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第四章
雨
しおりを挟む涇州と邠州は難なく落ちた。京師目前で停止した吐蕃軍は奉天と武功の間に陣を敷き、僕固懐恩を待った。左翼の奉天にはタクナン、右翼の武功にはトンツェンを配し、ゲルシク引退後の東方元帥に決定しているツェンワは本隊と合流している。
雨が降り続いていた。唐側は奉天に渾日進、便橋に馬璘、盩厔に駱奉先が陣を張って待ち構えているらしい。ラナンの率いる精鋭騎馬隊の出動機会はなく、本隊と行動をともにしている。そのなかにいる呂日将は僕固懐恩の到着をジリジリと待ちわびていたが、どういうわけか僕固軍もウイグル軍もやって来る気配がなかった。
右翼と左翼に動きがあった。武功のトンツェンは馬璘の奇襲に遊軍を殲滅されたが、その後もルコンの指示どおり守りを固めている。奉天のタクナン軍には渾日進が執拗に矢を射かけたり石を投げつけたりして挑発し、こらえきれずに飛び出す兵たちと小競り合いを繰り返していた。そのたびに、数人、数十人の兵が失われる。苛立つタクナンからは、日に何度も攻撃の許しを願う使者が送られて来た。
そのしつこさに根負けしたのか、タクナンに攻撃が許されたと聞いた呂日将は、思わずルコンのもとに走った。
「わたしに精鋭騎馬隊を貸してください」
「戦いたいのなら、僕固将軍のもとに帰ってからにされよ」
「今回はつまらぬ意地を張っているのではありません」
ルコンは目を細め、無言で先を促した。
「鉄勒出身の渾日進は騎馬の戦いに長けております。その彼がこれまで騎馬を積極的に使わずに挑発を続けたのは、雨のせいだけではありますまい」
「タクナンどのが出てきたところを、隠していた騎馬隊で討ち取ろうというのか」
「はい。しかし精鋭騎馬隊を使えば、その裏をかいて渾日進から奉天を奪うことができるでしょう」
「そんなことをしては二度と唐に帰ることが出来なくなりますぞ」
悲しいという気持ちは、まったく湧いてこなかった。故国への愛情など、すっかり心の内から消え失せてしまっていると改めて自覚出来た。
「駱奉先を動かせるほどの者に憎まれているのです。帰れば殺されるでしょう。ルコンどののご意見を賜りたい。父は、わたしが唐と帝の役に立つ人間になることを望んでいました。だからわたしは無謀も顧みず、いのちをかけて唐のためにあなたと戦った。その結果、送られてきたのは刺客でした。もしタクニャどのがわたしと同じ目にあっても、ルコンどのはタクニャどのに国に帰って犬死せよと仰せになりますか」
ルコンは苦笑いを浮かべる。
「子の犬死を望む親はいない。自分のこころに従って存分に生きろと申すかな」
ルコンは呂日将のこころを軽くしようと本心とは違ったことを言っているのかもしれない。しかし、それを父の言葉として受け取ることにした。
「なれば、わたしは唐には帰りません」
「部下たちが待っているではないか」
「彼らにはわたしを忘れ、唐に帰るよう説得します」
ルコンはしばらく顎を撫でながら考えたのちに、うなずいた。
「わかった。精鋭騎馬隊を好きなだけお使いなされ。だが、いのちを無駄に捨てるようなことはなさるな。ここで死んでも犬死ですぞ」
気遣うルコンの顔を、呂日将ははじめてこころ静かに見ることが出来た。
「無事に帰ったら、ルコンどのの部下にしてください」
「ありがたいお申し出だが、わたしはこのいくさを最後にキッパリ軍務から身を引くつもりだよ。タクナンどのに頼んでみたらどうか」
それもいいかもしれない。
五百騎の精鋭騎馬隊を借りた呂日将が奉天に到着すると、タクナンは目を丸くした。
「唐に知られてしまうぞ」
「唐には帰りません。タクナンどのの部下にしていただけるか聞いてみろと、ルコンどのがおっしゃってくださいました。どうでしょう」
タクナンは大笑した。
「オレは大歓迎だ。よし、唐人どもの墓場を築いてやろう」
ふたりは奉天攻撃の計画を立て始めた。
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