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【宝石少年と霧の国】
木のわがまま
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鼻がくすぐったい。意識が鮮明になって、まずルルが感じたのはそれだった。徐々に戻る感覚で、仮面とマントが取られている事に気付く。ガバッと起きると、鼻に止まっていた蝶が驚いて飛んで行った。
『アウィン、アンブル?』
返答は無い。それどころか、周囲を見渡しても誰の気配も感じなかった。穏やかな風が頬を撫でる。ざわざわと頭上で複数の何かが動く音が聞こえた。直後、ハラハラと花びらが舞い落ちる。
目をパチクリさせ、試しに手の平を上へ向けると花弁がそのまま、ポトリと一輪落ちてきた。花をプレゼントしたのは、大人数人で囲む必要のある背後の大木。
『君、さっきの木?』
正解だと言わんばかりに、寝そべっていた草むらに花が咲き誇る。だが正体が分かっても状況は把握できない。敵意は無さそうだが。
『アウィンたちは?』
それまでそよいでいた風が止まり、静まり返る。それはまるで、痛いところを突かれたような反応だ。
『彼は僕の友達で、旅を教えてくれた、大事な人。傷付けちゃダメ』
子供に言い聞かせるように言うルルの声は、少し低い。確かに混ざる怒りの感情に、枝はびくりと怯えるように震える。そして弁解するように、幼児のような頬を葉で包んだ。
宥めるようなその仕草に、ルルは首をかしげる。意思疎通はできるが、やはり相手からも言葉が無ければいまいち分からない。幸いなのは、動物には届かないこの声が届く事か。
『……傷付けないって、言いたいの?』
肌を滑る柔らかな葉の動きが止まり、急速に蕾をつけると美しい純白の花を咲かせた。その通りだと言いたいのだろうか。
『約束、してくれる?』
蔓が伸びると、小指にしゅるりと巻きつく。爪と同じほど小さな花が一輪咲いたそれは、まるで小さなダイヤがついた指輪のようだ。小指へ送られる指輪の意味に、約束というのがあったのをルルは思い出す。これは人の間で伝わったもの。アンブルから教わったのだろうか。
ルルは小さな息をつくと、こちらを伺っている枝をそっと撫でる。
『分かった、信じるよ。でもここはどこ? どうして僕だけ、連れて来たの?』
すると、今度は柔らかな毛を持った蔓が伸びて手首を包み、クイッと軽く引っ張った。立ってと言われているようで、ルルは不思議に思いながらも、草の絨毯から腰を上げる。半ば強引だったため体がふらついた。すると、それを支えるように腰に蔓が巻き、両手が同じよう包まれる。
その様子はまるで踊っているかのようだ。
『もしかして……遊びたいの?』
小首をかしげたその瞬間、喜びを表すように木はルルの体をクルクルと回した。されるがままに仰向けになり、太い枝に背中が支えられる。ルルはあっけに取られたように目を瞬かせると、口からふふっと笑った息を吐く。
『いいよ。ちゃんと二人の元に、返してくれる?』
体を持ち上げられてそっと地面に降ろされる。それは迷いから生まれる時間稼ぎに感じた。ルルは何も言わず、返答を待つ。
少しして木は、先程くれた蔓の指輪を示すように触れる。ルルは意味を理解して小さく頷く。
『約束』
ポンッと花が咲き、その中心から光る玉のような物がふわふわと周りを漂った。光は動くたび、ルルの瞳のように色を変える。試しに手を伸ばして指先で触れると、泡のように空気に溶けた。
ルルは改めて辺りを見渡してみる。不思議な感覚だった。太陽のぬくもりや風は確かに外だと思えるほどなのに、空間の終わりがある。外にあるはずの無い壁を感じるのだ。つまりは外ではなく、部屋の中だという事になる。
『ここは、君たちが作ったの? 幻覚?』
ガサガサという音に合わせ、ぼんやりと脳裏に浮かぶ気配が激しく左右に動く。人が否定を示す時と同じ動きだ。では元々こういった部屋があったのだろうか。
ルルの足元で一輪、新たに咲く花があった。それは目を奪われるほど美しい紫の花。だが花びらが開く音は、流石に鉱石の耳には届かない。すると穏やかな風が吹き、花弁を揺らした。そよ風が傷一つない頬を撫でた時、同時に花の香りを彼へ届ける。その鼻腔をくすぐる涼やかな香りに、ルルは虹の全眼を丸くした。
(どうして?)
