52 / 60
極栄華
その8
しおりを挟む韋倫がやって来た、と剣南のタクナンから東方元帥の本拠地原州へ知らせが届いたのは翌年の夏のはじめだった。韋倫は長安に戻ってから、ときを置かずタクナンのもとに向かったようだ。
太常卿に昇格した韋倫は、約束通り蜀に抑留されていた数百人の捕虜を連れていた。唐主は彼らに温かい衣類を支給し、丁重に送り返すよう命じたという。唐側がためらうことなく和睦を望んでいることがこれで示された。いよいよ表立って和平交渉が出来る。ラナンはドメに移動していた宮廷に到着すると、意気込んで閣議に臨んだ。
「陛下、唐主が約束を守ったのです。われらも唐の捕虜を返還し、会盟の実現に向けて唐と話し合うべきでしょう」
ラナンが言うと、ゲルシクは苦虫をかみ殺したような顔で唸った。
「いや、納得がいかぬ。われらのものを返しただけではないか。唐にとっては痛くも痒くもないだろう」
「では、兵は退かぬとおっしゃるのですか」
「当たり前だ」
鼻息荒く言い捨てたゲルシクに、ルコンが言った。
「ならば大相は、唐に倣われるおつもりなのですな」
「なんですと?」
「あちらが条件を履行したとたん、こちらの約束を破棄する。それは去年、大相が<唐の手口>とおっしゃったことではありませんか」
「そ、それは……あちらがやっていることをこちらがやっても問題ないだろう」
ゲルシクが開き直ると、タクナンが口を出した。
「オレもいまは和平のときだと思う」
思わぬ伏兵に、ゲルシクは目を見開いた。
「剣南も唐の守りが固くなっている。だが、オレが危惧しているのは南詔だ。これまでも唐の工作でたびたび反乱が起きていたが、それを抑えることが出来たのは南詔王がわれらに協力的だったからだ。しかし、新しい王はオレにへりくだって見せてはいるが、どうも信用ならない顔つきをしている。裏で唐と通じ、われらの力を排除しようと画策しているかもしれん」
南方元帥だったティサンが臣従させ、以後三十年近くともに唐と戦って来た南詔王カクラポンは昨年亡くなり、孫のイモウシュンが王となった。
タクナンは王に向かって礼拝した。
「陛下、唐の南西への足掛かりの地である南詔を失うことになれば、われらにとっては大きな痛手となります。南詔が唐と手を結ぶよりも先に唐と和睦を結び、南詔に手出しをさせぬようにしたほうがよい、というのがわたしの意見です」
唐を憎んでいるはずのタクナンのまさかの提案に、場の雰囲気は一気に和睦に傾く。
ゲルシクは唇をかみしめ、そんな重臣たちをねめつけていた。
翌日、王は韋倫を招いて宴を催し、南方の軍を退き会盟に向け話し合いを続けたい、ということを唐主に伝えるよう申し付け、親書を託した。韋倫を国境まで送り届けるよう命じられたラナンは、王の牙帳のそばに設えたナナム家の天幕に韋倫を招いた。
韋倫は酔いでてっぺんまでテラテラと火照らせた頭を、ラナンに下げた。
「将軍のご尽力のおかげでお役目を果たすことが出来ました。ありがとうございます」
「わたしの力ではありません。時勢が自然と和平への道を開いたのでしょう。われらの捕虜をお返しいただいたお礼に、後ほど貴国の捕虜はしかとお返しいたします。ところでそれとは別に、李懐光将軍の甥御をお預かりしているのだが、ともにお連れくださいませんか」
韋倫は眉をひそめた。
「それは茹瑞宝のことにございますか」
「そうです」
「おやおや」
韋倫はため息をついた。
「生きていたのですか。実はあの男は名うての鼻つまみ者なのです。わたしは会ったことはないが、その悪評は耳にしています。いなくなって心配する者よりも喜んでいる者のほうが多いでしょう。李将軍も積極的に救出に尽力するごようすはない。かわいがっている妹の子というので甘やかしてはいたが、本心では問題児を厄介払い出来たと胸をなでおろしているのかもしれません」
ラナンは笑った。
「まあ、そうおっしゃらず。実は天竺からいらした高名な導師のもとで働いてらっしゃるのです。もしかしたら改心して真面目な人間になっているかもしれないではありませんか」
「ずいぶんと温情をかけていただて恐縮です。しかし、人間はそう変われるものではありませんよ」
「龍樹菩薩は若いころ放蕩の限りを尽くしましたが、仏の教えに触れて懺悔し、ご立派な僧となられました。とにかく会うだけでも。それで連れ帰りたくないとおっしゃるなら、こちらでこっそり処分いたします」
「そこまで仰せなら会ってみましょう」
ラナンはゴーに、あらかじめパドマサンバヴァのもとから呼び寄せていた茹瑞宝を連れてくるよう命じた。
