120 / 204
【宝石少年と霧の国】
生きている家
しおりを挟む
森の中はとても広い。外からは想像できないほど空間があり、一つの国と呼べるだろう。異なるのは人間がいない事だけ。獣人の子供たちが、変化を練習している様子が木々の合間から見え、微笑ましくなる。
アンブルの背中を追い続けると、やがて一本の小道に変わった。とても狭く、一人一人で通らなければ、木に肩がぶつかってしまう。ここはまるで木々の洞窟だ。
細道を抜けるとまた大きく拓けた。巨大な池が広がり、その上に崖のような坂がある。いけを囲む周囲は木々が絡み合い、まるで坂の上に佇む巨木を守る籠のようだった。巨木の根本から池へと、キラキラと光を纏って見える透き通る水が、滝として流れている。鮮やかで大きな新緑色の葉が茂る太い枝には、いくつもの部屋が溶け込むようにして建っていた。
岩肌にカーテンのように生える苔を踏みしめ坂を登り終えると、根本から流れる川の向こうに、玄関のような扉があった。しかし足場は見当たらない。
「詩人の坊やは、浮遊の魔法が使えるね?」
「えっ? あ、ええ」
「オリクトの坊や」
差し伸べられたアンブルの少しシワのある手に、ルルはそっと自分のを重ねた。
「離したらいけないよ」
頷くと、いい子だと頭を撫でられる。その優しい手つきに、嫌な気は全くしなかった。
アンブルは流れ続ける川の中へ足を入れる。遅れずにピョンと飛び込むと、不思議な事に足裏が川を踏んだ。ガラスのような板があるわけではない。確かに水を踏んでいる感覚があった。興味津々に足元を見ているルルに、アンブルは祖母のように優しく笑う。
「水の上を歩くのは初めてかい?」
『うん、すごい。……手を離したら、沈む?』
「ああ。気になるからって、やってはダメだよ。川の流れが早いから、小さな坊やはあっという間に流される」
図星を突かれ、ルルはぎくりと肩を跳ねさせる。まさに今やろうとして、握る手の力を緩めていたからだ。急に魔法が解かれる感覚を味わってみたかったのだ。しかし釘刺すように手に力を込められたため、潔く諦めた。
一方でアウィンは、愕然としてアンブルを見つめていた。あれは確かに浮遊魔法の一種だ。しかし難易度の高い応用とされる。それを当たり前にあっさりこなしてしまう魔女なんて、見た事がない。視線に気付いたアンブルが小さく言う。
「坊やにはできるだろう? あのヴィッツ家の子なんだ。やってごらん」
「何故家名を……!」
「知りたいのならおいで、さあ」
まるで試すような物言いだった。アンブルはルルを連れて、まるで散歩するように川を歩いて行く。
ルルはチラリとアウィンを見たあと、彼女の裾をクイッと引っ張った。フードと仮面に守られながらも、その仕草は心配をしているのが読み取れる。どうやら意地悪をしていると勘違いしたらしい。アンブルは庇った事に驚いた顔をしたが、すぐに優しく微笑む。
「大丈夫、なにもできない事をやれと言っているんじゃない。あの子はできる。見てなさい」
囁きが終わる前に、水面に波紋が広がる。チャポンという足音でルルにも伝わってきた。それはアウィンの足が水を踏む音だった。彼の長い足は溺れず、アンブルたちと同じように水の上に立っている。
アウィンは少しよろけ、不恰好ながらに杖をついて姿勢を保っている。アンブルはその姿に笑みを見せた。
「ほらごらん。怖くないだろう?」
その声色はとても優しいのに、やはりどこか意地の悪さもあった。怯えた子供に言い聞かせるかのようで、この歳だと調子が狂う。アウィンはいつもは冷静な笑みを珍しく崩して目を泳がせた。それでもなんとか集中して、ルルたちが待つ岸辺へ慎重に歩く。
