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第一章
馬璘の怒り
しおりを挟むまた、馬重英に負けてしまった。
呂日将はこころのうちで噛み締め、反芻しながら、坂を駆け下りた。が、その感傷も、土煙に覆われてよく見えなかった馬璘軍のようすが克明にわかるところまで近づくと、吹き飛んでしまった。
馬璘は完全に吐蕃兵に囲まれていた。率いていた二千の兵は、半数に減っている。
「待ってくれ! 馬重英の勧告に従い、兵を退く。囲みを解け」
指揮をしていた後衛の将軍がチラリと呂日将に目を向けると号令をかけた。耳慣れぬ言語の響きが波のように広がり攻撃が止まる。呂日将は退き始めた敵兵の合間を、顔を伏せて駆け抜けた。
血を浴びて赤黒く光っている兵たちを押し退けて鎮西節度使馬璘が姿を現した。呂日将は黙したまま、下馬して頭を沈めた。
「どうした。馬重英の首はとって来たのか」
馬璘の顔をまともに見ることが出来ない。足元を見つめたまま、返す言葉を選んでいると、嘲るような声が降ってきた。
「怖気づいて、吐蕃と取引したか」
「背後を突かれ、崩されました」
「で、馬重英にいのち乞いして帰ってきたのか」
「違います! しかし、このままではわたしのせいで将軍が……」
「黙れ!」
火のような怒声が、呂日将の身体を突き抜けた。
「吐蕃との取引で、儂のいのちを贖ったと申すのだな。それで儂がそなたに感謝すると思ったか」
「将軍、お許しください」
「許さぬ! そこになおれ」
伏した目と大地の間に、朱殷に染まった槍の穂先がズイと割って入る。目をあげると、馬璘の怒気に満ちた眼光にぶつかった。戟を投げ捨て、兜を脱いでこれも捨てると、呂日将はまっすぐに馬璘を見上げた。
いのち惜しさで、馬重英の言葉に従ったのではない。
つまらない意地かもしれない。だが、どうしてもそれだけは馬璘にわかってほしかった。
槍を突きつけたまま、馬璘は黙って呂日将を見つめていた。吐蕃の兵は去り、夕闇のせまる谷には多くの死体と、うめき声をあげる負傷した兵と、千騎の馬璘の軍と呂日将が残されている。馬璘は大きく息をつき、槍を下ろした。
「馬重英はなんと言った」
「自分の首と引き換えに、兵を退いてくれと申しました」
「それは好都合ではないか。なぜ言う通りにしなかった」
「わたしに、いえ、我ら唐の将が哀れまれたのを屈辱と感じたからです。このまま将軍とふたりで死んで、主上をたぶらかす宦官どもを喜ばせるか、それとも戦勝を報告して主上からお褒めをいただくか選べ、と馬重英は申しました」
「敵を哀れんで首を差し出す総大将がいるか。まんまとたぶらかされおって」
馬璘は目を眇めるようにして呂日将を見つめた。
「馬重英はそなたの甘さを見抜いて、首をとることはあるまいと高をくくったのだ。とんだ茶番だ」
馬璘が馬を返す。その背中に呂日将は叫んだ。
「将軍。わたしの首を……」
「いらぬ」
遮った声の冷たさが、胸を凍らせる。
「そなたの首など、ここに転がっている吐蕃の雑兵どもの首ほどの値打ちもない。愚か者が。二度と儂に顔を見せるな」
馬璘は振り返りもせず、馬腹を蹴って駆けだした。馬璘の部下たちが、そのあとに続く。
血なまぐさい寒風の吹きすさぶ山中にひとり、呂日将は立ち尽くしていた。
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