ナナムの血

りゅ・りくらむ

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極栄華

その15

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 スムジェの顔がゆがんだ。
「あのときに聞かなかったことを、なぜいまさら聞く」
「あのときは、逃げてしまった。しかし、真実から眼をそらずべきではなかったのです。あのようなことになったのは、わたしのせいなのですか」
「違う。わたしと彼女の間だけの問題……大奥さまに捨てられそうになったから、殺した。つまらぬ理由だ」
「嘘です。あなたは母にとって生きがいだった。捨てるはずがない」
「生きがいはおまえだ」
「都に出る前はそうでした。しかし、あのころは違った」
 母は、ラナンが外の世界に居場所を見つけるたびに、自分のもとから遠ざかっていくように感じていた。ラナンは決して母を蔑ろにしたつもりはなかったが、それまで母の教えてくれたことだけを世界のすべてとして素直に受け入れて逆らうことのなかったラナンの変化は、彼女にとって我慢のならないものだったのだろう。
 代わりに彼女の心を満たしたのは、年上の義息であるスムジェだった。
「男女の関係など、理屈に合わぬことが起きるものだ。おまえだってもういいおやじだ。そんな経験もあるだろう」
「孫などいらぬと言われました」
 スムジェは固い表情で沈黙した。
「トゥクモが、ウリンを身ごもったことをご報告したとき、母はそう言ったんです。どういう意味です」
「そんなことは知らぬ」
「母は、わたしを廃して、あなたをナナムの当主とするつもりだったのではありませんか」
「そんな昔のことは忘れた」
 まだ、言わぬ気か。
 ラナンは投げつけるように言葉を吐き出した。
「母は、あなたの子を身ごもっていたのでしょう」
 スムジェは肩を落として俯いた。
 ラナンは息を整えた。
「兄上、教えてください。どうしてあなたが、ご自身の子を宿していた母を手にかけねばならなかったのですか。わたしは、あのとき、母に起こった本当のことを知りたい」
「知る必要はない。知らない方がいいこともあるのだ」
「兄上は、わたしを傷つけたくないとお思いなのでしょう。だけど、わたしは知りたいのです。わたしの母のことです。いったい何があったのですか。教えてください。お願いします」
 ラナンは跪き、地に額をこすりつけていた。
「やめてくれ。ナナムの当主が、軽々しく頭を下げるんじゃない」
 スムジェがかすれた声で懇願するが、顔をあげることは出来なかった。母が死んでからはじめて、母のために流した涙がポツポツと床を濡らす。
「わたしの、母、なのです」
 込み上げてくる嗚咽で、言葉が途切れる。
 背に、スムジェの手の温もりを感じた。
「わかったから、頭をあげてくれ。頼む」
 スムジェに助けられながら上体を起こすと、スムジェは語り始めた。
「わたしの卑しい血で、ナナムを穢すわけにはいかなかったのだ」
「なぜ、そんなにご自身を卑下なさるのです」
「幾人もの息子がありながら、父上が娘ほど年の離れたおまえの母を娶ったわけが、わからないのか。わたしのように、卑しい女から生まれた者は、ナナムを継ぐ資格がないからだ。父上にとって息子は、マシャン兄上とツェテン兄上だけだった。しかしふたりだけでは心もとない。だから、王家の血を引く名門貴族の娘であるお前の母を娶った。おまえの母はすぐにおまえを生み、ツェテン兄上にはニャムサンが出来た。父上は、これでナナムは安泰と安んじて死者の国へ旅立たれただろう」
 スムジェは遠い眼をした。
「ふたりの兄上に、同胞扱いされたことはない。わたしもそれが当たり前だと思っていたから、辛いと思ったことはなかったよ。少なくとも、ナナムの一族とは認められていたから尚論になることが出来たし、それ以上のものを望んだことはない。だが、マシャン兄上はそんなわたしも跡目を狙う者と疑っているようだった。わたしはツェテン兄上のように殺されるのではないかとビクビクしながら、出来るだけ目立たぬよう、小さくなって生きていた」
「マシャン兄上が兄弟を疑っていらしたのは確かです。しかし、ツェテン兄上は殺されたのではなく、ご自害されたのです。ニャムサンが話してくれました」
 スムジェはあっけにとられた顔をする。
「そんなわけはなかろう」
「いいえ。ツェテン兄上はマシャン兄上と争うことをお望みでなかった。だからご自分のいのちを断つことで、一族の内紛を鎮められたのです」
「なぜニャムサンがそんなことを知っている。あいつは生まれたばかりだったのに」
「ツェテン兄上が自害する前に、マシャン兄上に宛てて書いた手紙が見つかったそうです。マシャン兄上は弟の裏切りを、ずっと憎んでいた。だけどそれが誤解だったことを知って、ニャムサンに跡目を譲って隠遁され、王家の墓守となられたそうです。王家の墓でのニャムサンの工作は、兄上のご希望だったのです」
 ルコンとゲルシクの諍いが解決した後、ニャムサンはすべてを教えてくれた。