ルルは地面に自分の足が付いたのを理解すると、すぐにアンブルの手を離し、アウィンへ両手を差し伸べた。最後、アウィンは転びそうになったが、彼の手に自分のを重ねて耐える。
「初めてかい?」
「……ええ」
「なら、上出来だ。途中で溺れて不思議じゃないけれど、渡り切るのは大したものだ。試すような事をして悪かったね。坊やのような出来のいい子は、力量を見たくなるのさ」
アンブルは自分より背の高いアウィンの頭をポンと撫でる。十年前に成人して以来、頭を撫でられるだなんて初めてで、彼は呆気に取られた。
「中へお入り」
彼女がそう言うと、扉が迎え入れるようにひとりでに開く。入って行くアンブルの背中を、アウィンは未だ呆然と見ていたが、ルルに手を引かれて我に変える。心配そうな視線に微笑み、そっと触れた手を優しく握った。
「行きましょう」
『うん』
ルルはいつもと変わらない声色に安心したのか、頬を緩めて頷いた。
ドアは、二人が入って来るのを待つように開かれたままだ。ルルはそっと肩までを中へ覗かせ、その上からアウィンが慎重に顔を中に入れる。アンブルはそれに可笑しそうに笑った。
「安心しなさい、家も歓迎しているよ?」
『家が?』
ずいぶん面白い表現の仕方だと思ったその時、ルルの目の前に枝が降りて来た。ギシギシと音を立てるそれに目を瞬かせていると、ポンッと弾ける音を立て、枝先に鮮やかな黄色の果実が生まれた。実は震えると、ルルの手の平にぽとりと落ちる。
無意識にアンブルへ視線が行く。彼女が何かしたのだろうか。しかし彼女はそれを読んでか、静かに首を横に振った。
「言ったろう、歓迎していると」
『家が、生きてるの?』
「木が主軸だけどね。その実は少し珍しいよ。気に入られたね」
今度はアウィンの元に枝が伸び、再びポンッと同じ実が成った。恐る恐る受け取り、二人は顔を見合わせる。見た事のない種類だ。この森でも珍しいらしいが……。
ルルは鼻を近付けると、スンスンと匂いを嗅ぐ。少しの間じっと見つめ、小さくかじった。
「あ」
「どうだい?」
動く口から、シャクシャクと瑞々しい音が聞こえる。ごくんと飲みこんだルルは、仮面の下で目を鮮やかに輝かせた。
なんて甘い果実なのだろう。一口だけでもたっぷり含んだ果汁がいっぱいに広がり、渇いた喉を潤す。果肉は硬いのに、舌を撫でる感覚は不思議と柔らかく、いつの間にか溶けてしまった。
『美味しいっ』
「ふふふ、そうだろう。良かったね」
アンブルは孫を見るように穏やかに笑う。ルルは目の前にある枝に触れ、そっと撫でた。
『美味しいもの、ありがとう』
その言葉に枝が震えたと思ったその時、ポンポンポンッと派手な音を立て、同じ実がいくつも成った。仮面下で目を丸くするルルに、枝はクリーム色の花を咲かせて見せる。
「ははは、相当嬉しかったみたいだね」
『……どうしよう?』
「貰っておやり。食べきれなければ、あとでおやつにすればいい」
アンブルは枝を優しく撫でて花を摘むと、ルルのフードから僅かに見える髪へ飾った。
「木も恋をするんだねぇ」
アンブルの言葉に、今度は真っ赤な花が咲き誇る。その花は何重にも花びらが重なり、とても美しい。ほのかに甘い香りがしたが、その一方でアンブルは険しい顔をする。
「坊やたち、息を止めなさい」
アウィンは反射的に従い、口を閉じる。しかしルルも両手で口を覆ったが、近くに居たせいで香りが断ち切れなかった。まるで脳の中を霧が覆ったように香りがまとい、意識が薄れたのを感じた。
アウィンの目に、ふらりと体を揺らすルルが映る。咄嗟に手を伸ばすが、握ったのは細い腕ではなく空気だけ。あっという間に、ルルの体を花が咲いた蔓が包む。それは瞬きをする僅か一瞬で、彼の姿は消えた。