驚きのあまり言葉を頭に作れず、その場にしゃがむ。香りを辿って指先が触れた花びらは、太陽の光にキラリと輝いた。自主的に光を放つ花はあれど、まるで鉱石のように反射する物は存在しない。壊れないようにそっと触る。これの正体をルルだけが確信できた。
(宝石の花……)
これは以前訪れた国で、友の錬金術を元にして作った創作花だ。こんな所にあるはずが無い。唖然としていると、蔓が花弁だけを器用に手折り、主張するように差し出す。受け取れば、より偽物ではないのが分かる。両手にかかるズッシリとした重さが、記憶を鮮明にさせた。
『どうして、君がこれを、知っているの?』
木はどう伝えていいか分からないのか、少し戸惑いを見せる。やがて、枝先でルルの額をノックするように叩いた。遊びはじめたのかと思ったが、何度も何度も叩く仕草はそうじゃないと理解できた。次いで、胸元をトントンと叩く。
(頭、胸? それとも)
もし言い方を変えるとしたら? たとえば、もっと抽象的な。
『記憶──僕の記憶から、場所を作った?』
木が喜ぶように、全身に花を咲かせた。一斉に香る花の濃厚な香りに、ルルはまだ目を丸くしたままだ。予想していたとしても驚いてしまう。まさか生きているとはいえ、記憶を見て、さらに喜ぶような場を判断して作るとは。
ルルはもう一度、ぐるりと辺りを見た。幻覚じゃないとすると、木が遊びたいがために部屋を作ったのか。唖然と小さく開いていた口が、僅かに弧を作った。
『僕のために、部屋を、作ってくれて、ありがとう』
木は愛しそうにルルの頬を撫でる。早く部屋を案内したくて仕方ないのか、少しソワソワしている。すると、まるで落ち着かせるように、枝先を彼の指がツンと突いた。
『遊ぶのはいい。でも次からは、こんな事しちゃダメ。アンブルに、怒られちゃうよ? アウィンも、心配しちゃうから、僕が帰りたいと言ったら、帰してね?』
木はうろうろようにガサガサと枝を揺する。気に入った人とはずっと一緒にいたいのだ。しかし念を押されてしまえば、約束するしかない。枝が頷くようにギシリと軋み、蔓が再び小指に巻きついた。
~ ** ~ ** ~
アウィンは両膝に手をつき、背中を丸めた。額に浮かぶ汗を拭い、乱れに上ずる呼吸を必死に整える。
(一体、この家はどうなっているんでしょう……)
何度急な階段や壁を登ったのだろう。旅人として自然と鍛えられた肉体だとしても、アウィンは細身だ。そうでなくてもほとんどは音をあげるだろう。しかも厳しい道のりをひょいひょいと進んでいくアンブルに、よくここまでついて来れたものだ。だが華奢で老体になりかけたその体のどこに、そんな身体力が隠れているのか。
「あ、アンブル様、少しお待ちを」
たまらず出した声は、荒い呼吸のせいで小さい。しかしアンブルには届いたようで、彼女は窓枠へ登ろうとしたところを振り返る。すっかり疲れ果てた彼の様子に、仕方なさそうに笑った。
座りそうになるアウィンへ、アンブルは腰に括ったひょうたん型の水筒を差し出した。甘んじて受け取り、コルクを取って喉を潤す。水にしては甘いが、鼻から抜ける香りは無い。
「これは……?」
「あの滝の水さ。どうだい、喉が潤うと同時に、活力も湧くだろう?」
「ええ、確かに。疲れが嘘のようです。しかし、アンブル様は体を鍛えていらっしゃるのですか?」
「鍛える? ははは、私は今年で二百になる。こんな老体には無理さ」
「何ですって?」
アウィンは思わず確かめるように、アンブルを見つめる。魔女は人ならざる力を得ると同時、長い美貌を得ると言う。だが彼女たちにももちろん寿命はあるわけで、百を過ぎた頃からゆっくり年老いていくらしい。しかしそれでも、オリクトの民と張るほど永く生きるそうだ。
しかし二百にしては、彼女の体は若く見える。女性らしい曲線を描くというよりは、華奢だからだろうか。
「何か魔術を?」
アウィンが悩む姿が面白いのか、アンブルはクスクスと笑うと首を横に振った。
「力を入れるところが違うのさ。できるだけ使う力が小さくなるように、掴む場所や足の浮力を使ってね。坊やも同じだと思ったが……ふふふ。力任せなのも父親似だね」
「そ、そんな事は無いかと」
「妙に丁寧な口調なのは、差別化のためかい?」
「……五大柱としての礼儀です」
