天空の国

りゅ・りくらむ

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第一章

ソグドの隊商

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 范志誠から紹介された曹健福という初老のソグド人とともに霊武を出発する。城外で部下たちと別れ、見えなくなるまで何度も手を振り合った。
 河水に沿って十里ほど南下したところにある小さな集落で、二十人ほどの隊商がふたりを待っていた。女性はおらず、半数は曹健福の家族と使用人、半数は用心棒の若者たちという。
 呂日将はすっかりソグド商人の姿になっていた。名も石稀学とソグドの姓を名乗る。顔は深目高鼻のソグド人には程遠かったが「雑胡(混血)ならば漢人のような顔立ちの者もいますから大丈夫でしょう」と曹健福は言った。
 まことの身分を知っているのは曹健福だけだ。他の者には、霊武の大商人の息子が後学のために吐蕃での商売を見たいというので同行させる、と説明したという。ソグド人は西域を起源とする商の民だが、なかには土地の権力者と主従関係を結んで出世する人間もいる。帝の寵を受け、節度使まで昇った安禄山もソグド人の血を引いていた。石稀学の立ち居振る舞いや言葉使いが武人らしくても、怪しむ者はいなかった。
 河水に沿った緑地を、一行はゆっくりと南西に進んで行った。曹健福は唐と吐蕃と西域を回りながら、行く先々で宝飾品や絹のような高級品から庶民の求める雑貨まで、さまざまな品を売り買いしているという。
「吐蕃全土を治める王さまのことを、賛普ツェンポと言います。その賛普の叔父上が摂政に就かれてから、仏教や道家に関する物品の取締が厳しくなり、われらも都の羅些ラサまで入るのは避けていたのですが、一昨年摂政が失脚されて、ふたたび自由に唐のものを商うことが出来るようになりました。まだお若い賛普は摂政とは違い、外国のものがお好きだそうです。庶民もまねして、こういうものをよく買ってくれます」
 曹健福は、西域で作られたという小さな仏像や道家の護符といった商品を見せた。
「ところで、吐蕃の言葉で『虎嘯』をなんというのでしょうか。人の名前に使われるようですが」
 苗晋卿から教えてもらった単語をすっかり忘れてしまっていた呂日将が尋ねると、曹健福はわずかに首を傾げた。
「タクラ、でしょうか」
「ああ、そうだった。レン・タクラという名前に憶えはありませんか」
「貴族によくあるお名前です。どのような方でしょう」
「昨年、京師を攻めた吐蕃軍の総帥です」
「総大将になられるのでしたら、すでに元帥に任じられているような歴戦の将と思いますが……はて、可華、タクラというお名前の将軍はいらしたかな」
 曹健福が傍らに問うと、十二歳の丁稚、曹可華は答えた。
「吐蕃軍の総大将でしたら、シャン・ゲルシク将軍ではないのですか」
「シャン・ゲルシク将軍はシャンではないか。確か、シャン・ゲルシク・シュテンさまとおっしゃるはずだ。タクラというお名前ではないよ」
 曹健福が首を振ると、曹可華は口を尖らせた。
「でも、東方の元帥はシャン・ゲルシク将軍ですよ。そのまま総大将になるのが当たり前じゃないですか。レン・タクラっていうのが間違っているんでしょう」
「これ、口を慎め。子どもの言うことです。お許しください」
 呂日将は首を振った。
「いや、かまわぬ。可華、シャン・ゲルシクとはどのような将軍なのだ」
「英雄ですよ!」
 曹可華はまるで、自分のことを誇るように鼻を膨らませた。
「河西や隴右で唐に負け続けていた吐蕃が、シャン・ゲルシク将軍が元帥になったら連戦連勝です」
「これこれ、もうそんな話は……」
 慌てる曹健福を後目に、呂日将は質問を続けた。
「吐蕃には他にどんな将軍がいるか知っているか」
 曹可華は早口でまくし立てた。
「シャン・ゲルシク将軍の跡を継ぐだろうと言われているのがシャン・トンツェン将軍、シャン・ツェンワ将軍のふたりです。どちらも、シャン・ゲルシク将軍やレン・ティサン将軍の副将としてたくさん戦功を立てています。あ、レン・ティサン将軍というのは南詔と結んで剣南に攻め込んだ南方の元帥です」
 曹健福は頭を抱えた。唐を相手に功績をあげた将軍を、よりによって唐の将軍に自慢しているのだから、事情を知っている曹健福は生きた心地がしないだろう。呂日将は笑いながら聞く。
「そのレン・ティサン将軍もタクラという名前ではないのか」
「レン・ティサン・ヤプラクというお名前ですよ。タクラではありません」
「よく知っているな。たいしたものだ」
 呂日将の称賛に、曹可華は申し訳なさそうな顔をした。
「本当にレン・タクラ将軍なんて聞いたことがありません。やっぱり間違いじゃないですか」
 そうかもしれない。馬重英が苗晋卿に真実を語っていたという保障はないのだ。
「でも、絶対に羅些に行けばわかりますよ。だって唐の京師を落とした英雄ですからね。みんなが知らないわけがありません」
「もういい加減にせよ。調子に乗って申し訳ございません。去年の夏に羅些の子どもたちから吹き込まれて知ったことをそのまましゃべっているのです」
 曹健福は必死に謝るが、呂日将は曹可華の無邪気さをむしろ微笑ましく感じていた。
「よいのだ、健福どの。オレは吐蕃のことはなにも知らないから、こういった情報はありがたい。これからも遠慮せずいろいろ教えてくれ」
 一行は街々で持っている商品を銅銭や他の商品と交換しながら進んで行く。吐蕃兵の姿もあったが、曹健福のようなソグドの商人に害をなす者はなかった。
 曹可華は褒められたのがよほど嬉しかったのか、一日中、呂日将について歩くようになった。子どもの曹可華ですら、幾つかの言葉を習得していて、相手によって言葉を器用に使い分けている。呂日将にはわからぬ言葉で話しかける者があれば、すかさず通訳してくれるので助かった。
 夜はねだられるまま、知っている唐の将軍たちの逸話を話してやる。目を輝かせて聞く曹可華の姿に、同じように父に英雄譚を請うた子ども時代の自分の姿が重なる。
 あのころは、自分もそのような偉大な将軍になるのだと信じて疑わなかった。
 呂日将はいまの自分の状況を顧みて、物寂しい気分になった。
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