天空の国

りゅ・りくらむ

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第一章

呂日将は日の光に向かって進む

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 莫離の街に到着すると、いつものように一行は商売を始めたが、呂日将は体調が良くないと偽って宿の部屋に引きこもった。昨年の春に捕らえられた唐の使者がこの街で幽閉されており、その家来がときどき街に出て主のためにものを贖って行くというのを聞いたからだ。うっかり顔を合わせて唐人であると感づかれたくはなかった。
「ダメですよ。ちゃんとお薬をお飲みにならなくちゃ」
 曹可華は部屋から離れず、頬を膨らませて子どもを叱るように言った。
「仕事を怠っては健福どのに叱られるぞ。オレは大丈夫だからあっちに行ってろ」
 そう言って追い返しても、一刻ほどすると戻って来て、あれを食べろ、これを飲め、などと口うるさく言う。数日前の恩返しのつもりなのだろう。仕方なく、上衣を頭からかぶって寝たふりをした。
 曹可華の気配は消えない。黙って、枕もとに控えているらしい。そうしているうちに、本当に呂日将の意識は闇に沈んで行った。

 抜けるような青空の下、真紅の地に白く『馬重英』と染め抜かれた旗が翻っている。
 騎乗の呂日将は、馬重英と相対していた。
「わたしは馬重英。この軍の総司令です。お見知りおきを」
 穏やかな、しかし呂日将を嘲るような低い声が響く。
 右手を見れば、鳳翔の山で捨てたはずの父の形見の戟がしっかりと握られている。
 そのまま視線を馬の足元に落とした呂日将は慄然とした。
 ふたりを囲むように部下たちの死骸が累々と転がっている。その身体から吹き出た血潮が混ざりあい、朱殷の川となって流れていく。
 彼らと過ごした日々が頭をよぎる。戟を握る手に力が入った。
 絶叫が響く。
 それが自分の口から吐かれたものだ、ということに気づいたときには、馬重英の首が、緋色のしぶきをあげて地に転がっていた。
 首だけになった馬重英は血に染まりながら笑い始めた。
「おまえはいのちをかけて守ろうとした唐から捨てられたのだ。賭けるべきでないものに賭けた者の哀れな末路を、しかと見届けるがいい」
「黙れ!」
 呂日将は躍起になって馬重英の首をたたきき潰そうと戟を振るうが、首は巧みにそれを躱しながら転がり続ける。空振りして地をたたき、その度に跳ね返る血のしずくが、ぐっしょりと呂日将の全身を濡らす。
 笑い声はどんどん高くなって、空気を震わせ呂日将の耳を突き刺した。
 たまらず戟を投げ捨て、両手で両耳をふさぐ。その指の隙間からも馬重英の高笑いはジクジクと流れ込んで、頭のなかに満ちていく。
 気が狂ってしまいそうだ。
 固く目を閉じると、激しく世界が揺れた。

「稀学さま、稀学さまってば」
 肩を揺すられていた。
 細く開けた目に、白い光が襲いかかる。眩しさに耐えながら見回すと、ベソをかいた曹可華の顔が見えた。
 呂日将は両手をついて、ぐったりと重い身体を起こした。身体中を濡らしていたのは自分の汗だった。
「ものすごい、うなされていました。なんど呼んでも起きないから、旦那さまを呼びに行こうかと思いましたよ」
「すまぬ、心配をかけた。嫌な夢を見ていたのだ」
 久しぶりに見た、馬重英の夢。
 強張った頬に力を籠め、笑みを浮かべると、ようやく曹可華はホッとした顔を見せた。
「だからお薬を飲まなきゃダメだって言ったじゃないですか」
 曹可華が嬉しそうに差し出した、舌がしびれるほど苦い薬を飲み下す。
 身体が熱くなって来るのは薬効か、部下たちの仇に助力を請わねばならないという屈辱のせいか。
 呂日将にはわからなかった。

 莫離を発ち、だんだんと高くなっていく広い台地をゆっくりと登っていくうちに、広徳二年の四月になっていた。この国では年号ではなく干支で暦を記録するという。
 ティソン・デツェン王の御代の甲辰四月。
 牧畜民や農民には、種を蒔く時期、放牧に適した時期、収穫の時期、冬支度の時期が区別出来ればいいのだそうだ。だから季節も冬と夏しかない。
 彼らの晩冬の正午の荒野を、曹健福の率いる隊商とともに、呂日将は日の光に向かって進んでいた。
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