そう言いながらも、アウィンは顔を逸らす。図星だ。父はアンブルの師、スフェーンの教えによって、指折りの魔術師となった。しかしその性格は力でなんとかなるというような、脳筋的な考えをするもの。魔術も剣を使うという、魔術師としてもあまり珍しいやり方をする。
父の事は誇りではあるが、少し恥ずかしく思えるところもある。しかし会ったばかりのアンブルに、今は本能的と呼べる口調の理由まで見破られるとは。
「さあ、そろそろ疲れも取れただろう。行こうか」
「あ、は、はい」
上がっていた息もすっかり落ち着いた。アンブルはさっそく、遥か上から垂れ下がる鎖を手に巻き付け、壁に足をつける。アウィンは空中に留まっている瓦礫のような足場へ跳んだ。見れば見るほど、室内である事が信じがたくなる。移動中も、いたずらに動き続ける壁に離されないようにするのがやっとだ。
柱のように丸くなった壁に、ニュッと時計が生えてきた。瓦礫が消えた今、それは足場と手綱の代わりになった。形、装飾と様々な時計が次々と飛び出してくる。しかし皆、同じ時間を示していた。
ふと、手を置いた時計が目に入る。それには長針や短針、数字で時刻を示すものではなかった。一枚、現実の空模様がそっくりそのまま、絵として描かれていた。それも少しずつ移り変わる。その姿はまるで、時計という小さな箱にある別世界を見ているかの気分になる。
(家に来たのは、確か昼前。ルル……無事でいてください)
絵の中にある山から、小さな三日月が顔を出しはじめていた。つまり、まもなく夜が訪れるという事。
それが自分にとって、どんな意味をもたらすのか理解した瞬間だった。ちょうど次の居場所を探していた足が、ズンと重くなるのを感じる。まずい、夜が来る事に対して何も考えていなかった。足が動かなくなれば、ルルを探せなくなる。
足が人形と化し、ダランと重力に従う。せっかく足場に辿り着けても、ずるりと落ちて重しとなった。次を探して宙をさまよっていた手の拠り所を、急いで探す。しかしそれは間に合わない。片手だけでは体重を支えきれず、必死に掴んでいた指先が時計から離れた。それは、妙な気配を感じてアンブルが振り返るのと、ほぼ同時だった。
「アウィン!」
アンブルは手を伸ばすが、指先は掠りもしなかった。今や地面はもう見えない位置にある。重力だけが現実に忠実な空間では、ただ落ちるのみだった。
『アウィン、アンブル?』
返答は無い。それどころか、周囲を見渡しても誰の気配も感じなかった。穏やかな風が頬を撫でる。ざわざわと頭上で複数の何かが動く音が聞こえた。直後、ハラハラと花びらが舞い落ちる。
目をパチクリさせ、試しに手の平を上へ向けると花弁がそのまま、ポトリと一輪落ちてきた。花をプレゼントしたのは、大人数人で囲む必要のある背後の大木。
『君、さっきの木?』
正解だと言わんばかりに、寝そべっていた草むらに花が咲き誇る。だが正体が分かっても状況は把握できない。敵意は無さそうだが。
『アウィンたちは?』
それまでそよいでいた風が止まり、静まり返る。それはまるで、痛いところを突かれたような反応だ。
『彼は僕の友達で、旅を教えてくれた、大事な人。傷付けちゃダメ』
子供に言い聞かせるように言うルルの声は、少し低い。確かに混ざる怒りの感情に、枝はびくりと怯えるように震える。そして弁解するように、幼児のような頬を葉で包んだ。
宥めるようなその仕草に、ルルは首をかしげる。意思疎通はできるが、やはり相手からも言葉が無ければいまいち分からない。幸いなのは、動物には届かないこの声が届く事か。
『……傷付けないって、言いたいの?』
肌を滑る柔らかな葉の動きが止まり、急速に蕾をつけると美しい純白の花を咲かせた。その通りだと言いたいのだろうか。
『約束、してくれる?』
蔓が伸びると、小指にしゅるりと巻きつく。爪と同じほど小さな花が一輪咲いたそれは、まるで小さなダイヤがついた指輪のようだ。小指へ送られる指輪の意味に、約束というのがあったのをルルは思い出す。これは人の間で伝わったもの。アンブルから教わったのだろうか。
ルルは小さな息をつくと、こちらを伺っている枝をそっと撫でる。
『分かった、信じるよ。でもここはどこ? どうして僕だけ、連れて来たの?』
