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極栄華
その10
しおりを挟む霊州で京師長安に向かうルコンと常魯を見送ったのは、十一月の末だった。ルコンを待つ間、ラナンは気が気ではなかった。崔漢衡を人質に取り、こうして霊州まで出張って圧力をかけてはいるものの、捕らえられる危険がまったくなくなったわけではない。ましてルコンが馬重英であることがわかったら、ただでは済まないだろう。
そのふたりが年が明けるとすぐに帰って来た。
嬉しさのあまり、ラナンは幕舎から飛び出して駆け寄った。ルコンが眉根を寄せる。
「東方元帥がそのように軽々しい行動をされるものではない。まるでニャムサンのようではないか」
「ここに気兼ねする者など、いないじゃないですか」
「よく御覧なされ」
落ち着いて見ると、ルコンの背後に地味な盤領の袍を身に纏った男がうつむいている。
「ど、どなたでしょう」
不覚にもうろたえながらラナンがささやくと、ルコンは笑いながら唐語で言った。
「将軍、もうお顔を見せてやってくだされ」
笑顔をあげたのは、渾日進だった。
「帰りがけに咸陽の郭令公の墓に参ったのだが、そこでちょうど渾将軍と出会ったのだ」
郭子儀は昨年の六月に亡くなった。出発の前にルコンは、生前に再会することが出来なかったのは残念だが、せめて墓前で礼を言いたいと希望していた。その望みはかなえられたようだ。
渾日進は屈託のない笑みを浮かべたまま言う。
「護衛すると申して無理矢理ついて来てしまった。いくさのときにはここまで入れていただけないからな」
「そのようなことをなさって大丈夫なのですか?」
「おふたりだってオレの陣にいらしたではないか。ここにいる方々が黙っていてくれればわからない。お互いさまだ」
カラカラと笑う。
「陣営の中を歩き回ったりはしないからご安心を。なんなら天幕から出ずにいよう」
「では、なにをしにいらしたのですか」
渾日進はあからさまに悲しそうな顔をした。
「ぞんぶんにお話しをしてみたいと言ったことを、忘れてしまわれたのか」
「でも、わざわざ危険を冒してまで来ていただくなど。ルコンどのとお話しされれば充分だと思いますが」
「オレは、あなたとも話しがしてみたいのだ」
「わたしはそんな大した人間ではないのです」
「不思議なひとだな。兵を率いるときには自信にあふれているように見えるのに。こうして対面していると、とても同じ人間とは思えぬ」
目をのぞき込んでニヤリと笑う渾日進に、こころの奥をのぞき込まれたような気がして、落ち着かない気分になった。渾日進はチラリとルコンを見る。
「貴国に対する文句は山ほどあるし、そちらもわれらに言いたいことはあると思う。が、今日は政治も軍事もなしで個人的な話だけにしよう。国の機密に関わることでない限り隠し事はなしだ」
ルコンは笑った。
「さすがにこの年で長安までの長旅は疲れた。わたしはもう、ゆっくり休ませてもらうよ」
そう言って常魯とともに自分の天幕に入ってしまう。
ラナンは渾日進を幕舎に導き入れた。ラナンの家来たちが酒を持ってくる。向かい合って胡座し、互いに相手の杯を満たして乾杯すると、渾日進が口火を切った。
「チラリとしか見ることが出来なかったが、尚結賛将軍の騎馬隊はオレの軍とも互角に勝負が出来そうだ。もしかしたら、奉天で呂日将が率いていた隊か」
「そうです。日将どのはあの騎馬隊を指導くださったうえに、それまで兵を率いて戦ったことがなかったわたしを、本物の将としてくださいました」
「惜しい男だ。オレは上司に恵まれたから踏みとどまれたが、あいつは違った。それだけの差だ。あいつのうわさは以前から聞いていたんだ。いつかともに戦う日がくると思っていたのに、敵としてまみえることになるとは夢にも思わなかったな。罠にはめたつもりが、まんまと罠にはめられていたと気づいたときは肝が冷えたぞ。郭令公の援軍がもう少し遅れていたら、オレのほうが確実にやられてた。あいつのいのちを奪わず腕を斬ったのは、刃を交えているうちに唐人だと気づいたからだ」
渾日進はわずかに顔をゆがめた。
僕固懐恩と迴紇軍の到着を待つ間、タクナンと渾日進は奉天でにらみ合っていた。タクナンはルコンの命に従って守りに徹していたが、渾日進軍は矢を射かけたり悪口を吐いたりしてしつこく挑発し、タクナンを九嵕山の谷間におびき寄せて討ち取ろうとした。それを読んだ呂日将は、タクナンに騙されたふりをさせ、自分はラナンから借りた精鋭騎馬隊とともに谷間に潜み、奇襲をかけようとした渾日進軍に不意打ちをくらわせて崩した。あのころ、こちらに唐の軽騎兵に匹敵する騎馬隊があることを知っていた唐将は、盩厔でルコンと対戦したことのある呂日将だけだったから、さすがの渾日進も度肝を抜かれたはずだ。
