の目は、悲しみに暮れるように真っ青だった。

『ジプスは……』
「そんな顔をなさらないで。大丈夫、見ていてくださいな」

 そう言って、アガットは両手でジプスの頬を包んだ。
 それまで見守っていたアウィンは、当たり前のように彼女が触れた事に目を丸くし、隣のアンブルへ視線を向ける。あれは強力な呪いだ。だからてっきり、アンブルが鎮めるとばかり思っていた。だが見守るばかりで、口出しすらしない。
 視線に気付いたアンブルは僅かに茶の目を彼へ向けたが、すぐにアガットに戻す。

(まさか彼らが夫婦なのは……)

 アガットは顔を近づけると、苦しげに呼吸するジプスの口を自身の唇で塞いだ。美麗な少女と獣人の美しい青年。それはこんな状況下でも、見入るほど絵になった。
 しかしそれがただの口付けではないと、アウィンはなんとなく理解した。何かを注ぎ込んでいるのが、魔力の移り変わりが見えたのだ。

「あの子の魔法はね、愛なんだ」
「愛?」
「想う感情が強ければ強いほど力が増す。それは呪いすらも制御するほどに」
「二人の関係は」
「察しの通りだ。でもまあ……あのやり方は、ジプス限定だけどね。長くいれば、偽物は本物になるものさ」

 数秒間で鮮やかな唇が離された。ジプスの頬に掛かっていた彼女の灰色の髪が、同時に退く。それまでうなされていた表情は嘘のように静まり、穏やかになった。
 ジプスの落ち着いた呼吸にアガットは安堵の息を吐き、最後、涙の跡がある目尻にキスをした。そしてこちらを心配そうに見るルルに、にこりと笑って見せる。

「もう大丈夫ですわ。今は疲れて眠っているだけですから、目覚めるまで待ちましょう」
『本当? もう、苦しいのは、無い?』
「ええ」

 ジプスの手を握っていたルルの手が震えている。アガットはそっと自分ので包み、優しく頭を胸元へ寄せた。

~               **              ~               **                 ~

 コーディエは一本の木の頂点で器用に姿勢を保ちながら、赤と青が重なる空の境界線を眺めていた。まだ残る日差しにかざされたのは、彼の瞳によく似た色の石。それはアパタイトで、この付近では採れない種類だ。つまり誰かが持ちこまなければ、存在しない石なのだ。同胞ならばいいが、もしそうでない場合があれば──。
 石の中で屈折して見えた目が閉じられ、憂鬱そうに溜息が吐かれる。またアンブルの手を煩わせる事になるだろうから。だが放っておいた方が後々面倒な事になる。
 コーディエは今度は細い息を長く吐き、体を丸めるように屈めると鷹へ変貌し、森の中を駆け抜けた。

 命の籠に音無く佇む巨大樹。大きな葉に隠れた幹の所々に、窓に見えるものがあった。暗いカーテンで隠れたそこに垂れた枝で、コーディエは翼を畳む。魔術を含む模様を飾った窓を、クチバシで軽く突いた。重そうなカーテンが一人でに開く。
 同時に開いた窓から中へ入り、鷹は人へと変わる。目の前のアンブルへ、コーディエはいつも通り片膝をついて座る。

「おはようコーディエ。今日はどうだった?」
「おはようございます。これが、イリュジオンの入り口付近に」

 差し出された手に、拾ったアパタイトを落とす。アンブルは目の高さまで摘んで持ち上げると、海に落としたような青に目をすがめた。

「存在しない石だ……この国では」
「いかがしましょう」
「まだ様子を見る。気づいていないふりをして、出た尻尾を捕まえるとしよう」
「分かりました」
「今日も報告ご苦労様。今度は私から、お前に報告がある」
「え?」
「ジプスが倒れた。帰る時、せめて顔だけでも見に行ってあげなさい」

 コーディエは目を丸くしてアンブルを見上げた。彼女は思わず呼吸すらも止めている彼の頬をそっと撫でる。気のせいか、いつもより冷たく感じた。

「大丈夫。もう今は眠ってる」
「そう、ですか」

 声は、文字通り絞り出したかのように小さくて掠れている。茶色の目がスッと扉へ向いた。促されるように、青い目が視線を追いかける。
 扉の前へ行き、ノブを回す前にコーディエは振り返る。こちらを見つめる優しい瞳に、会釈してドアを開けた。

 家が気を遣ったのか、ジプスの部屋には比較的、すぐに辿りついた。それなのに、自分はいつまでノブに触れないのだろう。握って回すだけなのに、それすらできない。意味なく立っているだけなのに、心臓は激しく動いたあとのように胸を強く叩いている。
 無意識に俯かせていた顔を上げた、その時だった。まるで焦ったいと訴えるように扉が勝手に開かれた。

「?!」

 咄嗟に距離を取って身構える。開けたのはルルだった。コーディエは予想していなかった相手にキョトンとする。

『ドアの前に、ずっと居たから』
「な、何故俺だと……?」
『気配』

 ルルは端的に答えると、コーディエの腕を掴んで部屋へ引き入れた。そして、先程まで座っていたであろう椅子の隣に、新しく椅子を用意する。
 コーディエは手を引かれるがままに、ベッド前まで辿々しく近寄った。枕に沈む顔は、言われた通り苦しみとは無縁の表情だ。彼は安堵に胸を撫で下ろし、新しい椅子に腰掛ける。

「アガットは」
『ご飯作ってる。交代したの』
「そうか」

 しばらくの間、沈黙が続いた。気まずさにチラリとルルを見るが、全く気にしている素振りが無かった。何も映さない美しい瞳は、ジプスから逸らされない。
 不気味なくらい整っている横顔を、思わず数秒見つめて我に帰る。こんな事をしている暇は無い。ジプスの無事を確認できたのだから、早く出て行かなくては。必要以上に彼と顔を合わせるわけにはいかないのだ。
 立ち上がると、それまで固定されていた虹の目がようやく動いた。
 ベッドに背を向けると、再び腕が掴まれて引き止められる。振り払う気が、何故か起きなかった。きっとその手があまりにも華奢だからだろう。

『もう、行っちゃうの?』
「見回りがあるんだ」
『それ……ジプスより、大事?』

 コーディエは一瞬顔をひきつらせたが、すぐ口を開く。声を出したつもりだった。しかし脳で冷静に思考して作ったはずの言葉は、何故か喉から出たがらない。まるで体が拒否している。さらに顔が強ばり、視線が迷った。
 逸らされたのが分かったのか、頭に音が響く。

『ジプスの事、嫌い?』
「そんなわけ……!」

 追い討ちを掛けるような言葉に、コーディエは咄嗟に叫んだ。その時、視線が再び交わった。一瞬たりとも逸らされなかった虹の瞳は、気のせいか優しく見える。
 すると今度はルルが視線を逸らした。自分たちに無い全眼が、長いまつ毛で半分隠される。

『苦しい時、一人で居ると……とても悲しいの。大好きな人が居たら、楽になるから』

 コーディエの目が丸くなる。ああ、どこまでも彼は純粋なのだ。それは相手に残酷心を生む。
 彼がどこか悔しそうに唇を噛むと、小さく呟いた。

「苦しむ原因となった者が目の前に居ても、楽になると思っているのか」
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