「ルル!」
アウィンはドアを背に、アンブルと向かい合った。やはり彼女は味方ではない。しかしその警戒心は再び崩される。その顔が苦々しく歪んでいるのだ。
「困ったね、すぐに坊やを探さなければ」
「貴女がやったのでは、無いのですか……?」
「わざわざあんな、警戒心をかき立てるような真似しないさ。ドアは?」
後ろ手でノブを回してみるが、びくともしない。静かに首を横に振ると、アンブルは大きく溜息を吐く。
「オリクトの坊やを探しに行こう。手伝っておくれ」
「一体何故あんな」
「言ったろう、気に入られたと。だがこんな大胆な事をするとはね。坊や、私から離れるんじゃないよ。お前さんも連れていかれる」
「ルルは無事なのですか……?」
「そこは安心しなさい。閉じ込めたいほど気に入った相手を、坊やは傷付けるかい?」
アウィンはぐっと押し黙る。という事はルルが無事である可能性が高い。しかし彼女を完全に信用する事はできない。するとアンブルはすっと琥珀色の目を細め、仕方なさそうに笑った。
「アウィン・ヴィッツ。スフェーンが言った通り、親に似て賢い子だ」
その名は、アウィンにとって身近な存在だった。スフェーンは名の知れた魔法使いだった。千年以上前に起きた大戦争を、世界の王と共に過ごした者として有名なのだ。彼は王と共に戦争の鎮静化に見事成功し、その功績は今も忠実に語り継がれている。
そして彼は最後の弟子を取ったあと、気まぐれに魔術師や魔法士を育てた。その教え子の一人に、アウィンの父が居たのだ。
「まさか貴女は、スフェーン二番目の──」
「少しは信用できたかい? さあ、急ごう。オリクトの坊やが完全に囚われる前に」
こちらに背を向けた彼女を、アウィンは慌てて追った。もう警戒心など毛頭に無い。
「と、囚われるというのは?」
「言葉通りだ。気に入りすぎるとね、離れてしまわないよう閉じ込めようとするんだよ。私も初めて来た時は、出口が消えてしばらく外へ出してもらえなかったね」
アンブルは壁に触れる。手から魔法陣が描かれ、壁が震えると階段が現れた。アウィンは登った彼女に遅れて部屋を出る。数段登って試しに振り返って見ると、ギョッと目を開いた。
壁が生き物のように動いている。つい先程通った扉が豆粒のような小ささに見えるほど、遠くにあった。まだ手で数えられる程度しか段数を跨いでいないのに。そう思えば今度は目の前へやってきた。絶え間なく動くその姿はまるで体内のようで、気持ちが悪い。無意識に足元がふらついたその時、グイッと腕を引き寄せられる。
「しっかりしなさい。自分の足場を意識しながら歩くんだ。じゃないと坊やも取り込まれるよ」
そっと手が離される。アウィンは言われた通り、杖を強く突いて足を踏ん張らせる。すると家がそれを阻止するかのように、地面が小さくなった。しかしアウィンの体は落ちなかった。意識を強く保った事が幸いしたのか、足場が元に戻ったのだ。
「強い子だね。おいで、離れちゃいけないよ」
「今のは、幻覚ですか?」
「いいや、諦めたのさ。オリクトの坊やが心配だ。あの子は心がある分、きっと取り込まれやすい。家はね、その相手にとって甘美な物を作り上げ、精神を取り込むんだ」
「しかし、ルルがそれだけで簡単に取り込まれるとは思えません」
「あぁ、そうかもしれない。でもね、坊やは誰よりも強く、そして弱いんだ。それに、王様と自然の関係は深い。余計に厄介なんだよ」
言いながら、アンブルは初老には見えないほど身軽に、壁についた木板を登りはじめる。アウィンは驚いてその様子を見ながらも、なんとか食い付いた。
