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【宝石少年と霧の国】
生きている家
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森の中はとても広い。外からは想像できないほど空間があり、一つの国と呼べるだろう。異なるのは人間がいない事だけ。獣人の子供たちが、変化を練習している様子が木々の合間から見え、微笑ましくなる。
アンブルの背中を追い続けると、やがて一本の小道に変わった。とても狭く、一人一人で通らなければ、木に肩がぶつかってしまう。ここはまるで木々の洞窟だ。
細道を抜けるとまた大きく拓けた。巨大な池が広がり、その上に崖のような坂がある。いけを囲む周囲は木々が絡み合い、まるで坂の上に佇む巨木を守る籠のようだった。巨木の根本から池へと、キラキラと光を纏って見える透き通る水が、滝として流れている。鮮やかで大きな新緑色の葉が茂る太い枝には、いくつもの部屋が溶け込むようにして建っていた。
岩肌にカーテンのように生える苔を踏みしめ坂を登り終えると、根本から流れる川の向こうに、玄関のような扉があった。しかし足場は見当たらない。
「詩人の坊やは、浮遊の魔法が使えるね?」
「えっ? あ、ええ」
「オリクトの坊や」
差し伸べられたアンブルの少しシワのある手に、ルルはそっと自分のを重ねた。
「離したらいけないよ」
頷くと、いい子だと頭を撫でられる。その優しい手つきに、嫌な気は全くしなかった。
アンブルは流れ続ける川の中へ足を入れる。遅れずにピョンと飛び込むと、不思議な事に足裏が川を踏んだ。ガラスのような板があるわけではない。確かに水を踏んでいる感覚があった。興味津々に足元を見ているルルに、アンブルは祖母のように優しく笑う。
「水の上を歩くのは初めてかい?」
『うん、すごい。……手を離したら、沈む?』
「ああ。気になるからって、やってはダメだよ。川の流れが早いから、小さな坊やはあっという間に流される」
図星を突かれ、ルルはぎくりと肩を跳ねさせる。まさに今やろうとして、握る手の力を緩めていたからだ。急に魔法が解かれる感覚を味わってみたかったのだ。しかし釘刺すように手に力を込められたため、潔く諦めた。
一方でアウィンは、愕然としてアンブルを見つめていた。あれは確かに浮遊魔法の一種だ。しかし難易度の高い応用とされる。それを当たり前にあっさりこなしてしまう魔女なんて、見た事がない。視線に気付いたアンブルが小さく言う。
「坊やにはできるだろう? あのヴィッツ家の子なんだ。やってごらん」
「何故家名を……!」
「知りたいのならおいで、さあ」
まるで試すような物言いだった。アンブルはルルを連れて、まるで散歩するように川を歩いて行く。
ルルはチラリとアウィンを見たあと、彼女の裾をクイッと引っ張った。フードと仮面に守られながらも、その仕草は心配をしているのが読み取れる。どうやら意地悪をしていると勘違いしたらしい。アンブルは庇った事に驚いた顔をしたが、すぐに優しく微笑む。
「大丈夫、なにもできない事をやれと言っているんじゃない。あの子はできる。見てなさい」
囁きが終わる前に、水面に波紋が広がる。チャポンという足音でルルにも伝わってきた。それはアウィンの足が水を踏む音だった。彼の長い足は溺れず、アンブルたちと同じように水の上に立っている。
アウィンは少しよろけ、不恰好ながらに杖をついて姿勢を保っている。アンブルはその姿に笑みを見せた。
「ほらごらん。怖くないだろう?」