すると、今度は柔らかな毛を持った蔓が伸びて手首を包み、クイッと軽く引っ張った。立ってと言われているようで、ルルは不思議に思いながらも、草の絨毯から腰を上げる。半ば強引だったため体がふらついた。すると、それを支えるように腰に蔓が巻き、両手が同じよう包まれる。
その様子はまるで踊っているかのようだ。
『もしかして……遊びたいの?』
小首をかしげたその瞬間、喜びを表すように木はルルの体をクルクルと回した。されるがままに仰向けになり、太い枝に背中が支えられる。ルルはあっけに取られたように目を瞬かせると、口からふふっと笑った息を吐く。
『いいよ。ちゃんと二人の元に、返してくれる?』
体を持ち上げられてそっと地面に降ろされる。それは迷いから生まれる時間稼ぎに感じた。ルルは何も言わず、返答を待つ。
少しして木は、先程くれた蔓の指輪を示すように触れる。ルルは意味を理解して小さく頷く。
『約束』
ポンッと花が咲き、その中心から光る玉のような物がふわふわと周りを漂った。光は動くたび、ルルの瞳のように色を変える。試しに手を伸ばして指先で触れると、泡のように空気に溶けた。
ルルは改めて辺りを見渡してみる。不思議な感覚だった。太陽のぬくもりや風は確かに外だと思えるほどなのに、空間の終わりがある。外にあるはずの無い壁を感じるのだ。つまりは外ではなく、部屋の中だという事になる。
『ここは、君たちが作ったの? 幻覚?』
ガサガサという音に合わせ、ぼんやりと脳裏に浮かぶ気配が激しく左右に動く。人が否定を示す時と同じ動きだ。では元々こういった部屋があったのだろうか。
ルルの足元で一輪、新たに咲く花があった。それは目を奪われるほど美しい紫の花。だが花びらが開く音は、流石に鉱石の耳には届かない。すると穏やかな風が吹き、花弁を揺らした。そよ風が傷一つない頬を撫でた時、同時に花の香りを彼へ届ける。その鼻腔をくすぐる涼やかな香りに、ルルは虹の全眼を丸くした。
(どうして?)
驚きのあまり言葉を頭に作れず、その場にしゃがむ。香りを辿って指先が触れた花びらは、太陽の光にキラリと輝いた。自主的に光を放つ花はあれど、まるで鉱石のように反射する物は存在しない。壊れないようにそっと触る。これの正体をルルだけが確信できた。
(宝石の花……)
これは以前訪れた国で、友の錬金術を元にして作った創作花だ。こんな所にあるはずが無い。唖然としていると、蔓が花弁だけを器用に手折り、主張するように差し出す。受け取れば、より偽物ではないのが分かる。両手にかかるズッシリとした重さが、記憶を鮮明にさせた。
『どうして、君がこれを、知っているの?』
木はどう伝えていいか分からないのか、少し戸惑いを見せる。やがて、枝先でルルの額をノックするように叩いた。遊びはじめたのかと思ったが、何度も何度も叩く仕草はそうじゃないと理解できた。次いで、胸元をトントンと叩く。
(頭、胸? それとも)
もし言い方を変えるとしたら? たとえば、もっと抽象的な。
『記憶──僕の記憶から、場所を作った?』
木が喜ぶように、全身に花を咲かせた。一斉に香る花の濃厚な香りに、ルルはまだ目を丸くしたままだ。予想していたとしても驚いてしまう。まさか生きているとはいえ、記憶を見て、さらに喜ぶような場を判断して作るとは。
ルルはもう一度、ぐるりと辺りを見た。幻覚じゃないとすると、木が遊びたいがために部屋を作ったのか。唖然と小さく開いていた口が、僅かに弧を作った。
『僕のために、部屋を、作ってくれて、ありがとう』
木は愛しそうにルルの頬を撫でる。早く部屋を案内したくて仕方ないのか、少しソワソワしている。すると、まるで落ち着かせるように、枝先を彼の指がツンと突いた。
『遊ぶのはいい。でも次からは、こんな事しちゃダメ。アンブルに、怒られちゃうよ? アウィンも、心配しちゃうから、僕が帰りたいと言ったら、帰してね?』
木はうろうろようにガサガサと枝を揺する。気に入った人とはずっと一緒にいたいのだ。しかし念を押されてしまえば、約束するしかない。枝が頷くようにギシリと軋み、蔓が再び小指に巻きついた。
~ ** ~ ** ~
アウィンは両膝に手をつき、背中を丸めた。額に浮かぶ汗を拭い、乱れに上ずる呼吸を必死に整える。
(一体、この家はどうなっているんでしょう……)