アンブルの背中を追い続けると、やがて一本の小道に変わった。とても狭く、一人一人で通らなければ、木に肩がぶつかってしまう。ここはまるで木々の洞窟だ。
細道を抜けるとまた大きく拓けた。巨大な池が広がり、その上に崖のような坂がある。いけを囲む周囲は木々が絡み合い、まるで坂の上に佇む巨木を守る籠のようだった。巨木の根本から池へと、キラキラと光を纏って見える透き通る水が、滝として流れている。鮮やかで大きな新緑色の葉が茂る太い枝には、いくつもの部屋が溶け込むようにして建っていた。
岩肌にカーテンのように生える苔を踏みしめ坂を登り終えると、根本から流れる川の向こうに、玄関のような扉があった。しかし足場は見当たらない。
「詩人の坊やは、浮遊の魔法が使えるね?」
「えっ? あ、ええ」
「オリクトの坊や」
差し伸べられたアンブルの少しシワのある手に、ルルはそっと自分のを重ねた。
「離したらいけないよ」
頷くと、いい子だと頭を撫でられる。その優しい手つきに、嫌な気は全くしなかった。
アンブルは流れ続ける川の中へ足を入れる。遅れずにピョンと飛び込むと、不思議な事に足裏が川を踏んだ。ガラスのような板があるわけではない。確かに水を踏んでいる感覚があった。興味津々に足元を見ているルルに、アンブルは祖母のように優しく笑う。
「水の上を歩くのは初めてかい?」
『うん、すごい。……手を離したら、沈む?』
「ああ。気になるからって、やってはダメだよ。川の流れが早いから、小さな坊やはあっという間に流される」
図星を突かれ、ルルはぎくりと肩を跳ねさせる。まさに今やろうとして、握る手の力を緩めていたからだ。急に魔法が解かれる感覚を味わってみたかったのだ。しかし釘刺すように手に力を込められたため、潔く諦めた。
一方でアウィンは、愕然としてアンブルを見つめていた。あれは確かに浮遊魔法の一種だ。しかし難易度の高い応用とされる。それを当たり前にあっさりこなしてしまう魔女なんて、見た事がない。視線に気付いたアンブルが小さく言う。
「坊やにはできるだろう? あのヴィッツ家の子なんだ。やってごらん」
「何故家名を……!」
「知りたいのならおいで、さあ」
まるで試すような物言いだった。アンブルはルルを連れて、まるで散歩するように川を歩いて行く。
ルルはチラリとアウィンを見たあと、彼女の裾をクイッと引っ張った。フードと仮面に守られながらも、その仕草は心配をしているのが読み取れる。どうやら意地悪をしていると勘違いしたらしい。アンブルは庇った事に驚いた顔をしたが、すぐに優しく微笑む。
「大丈夫、なにもできない事をやれと言っているんじゃない。あの子はできる。見てなさい」
囁きが終わる前に、水面に波紋が広がる。チャポンという足音でルルにも伝わってきた。それはアウィンの足が水を踏む音だった。彼の長い足は溺れず、アンブルたちと同じように水の上に立っている。
アウィンは少しよろけ、不恰好ながらに杖をついて姿勢を保っている。アンブルはその姿に笑みを見せた。
「ほらごらん。怖くないだろう?」
その声色はとても優しいのに、やはりどこか意地の悪さもあった。怯えた子供に言い聞かせるかのようで、この歳だと調子が狂う。アウィンはいつもは冷静な笑みを珍しく崩して目を泳がせた。それでもなんとか集中して、ルルたちが待つ岸辺へ慎重に歩く。
ルルは地面に自分の足が付いたのを理解すると、すぐにアンブルの手を離し、アウィンへ両手を差し伸べた。最後、アウィンは転びそうになったが、彼の手に自分のを重ねて耐える。
「初めてかい?」
「……ええ」
「なら、上出来だ。途中で溺れて不思議じゃないけれど、渡り切るのは大したものだ。試すような事をして悪かったね。坊やのような出来のいい子は、力量を見たくなるのさ」