その声色はとても優しいのに、やはりどこか意地の悪さもあった。怯えた子供に言い聞かせるかのようで、この歳だと調子が狂う。アウィンはいつもは冷静な笑みを珍しく崩して目を泳がせた。それでもなんとか集中して、ルルたちが待つ岸辺へ慎重に歩く。
ルルは地面に自分の足が付いたのを理解すると、すぐにアンブルの手を離し、アウィンへ両手を差し伸べた。最後、アウィンは転びそうになったが、彼の手に自分のを重ねて耐える。
「初めてかい?」
「……ええ」
「なら、上出来だ。途中で溺れて不思議じゃないけれど、渡り切るのは大したものだ。試すような事をして悪かったね。坊やのような出来のいい子は、力量を見たくなるのさ」
アンブルは自分より背の高いアウィンの頭をポンと撫でる。十年前に成人して以来、頭を撫でられるだなんて初めてで、彼は呆気に取られた。
「中へお入り」
彼女がそう言うと、扉が迎え入れるようにひとりでに開く。入って行くアンブルの背中を、アウィンは未だ呆然と見ていたが、ルルに手を引かれて我に変える。心配そうな視線に微笑み、そっと触れた手を優しく握った。
「行きましょう」
『うん』
ルルはいつもと変わらない声色に安心したのか、頬を緩めて頷いた。
ドアは、二人が入って来るのを待つように開かれたままだ。ルルはそっと肩までを中へ覗かせ、その上からアウィンが慎重に顔を中に入れる。アンブルはそれに可笑しそうに笑った。
「安心しなさい、家も歓迎しているよ?」
『家が?』
ずいぶん面白い表現の仕方だと思ったその時、ルルの目の前に枝が降りて来た。ギシギシと音を立てるそれに目を瞬かせていると、ポンッと弾ける音を立て、枝先に鮮やかな黄色の果実が生まれた。実は震えると、ルルの手の平にぽとりと落ちる。
無意識にアンブルへ視線が行く。彼女が何かしたのだろうか。しかし彼女はそれを読んでか、静かに首を横に振った。
「言ったろう、歓迎していると」
『家が、生きてるの?』
「木が主軸だけどね。その実は少し珍しいよ。気に入られたね」
今度はアウィンの元に枝が伸び、再びポンッと同じ実が成った。恐る恐る受け取り、二人は顔を見合わせる。見た事のない種類だ。この森でも珍しいらしいが……。
ルルは鼻を近付けると、スンスンと匂いを嗅ぐ。少しの間じっと見つめ、小さくかじった。
「あ」
「どうだい?」
動く口から、シャクシャクと瑞々しい音が聞こえる。ごくんと飲みこんだルルは、仮面の下で目を鮮やかに輝かせた。
なんて甘い果実なのだろう。一口だけでもたっぷり含んだ果汁がいっぱいに広がり、渇いた喉を潤す。果肉は硬いのに、舌を撫でる感覚は不思議と柔らかく、いつの間にか溶けてしまった。
『美味しいっ』
「ふふふ、そうだろう。良かったね」
アンブルは孫を見るように穏やかに笑う。ルルは目の前にある枝に触れ、そっと撫でた。
『美味しいもの、ありがとう』
その言葉に枝が震えたと思ったその時、ポンポンポンッと派手な音を立て、同じ実がいくつも成った。仮面下で目を丸くするルルに、枝はクリーム色の花を咲かせて見せる。
「ははは、相当嬉しかったみたいだね」
『……どうしよう?』
「貰っておやり。食べきれなければ、あとでおやつにすればいい」
アンブルは枝を優しく撫でて花を摘むと、ルルのフードから僅かに見える髪へ飾った。
「木も恋をするんだねぇ」
アンブルの言葉に、今度は真っ赤な花が咲き誇る。その花は何重にも花びらが重なり、とても美しい。ほのかに甘い香りがしたが、その一方でアンブルは険しい顔をする。
「坊やたち、息を止めなさい」
アウィンは反射的に従い、口を閉じる。しかしルルも両手で口を覆ったが、近くに居たせいで香りが断ち切れなかった。まるで脳の中を霧が覆ったように香りがまとい、意識が薄れたのを感じた。
