天空の国

りゅ・りくらむ

文字の大きさ
上 下
13 / 51
第一章

ソグドの隊商

しおりを挟む

 范志誠から紹介された曹健福という初老のソグド人とともに霊武を出発する。城外で部下たちと別れ、見えなくなるまで何度も手を振り合った。
 河水に沿って十里ほど南下したところにある小さな集落で、二十人ほどの隊商がふたりを待っていた。女性はおらず、半数は曹健福の家族と使用人、半数は用心棒の若者たちという。
 呂日将はすっかりソグド商人の姿になっていた。名も石稀学とソグドの姓を名乗る。顔は深目高鼻のソグド人には程遠かったが「雑胡(混血)ならば漢人のような顔立ちの者もいますから大丈夫でしょう」と曹健福は言った。
 まことの身分を知っているのは曹健福だけだ。他の者には、霊武の大商人の息子が後学のために吐蕃での商売を見たいというので同行させる、と説明したという。ソグド人は西域を起源とする商の民だが、なかには土地の権力者と主従関係を結んで出世する人間もいる。帝の寵を受け、節度使まで昇った安禄山もソグド人の血を引いていた。石稀学の立ち居振る舞いや言葉使いが武人らしくても、怪しむ者はいなかった。
 河水に沿った緑地を、一行はゆっくりと南西に進んで行った。曹健福は唐と吐蕃と西域を回りながら、行く先々で宝飾品や絹のような高級品から庶民の求める雑貨まで、さまざまな品を売り買いしているという。
「吐蕃全土を治める王さまのことを、賛普ツェンポと言います。その賛普の叔父上が摂政に就かれてから、仏教や道家に関する物品の取締が厳しくなり、われらも都の羅些ラサまで入るのは避けていたのですが、一昨年摂政が失脚されて、ふたたび自由に唐のものを商うことが出来るようになりました。まだお若い賛普は摂政とは違い、外国のものがお好きだそうです。庶民もまねして、こういうものをよく買ってくれます」
 曹健福は、西域で作られたという小さな仏像や道家の護符といった商品を見せた。
「ところで、吐蕃の言葉で『虎嘯』をなんというのでしょうか。人の名前に使われるようですが」
 苗晋卿から教えてもらった単語をすっかり忘れてしまっていた呂日将が尋ねると、曹健福はわずかに首を傾げた。
「タクラ、でしょうか」
「ああ、そうだった。レン・タクラという名前に憶えはありませんか」
「貴族によくあるお名前です。どのような方でしょう」
「昨年、京師を攻めた吐蕃軍の総帥です」
「総大将になられるのでしたら、すでに元帥に任じられているような歴戦の将と思いますが……はて、可華、タクラというお名前の将軍はいらしたかな」
 曹健福が傍らに問うと、十二歳の丁稚、曹可華は答えた。
「吐蕃軍の総大将でしたら、シャン・ゲルシク将軍ではないのですか」
「シャン・ゲルシク将軍はシャンではないか。確か、シャン・ゲルシク・シュテンさまとおっしゃるはずだ。タクラというお名前ではないよ」
 曹健福が首を振ると、曹可華は口を尖らせた。
「でも、東方の元帥はシャン・ゲルシク将軍ですよ。そのまま総大将になるのが当たり前じゃないですか。レン・タクラっていうのが間違っているんでしょう」
「これ、口を慎め。子どもの言うことです。お許しください」
 呂日将は首を振った。
「いや、かまわぬ。可華、シャン・ゲルシクとはどのような将軍なのだ」
「英雄ですよ!」
 曹可華はまるで、自分のことを誇るように鼻を膨らませた。
「河西や隴右で唐に負け続けていた吐蕃が、シャン・ゲルシク将軍が元帥になったら連戦連勝です」
「これこれ、もうそんな話は……」
 慌てる曹健福を後目に、呂日将は質問を続けた。
「吐蕃には他にどんな将軍がいるか知っているか」
 曹可華は早口でまくし立てた。
「シャン・ゲルシク将軍の跡を継ぐだろうと言われているのがシャン・トンツェン将軍、シャン・ツェンワ将軍のふたりです。どちらも、シャン・ゲルシク将軍やレン・ティサン将軍の副将としてたくさん戦功を立てています。あ、レン・ティサン将軍というのは南詔と結んで剣南に攻め込んだ南方の元帥です」
 曹健福は頭を抱えた。唐を相手に功績をあげた将軍を、よりによって唐の将軍に自慢しているのだから、事情を知っている曹健福は生きた心地がしないだろう。呂日将は笑いながら聞く。
「そのレン・ティサン将軍もタクラという名前ではないのか」
「レン・ティサン・ヤプラクというお名前ですよ。タクラではありません」
「よく知っているな。たいしたものだ」
 呂日将の称賛に、曹可華は申し訳なさそうな顔をした。
「本当にレン・タクラ将軍なんて聞いたことがありません。やっぱり間違いじゃないですか」
 そうかもしれない。馬重英が苗晋卿に真実を語っていたという保障はないのだ。
「でも、絶対に羅些に行けばわかりますよ。だって唐の京師を落とした英雄ですからね。みんなが知らないわけがありません」
「もういい加減にせよ。調子に乗って申し訳ございません。去年の夏に羅些の子どもたちから吹き込まれて知ったことをそのまましゃべっているのです」
 曹健福は必死に謝るが、呂日将は曹可華の無邪気さをむしろ微笑ましく感じていた。
「よいのだ、健福どの。オレは吐蕃のことはなにも知らないから、こういった情報はありがたい。これからも遠慮せずいろいろ教えてくれ」
 一行は街々で持っている商品を銅銭や他の商品と交換しながら進んで行く。吐蕃兵の姿もあったが、曹健福のようなソグドの商人に害をなす者はなかった。
 曹可華は褒められたのがよほど嬉しかったのか、一日中、呂日将について歩くようになった。子どもの曹可華ですら、幾つかの言葉を習得していて、相手によって言葉を器用に使い分けている。呂日将にはわからぬ言葉で話しかける者があれば、すかさず通訳してくれるので助かった。
 夜はねだられるまま、知っている唐の将軍たちの逸話を話してやる。目を輝かせて聞く曹可華の姿に、同じように父に英雄譚を請うた子ども時代の自分の姿が重なる。
 あのころは、自分もそのような偉大な将軍になるのだと信じて疑わなかった。
 呂日将はいまの自分の状況を顧みて、物寂しい気分になった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