アンブルは自分より背の高いアウィンの頭をポンと撫でる。十年前に成人して以来、頭を撫でられるだなんて初めてで、彼は呆気に取られた。
「中へお入り」
彼女がそう言うと、扉が迎え入れるようにひとりでに開く。入って行くアンブルの背中を、アウィンは未だ呆然と見ていたが、ルルに手を引かれて我に変える。心配そうな視線に微笑み、そっと触れた手を優しく握った。
「行きましょう」
『うん』
ルルはいつもと変わらない声色に安心したのか、頬を緩めて頷いた。
ドアは、二人が入って来るのを待つように開かれたままだ。ルルはそっと肩までを中へ覗かせ、その上からアウィンが慎重に顔を中に入れる。アンブルはそれに可笑しそうに笑った。
「安心しなさい、家も歓迎しているよ?」
『家が?』
ずいぶん面白い表現の仕方だと思ったその時、ルルの目の前に枝が降りて来た。ギシギシと音を立てるそれに目を瞬かせていると、ポンッと弾ける音を立て、枝先に鮮やかな黄色の果実が生まれた。実は震えると、ルルの手の平にぽとりと落ちる。
無意識にアンブルへ視線が行く。彼女が何かしたのだろうか。しかし彼女はそれを読んでか、静かに首を横に振った。
「言ったろう、歓迎していると」
『家が、生きてるの?』
「木が主軸だけどね。その実は少し珍しいよ。気に入られたね」
今度はアウィンの元に枝が伸び、再びポンッと同じ実が成った。恐る恐る受け取り、二人は顔を見合わせる。見た事のない種類だ。この森でも珍しいらしいが……。
ルルは鼻を近付けると、スンスンと匂いを嗅ぐ。少しの間じっと見つめ、小さくかじった。
「あ」
「どうだい?」
動く口から、シャクシャクと瑞々しい音が聞こえる。ごくんと飲みこんだルルは、仮面の下で目を鮮やかに輝かせた。
なんて甘い果実なのだろう。一口だけでもたっぷり含んだ果汁がいっぱいに広がり、渇いた喉を潤す。果肉は硬いのに、舌を撫でる感覚は不思議と柔らかく、いつの間にか溶けてしまった。
『美味しいっ』
「ふふふ、そうだろう。良かったね」
アンブルは孫を見るように穏やかに笑う。ルルは目の前にある枝に触れ、そっと撫でた。
『美味しいもの、ありがとう』
その言葉に枝が震えたと思ったその時、ポンポンポンッと派手な音を立て、同じ実がいくつも成った。仮面下で目を丸くするルルに、枝はクリーム色の花を咲かせて見せる。
「ははは、相当嬉しかったみたいだね」
『……どうしよう?』
「貰っておやり。食べきれなければ、あとでおやつにすればいい」
アンブルは枝を優しく撫でて花を摘むと、ルルのフードから僅かに見える髪へ飾った。
「木も恋をするんだねぇ」
アンブルの言葉に、今度は真っ赤な花が咲き誇る。その花は何重にも花びらが重なり、とても美しい。ほのかに甘い香りがしたが、その一方でアンブルは険しい顔をする。
「坊やたち、息を止めなさい」
アウィンは反射的に従い、口を閉じる。しかしルルも両手で口を覆ったが、近くに居たせいで香りが断ち切れなかった。まるで脳の中を霧が覆ったように香りがまとい、意識が薄れたのを感じた。
アウィンの目に、ふらりと体を揺らすルルが映る。咄嗟に手を伸ばすが、握ったのは細い腕ではなく空気だけ。あっという間に、ルルの体を花が咲いた蔓が包む。それは瞬きをする僅か一瞬で、彼の姿は消えた。
「ルル!」
アウィンはドアを背に、アンブルと向かい合った。やはり彼女は味方ではない。しかしその警戒心は再び崩される。その顔が苦々しく歪んでいるのだ。
「困ったね、すぐに坊やを探さなければ」
「貴女がやったのでは、無いのですか……?」