アウィンの目に、ふらりと体を揺らすルルが映る。咄嗟に手を伸ばすが、握ったのは細い腕ではなく空気だけ。あっという間に、ルルの体を花が咲いた蔓が包む。それは瞬きをする僅か一瞬で、彼の姿は消えた。
「ルル!」
アウィンはドアを背に、アンブルと向かい合った。やはり彼女は味方ではない。しかしその警戒心は再び崩される。その顔が苦々しく歪んでいるのだ。
「困ったね、すぐに坊やを探さなければ」
「貴女がやったのでは、無いのですか……?」
「わざわざあんな、警戒心をかき立てるような真似しないさ。ドアは?」
後ろ手でノブを回してみるが、びくともしない。静かに首を横に振ると、アンブルは大きく溜息を吐く。
「オリクトの坊やを探しに行こう。手伝っておくれ」
「一体何故あんな」
「言ったろう、気に入られたと。だがこんな大胆な事をするとはね。坊や、私から離れるんじゃないよ。お前さんも連れていかれる」
「ルルは無事なのですか……?」
「そこは安心しなさい。閉じ込めたいほど気に入った相手を、坊やは傷付けるかい?」
アウィンはぐっと押し黙る。という事はルルが無事である可能性が高い。しかし彼女を完全に信用する事はできない。するとアンブルはすっと琥珀色の目を細め、仕方なさそうに笑った。
「アウィン・ヴィッツ。スフェーンが言った通り、親に似て賢い子だ」
その名は、アウィンにとって身近な存在だった。スフェーンは名の知れた魔法使いだった。千年以上前に起きた大戦争を、世界の王と共に過ごした者として有名なのだ。彼は王と共に戦争の鎮静化に見事成功し、その功績は今も忠実に語り継がれている。
そして彼は最後の弟子を取ったあと、気まぐれに魔術師や魔法士を育てた。その教え子の一人に、アウィンの父が居たのだ。
「まさか貴女は、スフェーン二番目の──」
「少しは信用できたかい? さあ、急ごう。オリクトの坊やが完全に囚われる前に」
こちらに背を向けた彼女を、アウィンは慌てて追った。もう警戒心など毛頭に無い。
「と、囚われるというのは?」
「言葉通りだ。気に入りすぎるとね、離れてしまわないよう閉じ込めようとするんだよ。私も初めて来た時は、出口が消えてしばらく外へ出してもらえなかったね」
アンブルは壁に触れる。手から魔法陣が描かれ、壁が震えると階段が現れた。アウィンは登った彼女に遅れて部屋を出る。数段登って試しに振り返って見ると、ギョッと目を開いた。
壁が生き物のように動いている。つい先程通った扉が豆粒のような小ささに見えるほど、遠くにあった。まだ手で数えられる程度しか段数を跨いでいないのに。そう思えば今度は目の前へやってきた。絶え間なく動くその姿はまるで体内のようで、気持ちが悪い。無意識に足元がふらついたその時、グイッと腕を引き寄せられる。
「しっかりしなさい。自分の足場を意識しながら歩くんだ。じゃないと坊やも取り込まれるよ」
そっと手が離される。アウィンは言われた通り、杖を強く突いて足を踏ん張らせる。すると家がそれを阻止するかのように、地面が小さくなった。しかしアウィンの体は落ちなかった。意識を強く保った事が幸いしたのか、足場が元に戻ったのだ。
「強い子だね。おいで、離れちゃいけないよ」
「今のは、幻覚ですか?」
「いいや、諦めたのさ。オリクトの坊やが心配だ。あの子は心がある分、きっと取り込まれやすい。家はね、その相手にとって甘美な物を作り上げ、精神を取り込むんだ」
「しかし、ルルがそれだけで簡単に取り込まれるとは思えません」
「あぁ、そうかもしれない。でもね、坊やは誰よりも強く、そして弱いんだ。それに、王様と自然の関係は深い。余計に厄介なんだよ」
