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第三章
父の形見
しおりを挟む晩夏の草原を、ラナンの率いる三千の騎馬兵が一斉に駆け出す。呂日将は馬に乗ったまま、その全体を俯瞰出来る小高い丘の上で眺めていた。ラナンの上達は凄まじく、いまでは模擬戦闘をすれば呂日将も苦戦を強いられるほど、巧な動きを見せる。
ラナンがうまくなったのは、用兵だけではない。だいぶ唐語が話せるようになって、呂日将との意思疎通にはまったく支障がなくなっていた。
「ラナンは変わった。自信がついたのだろう。一族の長らしく堂々と振舞うようになって来たよ。日将どののおかげだ」
呂日将と轡を並べて演習を眺めるスムジェが言う。
「わたしの力ではありません。もともとラナンどのに備わっていた力を見出した、ルコンどのの眼力の賜物でしょう」
「あまり謙遜されるな。わたしは疑い深いから、裏があるのではないかと思ってしまう」
「だから、ニャムサンどののことも警戒されるのか」
「血筋も陛下からのご信頼も申し分ないのに、家督も宰相の位もあっさりラナンに譲って、翻訳官というわけのわからん仕事に満足しているなど、信じられるか」
「ニャムサンどのは、表裏のある方ではありません。翻訳の仕事が本当に好きだから、それを妨げるような名誉も官職もいらないのでしょう。実際、仕事に打ち込んでいらっしゃるお姿を見ればわかります。一度訳経所に足を運ばれてはいかがでしょう」
「わたしなんぞが顔を出したらニャムサンがイヤがるよ。まあ、日将どのがそうおっしゃるのなら信じよう。だが、もうしばらくはこういう男がラナンのそばには必要だ。ラナンは世間を知らなすぎるからな」
「弟御思いでいらっしゃるのですね」
「やめてくれ。ラナンが出世してくれれば一族が栄える。わたしはそのおこぼれにありついて、うまい汁を吸いたいだけだ」
スムジェは口を曲げる。しかし視線は柔らかく、ラナンの動きを目で追っていた。
出陣の日は、近づいていた。
ルコンが読んだとおり、唐との和睦はならなかった。いよいよ鴻臚寺で会盟というときになって、郭子儀の提言を受け入れた帝が和睦の撤回を命じたからだ。賛普は、手のひらを返した唐に激怒して出兵を決断したと伝えられているが、それは和睦派を黙らせるための演技なのだろう。
将軍たちは兵を率いて続々と集まっていた。総大将はゲルシク、副将はルコン。その下にトンツェン、ツェンワ、タクナンが、それぞれの兵を率いて参戦、三千の騎馬隊の指揮官となったラナンに代わって、スムジェが兵站を担当するナナムの軍の指揮を任されている。
兵の数は十万。さらに吐蕃に臣従している党項、南詔などの軍が参戦する。
「一昨年は、がむしゃらに進んで京師を落とすだけでよかったが、こたびはそう単純にはいかない。僕固軍、ウイグル軍と協力し合って、柔軟な対応をする必要があるのだ。まずは邠州まで進軍し、ウイグルと合流する。その後、唐軍を撃破し、僕固将軍をお助けして京師を陥とす」
諸将を集めた会議で、ルコンは告げた。
会議が終了すると、呂日将はルコンに呼ばれた。
「日将どのはわたしとともに本陣におられよ」
「お気遣いは無用です」
「ご使者をいくさに使うわけにはいかない。僕固将軍と合流したら、すぐにお帰りなられることだし」
「わたしはラナンどのの師でもあります。ラナンどのとともにいさせてください」
「今回はラナンどのの出番はないだろう。馬はウイグルにまかせたほうがいいからな」
「それでもかまいません」
「日将どのはここに来たことを知られずに、戻ったほうがいい。万が一にも唐軍と接するところにはいて欲しくないのだ」
故国に刃を向けるようなことをさせまいというルコンの思いやりであることはわかっていた。だが、呂日将は、カッと顔に血がのぼるのを感じた。そのように気を使われれば使われるほど、反抗したくなるのはなぜか。自分でもわからなかったが、意地を張らずにはいられなかった。
「わたしはそんな生半可な覚悟でここに来たのではありません。もちろん、僕固将軍のもとに帰れるとなったときには、即座にお別れさせていただきますのでご安心ください。あちらにはわたしの帰りを待ちわびている部下たちがいますから」
ルコンはまだなにかを言いたそうにしていたが、ひとつため息をつくと、あきらめたように言った。
「わかった。お好きにされよ」
その夜、賛普の代理として出陣のようすを見届けるために訪れていたタクニャが会いに来た。
「日将どの、これをお使いください」
タクニャの家来が鮮やかな装飾の施された明光鎧を差し出す。
「ニャムサンとサンシと、わたしたち兄弟で用意しました」
「かたじけない。お世話になったお返しが出来ぬのがこころ苦しいです」
「こんな物騒なものを作らされた礼は、いつか倍にして返してもらう、だからその前に死んだら許さない、とニャムサンからの伝言です。失礼なことを言うと、プティに叱られていましたけれど」
「またお家から追い出されたりされていませんか?」
「その前に訳経所に逃げ込みましたよ」
タクニャはクスクスと笑った。
「それと、これを」
タクニャが差し出したものを見て驚いた。鳳翔で打ち捨ててきた父の形見の戟と瓜ふたつだったのだ。この国でこれを知っているのはひとりだけ。
「これはルコンどのが造ってくださったのではないですか」
「バレましたか。武具のことがわからないので父に相談したところ、自ら職人に指示し、何度も造り直させていました。真剣に武具を吟味する父の顔を見たのは久しぶりでしたよ。ご満足いただければ喜ぶでしょう」
タクニャから受け取ると、型通り振ってみる。
重さも、感触も、以前のものと寸分変わらない。魂の分身が戻って来たようだ。
一度手にとっただけなのに、なぜルコンは鮮明に覚えていたのか。この戟で首を刎ねられるのだ、とあの穏やかな笑顔のうちに覚悟していたからではないか。
心底に澱のようにわだかまっていたルコンに対する反抗心が消え去り、熱いものがこみ上げて来る。苗晋卿が言ったとおり、ルコンは自分のことを認めてくれていたのだ。
「父は日将どののような武に長けた息子も欲しかったのだと思います」
タクニャの言葉に、呂日将は頭を垂れた。
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