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【宝石少年と霧の国】
友の声
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翌日、ルルの目覚ましとなったのは、鳥の囀りや風などではなく、国宝の声だった。地の底から震えるような嘆き聲が、世界の王を呼んでいる。国宝の叫びには波がある。聞こえないほど大人しい時もあれば、周囲の音を掻き消してまで、脳をそれだけで占めるほどうるさい時もあった。
ルルは煩わしい響きに耐えきれず起き上がる。
「おはようございます、ルル」
『ん……おはよう、アウィン。早いね』
コツコツと、杖と共に足音が聞こえる。どうやらもう太陽が顔を出したらしい。
起き上がったルルが手渡されたのは、干した果物だった。砂糖と蜂蜜で漬けて干した果物は、そのまま食べるよりも栄養価が高くて旅人が重宝する。生ではないのにとても甘くて、不思議と瑞々しさもあった。
「発ちますか?」
『うん。国宝の音が、強く聞こえる。でも、いいの? 僕が行く方向で』
「ええ。今はその方が楽しそうですから」
アウィンは自分の好奇心に忠実に、気ままに旅をしている。今、旅人の勘はルルについて行った方が面白いと言っているのだ。だから何があっても後悔は無い。
『それじゃあ』
「参りましょう」
早速旅立ちを促すように扉の前で振り返ったアウィンに、ルルは肩を並べて立った。
~ ** ~ ** ~
頭に問いかける国宝の音は、珍しく長い間安定していた。二人の足はそれまで平坦だった道から徐々に外れ、やがて旅人すら通らなさそうな荒々しい道へ変わる。二人は森の中へ誘われるままに入った。
アウィンは変化に驚くように周囲を見渡した。別に森が珍しいわけではない。世界の半分以上は自然なのだから、10年以上も旅をしていれば森林を外して移動するなど不可能だ。彼が驚いたのは、その空気。一気に夜が来たと勘違いしそうになるほど暗くなり、吸う空気が冷たく重たい。
(この変化……自然の力とは、考えにくいですね)
アウィンは魔法が得意な体質だ。残念ながら体に強い魔力は持っていないが、元より魔法が好きで、幼い頃から鍛錬に明け暮れていた。その成果で、難易度の高い魔術も使いこなせる。だからこそ、この森を取り巻く空気が第三者の力によるものであると分かるのだ。
ルルもまっすぐ前を見つめ続けているが、変化には気付いているようだ。この空気は、まるで自分たちを追い出そうとするような、殺気じみたものがある。極端に疎い者で無い限り気付くだろう。
長く旅をしていても、世界は未知だらけだ。この土地にどんな生き物が生息しているか、経験者だからと、安易に予想してはいけない。アウィンはそっとルルにだけ聞こえるよう囁いた。
「お気を付けて。何が来てもおかしくありません」
『うん』
「国宝の音は、この先ですか?」
『もっと奥。ずっと先から、聞こえる』
どうやらこの森を抜けるしか無さそうだ。共に居る間は自分が彼の目となろうと、アウィンはいつもより注意深く周囲へ意識を向けた。
しばらく進んだ頃、アウィンはますます訝しんでいた。何も無いのだ。奥へ入った時から、ハッキリとした何かの視線を感じるというのに。確実に何か、意思を持った生き物が居る。しかしこちらからは何も見えず、視線だけがまとわり続ける。いっその事、襲いかかって来られれば対処もできるのに、こうも何もされないのはなんとも不気味だ。
森は酷く入り組んでいる。同じ景色は無いはずなのに、何故か先に進んでいる気がしない。ルルに迷いが無いのは、視力に頼っていないからだろうか。と、その時、ルルの姿が消えた。
「!」
アウィンは思わず立ち止まる。いつの間に現れたのか、周りは濃霧に包まれていた。
「ルル、そこに居ますか?」
少し声を張ってみるが、返答は無い。先程まで聞こえていた足音も、気配もすっかり消えてしまった。無闇に動く事はできない。視野を奪われた今、頼りなのは聴覚だけだ。