言いながら、アンブルは初老には見えないほど身軽に、壁についた木板を登りはじめる。アウィンは驚いてその様子を見ながらも、なんとか食い付いた。
アンブルの背中を追い続けると、やがて一本の小道に変わった。とても狭く、一人一人で通らなければ、木に肩がぶつかってしまう。ここはまるで木々の洞窟だ。
細道を抜けるとまた大きく拓けた。巨大な池が広がり、その上に崖のような坂がある。いけを囲む周囲は木々が絡み合い、まるで坂の上に佇む巨木を守る籠のようだった。巨木の根本から池へと、キラキラと光を纏って見える透き通る水が、滝として流れている。鮮やかで大きな新緑色の葉が茂る太い枝には、いくつもの部屋が溶け込むようにして建っていた。
岩肌にカーテンのように生える苔を踏みしめ坂を登り終えると、根本から流れる川の向こうに、玄関のような扉があった。しかし足場は見当たらない。
「詩人の坊やは、浮遊の魔法が使えるね?」
「えっ? あ、ええ」
「オリクトの坊や」
差し伸べられたアンブルの少しシワのある手に、ルルはそっと自分のを重ねた。
「離したらいけないよ」
頷くと、いい子だと頭を撫でられる。その優しい手つきに、嫌な気は全くしなかった。
アンブルは流れ続ける川の中へ足を入れる。遅れずにピョンと飛び込むと、不思議な事に足裏が川を踏んだ。ガラスのような板があるわけではない。確かに水を踏んでいる感覚があった。興味津々に足元を見ているルルに、アンブルは祖母のように優しく笑う。
「水の上を歩くのは初めてかい?」
『うん、すごい。……手を離したら、沈む?』
「ああ。気になるからって、やってはダメだよ。川の流れが早いから、小さな坊やはあっという間に流される」
図星を突かれ、ルルはぎくりと肩を跳ねさせる。まさに今やろうとして、握る手の力を緩めていたからだ。急に魔法が解かれる感覚を味わってみたかったのだ。しかし釘刺すように手に力を込められたため、潔く諦めた。
一方でアウィンは、愕然としてアンブルを見つめていた。あれは確かに浮遊魔法の一種だ。しかし難易度の高い応用とされる。それを当たり前にあっさりこなしてしまう魔女なんて、見た事がない。視線に気付いたアンブルが小さく言う。
「坊やにはできるだろう? あのヴィッツ家の子なんだ。やってごらん」
「何故家名を……!」
「知りたいのならおいで、さあ」
まるで試すような物言いだった。アンブルはルルを連れて、まるで散歩するように川を歩いて行く。
ルルはチラリとアウィンを見たあと、彼女の裾をクイッと引っ張った。フードと仮面に守られながらも、その仕草は心配をしているのが読み取れる。どうやら意地悪をしていると勘違いしたらしい。アンブルは庇った事に驚いた顔をしたが、すぐに優しく微笑む。
「大丈夫、なにもできない事をやれと言っているんじゃない。あの子はできる。見てなさい」
囁きが終わる前に、水面に波紋が広がる。チャポンという足音でルルにも伝わってきた。それはアウィンの足が水を踏む音だった。彼の長い足は溺れず、アンブルたちと同じように水の上に立っている。
アウィンは少しよろけ、不恰好ながらに杖をついて姿勢を保っている。アンブルはその姿に笑みを見せた。
「ほらごらん。怖くないだろう?」
その声色はとても優しいのに、やはりどこか意地の悪さもあった。怯えた子供に言い聞かせるかのようで、この歳だと調子が狂う。アウィンはいつもは冷静な笑みを珍しく崩して目を泳がせた。それでもなんとか集中して、ルルたちが待つ岸辺へ慎重に歩く。
ルルは地面に自分の足が付いたのを理解すると、すぐにアンブルの手を離し、アウィンへ両手を差し伸べた。最後、アウィンは転びそうになったが、彼の手に自分のを重ねて耐える。