「わざわざあんな、警戒心をかき立てるような真似しないさ。ドアは?」
後ろ手でノブを回してみるが、びくともしない。静かに首を横に振ると、アンブルは大きく溜息を吐く。
「オリクトの坊やを探しに行こう。手伝っておくれ」
「一体何故あんな」
「言ったろう、気に入られたと。だがこんな大胆な事をするとはね。坊や、私から離れるんじゃないよ。お前さんも連れていかれる」
「ルルは無事なのですか……?」
「そこは安心しなさい。閉じ込めたいほど気に入った相手を、坊やは傷付けるかい?」
アウィンはぐっと押し黙る。という事はルルが無事である可能性が高い。しかし彼女を完全に信用する事はできない。するとアンブルはすっと琥珀色の目を細め、仕方なさそうに笑った。
「アウィン・ヴィッツ。スフェーンが言った通り、親に似て賢い子だ」
その名は、アウィンにとって身近な存在だった。スフェーンは名の知れた魔法使いだった。千年以上前に起きた大戦争を、世界の王と共に過ごした者として有名なのだ。彼は王と共に戦争の鎮静化に見事成功し、その功績は今も忠実に語り継がれている。
そして彼は最後の弟子を取ったあと、気まぐれに魔術師や魔法士を育てた。その教え子の一人に、アウィンの父が居たのだ。
「まさか貴女は、スフェーン二番目の──」
「少しは信用できたかい? さあ、急ごう。オリクトの坊やが完全に囚われる前に」
こちらに背を向けた彼女を、アウィンは慌てて追った。もう警戒心など毛頭に無い。
「と、囚われるというのは?」
「言葉通りだ。気に入りすぎるとね、離れてしまわないよう閉じ込めようとするんだよ。私も初めて来た時は、出口が消えてしばらく外へ出してもらえなかったね」
アンブルは壁に触れる。手から魔法陣が描かれ、壁が震えると階段が現れた。アウィンは登った彼女に遅れて部屋を出る。数段登って試しに振り返って見ると、ギョッと目を開いた。
壁が生き物のように動いている。つい先程通った扉が豆粒のような小ささに見えるほど、遠くにあった。まだ手で数えられる程度しか段数を跨いでいないのに。そう思えば今度は目の前へやってきた。絶え間なく動くその姿はまるで体内のようで、気持ちが悪い。無意識に足元がふらついたその時、グイッと腕を引き寄せられる。
「しっかりしなさい。自分の足場を意識しながら歩くんだ。じゃないと坊やも取り込まれるよ」
そっと手が離される。アウィンは言われた通り、杖を強く突いて足を踏ん張らせる。すると家がそれを阻止するかのように、地面が小さくなった。しかしアウィンの体は落ちなかった。意識を強く保った事が幸いしたのか、足場が元に戻ったのだ。
「強い子だね。おいで、離れちゃいけないよ」
「今のは、幻覚ですか?」
「いいや、諦めたのさ。オリクトの坊やが心配だ。あの子は心がある分、きっと取り込まれやすい。家はね、その相手にとって甘美な物を作り上げ、精神を取り込むんだ」
「しかし、ルルがそれだけで簡単に取り込まれるとは思えません」
「あぁ、そうかもしれない。でもね、坊やは誰よりも強く、そして弱いんだ。それに、王様と自然の関係は深い。余計に厄介なんだよ」
言いながら、アンブルは初老には見えないほど身軽に、壁についた木板を登りはじめる。アウィンは驚いてその様子を見ながらも、なんとか食い付いた。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
捨てられた転生幼女は無自重無双する
紅 蓮也
ファンタジー
スクラルド王国の筆頭公爵家の次女として生を受けた三歳になるアイリス・フォン・アリステラは、次期当主である年の離れた兄以外の家族と兄がつけたアイリスの専属メイドとアイリスに拾われ恩義のある専属騎士以外の使用人から疎まれていた。