「───アウィン」
名を呼んだのは、ルルの声ではなかった。しかしそれは、彼にとって最も親しい人物の声。
「リッテ?」
その声は、確かに友だ。ありえない。彼は今、母国であるリベルタに居るはずだ。彼は派手に身動きができない。何故なら、足をアウィンに渡したからだ。
「おいアウィン、どこに行く」
「……リッテ、何故ここに居るのです?」
「何を言ってるんだ? お前が呼んだんだろ」
「私は旅をしてるんですよ? お前に足を借りて、今も──」
今、何をしていた? 誰かと一緒にいたような気がするが、思い出せない。
ボヤけていた視界が晴れた気がした。部屋に居る。母国リベルタの、自分の部屋。リッテはアウィンを待っていたようで、いつものソファに腰を下ろしている。肩に付かないほどで綺麗に切り揃えた朝焼けのような髪に、赤く鋭い全眼。ガーネットを嵌めたその宝石の瞳は、何故か懐かしい。
「俺が足を貸すぅ? 何恐ろしい事言ってるんだ」
リッテは呆れたように言う。その中にはどこか憐れむような声色も混ざっていた。そうだ、彼はいつもこうだ。凛とした顔には似合わない、ガサツな物言い。しかし周囲が嫌悪するその姿が、アウィンはむしろ好きだ。
「どうした、悪い夢でも見たか」
「夢……? あぁ、夢ならば、悪夢では無い事は確かでしょう」
「ふぅん?」
「旅を、していた気がします」
こんな会話は以前もした気がする。考えていると思い出した。彼が言う通り、自分が呼び出したんだ。国や民たちについてまとめた資料を新しく作ったから、目を通して欲しいと頼むために。柱としての仕事で相談するのはいつも彼だった。
「どうせいつもの仕事だろ? ほら、見せてみろ」
「ええ、今そちらへ行きます」
進もうとした足がピタリと止まる。足裏が地面に縫いつけたかのように動かない。早く仕事を終えて、ゆっくりと紅茶を楽しんだり、オーア・トーンを弾いたりしたいのに。
──鉱石の、音?
興奮気味な、少年とも少女とも言えない声が脳裏に響いた。しかしこれは今ではなく、記憶からの声。聞いた事のない、透き通った誰かの声。オーア・トーンの音を聞いて、自分の歌を聴いて、嬉しそうにする虹の瞳。
『アウィン、そっちへ行っては、ダメだよ』
~ ** ~ ** ~
霧に巻かれた事に、ルルは遅れて気付いた。正確には、霧の存在には気付いていない。後ろにあったはずのアウィンの足音と気配が消えた事で、異変に気付いたのだ。試しに立ち止まって振り返る。
『アウィン?』
やはり返答は無い。何かが邪魔をしている。しかし正体には見当も付かない。ひとまず動かない方がいいだろう。
「ルル」
ルルは伏せていた目を驚きに見開いた。彼を呼んだのは、懐かしい声。
『……クリスタ?』
優しく柔らかな声を忘れるはずも無い。どうして彼の声が、こんな所で聞けるのだろう。
「ちょうど、ルルが好きな菓子を見つけたんだ。どうだい?」
そう言う声はとても優しくて、ルルは泣きそうになった。彼と会ってたくさん話したい事がある。しかしルルは深く呼吸をして、高鳴る心臓をどうにか落ち着かせた。
『誰?』
違う、彼ではないのだ。気配がほんの僅かに違う。ルルは徐々に、胸の奥で怒りに近い熱が湧くのを感じた。彼の声は、不機嫌なのが伝わるほど低い。
『彼を、演じていい人なんて、存在しない。それ以上その声で、僕の記憶を、汚さないで』
音に乗るのは明確な殺意。ルルがおもむろに腰の剣に手を添えた途端、ザアッと何かが動いた音がした。同時に塞がれたようだった鉱石の耳が、周りの音を拾い始める。そう遠く無い場所で、足音と話し声がした。
「──ええ、今そちらへ行きます」
アウィンの声だ。しかし彼が呼びかけるそこには何も無い。その深海のような青い瞳は、確かに誰かを捉えている。彼もまた、親しい誰かの声と姿に誘われているのだ。
ルルは本能的に駆け寄り、彼の手首を少し乱暴に掴んだ。絶対に行かせてはいけない。根拠も無く、ただそう思った。
『アウィン、そっちへ行っては、ダメだよ』
アウィンはぼうっとさせた目を、驚いたようにルルへ向けた。すると、それまで確かに見えていた自室がボヤけていく。友の姿もまた、霧が風に攫われるように消えていった。
ルルは爪先で立って背伸びをすると、茫然としているアウィンの頬を手で包み、顔を近付ける。
「…………ルル?」
『うん。何をしていたか、覚えてる?』
「私は……ああ、貴方と、旅を」
『合ってる。良かった』
「一体何が……? 今、確かにリッテ──友が、私の部屋に居て」
問いは、ルルに対してでは無いようだった。答えを望むものではなく、ただ落ち着かせるために自問自答を繰り返す。昔からよく、難解な壁にぶつかると独り言で頭を整理する癖があった。
おかげでいくらか冷静になれたアウィンは、ふと視線に気付く。視線の正体は、木の枝に留まる一羽のフクロウだった。銀色と呼ぶに相応しい珍しい目と合ったと思った時、フクロウは飛んで行った。どこへ行くのかと少し追ったところで、濃霧がすっかり消えているのを知った。
(幻覚……? 何のために)
幻覚の中の友は、奥へ誘おうとしていた。思い返しながら、自分が足を運んだであろう場所へ目を向ける。息を呑むような声と共に、細い目が丸くなった。アウィンが見たのは、フクロウが居た大木の下。そこには先客が居た。彼、もしくは彼女は、すでに肉の無い骨となった姿で、そこに項垂れている。
骨はそれだけじゃない。霧に隠れていただけで、そこら中に横たわる骨で溢れていた。引き止められていなければ、自分もあの中の誰かになっていただろう。
「ルル、止めてくれて本当にありがとう。貴方が居なければ、ここを墓場にするところでした」
『ううん。行こう?』
友情を死の道具に使われなくて良かった。こんな無残な形で散らせるわけにはいかない。
ルルは安堵の色を顔に浮かべながらアウィンへ手を差し出す。彼はその手をそっと取り、再び旅路を進んだ。
~ ** ~ ** ~
一羽のフクロウが、木と一体化したように見える家の窓へ入った。フクロウは身動ぐように翼を伸ばすと、一人の男へと姿を変えた。薄暗い中、彼は目の前の誰かへ跪く。その相手は、椅子に深く腰を下ろしている初老の女だった。
「旅人は霧を抜けました。一人、声は届いたようですが、幻覚にはかからなかったようです」
「かからなかった……? ふぅん?」
「例の方の可能性が。しかし、伝承よりもずいぶん幼い見た目で」
戸惑う声に、女はクスクスと笑う。笑うと不思議と少女のような可憐さが覗いた。
「しょせん、伝承は伝承。それに霧を超えたのは確か。迎えてさしあげなさい」
男は胸に手を置き、静かに承諾を示す。そして銀の目を閉じて再びフクロウへ変化すると、窓から飛び立った。
ルルは煩わしい響きに耐えきれず起き上がる。
「おはようございます、ルル」
『ん……おはよう、アウィン。早いね』
コツコツと、杖と共に足音が聞こえる。どうやらもう太陽が顔を出したらしい。
起き上がったルルが手渡されたのは、干した果物だった。砂糖と蜂蜜で漬けて干した果物は、そのまま食べるよりも栄養価が高くて旅人が重宝する。生ではないのにとても甘くて、不思議と瑞々しさもあった。
「発ちますか?」
『うん。国宝の音が、強く聞こえる。でも、いいの? 僕が行く方向で』
「ええ。今はその方が楽しそうですから」
アウィンは自分の好奇心に忠実に、気ままに旅をしている。今、旅人の勘はルルについて行った方が面白いと言っているのだ。だから何があっても後悔は無い。
『それじゃあ』
「参りましょう」
早速旅立ちを促すように扉の前で振り返ったアウィンに、ルルは肩を並べて立った。
~ ** ~ ** ~
頭に問いかける国宝の音は、珍しく長い間安定していた。二人の足はそれまで平坦だった道から徐々に外れ、やがて旅人すら通らなさそうな荒々しい道へ変わる。二人は森の中へ誘われるままに入った。
アウィンは変化に驚くように周囲を見渡した。別に森が珍しいわけではない。世界の半分以上は自然なのだから、10年以上も旅をしていれば森林を外して移動するなど不可能だ。彼が驚いたのは、その空気。一気に夜が来たと勘違いしそうになるほど暗くなり、吸う空気が冷たく重たい。
(この変化……自然の力とは、考えにくいですね)
アウィンは魔法が得意な体質だ。残念ながら体に強い魔力は持っていないが、元より魔法が好きで、幼い頃から鍛錬に明け暮れていた。その成果で、難易度の高い魔術も使いこなせる。だからこそ、この森を取り巻く空気が第三者の力によるものであると分かるのだ。
ルルもまっすぐ前を見つめ続けているが、変化には気付いているようだ。この空気は、まるで自分たちを追い出そうとするような、殺気じみたものがある。極端に疎い者で無い限り気付くだろう。
長く旅をしていても、世界は未知だらけだ。この土地にどんな生き物が生息しているか、経験者だからと、安易に予想してはいけない。アウィンはそっとルルにだけ聞こえるよう囁いた。
「お気を付けて。何が来てもおかしくありません」
『うん』
「国宝の音は、この先ですか?」
『もっと奥。ずっと先から、聞こえる』
どうやらこの森を抜けるしか無さそうだ。共に居る間は自分が彼の目となろうと、アウィンはいつもより注意深く周囲へ意識を向けた。
しばらく進んだ頃、アウィンはますます訝しんでいた。何も無いのだ。奥へ入った時から、ハッキリとした何かの視線を感じるというのに。確実に何か、意思を持った生き物が居る。しかしこちらからは何も見えず、視線だけがまとわり続ける。いっその事、襲いかかって来られれば対処もできるのに、こうも何もされないのはなんとも不気味だ。
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「!」
アウィンは思わず立ち止まる。いつの間に現れたのか、周りは濃霧に包まれていた。
「ルル、そこに居ますか?」
少し声を張ってみるが、返答は無い。先程まで聞こえていた足音も、気配もすっかり消えてしまった。無闇に動く事はできない。視野を奪われた今、頼りなのは聴覚だけだ。
「───アウィン」
名を呼んだのは、ルルの声ではなかった。しかしそれは、彼にとって最も親しい人物の声。
「リッテ?」
その声は、確かに友だ。ありえない。彼は今、母国であるリベルタに居るはずだ。彼は派手に身動きができない。何故なら、足をアウィンに渡したからだ。
「おいアウィン、どこに行く」
「……リッテ、何故ここに居るのです?」
「何を言ってるんだ? お前が呼んだんだろ」
「私は旅をしてるんですよ? お前に足を借りて、今も──」
今、何をしていた? 誰かと一緒にいたような気がするが、思い出せない。
ボヤけていた視界が晴れた気がした。部屋に居る。母国リベルタの、自分の部屋。リッテはアウィンを待っていたようで、いつものソファに腰を下ろしている。肩に付かないほどで綺麗に切り揃えた朝焼けのような髪に、赤く鋭い全眼。ガーネットを嵌めたその宝石の瞳は、何故か懐かしい。
「俺が足を貸すぅ? 何恐ろしい事言ってるんだ」
リッテは呆れたように言う。その中にはどこか憐れむような声色も混ざっていた。そうだ、彼はいつもこうだ。凛とした顔には似合わない、ガサツな物言い。しかし周囲が嫌悪するその姿が、アウィンはむしろ好きだ。
「どうした、悪い夢でも見たか」
「夢……? あぁ、夢ならば、悪夢では無い事は確かでしょう」
「ふぅん?」
「旅を、していた気がします」
こんな会話は以前もした気がする。考えていると思い出した。彼が言う通り、自分が呼び出したんだ。国や民たちについてまとめた資料を新しく作ったから、目を通して欲しいと頼むために。柱としての仕事で相談するのはいつも彼だった。
「どうせいつもの仕事だろ? ほら、見せてみろ」
「ええ、今そちらへ行きます」
進もうとした足がピタリと止まる。足裏が地面に縫いつけたかのように動かない。早く仕事を終えて、ゆっくりと紅茶を楽しんだり、オーア・トーンを弾いたりしたいのに。
──鉱石の、音?