何度急な階段や壁を登ったのだろう。旅人として自然と鍛えられた肉体だとしても、アウィンは細身だ。そうでなくてもほとんどは音をあげるだろう。しかも厳しい道のりをひょいひょいと進んでいくアンブルに、よくここまでついて来れたものだ。だが華奢で老体になりかけたその体のどこに、そんな身体力が隠れているのか。
「あ、アンブル様、少しお待ちを」
たまらず出した声は、荒い呼吸のせいで小さい。しかしアンブルには届いたようで、彼女は窓枠へ登ろうとしたところを振り返る。すっかり疲れ果てた彼の様子に、仕方なさそうに笑った。
座りそうになるアウィンへ、アンブルは腰に括ったひょうたん型の水筒を差し出した。甘んじて受け取り、コルクを取って喉を潤す。水にしては甘いが、鼻から抜ける香りは無い。
「これは……?」
「あの滝の水さ。どうだい、喉が潤うと同時に、活力も湧くだろう?」
「ええ、確かに。疲れが嘘のようです。しかし、アンブル様は体を鍛えていらっしゃるのですか?」
「鍛える? ははは、私は今年で二百になる。こんな老体には無理さ」
「何ですって?」
アウィンは思わず確かめるように、アンブルを見つめる。魔女は人ならざる力を得ると同時、長い美貌を得ると言う。だが彼女たちにももちろん寿命はあるわけで、百を過ぎた頃からゆっくり年老いていくらしい。しかしそれでも、オリクトの民と張るほど永く生きるそうだ。
しかし二百にしては、彼女の体は若く見える。女性らしい曲線を描くというよりは、華奢だからだろうか。
「何か魔術を?」
アウィンが悩む姿が面白いのか、アンブルはクスクスと笑うと首を横に振った。
「力を入れるところが違うのさ。できるだけ使う力が小さくなるように、掴む場所や足の浮力を使ってね。坊やも同じだと思ったが……ふふふ。力任せなのも父親似だね」
「そ、そんな事は無いかと」
「妙に丁寧な口調なのは、差別化のためかい?」
「……五大柱としての礼儀です」
そう言いながらも、アウィンは顔を逸らす。図星だ。父はアンブルの師、スフェーンの教えによって、指折りの魔術師となった。しかしその性格は力でなんとかなるというような、脳筋的な考えをするもの。魔術も剣を使うという、魔術師としてもあまり珍しいやり方をする。
父の事は誇りではあるが、少し恥ずかしく思えるところもある。しかし会ったばかりのアンブルに、今は本能的と呼べる口調の理由まで見破られるとは。
「さあ、そろそろ疲れも取れただろう。行こうか」
「あ、は、はい」
上がっていた息もすっかり落ち着いた。アンブルはさっそく、遥か上から垂れ下がる鎖を手に巻き付け、壁に足をつける。アウィンは空中に留まっている瓦礫のような足場へ跳んだ。見れば見るほど、室内である事が信じがたくなる。移動中も、いたずらに動き続ける壁に離されないようにするのがやっとだ。
柱のように丸くなった壁に、ニュッと時計が生えてきた。瓦礫が消えた今、それは足場と手綱の代わりになった。形、装飾と様々な時計が次々と飛び出してくる。しかし皆、同じ時間を示していた。
ふと、手を置いた時計が目に入る。それには長針や短針、数字で時刻を示すものではなかった。一枚、現実の空模様がそっくりそのまま、絵として描かれていた。それも少しずつ移り変わる。その姿はまるで、時計という小さな箱にある別世界を見ているかの気分になる。
(家に来たのは、確か昼前。ルル……無事でいてください)
絵の中にある山から、小さな三日月が顔を出しはじめていた。つまり、まもなく夜が訪れるという事。
それが自分にとって、どんな意味をもたらすのか理解した瞬間だった。ちょうど次の居場所を探していた足が、ズンと重くなるのを感じる。まずい、夜が来る事に対して何も考えていなかった。足が動かなくなれば、ルルを探せなくなる。
足が人形と化し、ダランと重力に従う。せっかく足場に辿り着けても、ずるりと落ちて重しとなった。次を探して宙をさまよっていた手の拠り所を、急いで探す。しかしそれは間に合わない。片手だけでは体重を支えきれず、必死に掴んでいた指先が時計から離れた。それは、妙な気配を感じてアンブルが振り返るのと、ほぼ同時だった。
「アウィン!」
アンブルは手を伸ばすが、指先は掠りもしなかった。今や地面はもう見えない位置にある。重力だけが現実に忠実な空間では、ただ落ちるのみだった。
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