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第四章
奉天の戦い
しおりを挟むタクナンが二万の兵で攻撃を仕掛けると、百人ほどの渾日進の兵はたいした抵抗もせずに北東に退却を始めた。呂日将が予想したとおり、こちらが勝ちに乗じて深追いすることを狙っているのだろう。その先にある九嵕山に軽騎兵を潜ませているのは間違いない。
「とことん付き合ってやる」
タクナンはほくそ笑んだ。
「九嵕山がやつの墓場だ」
敵は巧みに防御と逃走を繰り返した。追討に手加減は加えていなかったが、あと少しというところで捕らえそこね、大きな打撃を与えることが出来ない。そのじらすような動きに、タクナンは舌を巻いた。呂日将の助言がなかったら躍起になって罠に誘い込まれていただろう。
こうして三十里ほど追い続け、九嵕山の麓に至った。タクナンが、最後尾の兵も遅れることなくついて来ているのを確認した、そのとき、左手の山が轟音とともに崩れた。
「来たぞ!」
タクナンは冷静に合図をした。兵はすかさず山に対して鶴翼の陣形をとる。
こちらに向かってくるのは土砂ではない。
水煙をあげながら駆け下りて来る軽騎兵だ。
その気迫に、さすがのタクナンも肌が粟立つ。
兵士たちが浮足立っているのをひしひしと感じる。
このまま突っ込まれればあっという間に崩され、彼らの餌食になることだろう。後は呂日将を信じるしかない。
敵軍の中ほどに、大将の旗が見えた。
渾日進はあそこにいるのだ。
槍を持つ手に力が入る。
渾日進の軍が山の麓に達したとき、西の山影から走り出してきた騎馬隊が、矢のようにその脇腹を刺し貫いた。
突撃が、止まった。
「逃がすな!」
タクナンは前進を命じた。
※ ※ ※
「さすがだ」
呂日将は唇をかんだ。
雨降る夜道を敵に気づかれぬよう慎重に進み、九嵕山の麓に五百の騎馬兵を潜ませた。一撃で崩れてくれれば、渾日進の首をとるのも夢ではない。
が、不意打ちを受けたにもかかわらず、渾日進軍は即座に散開し、矢じりのような陣形で突っ込んだ呂日将の攻撃をかわした。まるで手応えのない、霧の中を走り抜けたようだった。
呂日将は馬を返し、渾日進軍に対して横に長く陣形を変化させる。
渾日進は散った軍を小さくまとめている。それを囲むように、東南西の三方からタクナンの二万の兵が迫って来た。
北方は山。渾日進に退路はない。
逃れようとする渾日進の動きを封じるため、両翼を広げて兵を進める。
呂日将は渾日進の旗を目指して駆けた。
遮る敵を振り落とし、突き落とし、首を飛ばす。
太刀を振るって向かって来た将に振り下ろした戟が、はじめてはじき返された。
すれ違い、馬を返すと、相手も馬首を向けた。
目が合う。
自分と同じくらいの年まわりの若い男。雨粒のしたたる兜の内の鉄勒人らしい彫りの深い顔が、愛嬌のよい笑みを浮かべた。
「すべてお見通しだったわけか。オレとしたことが抜かったな。せめて貴様だけは道連れにしてやる」
渾日進だ。
確信した呂日将は、身の内が震えるのを感じた。
もう完全にタクナンの兵に包囲されている。渾日進の兵たちは必死に退路を開こうと動いているが力尽きるのも時間の問題と見えた。
渾日進はそれをよそに、馬腹を蹴って呂日将に突進して来る。
弧を描いて向かってくる剣を戟で受け止め、跳ね返しながらすれ違う。
返す刀で渾日進の首を狙う。
とっさに伏せた渾日進の背中の上を空振りした戟を、大きく回転させて振りあげ、振り下ろす。
振り返った渾日進が、太刀でそれを受け止めた。
そのまま、渾身の力を込めて押し合う。
「くたばれ!」
唸るように罵ると、渾日進が目を見開いた。
「やはり、貴様、唐人だな?」
わずかに、渾日進の力が緩んだ。
力任せに突き放す。
渾日進の馬がよろける。
勝てる!
血煙を噴き上げながら墜ちる、彼の姿が目に浮かんだ。
呂日将は戟を振りあげた。
突如、南から鬨の声が沸き起こった。
思わず目をやる。
雨の向こう側、逃げ惑うタクナン軍が見えた。その背後で翻る旗に目を凝らして、呂日将は慄然とした。
郭令公。
緊急時には呂日将を見捨てタクナンを救うよう命じている。呂日将は声を張った。
「タクナンどのをお守りせよ!」
副将が騎馬隊をまとめてタクナンのもとに向かうのを確認したとき。
「呂日将!」
風のような殺気とともに、耳に届いた声に身体を向けると、頭上から糸をひくように輝くものが襲い掛かって来た。
なぜオレの名を?
疑問が胸をよぎった瞬間に、衝撃がやって来た。
雨よりも生暖かいものが顔を濡らす。
ぐらりと世界が揺れ墜ちる。
灰色の曇天が、赤く染まっていく。
それが視界いっぱいに広がり、やがて、すべてが、白けた。
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