アイリスを疎ましく思っている者たちや一部の者以外は知らないがアイリスは転生者でもあった。
ある日、寝ているとアイリスの部屋に誰かが入ってきて、アイリスは連れ去られた。
アイリスは、肌寒さを感じ目を覚ますと近くにその場から去ろうとしている人の声が聞こえた。
去ろうとしている人物は父と母だった。
ここで声を出し、起きていることがバレると最悪、殺されてしまう可能性があるので、寝たふりをして二人が去るのを待っていたが、そのまま本当に寝てしまい二人が去った後に近づいて来た者に気づくことが出来ず、また何処かに連れていかれた。
朝になり起こしに来た専属メイドが、アイリスがいない事を当主に報告し、疎ましく思っていたくせに当主と夫人は騒ぎたて、当主はアイリスを探そうともせずに、その場でアイリスが誘拐された責任として、専属メイドと専属騎士にクビを言い渡した。
クビを言い渡された専属メイドと専属騎士は、何も言わず食堂を出て行き身支度をして、公爵家から出ていった。
しばらく歩いていると、次期当主であるカイルが後を追ってきて、カイルの腕にはいなくなったはずのアイリスが抱かれていた。
アイリスの無事に安心した二人は、カイルの話を聞き、三人は王城に向かった。
王城で、カイルから話を聞いた国王から広大なアイリス公爵家の領地の端にあり、昔の公爵家本邸があった場所の管理と魔の森の開拓をカイルは、国王から命られる。
アイリスは、公爵家の目がなくなったので、無自重でチートし続け管理と開拓を命じられた兄カイルに協力し、辺境の村々の発展や魔の森の開拓をしていった。
※諸事情によりしばらく連載休止致します。
※小説家になろう様、カクヨム様でも掲載しております。
旦那の真実の愛の相手がやってきた。今まで邪魔をしてしまっていた妻はお祝いにリボンもおつけします
暖夢 由
恋愛
「キュリール様、私カダール様と心から愛し合っておりますの。
いつ子を身ごもってもおかしくはありません。いえ、お腹には既に育っているかもしれません。
子を身ごもってからでは遅いのです。
あんな素晴らしい男性、キュリール様が手放せないのも頷けますが、カダール様のことを想うならどうか潔く身を引いてカダール様の幸せを願ってあげてください」
伯爵家にいきなりやってきた女(ナリッタ)はそういった。
女は小説を読むかのように旦那とのなれそめから今までの話を話した。
妻であるキュリールは彼女の存在を今日まで知らなかった。
だから恥じた。
「こんなにもあの人のことを愛してくださる方がいるのにそれを阻んでいたなんて私はなんて野暮なのかしら。
本当に恥ずかしい…
私は潔く身を引くことにしますわ………」
そう言って女がサインした書類を神殿にもっていくことにする。
「私もあなたたちの真実の愛の前には敵いそうもないもの。
私は急ぎ神殿にこの書類を持っていくわ。
手続きが終わり次第、あの人にあなたの元へ向かうように伝えるわ。
そうだわ、私からお祝いとしていくつか宝石をプレゼントさせて頂きたいの。リボンもお付けしていいかしら。可愛らしいあなたととてもよく合うと思うの」
こうして一つの夫婦の姿が形を変えていく。
---------------------------------------------
※架空のお話です。
※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。
※現実世界とは異なりますのでご理解ください。
異世界に召喚されたけど、聖女じゃないから用はない? それじゃあ、好き勝手させてもらいます!