「初めてかい?」
「……ええ」
「なら、上出来だ。途中で溺れて不思議じゃないけれど、渡り切るのは大したものだ。試すような事をして悪かったね。坊やのような出来のいい子は、力量を見たくなるのさ」
アンブルは自分より背の高いアウィンの頭をポンと撫でる。十年前に成人して以来、頭を撫でられるだなんて初めてで、彼は呆気に取られた。
「中へお入り」
彼女がそう言うと、扉が迎え入れるようにひとりでに開く。入って行くアンブルの背中を、アウィンは未だ呆然と見ていたが、ルルに手を引かれて我に変える。心配そうな視線に微笑み、そっと触れた手を優しく握った。
「行きましょう」
『うん』
ルルはいつもと変わらない声色に安心したのか、頬を緩めて頷いた。
ドアは、二人が入って来るのを待つように開かれたままだ。ルルはそっと肩までを中へ覗かせ、その上からアウィンが慎重に顔を中に入れる。アンブルはそれに可笑しそうに笑った。
「安心しなさい、家も歓迎しているよ?」
『家が?』
ずいぶん面白い表現の仕方だと思ったその時、ルルの目の前に枝が降りて来た。ギシギシと音を立てるそれに目を瞬かせていると、ポンッと弾ける音を立て、枝先に鮮やかな黄色の果実が生まれた。実は震えると、ルルの手の平にぽとりと落ちる。
無意識にアンブルへ視線が行く。彼女が何かしたのだろうか。しかし彼女はそれを読んでか、静かに首を横に振った。
「言ったろう、歓迎していると」
『家が、生きてるの?』
「木が主軸だけどね。その実は少し珍しいよ。気に入られたね」
今度はアウィンの元に枝が伸び、再びポンッと同じ実が成った。恐る恐る受け取り、二人は顔を見合わせる。見た事のない種類だ。この森でも珍しいらしいが……。
ルルは鼻を近付けると、スンスンと匂いを嗅ぐ。少しの間じっと見つめ、小さくかじった。
「あ」
「どうだい?」
動く口から、シャクシャクと瑞々しい音が聞こえる。ごくんと飲みこんだルルは、仮面の下で目を鮮やかに輝かせた。
なんて甘い果実なのだろう。一口だけでもたっぷり含んだ果汁がいっぱいに広がり、渇いた喉を潤す。果肉は硬いのに、舌を撫でる感覚は不思議と柔らかく、いつの間にか溶けてしまった。
『美味しいっ』
「ふふふ、そうだろう。良かったね」
アンブルは孫を見るように穏やかに笑う。ルルは目の前にある枝に触れ、そっと撫でた。
『美味しいもの、ありがとう』
その言葉に枝が震えたと思ったその時、ポンポンポンッと派手な音を立て、同じ実がいくつも成った。仮面下で目を丸くするルルに、枝はクリーム色の花を咲かせて見せる。
「ははは、相当嬉しかったみたいだね」
『……どうしよう?』
「貰っておやり。食べきれなければ、あとでおやつにすればいい」
アンブルは枝を優しく撫でて花を摘むと、ルルのフードから僅かに見える髪へ飾った。
「木も恋をするんだねぇ」
アンブルの言葉に、今度は真っ赤な花が咲き誇る。その花は何重にも花びらが重なり、とても美しい。ほのかに甘い香りがしたが、その一方でアンブルは険しい顔をする。
「坊やたち、息を止めなさい」
アウィンは反射的に従い、口を閉じる。しかしルルも両手で口を覆ったが、近くに居たせいで香りが断ち切れなかった。まるで脳の中を霧が覆ったように香りがまとい、意識が薄れたのを感じた。
アウィンの目に、ふらりと体を揺らすルルが映る。咄嗟に手を伸ばすが、握ったのは細い腕ではなく空気だけ。あっという間に、ルルの体を花が咲いた蔓が包む。それは瞬きをする僅か一瞬で、彼の姿は消えた。
「ルル!」