「オレはいくさで後悔したことはない。これまで数えきれないほどの首を獲ったが、こころが痛むことはなかった。だが、あいつの将としてのいのちを奪ってしまったことを思い出すと、少し胸が痛む」
「日将どのは、最後に渾将軍と戦うことが出来て幸せだった、とおっしゃっていました」
渾日進はうなずくと、首をかしげてじっとラナンを見つめた。
「それにしても尚結賛どのは、そのときはもう二十五を過ぎておられただろう。貴国の尚論は文官も武官も兼ねると聞いている。生まれがよく、それだけの能力を持ちながら、将となるのが遅くはないか」
「わたしは、二十五になるまで、家督争いに巻き込まれないよう田舎の小さな屋敷に隠れて育ったのです」
渾日進は目を丸くした。
「オレとは対照的だな。オレは十一で父に従って朔方軍に入った。節度使の張斉丘将軍から『ちゃんと乳母も連れて来たか?』とからかわれたよ。それからはずっと戦場暮らしだ。長く一カ所に腰を落ち着けたことなどなかったが、そんな生活が楽しかった」
「十一で」
今度はラナンが驚く。渾日進は照れたように笑った。
「まあ、さすがに早すぎだと思うけどな。でも自分では一人前のつもりだったから、子どもだとバカにされたのが悔しくて、大人になど負けぬと必死に戦った。張将軍のもとには当時軍使だった郭令公もいらして、オレを目にかけていろいろ教えてくれた」
「すごいですね。わたしなど、二十五になるまで館の外に出ることすら考えたことがなかった」
「それがわからん。どんなに広い館だって、オレだったら一日も我慢出来ないぞ。本当に出ようと思われなかったのか」
ラナンは首をひねってしまった。いくら思い起こしても、当時は外に出ることなど思いつきもしなかった気がする。
「うーん、なかったと思います」
渾日進は唸り声をあげた。
「なるほど。あなたとオレとは、生まれも育ちも性格も、まったく違う。だが、はじめてお会いしたときから、オレはあなたと友人になれそうな気がしてならなかったのだ」
「友人ですか?」
「ご迷惑か」
「とんでもない。でも、わたしのような者が」
「それはオレの言うことだ。恐れ多くも宰相閣下に、身の程知らずのことを申しているのだから」
渾日進はグッと杯の酒を飲み干して、天真爛漫な笑みを浮かべた。その顔が、トンツェンの笑顔と重なり、胸を突かれる。ラナンは悲しみを覚られぬよう笑って、空になった渾日進の杯に酒を注いだ。
それからはお互いの家族や友人のこと、生活や考え方など、日常のささいなことを夜を徹して語り合った。翌朝には、すっかり昔から知り合っていたような錯覚を覚えるほど、お互い気安くなっていた。
「やはり、友になれそうだというオレの勘は間違ってなかった。次に会うときには、堂々と会えるといいな。だが、たとえ和平がうまくいかずいくさになっても、こころの中では友でいよう。少なくとも、オレはそのつもりでいる」
「わたしもです」
応えると、渾日進はラナンの肩をたたいた。
「よし。約束だ」
早朝、ルコンとラナンは渾日進を陣営の外まで送った。ともをする彼の部下のなかに、楊志環の姿はない。
「お会いできると知っていたら連れて来たのだが、あいにくオレの留守を守らせている。このことを話したら悔しがるだろうな。今度は連れて来るよ」
いつも行き来している友人と約束を交わすかのように気軽に言うと、渾日進はラナンとルコンに拱手して駆け去って行った。馬が蹴り上げた雪煙のきらめきが見えなくなるまで、ふたりは見送った。
「わたしと親交を結ばせるために、渾将軍を連れてこられたのですね」
「彼は少年のころから郭子儀の薫陶を受けて書に親しみ、武だけではなく文にも優れている。いずれ宰相になるだろう。両国の天子の側近が手を携えていくのも悪くない」
寝不足なのか、朝に強いルコンには珍しく、伸びをしながら大きなあくびをした。
親書と贈物についての苦情に、唐主は先の宰相楊炎が誤ったためと言い訳をして、すぐさま敵礼に改めた。また国境を霊州の西の賀蘭山とすること、会盟の方式についても合意し、今年じゅうの会盟開催を目指すことを約束したという。
これならゲルシクも文句のつけようがないだろう。
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