 マシャンはツェテンに裏切られたことで、ひとが信じられなくなっていた。摂政となり、権力の頂点に立ったとき、その疑心暗鬼は彼を独裁者にしてしまった。だが、誤解が明らかになり、我に返ったとき、マシャンの強引な政策がもたらした混乱を収めるには、自らの命であがなうしか方法がなくなっていたのだ。しかしマシャンの罪を明らかにして誅殺することでナナム家が弱体化してしまったら、王は大きな後ろ盾を失なうことになる。そこでニャムサンの提案に従って、姿を消すことでその罪をうやむやにすることにした。ティサンと王家の墓の洞窟に籠ったマシャンは、ほかの洞窟に入っているティサンに気づかれぬよう、真夜中に洞窟を抜け出して〈生ける死者〉という王家の墓守のひとりとなった。〈生ける死者〉は生者との接触を禁じられている。俗世の人間は誰もその姿を見ることは出来なかったから、マシャンが姿を消すにはちょうどよかった。
「では、兄上は生きていらっしゃるのか」
 ラナンは首を振った。
「十年ほど前にお亡くなりになられました。ただ、その前にいちどだけお会いして、わたしを家長とお認めいただくことが出来ました」
「そうか……」
 しばらく、茫然とした表情を浮かべていたスムジェは、困惑の笑みを浮かべると、話を続けた。
「とにかく、わたしには家を継ぐ資格はないのだ。だが、彼女はわたしの子が腹にいることがわかったとき、わたしの子もナナムの子だから、ナナムの跡を継ぐ資格があると言い出した。何度説得しても、わかってくれなかった。どうせそんなことを一族が許すはずがない。周りの反応を見れば彼女も理解するだろうと、自然に任せることにした。わたしも、彼女との子が出来たことがうれしかったのだ。いずれおまえの許しを得て、彼女と子どもとともに、田舎でひっそりと暮らせばいいなどと甘く考えてしまった」
「どうして早く教えてくださらなかったのです。わたしは許したでしょう」
「わたしがマシャン兄上やツェテン兄上の立場だったら躊躇いはしなかったさ。だがそうではない。なかなかおまえに打ち明ける勇気が出なかった。なにかと理由をつけて一日伸ばしにしているうちに、おまえにも子が出来た。それを聞いた彼女は、早く正式に結婚して、おまえを廃し、わたしが当主になれとせっついた。わたしはのらりくらりとそれをかわして時間を稼いでいた。彼女が、あんなに思いつめるとは思ってもいなかったのだ。あの日、彼女は自らの手でおまえとおまえの妻を殺すと息まいた。わたしは彼女を必死で止めた。だが、いつもの彼女からは考えられぬものすごい力でわたしを振り切って部屋を出ようする。おまえに、狂乱した母の姿を見せたくはない。わたしは彼女の首に手をかけていた」
 ラナンはこころが凍る気がした。そこまで母に憎まれていたのだ。死んでもなお、ラナンを恨むように見開かれていた母の目が脳裏にちらついた。
「どうして、わたしをかばったのです。それが母の幸せなら、奪えばよかった。ご自身の血がどうだとかおっしゃるが、そんな理由でご自分の子どもまで殺してしまうなんて、わたしには理解できません」
「そんなことが言えるのは、おまえが恵まれた人間だからだ。わたしのような者に向けられる侮蔑の視線を、経験したことがないからな。その屈辱を撥ね返し、簒奪者となる者もいるだろう。だけど、わたしにはそんな度胸はない。家長のご機嫌取りをして、小さな利益を拾い集めるくらいがせいぜいだ。こんなわたしの小心が、彼女を殺してしまったのだ。おまえのせいではない」
 スムジェは真直ぐにラナンを見つめた。
「おまえは、わたしを躊躇なく兄と呼び、こころの底からわたしを信じ、頼ってくれた。はじめて、兄弟が愛おしと思った。こんなわたしにも、おまえと同じナナムの血が流れているのだと生まれてはじめて実感出来たよ。おまえを守りたい、立派なナナムの家長になって欲しいという気持ちは嘘ではなかったのだ。わたしは、いまのおまえを誇りに思っている」
「ならば、戻って来てください」
 スムジェは一族をまとめる力を持っていた。いまでも、ラナンが見えぬところでこころを砕いて一族の結束を図っていたことを、ラナンはこの頃ようやく気づいた。
「どういう意味だ」
「今年中にルコンどのは引退され、わたしが大相となります。シャンの筆頭尚論と大相を兼ねるわたしに反発する者がいるでしょう。わたしは戦わねばならぬ。そんなとき後ろから矢を射られようなことがないよう、わたしのそばで、一族をまとめてください」
「バカな。理由はどうであれ、母を殺した者をそばに置くやつがあるか」
「兄上が殺していなかったら、わたしが殺していた。わたしから妻と子どもたちを奪おうとする者は、誰であろうと決して許しません」
 ラナンは立ち上がった。もう涙はすっかり乾いている。
「ナナムの家長として命じます。ここの管理は家令で充分ですから」
 呆けたように見上げる兄を見下ろしながら、ラナンは微笑んだ。
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