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第一章
楊志環の嘆き
しおりを挟む仰向けに転がって天井を眺めていると、ひとの気配がした。
「またお酒を召してらっしゃるのですか。お身体にさわります」
楊志環の声に、呂日将はゴロンと転がって背中を向ける。目を閉じると馬重英や馬璘の顔が思い浮かぶ。飲まねば安眠することが出来なかった。いくさから帰ってひと月が経つが、刺史を務める鳳州に戻った呂日将に、朝廷からはなんの音沙汰もない。
遡ること約二か月前の広徳元(七六三)年十月はじめ。『吐蕃来寇す』の報に唐の京師長安が震え上がったとき、東進する二十万の吐蕃軍はすでに邠州まで達していた。
安史の反乱が収まったばかりで西方の守りが疎かになっていたうえ、武官の権力増大を恐れる宦官たちは、その奏上をことごとく握りつぶしていた。帝が外寇に気づかぬうちに辺境を守る城塞や関はあっという間に大軍に飲み込まれ、『宦官の傀儡である今上帝を廃し、両国の末永い友好を結ぶ』という吐蕃の宣伝に賛同し、自ら吐蕃軍に身を投じる者さえ続出した。
急遽設けられた渭北行営の兵馬使に任じられた呂日将は、二千騎で渭水の西、盩厔で吐蕃軍を迎え撃った。初戦の夜襲で五千近くの兵を討ち取り勝利を得たが、その二日後、渭水を渡河した直後の敵に打撃を加えようとしたところを、馬重英自ら率いる精鋭騎馬隊の奇襲に崩されて敗走し、命からがら終南山まで逃れた。
咸陽を守っていた副元帥郭子儀も宦官の横やりによって援軍を得られず商州に逃れ、長安に入った吐蕃は逃げ出した帝に代わって吐蕃王の義理の伯父、広武王李承宏を帝に仕立てると多数の工人や女性を攫って、悠々と撤退を開始した。
吐蕃の退路にある鳳翔に駆け込んだ呂日将は節度使孫志直に追撃を提案した。それに賛同したのが、同じく救援に駆けつけた猛将と名高い鎮西節度使馬璘だ。
「あっぱれなおこころがけだ。ふたりで馬重英の首をとってやろう」
誰もが知っている武勇譚の主人公。いずれは自分もそうなりたいと天上に輝く星の如く仰いでいた英雄に肩を叩かれ、呂日将は舞い上がった。
鳳翔の西の山間の隘路で、呂日将の騎馬隊が馬重英率いる吐蕃の殿軍の行く手を阻むと、馬璘が背後を塞いだ。勇猛な騎兵の攻撃に、敵は混乱をきたし逃げ惑う。呂日将が勝利を確信した瞬間、背後から転がるように若い将が率いる百人ほどの騎兵が突っ込んで来て、呂日将の兵は四散した……。
馬璘に罵倒されたあとの記憶はない。兜も、父の形見の戟も、全て戦場に捨てたまま放心状態で鳳州に帰ってきた呂日将を迎えたのは、留守を任せた副将の楊志環だった。
渭水で傷を追った楊志環だったが、起き上がることが出来るようになると、すぐに部下を集めて調練を開始した。そして毎晩、酒を飲んで転がっている呂日将の元へやって来て、様々な話をして帰っていった。
郭子儀によって長安は回復され、辺境からの報告を握り潰していた宦官程元振が失脚した。
吐蕃はこの鳳州の隣の成州以西に兵を残して依然居座っている……。
これまで、楊志環の語る調練の報告や世間話の全てを聞き流すだけで、一度も反応を示すことはなかった。しかし。
「馬璘将軍が鳳翔でのお働きを帝に賞され、ご出世なさったそうです」
耳が不意に捉えた名に、呂日将の身体がビクンと跳ねた。思わず半身を起こして睨むと、楊志環は前のめりになる。
「おかしいです。だったらともに撃退した将軍にも……」
「撃退はしていない。オレは馬重英にたぶらかされて勝利を逃したのだ」
「でも、世間では『寡兵で吐蕃を追い払った』と馬璘将軍を褒めそやしています」
再びゴロリと転がると、楊志環に背を向ける。馬璘は世間の誤解をいいことに、うまうまと褒賞を得たのか。怒りと悔しさが喉元にせり上がって来て、声を震わせる。
「なかった功績をあったことにしてまで栄誉が欲しいなどとは思わん。そんなオレのこころがわからんやつは部下ではない。二度と来るな」
漏れそうになる嗚咽を必死でこらえる。咆哮のような号泣は、呂日将の背後から沸き起こった。呂日将はきつく目を閉じた。
翌日から楊志環の訪れはパッタリとなくなった。とうとう部下にも見捨てられた。
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