アウィンはドアを背に、アンブルと向かい合った。やはり彼女は味方ではない。しかしその警戒心は再び崩される。その顔が苦々しく歪んでいるのだ。
「困ったね、すぐに坊やを探さなければ」
「貴女がやったのでは、無いのですか……?」
「わざわざあんな、警戒心をかき立てるような真似しないさ。ドアは?」
後ろ手でノブを回してみるが、びくともしない。静かに首を横に振ると、アンブルは大きく溜息を吐く。
「オリクトの坊やを探しに行こう。手伝っておくれ」
「一体何故あんな」
「言ったろう、気に入られたと。だがこんな大胆な事をするとはね。坊や、私から離れるんじゃないよ。お前さんも連れていかれる」
「ルルは無事なのですか……?」
「そこは安心しなさい。閉じ込めたいほど気に入った相手を、坊やは傷付けるかい?」
アウィンはぐっと押し黙る。という事はルルが無事である可能性が高い。しかし彼女を完全に信用する事はできない。するとアンブルはすっと琥珀色の目を細め、仕方なさそうに笑った。
「アウィン・ヴィッツ。スフェーンが言った通り、親に似て賢い子だ」
その名は、アウィンにとって身近な存在だった。スフェーンは名の知れた魔法使いだった。千年以上前に起きた大戦争を、世界の王と共に過ごした者として有名なのだ。彼は王と共に戦争の鎮静化に見事成功し、その功績は今も忠実に語り継がれている。
そして彼は最後の弟子を取ったあと、気まぐれに魔術師や魔法士を育てた。その教え子の一人に、アウィンの父が居たのだ。
「まさか貴女は、スフェーン二番目の──」
「少しは信用できたかい? さあ、急ごう。オリクトの坊やが完全に囚われる前に」
こちらに背を向けた彼女を、アウィンは慌てて追った。もう警戒心など毛頭に無い。
「と、囚われるというのは?」
「言葉通りだ。気に入りすぎるとね、離れてしまわないよう閉じ込めようとするんだよ。私も初めて来た時は、出口が消えてしばらく外へ出してもらえなかったね」
アンブルは壁に触れる。手から魔法陣が描かれ、壁が震えると階段が現れた。アウィンは登った彼女に遅れて部屋を出る。数段登って試しに振り返って見ると、ギョッと目を開いた。
壁が生き物のように動いている。つい先程通った扉が豆粒のような小ささに見えるほど、遠くにあった。まだ手で数えられる程度しか段数を跨いでいないのに。そう思えば今度は目の前へやってきた。絶え間なく動くその姿はまるで体内のようで、気持ちが悪い。無意識に足元がふらついたその時、グイッと腕を引き寄せられる。
「しっかりしなさい。自分の足場を意識しながら歩くんだ。じゃないと坊やも取り込まれるよ」
そっと手が離される。アウィンは言われた通り、杖を強く突いて足を踏ん張らせる。すると家がそれを阻止するかのように、地面が小さくなった。しかしアウィンの体は落ちなかった。意識を強く保った事が幸いしたのか、足場が元に戻ったのだ。
「強い子だね。おいで、離れちゃいけないよ」
「今のは、幻覚ですか?」
「いいや、諦めたのさ。オリクトの坊やが心配だ。あの子は心がある分、きっと取り込まれやすい。家はね、その相手にとって甘美な物を作り上げ、精神を取り込むんだ」
「しかし、ルルがそれだけで簡単に取り込まれるとは思えません」
「あぁ、そうかもしれない。でもね、坊やは誰よりも強く、そして弱いんだ。それに、王様と自然の関係は深い。余計に厄介なんだよ」
言いながら、アンブルは初老には見えないほど身軽に、壁についた木板を登りはじめる。アウィンは驚いてその様子を見ながらも、なんとか食い付いた。
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