天空の国

りゅ・りくらむ

文字の大きさ
上 下
4 / 51
第一章

馬璘の怒り

しおりを挟む

 また、馬重英に負けてしまった。
 呂日将はこころのうちで噛み締め、反芻しながら、坂を駆け下りた。が、その感傷も、土煙に覆われてよく見えなかった馬璘軍のようすが克明にわかるところまで近づくと、吹き飛んでしまった。
 馬璘は完全に吐蕃兵に囲まれていた。率いていた二千の兵は、半数に減っている。
「待ってくれ! 馬重英の勧告に従い、兵を退く。囲みを解け」
 指揮をしていた後衛の将軍がチラリと呂日将に目を向けると号令をかけた。耳慣れぬ言語の響きが波のように広がり攻撃が止まる。呂日将は退き始めた敵兵の合間を、顔を伏せて駆け抜けた。

 血を浴びて赤黒く光っている兵たちを押し退けて鎮西節度使馬璘が姿を現した。呂日将は黙したまま、下馬して頭を沈めた。
「どうした。馬重英の首はとって来たのか」
 馬璘の顔をまともに見ることが出来ない。足元を見つめたまま、返す言葉を選んでいると、嘲るような声が降ってきた。
「怖気づいて、吐蕃と取引したか」
「背後を突かれ、崩されました」
「で、馬重英にいのち乞いして帰ってきたのか」
「違います! しかし、このままではわたしのせいで将軍が……」
「黙れ!」
 火のような怒声が、呂日将の身体を突き抜けた。
「吐蕃との取引で、儂のいのちを贖ったと申すのだな。それで儂がそなたに感謝すると思ったか」
「将軍、お許しください」
「許さぬ! そこになおれ」
 伏した目と大地の間に、朱殷に染まった槍の穂先がズイと割って入る。目をあげると、馬璘の怒気に満ちた眼光にぶつかった。戟を投げ捨て、兜を脱いでこれも捨てると、呂日将はまっすぐに馬璘を見上げた。
 いのち惜しさで、馬重英の言葉に従ったのではない。
 つまらない意地かもしれない。だが、どうしてもそれだけは馬璘にわかってほしかった。
 槍を突きつけたまま、馬璘は黙って呂日将を見つめていた。吐蕃の兵は去り、夕闇のせまる谷には多くの死体と、うめき声をあげる負傷した兵と、千騎の馬璘の軍と呂日将が残されている。馬璘は大きく息をつき、槍を下ろした。
「馬重英はなんと言った」
「自分の首と引き換えに、兵を退いてくれと申しました」
「それは好都合ではないか。なぜ言う通りにしなかった」
「わたしに、いえ、我ら唐の将が哀れまれたのを屈辱と感じたからです。このまま将軍とふたりで死んで、主上をたぶらかす宦官どもを喜ばせるか、それとも戦勝を報告して主上からお褒めをいただくか選べ、と馬重英は申しました」
「敵を哀れんで首を差し出す総大将がいるか。まんまとたぶらかされおって」
 馬璘は目を眇めるようにして呂日将を見つめた。
「馬重英はそなたの甘さを見抜いて、首をとることはあるまいと高をくくったのだ。とんだ茶番だ」
 馬璘が馬を返す。その背中に呂日将は叫んだ。
「将軍。わたしの首を……」
「いらぬ」
 遮った声の冷たさが、胸を凍らせる。
「そなたの首など、ここに転がっている吐蕃の雑兵どもの首ほどの値打ちもない。愚か者が。二度と儂に顔を見せるな」
 馬璘は振り返りもせず、馬腹を蹴って駆けだした。馬璘の部下たちが、そのあとに続く。
 血なまぐさい寒風の吹きすさぶ山中にひとり、呂日将は立ち尽くしていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

遺恨

りゅ・りくらむ
歴史・時代
内大相ゲンラム・タクラ・ルコンと東方元帥チム・ゲルシク・シュテン。 戦友であるふたりの間には、ルコンの親友である摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの存在がいまだ影を落としていた。隣国唐で勃発した僕固懐恩の乱をめぐるルコンの対応に不信感を抱いたゲルシクの内で、その遺恨が蘇る。 『京師陥落~ ཀེང་ཤྀ་ཕབ།』で長安を陥落させた吐蕃最強バディのケンカは、ツェンポ・ティソン・デツェンとナナム・ゲルニェン・ニャムサン、そして敵将呂日将まで巻き込む騒動に発展して……。 と書くほどの大きなお話ではありません😅 軽く読んでいただければー。 ボェの国の行政機構などについて今回は文中で説明していませんので、他の作品を読んでいない方は本編前の説明をぜひご覧ください。 (わからなくても読めると思います。多分)

摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの失脚

りゅ・りくらむ
歴史・時代
8世紀中頃のボェの国(現チベット)。古い神々を信じる伝統派と仏教を信じる改革派が相争う宮殿で、改革派に与する国王ティデ・ツクツェンが暗殺された。首謀者は伝統派の首領、宰相バル・ドンツァプ。偶然事件を目撃してしまったナナム・ニャムサンは幼馴染で従兄弟の太子ナツォクを逃がそうとするが、ドンツァプと並ぶ伝統派の実力者である伯父ナナム・マシャンに捕らえられ、ナツォクを奪われる。王宮に幽閉されたナツォクを助けるためニャムサンは、亡き父の親友ゲンラム・タクラ・ルコン、南方元帥グー・ティサン、東方元帥チム・ゲルシクと協力し、ナツォクの救出に奔走する。 民間伝承のような勧善懲悪ストーリではなく出来るだけ史実に沿うよう努力しています。参考文献は自分のWebサイトで公開中です。

ナナムの血

りゅ・りくらむ
歴史・時代
8世紀中頃のボェの国(チベット) 御家争いを恐れ、田舎の館に引きこもっていたナナム・ゲルツェン・ラナンは、ある日突然訪ねて来た異母兄ティ・スムジェによってナナム家の家長に祭り上げられる。 都に上り尚論(高官)となったラナンは、25歳になるまで屋敷の外に出たこともなかったため、まともに人と接することが出来なかった。 甥である王(ツェンポ)ティソン・デツェンや兄マシャンの親友ルコンに助けられ、次第に成長し、東方元帥、そして大相(筆頭尚論)となるまでのナナム・ゲルツェン・ラナン(シャン・ゲルツェン:尚結賛)の半生を書きました。 参考文献はWebに掲載しています。

長安陥落~ ཀེང་ཤྀ་ཕབ།

りゅ・りくらむ
歴史・時代
8世紀中頃の古代チベット王国(吐蕃)。 失脚した摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの側近として流罪になったゲンラム・タクラ・ルコン。半年で都に呼び戻された彼に王は精鋭騎馬隊の設立を命じる。王の狙いは隣国唐の京師長安の征服だった。一方、マシャンの傀儡だった大相(筆頭大臣)バー・ナシェル・ズツェンはルコンの復帰を心の底では疎んじていて……。 『摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの失脚』から続くお話です。 (これだけでもわかるようにはなっています)

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

朱元璋

片山洋一
歴史・時代
明を建国した太祖洪武帝・朱元璋と、その妻・馬皇后の物語。 紅巾の乱から始まる動乱の中、朱元璋と馬皇后・鈴陶の波乱に満ちた物語。全二十話。

仇討ちの娘

サクラ近衛将監
歴史・時代
 父の仇を追う姉弟と従者、しかしながらその行く手には暗雲が広がる。藩の闇が仇討ちを様々に妨害するが、仇討の成否や如何に?娘をヒロインとして思わぬ人物が手助けをしてくれることになる。  毎週木曜日22時の投稿を目指します。

なよたけの……

水城真以
歴史・時代
「思い出乞ひわずらい」の番外編?みたいな話です。 子ども達がただひたすらにわちゃわちゃしているだけ。

処理中です...