明衣令央
ファンタジー
糸井織絵は、ある日、オブルリヒト王国が行った聖女召喚の儀に巻き込まれ、異世界ルリアルークへと飛ばされてしまう。
一緒に召喚された、若く美しい女が聖女――織絵は召喚の儀に巻き込まれた年増の豚女として不遇な扱いを受けたが、元スマホケースのハリネズミのぬいぐるみであるサーチートと共に、オブルリヒト王女ユリアナに保護され、聖女の力を開花させる。
だが、オブルリヒト王国の王子ジュニアスは、追い出した織絵にも聖女の可能性があるとして、織絵を連れ戻しに来た。
そして、異世界転移状態から正式に異世界転生した織絵は、若く美しい姿へと生まれ変わる。
この物語は、聖女召喚の儀に巻き込まれ、異世界転移後、新たに転生した一人の元おばさんの聖女が、相棒の元スマホケースのハリネズミと楽しく無双していく、恋と冒険の物語。
2022.9.7 話が少し進みましたので、内容紹介を変更しました。その都度変更していきます。
幼妻は、白い結婚を解消して国王陛下に溺愛される。
秋月乃衣
恋愛
旧題:幼妻の白い結婚
13歳のエリーゼは、侯爵家嫡男のアランの元へ嫁ぐが、幼いエリーゼに夫は見向きもせずに初夜すら愛人と過ごす。
歩み寄りは一切なく月日が流れ、夫婦仲は冷え切ったまま、相変わらず夫は愛人に夢中だった。
そしてエリーゼは大人へと成長していく。
※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。
小説家になろう様にも掲載しています。
骸骨と呼ばれ、生贄になった王妃のカタの付け方
ウサギテイマーTK
恋愛
骸骨娘と揶揄され、家で酷い扱いを受けていたマリーヌは、国王の正妃として嫁いだ。だが結婚後、国王に愛されることなく、ここでも幽閉に近い扱いを受ける。側妃はマリーヌの義姉で、公式行事も側妃が請け負っている。マリーヌに与えられた最後の役割は、海の神への生贄だった。
注意:地震や津波の描写があります。ご注意を。やや残酷な描写もあります。
チート幼女とSSSランク冒険者
紅 蓮也
ファンタジー
【更新休止中】
三十歳の誕生日に通り魔に刺され人生を終えた小鳥遊葵が
過去にも失敗しまくりの神様から異世界転生を頼まれる。
神様は自分が長々と語っていたからなのに、ある程度は魔法が使える体にしとく、無限収納もあげるといい、時間があまり無いからさっさと転生しちゃおっかと言いだし、転生のため光に包まれ意識が無くなる直前、神様から不安を感じさせる言葉が聞こえたが、どうする事もできない私はそのまま転生された。
目を開けると日本人の男女の顔があった。
転生から四年がたったある日、神様が現れ、異世界じゃなくて地球に転生させちゃったと・・・
他の人を新たに異世界に転生させるのは無理だからと本来行くはずだった異世界に転移することに・・・
転移するとそこは森の中でした。見たこともない魔獣に襲われているところを冒険者に助けられる。
そして転移により家族がいない葵は、冒険者になり助けてくれた冒険者たちと冒険したり、しなかったりする物語
※この作品は小説家になろう様、カクヨム様、ノベルバ様、エブリスタ様でも掲載しています。
【12/29にて公開終了】愛するつもりなぞないんでしょうから
真朱
恋愛
この国の姫は公爵令息と婚約していたが、隣国との和睦のため、一転して隣国の王子の許へ嫁ぐことになった。余計ないざこざを防ぐべく、姫の元婚約者の公爵令息は王命でさくっと婚姻させられることになり、その相手として白羽の矢が立ったのは辺境伯家の二女・ディアナだった。「可憐な姫の後が、脳筋な辺境伯んとこの娘って、公爵令息かわいそうに…。これはあれでしょ?『お前を愛するつもりはない!』ってやつでしょ?」
期待も遠慮も捨ててる新妻ディアナと、好青年の仮面をひっ剥がされていく旦那様ラキルスの、『明日はどっちだ』な夫婦のお話。
※なんちゃって異世界です。なんでもあり、ご都合主義をご容赦ください。
※新婚夫婦のお話ですが色っぽさゼロです。Rは物騒な方です。
※ざまあのお話ではありません。軽い読み物とご理解いただけると幸いです。
※コミカライズにより12/29にて公開を終了させていただきます。
放置された公爵令嬢が幸せになるまで
こうじ
ファンタジー
アイネス・カンラダは物心ついた時から家族に放置されていた。両親の顔も知らないし兄や妹がいる事は知っているが顔も話した事もない。ずっと離れで暮らし自分の事は自分でやっている。そんな日々を過ごしていた彼女が幸せになる話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる