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【宝石少年と旅立ちの国】

エピローグの夜

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 走るたび、シャラシャラとマントの飾りが音を鳴らす。市場の人混みにぶつかりながらも、草むらの様に掻き分けてルルは駆けた。その拍子にフードが取れ、人々は宝石少年に振り返る。
 行く手を足元の僅かな亀裂が邪魔し、地面へ倒れ込む。

「……っ…!」

 切り傷からキラキラした血が滲み、ルルは全身の痛みに顔を歪めた。乱れた呼吸に乾いた喉もひりつくように痛み、ヒューヒューと悲鳴をあげる。
 ルルは体の叫びを無視し、必死に立ち上がるとクリスタの気配を探した。しかし周囲は見知らぬ人々の気配で囲まれ、この中から探し当てるのは絶望的だった。
 体重を支える足首から走る激痛が、更に意識を錯乱させて集中を邪魔する。ルルは痛みを取り払うために頭を振り、思考に纏わり付く霧を消し去った。

 冷静さを取り戻せ、闇雲に探しても意味が無いんだ。

(そうだ、柱の塔…っ)

 クリスタもクーゥカラットと同じ、選ばれた貴族の1人。彼も仕事に出ているのならば、塔に居るだろう。しかし無我夢中に走っていたせいか、塔に続く道を見失った。

(何か、分かるもの……。僕が分かるのは、音と…匂いだけ……。匂い…そうだ、国宝の香り……!)

 ルルはあの恐ろしく、特徴的で自分を引き寄せる香りを思い出す。あれほど強い香りと力ならば、微かにでも感じ取る事が出来る筈だ。
 荒れる息を止め、背筋を伸ばして目を閉じると、彼の脳裏にあの眩しく輝く国宝が描かれる。深く息を吐き、静かに呼吸したルルの鼻を冷たい香りが誘う様にくすぐった。ルルはその香りが途絶える前にと、尚も痛みに震える体に鞭打って再び地面を蹴った。

 ルルが無事に塔に辿り着いた頃、クリスタは愛馬に跨って今まさに帰ろうとしていた。

『クリスタ…!』
「?」

 クリスタは手綱に伸ばした手を止め、悲痛な声に振り返る。見れば、ルルは仮面も着けず、美しい髪も隠す事を忘れて塔の入り口に立っている。その姿にクリスタは目を丸くし、慌てて駆け寄った。
 友人が服を血に染め、ボロボロな姿で現れたら誰だって驚くだろう。

「どうした?! 何があった…!」
『クゥを、助けて……っ!』

 その拙く、情報の足りない言葉でも充分意味を理解したクリスタは、全身から血の気が引いていくのが分かった。平和は続くと言い聞かせていた分、記憶の片隅に染み込んだ暗殺という恐怖はそれほど深かったからだ。

「クーゥカラットはどこに…?!」
『いつもの、林に……っ』
「急ごう」

 クリスタは馬に跨り、ルルを引き上げてすぐに合図を送る。心臓は馬が駆ける音よりも速く脈打ち、手が勝手に震えた。
 真後ろから、友の命を奪う真っ黒な影が付いてくる。どれだけ速く走らせても、どれだけ心が急いでも、それだけは振り払う事が出来なかった。

 ルルの指示に従いながら、林の獣道を駆け抜ける。ガサガサと細かい枝を腕で庇いながら辿り着いた奥に、1本の木に背中を預けた形で座るクーゥカラットの姿があった。隣にはドーゥが付き添っている。

「クーゥカラット!」

 クリスタは乱暴に手綱を引き、完全に馬の足が止まる前に飛び降りて走り寄った。ルルもそれに続く。
 クーゥカラットは彼らの声に閉じていた目を開き、顔を上げて疲れた様に笑った。

「クリスタ…来たのか……」
「ルルから聞いた、早く傷を見せろ!」

 腹に巻かれた真っ赤に重く濡れた布切れを剥ぎ取ったが、クリスタは目を疑った。傷口が、薄らとした痕を残して塞がっているのだ。

「どういう、事だ?」
「………。ルル」
『何っ?』
「水が飲みたいんだ。持ってきてくれるか?」

 クーゥカラットは頷いたルルの姿が見えなくなるのを見計らうと、傷跡がある腹に手を添える。そして混乱しているクリスタに視線を向けないまま、小さな声で告げた。

「…毒だ。知っているだろ?」

 クリスタは膝を落とし、食い入る様に綺麗な傷口を見つめる。信じたくない現実だった。

「ま、まさか……っ…。嘘だろ…?」

 クーゥカラットが言った通り、彼の記憶の中にも知識としてあった。しかし実際にその目で見たのは初めてだった。
 コウモリの牙から作られると言われている猛毒だ。しかもそれは、毒の中でも恐ろしいものだった。毒は抜かれないために傷口の上辺だけが完治し、素早く血液の中に溶け込む。そして数時間かけて全身を蝕み、確実に死に追い込むのだ。その間、被害者は痛みなどの異常は何も感じないという。そのため、症状に気付く頃にはその命は奪われてしまうのだ。
 少量だったとしても、血液に混ざれば毒だけを取り除くのは不可能。解毒剤は開発されていない。

「そんな…っ」

 声を震わせるクリスタの瞳から涙がこぼれて頬に伝った。
 クーゥカラットは呆然とするクリスタの涙を、彼の代わりに拭う。クリスタはその手を掴み、縋る様に小さく叫んだ。

「嘘だ…っ! そんな訳ない……冗談だろ…?!」
「分かるんだ。毒に染まった熱い血が、体を流れるのが……」
「…嘘だ…嘘だ…あぁ…っどうして……! どうして、クーゥカラット……っ…」

 みっともなく涙が止まらなかった。彼らの幸せだけは守ろうと誓ったのに。
 クーゥカラットは、まるで子供のように顔をクシャクシャにして泣く彼を抱き寄せ、頭を撫でる。しかしクリスタはその優しい腕を拒絶する様に首を振った。

「ダメだっ…お前は、まだ…死んではいけない……!」
「すまない、クリスタ……。思った以上に、やはり俺は恨まれていたんだ」
「ダメだと言ってるんだ…っ」
「クリスタ」
「…ルルは……どうするんだ……っ? 僕はどうすればいい…っ…。置いていくな…っいくな……」
「あぁクリスタ、お前にも約束しよう。俺はお前たちを独りにさせない。絶対にだ」

 友人の事はよく知っている。心配性であると同時、彼も自分たちに劣らないくらい寂しがり屋である事も。
 クーゥカラットは抱擁を解き、涙で濡れた彼の顔を袖口で拭いながら、言い聞かせる様に囁いた。

「泣き虫な親友を、独りぼっちにさせる訳ないだろう? 約束をする。だから……ルルの事で、最後に頼みを聞いてほしい。そうすれば俺は救われる」
「あぁ…ああ、何でも言え……っ」

 腕で乱暴に目元を拭いながら頷くクリスタに微笑み、クーゥカラットは目を閉じると静かに口を開いた。

~               **              ~               **                 ~

 ルルは水を入れたコップを両手にして家から急いで飛び出す。しかしちょうどその時、クーゥカラットたちが既に庭先の草を踏んでいた。

「ルル」
『クゥ…っ? 歩いても、大丈夫なの……?』
「ああ」
『クリスタ、クゥの怪我は…どう、なったの……?』
「……すまない、ルル…。落ち着いて…聞いてほしい」

 クリスタは声が上ずるのをなんとか抑え、クーゥカラットが受けた傷と毒の事を語った。そして、命が尽きるのが早くて今夜、遅くても明日の昼頃だという事も。
 言葉一つ一つを聞くたびに、ガラスのコップを握ったルルの両手に力が篭る。
 ルルは目を閉じて、何度も謝るクリスタへ首を横に振った。自分の弱さが何もかもを奪ってしまったのであって、彼が謝る事は何もないのだから。

『ううん。教えてくれて、ありがとう。クリスタ…………本当に…ごめんなさい』

 ルルの声はとても小さく、前髪に隠れたから頬に一粒の涙が零れる。落ちてクリスタルとなった涙は、夕日に照らされて赤く輝いていた。

 もう夜までそう時間は無い。最期は2人で過ごしてほしいというクリスタの言葉に、ルルは僅かな間黙ったが、彼の気持ちを受け取って頷いた。しかし、背を向けて帰ろうとした彼をクーゥカラットが止める。クーゥカラットは振り返ったクリスタへ、ペンダントを首から外すと差し出した。

「また…『明日』な」
「……、…っ」

 クリスタはその言葉に顔を歪めたが涙を堪え、目を固く瞑ると頷き、ペンダントを受け取ると帰って行った。
 クーゥカラットは彼の後ろ姿を見つめ、扉を閉めると鍵を掛けてルルへ振り返る。静かに歩み寄り、傷だらけになった頬を両手でそっと包み込むと指で撫でた。

「転んだか? 傷だらけだ…。手当てをしようか」

 ルルは何も言わず、クーゥカラットに促されて椅子に座る。
 クーゥカラットは頬を消毒してから手の平の傷を手当てしようと触れた。すると、彼の手を握っていた自分の手の甲に、ポロポロと雫が落ちた。
 顔を上げると、涙で不安定に色を変えるルルの瞳があった。彼はそれでも耐えようとしているのか、表情が強張っている。

「ルル…」
『……ごめんなさい』
「ルル、謝らなくていい」
『僕、貴方を……幸せに、したかった……。何もなかった僕に、貴方は…沢山のものを…くれて……。まだ…まだ、返せてないよ…クゥ…。なのに…守れなくて』
「……おいで、よく聞きなさい」

 クーゥカラットはルルを強く抱きしめて囁く。その声は部屋には響かず、ルルの宝石の耳にしか届かないほどの小ささだった。

「俺は、幸せだ。前にも言ったろう? 俺の傍にいつも居てくれた。俺の言葉を聞いてくれた。俺を愛してくれた。お前はな…俺が望んだ全てをくれたんだ。もちろん、会えなくなるのは寂しいさ。けれど……それ以上に、それを超えるほど、俺は幸せだ。俺の顔、後悔しているか?」

 彼の顔はいつもよりも穏やかで、とても静かな微笑みが浮かんでいる。ルルはクーゥカラットの言葉に顔を上げ、無言で頭を振った。

「そうだろ? それにな……俺の死を悲しんでくれる存在が居るのも、俺は幸せなんだよ。本当に……誰よりも幸せだ」
『本当、に…?』
「ああ。今、この時間すら…俺はとても幸せだと思っている。最期も家族と共に居られるんだから。俺の幸せは、この両手に収まりきらないほどだった」

 ルルの瞳から、また止めどなく涙が流れ落ちる。ルルは再びクーゥカラットの胸元に顔を押し付け、背中に回した手でギュッと彼の服を掴んだ。クーゥカラットは今も震えるルルの背中を優しく撫でる。

「俺が使っていた剣…分かるか?」
『……うん』
「あの剣はお前の物だ。あれに俺の魂が宿り、お前の最期まで見守ろう。だから……あれを持ちなさい」
『うん……うん、分かった…っ』
「ルル、お前はこれから、もっと多くを見るだろう。その中で大切な人たちと出会う。だから、もうそれを手放さないように…今日、この日を後悔するな。今日流した涙を、悲しみだけにしないために。お前の最後に、後悔が無いように。その進む道が美しくなる事を」

 ルルは小さく頷き、これ以上涙を流さない様にと目を強く瞑った。もう最後になるであろう彼との約束を刻み、その願いと約束に相応しくあれるようにと。
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