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第一章
苗晋卿
しおりを挟む吐蕃が京師を占領したとき、足を患っていた苗晋卿は館で病臥していた。吐蕃に降伏して京師に手引きした涇州刺史高暉が吐蕃の将軍とともに館を訪れ、新たな帝に仕えるよう脅したが、苗晋卿は応えなかったという。
その噂は、呂日将も楊志環から聞いていた。
「高暉は吐蕃の将軍とともに訪問したそうですね。馬重英ですか?」
「いいえ、シャン・チィスンジとかなんとか。あちらの発音なので記憶が怪しいですが、確かそんな名でした」
吐蕃の将軍の名前については、呂日将も多少の知識があった。王家と姻戚関係にある氏族出身の者は『尚』を頭につけ、それ以外の大臣は『論』をつける。両者をあわせて、大臣のことを『尚論』と呼ぶそうだ。
そう考えれば『馬重英』という漢人風の名乗りは不可解だった。
「馬重英の訪問はなかったのですか」
「それは」
一瞬、厳祖江の目が泳いだが、すかさず笑顔を作る。
「わたしもいちいち訪問された方の名前は覚えておりませんから」
ほかならぬ吐蕃の占領下という異常なときに、その総大将が訪ねて来たかどうか覚えていないというほうが不自然だ。しかし立場上、話せないことがあるのだろう。呂日将はそれ以上の詮索をやめた。
「堅苦しい礼はいらぬ。もっと近くにおいでなさい。年のせいで耳が遠くなってね、そんなところにいらしては、怒鳴っていただかなくては会話が出来ぬ」
日差しに黄色く染まった寝台から声をかけた苗晋卿は、歩み寄る呂日将を見上げた。
「ご足労をおかけして、申し訳なかった。見てのとおり、足が悪くて動けないのだ。早速だが、盩厔で馬重英と戦われたというのは本当かな」
「はい。それと鳳翔で」
苗晋卿は小さく首を傾げた。
「鳳翔で吐蕃を撃退したと馬璘将軍がお褒めに預かった。そのときに貴殿の名は出なかったが、どういうことだろう」
呂日将は答えに窮した。正直に答えれば、宰相に馬璘の嘘を告発することになってしまう。苗晋卿は心得たようにうなずいた。
「他言はせぬと約束するから、その経緯をわたしだけにこっそり聞かせてくれないだろうか」
苗晋卿は玩具を前にした小児の如く瞳を輝かせている。呂日将は思い切ってすべてを語った。
「どうして馬重英の首を取らなかった」
「哀れみだと思い屈辱を感じたのです。馬璘将軍からは愚か者と叱責されました」
「確かに馬璘将軍なら、ためらわず首をとったかもしれん。しかし馬重英は貴殿を哀れんだのではなく、漢と見込んだから首を差し出したのだろう。アレはそいうところは律儀なヤツだ」
意外な言葉に目を見張る呂日将に、苗晋卿ははにかむような表情を見せる。
「貴殿が秘密を語ってくれたお礼に、わたしの秘密をお聞かせしよう。二十年と少し前のことだ。中書舎人となったわたしのもとに馬重英と名乗る十八の少年が職を求めて来た。吐蕃王に一族を誅殺され身一つで逃げて来たと申すのを哀れんで、家僕として雇い入れた。どんな雑務もいとわない働き者のうえに、目端が利くので重宝に思ったわたしは、ヤツが夜中にこっそりとわたしの蔵書を盗み見しても健気なやつと思って咎めることはしなかった。なかには留学生などに見せることを禁じられている兵略の書もあったから、此度の騒動で名を聞いたときは背筋が凍ったぞ」
苗晋卿は喉の奥でククッと笑い声を立てた。
「ありがたいことに、当時のことを知っている者はほとんどこの世におらん。将軍さえ口を閉じていてくだされば、この皺首が飛ぶことはあるまい」
「誓って、誰にも申しません」
「昔馴染みの無残な死の知らせには飽き飽きしていたところだ。あなたには不本意であるだろうが、礼を申す。お返しはどうしたらよいかな。わたしには大した力はないが、あなたの名を主上のお耳に入れるくらいなら出来るよ」
馬璘の顔が思い浮かんで口ごもる呂日将に、苗晋卿は小さくうなずいた。
「残念だが、今の世相では出世が不幸をもたらすことも多い」
「僕固将軍が謀反を起こしたと耳にしました。それも、僕固将軍の名声のせいでしょうか」
「ほ、誰からそれを聞かれた」
「駱奉先どのに。途中でお会いしました」
苗晋卿の表情が曇った。
「反乱、反乱と騒ぎ立てているのは駱奉先本人だよ。重大な外患を上奏しても握りつぶすくせに、失脚させようと狙っている者を貶めるのに利用出来るとなれば大げさに取りあげる。まあ、そんなわけで、ご自身にその気がないなら無理に推挙するつもりはない。いっそのこと唐を出てみてはどうだろうか。新羅の海の先、南詔の森林の南、吐蕃の山を越えたはるか西、ウイグルの草原のさらに北、どこまでも果なく国があり、髪の色、目の色、肌の色、言葉、食物、風俗、すべてが違う無数の人間がいる。お若いのだ。どこにでも行かれよ」
「はあ……」
なんとも雲をつかむような話で実感が沸かない。そもそも無断で国外に出ることは許されないだろう。が、苗晋卿はお構いなしに続けた。
「手始めに吐蕃だな。馬重英と出会ったのが天命なら、自然と行くことになるかもしれん。さて厳祖江のことなのだが、将軍のもとで使ってやってくれませんか。近々お役目を返上するつもりだから使用人を減らしたいが、路頭に迷わせるわけには行かぬ」
「はい、厳祖江どのさえよろしければ」
「わたしも、呂将軍になら喜んでお仕えいたします」
呂日将の背後に控えていた厳祖江が涙声でがなる。苗晋卿は満足げに微笑んだ。
「せめてものお返しによいことをお教えしよう。『タクラ』だ」
「なんでございますか?」
「馬重英の本名だよ。虎嘯という意味らしい。知っていても損はないだろう」
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