遺恨

りゅ・りくらむ
歴史・時代
内大相ゲンラム・タクラ・ルコンと東方元帥チム・ゲルシク・シュテン。 戦友であるふたりの間には、ルコンの親友である摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの存在がいまだ影を落としていた。隣国唐で勃発した僕固懐恩の乱をめぐるルコンの対応に不信感を抱いたゲルシクの内で、その遺恨が蘇る。 『京師陥落~ ཀེང་ཤྀ་ཕབ།』で長安を陥落させた吐蕃最強バディのケンカは、ツェンポ・ティソン・デツェンとナナム・ゲルニェン・ニャムサン、そして敵将呂日将まで巻き込む騒動に発展して……。 と書くほどの大きなお話ではありません😅 軽く読んでいただければー。 ボェの国の行政機構などについて今回は文中で説明していませんので、他の作品を読んでいない方は本編前の説明をぜひご覧ください。 (わからなくても読めると思います。多分)

長安陥落~ ཀེང་ཤྀ་ཕབ།

りゅ・りくらむ
歴史・時代
8世紀中頃の古代チベット王国(吐蕃)。 失脚した摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの側近として流罪になったゲンラム・タクラ・ルコン。半年で都に呼び戻された彼に王は精鋭騎馬隊の設立を命じる。王の狙いは隣国唐の京師長安の征服だった。一方、マシャンの傀儡だった大相(筆頭大臣)バー・ナシェル・ズツェンはルコンの復帰を心の底では疎んじていて……。 『摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの失脚』から続くお話です。 (これだけでもわかるようにはなっています)

吉宗のさくら ~八代将軍へと至る道~

裏耕記
歴史・時代
破天荒な将軍 吉宗。民を導く将軍となれるのか ――― 将軍?捨て子? 貴公子として生まれ、捨て子として道に捨てられた。 その暮らしは長く続かない。兄の不審死。 呼び戻された吉宗は陰謀に巻き込まれ将軍位争いの旗頭に担ぎ上げられていく。 次第に明らかになる不審死の謎。 運命に導かれるようになりあがる吉宗。 将軍となった吉宗が隅田川にさくらを植えたのはなぜだろうか。 ※※ 暴れん坊将軍として有名な徳川吉宗。 低迷していた徳川幕府に再び力を持たせた。 民の味方とも呼ばれ人気を博した将軍でもある。 徳川家の序列でいくと、徳川宗家、尾張家、紀州家と三番目の家柄で四男坊。 本来ならば将軍どころか実家の家督も継げないはずの人生。 数奇な運命に付きまとわれ将軍になってしまった吉宗は何を思う。 本人の意思とはかけ離れた人生、権力の頂点に立つのは幸運か不運なのか…… 突拍子もない政策や独創的な人事制度。かの有名なお庭番衆も彼が作った役職だ。 そして御三家を模倣した御三卿を作る。 決して旧来の物を破壊するだけではなかった。その効用を充分理解して変化させるのだ。 彼は前例主義に凝り固まった重臣や役人たちを相手取り、旧来の慣習を打ち破った。 そして独自の政策や改革を断行した。 いきなり有能な人間にはなれない。彼は失敗も多く完全無欠ではなかったのは歴史が証明している。 破天荒でありながら有能な将軍である徳川吉宗が、どうしてそのような将軍になったのか。 おそらく将軍に至るまでの若き日々の経験が彼を育てたのだろう。 その辺りを深堀して、将軍になる前の半生にスポットを当てたのがこの作品です。 本作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。 投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

東洲斎写楽の懊悩

橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?

要塞少女

水城洋臣
歴史・時代
蛮族に包囲され孤立した城を守り抜いた指揮官は、十四歳の少女であった。  三国時代を統一によって終わらせた西晋王朝の末期。  かつて南中と呼ばれた寧州で、蛮族の反乱によって孤立した州城。今は国中が内紛の只中にあり援軍も望めない。絶体絶命と思われた城を救ったのは、名将である父から兵法・武芸を学んだ弱冠十四歳の少女・李秀であった……。  かの『三國志』で、劉備たちが治めた蜀の地。そんな蜀漢が滅びた後、蜀がどんな歴史を辿ったのか。  東晋時代に編纂された史書『華陽國志』(巴蜀の地方史)に記された史実を元にした伝奇フィクションです。

厄介叔父、山岡銀次郎捕物帳

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。

徳川家基、不本意!

克全
歴史・時代
幻の11代将軍、徳川家基が生き残っていたらどのような世の中になっていたのか?田沼意次に取立てられて、徳川家基の住む西之丸御納戸役となっていた長谷川平蔵が、田沼意次ではなく徳川家基に取り入って出世しようとしていたらどうなっていたのか?徳川家治が、次々と死んでいく自分の子供の死因に疑念を持っていたらどうなっていたのか、そのような事を考えて創作してみました。

処理中です...