興奮気味な、少年とも少女とも言えない声が脳裏に響いた。しかしこれは今ではなく、記憶からの声。聞いた事のない、透き通った誰かの声。オーア・トーンの音を聞いて、自分の歌を聴いて、嬉しそうにする虹の瞳。
『アウィン、そっちへ行っては、ダメだよ』
~ ** ~ ** ~
霧に巻かれた事に、ルルは遅れて気付いた。正確には、霧の存在には気付いていない。後ろにあったはずのアウィンの足音と気配が消えた事で、異変に気付いたのだ。試しに立ち止まって振り返る。
『アウィン?』
やはり返答は無い。何かが邪魔をしている。しかし正体には見当も付かない。ひとまず動かない方がいいだろう。
「ルル」
ルルは伏せていた目を驚きに見開いた。彼を呼んだのは、懐かしい声。
『……クリスタ?』
優しく柔らかな声を忘れるはずも無い。どうして彼の声が、こんな所で聞けるのだろう。
「ちょうど、ルルが好きな菓子を見つけたんだ。どうだい?」
そう言う声はとても優しくて、ルルは泣きそうになった。彼と会ってたくさん話したい事がある。しかしルルは深く呼吸をして、高鳴る心臓をどうにか落ち着かせた。
『誰?』
違う、彼ではないのだ。気配がほんの僅かに違う。ルルは徐々に、胸の奥で怒りに近い熱が湧くのを感じた。彼の声は、不機嫌なのが伝わるほど低い。
『彼を、演じていい人なんて、存在しない。それ以上その声で、僕の記憶を、汚さないで』
音に乗るのは明確な殺意。ルルがおもむろに腰の剣に手を添えた途端、ザアッと何かが動いた音がした。同時に塞がれたようだった鉱石の耳が、周りの音を拾い始める。そう遠く無い場所で、足音と話し声がした。
「──ええ、今そちらへ行きます」
アウィンの声だ。しかし彼が呼びかけるそこには何も無い。その深海のような青い瞳は、確かに誰かを捉えている。彼もまた、親しい誰かの声と姿に誘われているのだ。
ルルは本能的に駆け寄り、彼の手首を少し乱暴に掴んだ。絶対に行かせてはいけない。根拠も無く、ただそう思った。
『アウィン、そっちへ行っては、ダメだよ』
アウィンはぼうっとさせた目を、驚いたようにルルへ向けた。すると、それまで確かに見えていた自室がボヤけていく。友の姿もまた、霧が風に攫われるように消えていった。
ルルは爪先で立って背伸びをすると、茫然としているアウィンの頬を手で包み、顔を近付ける。
「…………ルル?」
『うん。何をしていたか、覚えてる?』
「私は……ああ、貴方と、旅を」
『合ってる。良かった』
「一体何が……? 今、確かにリッテ──友が、私の部屋に居て」
問いは、ルルに対してでは無いようだった。答えを望むものではなく、ただ落ち着かせるために自問自答を繰り返す。昔からよく、難解な壁にぶつかると独り言で頭を整理する癖があった。
おかげでいくらか冷静になれたアウィンは、ふと視線に気付く。視線の正体は、木の枝に留まる一羽のフクロウだった。銀色と呼ぶに相応しい珍しい目と合ったと思った時、フクロウは飛んで行った。どこへ行くのかと少し追ったところで、濃霧がすっかり消えているのを知った。
(幻覚……? 何のために)
幻覚の中の友は、奥へ誘おうとしていた。思い返しながら、自分が足を運んだであろう場所へ目を向ける。息を呑むような声と共に、細い目が丸くなった。アウィンが見たのは、フクロウが居た大木の下。そこには先客が居た。彼、もしくは彼女は、すでに肉の無い骨となった姿で、そこに項垂れている。
骨はそれだけじゃない。霧に隠れていただけで、そこら中に横たわる骨で溢れていた。引き止められていなければ、自分もあの中の誰かになっていただろう。
「ルル、止めてくれて本当にありがとう。貴方が居なければ、ここを墓場にするところでした」
『ううん。行こう?』
友情を死の道具に使われなくて良かった。こんな無残な形で散らせるわけにはいかない。
ルルは安堵の色を顔に浮かべながらアウィンへ手を差し出す。彼はその手をそっと取り、再び旅路を進んだ。
~ ** ~ ** ~
一羽のフクロウが、木と一体化したように見える家の窓へ入った。フクロウは身動ぐように翼を伸ばすと、一人の男へと姿を変えた。薄暗い中、彼は目の前の誰かへ跪く。その相手は、椅子に深く腰を下ろしている初老の女だった。
「旅人は霧を抜けました。一人、声は届いたようですが、幻覚にはかからなかったようです」
「かからなかった……? ふぅん?」
「例の方の可能性が。しかし、伝承よりもずいぶん幼い見た目で」
戸惑う声に、女はクスクスと笑う。笑うと不思議と少女のような可憐さが覗いた。
「しょせん、伝承は伝承。それに霧を超えたのは確か。迎えてさしあげなさい」
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