ゴーが連れて来た男を見て、韋倫は不審な表情で男を凝視した。
「将軍、まことにこの者が茹瑞宝どのなのでございますか」
韋倫の疑問に答えたのは、目の前で恭しく平伏していた茹瑞宝本人だった。
「間違いなく、茹二郎瑞宝にございます」
「お顔をあげてください。こちらは韋太常卿でらっしゃいます」
ラナンの言葉にあがった顔は、確かに茹瑞宝だ。が、目を吊り上げてキンキン声をあげていた二年前とは別人と見違えるほど、穏やかで落ち着いた顔つきになっている。本当に憑いていた悪魔が落ちたのかもしれない。
「二年の間、慣れぬ異国での生活はさぞ大変でしたでしょう。わが国と唐は和平の話し合いを開始し、互いの捕虜を返すこととなりました。あなたも韋太常卿とともに唐にお帰りください」
飛びあがって喜ぶだろうと思っていたのに、茹瑞宝は再び顔を伏せ、思わぬことを言った。
「おこころ遣い、ありがとうございます。でも、お許しいただけるのなら、オレはこのまま導師のもとで働かせていただきたいです」
「なんと、父上のもとに帰らぬと申すのか」
韋倫の言葉に、茹瑞宝は恥じるようにうつむいたまま答えた。
「はい。導師のお導きで、オレは自分がいかにひととしてダメだったかを悟りました。国に帰ってそのバカなオレを知っている者たちと顔を合わせるのがイヤなのです」
茹瑞宝は韋倫に向き直って見あげた。
「男兄弟はたくさんいるから、オレひとりがいなくなっても父が困ることはありません。だから、これからは導師を父と思い、孝養を尽くすつもりでお仕えし、いずれは正式にお弟子にしていただきたいと思っております。どうかお許しください」
「そのような決心があるなら無理に連れ帰ることはない。伯父上や父上にはわたしからお伝えしよう。それでよろしいな」
「ありがとうございます」
清々しい笑顔を見せた茹瑞宝はパドマサンバヴァの修行場に戻り、韋倫は王の返答だけを持って唐へ帰ることとなった。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
遺恨
りゅ・りくらむ
歴史・時代
内大相ゲンラム・タクラ・ルコンと東方元帥チム・ゲルシク・シュテン。
戦友であるふたりの間には、ルコンの親友である摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの存在がいまだ影を落としていた。隣国唐で勃発した僕固懐恩の乱をめぐるルコンの対応に不信感を抱いたゲルシクの内で、その遺恨が蘇る。
『京師陥落~ ཀེང་ཤྀ་ཕབ།』で長安を陥落させた吐蕃最強バディのケンカは、ツェンポ・ティソン・デツェンとナナム・ゲルニェン・ニャムサン、そして敵将呂日将まで巻き込む騒動に発展して……。
と書くほどの大きなお話ではありません😅
軽く読んでいただければー。
ボェの国の行政機構などについて今回は文中で説明していませんので、他の作品を読んでいない方は本編前の説明をぜひご覧ください。
(わからなくても読めると思います。多分)
摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの失脚
りゅ・りくらむ
歴史・時代
8世紀中頃のボェの国(現チベット)。古い神々を信じる伝統派と仏教を信じる改革派が相争う宮殿で、改革派に与する国王ティデ・ツクツェンが暗殺された。首謀者は伝統派の首領、宰相バル・ドンツァプ。偶然事件を目撃してしまったナナム・ニャムサンは幼馴染で従兄弟の太子ナツォクを逃がそうとするが、ドンツァプと並ぶ伝統派の実力者である伯父ナナム・マシャンに捕らえられ、ナツォクを奪われる。王宮に幽閉されたナツォクを助けるためニャムサンは、亡き父の親友ゲンラム・タクラ・ルコン、南方元帥グー・ティサン、東方元帥チム・ゲルシクと協力し、ナツォクの救出に奔走する。
民間伝承のような勧善懲悪ストーリではなく出来るだけ史実に沿うよう努力しています。参考文献は自分のWebサイトで公開中です。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
異・雨月
筑前助広
歴史・時代
幕末。泰平の世を築いた江戸幕府の屋台骨が揺らぎだした頃、怡土藩中老の三男として生まれた谷原睦之介は、誰にも言えぬ恋に身を焦がしながら鬱屈した日々を過ごしていた。未来のない恋。先の見えた将来。何も変わらず、このまま世の中は当たり前のように続くと思っていたのだが――。
<本作は、小説家になろう・カクヨムに連載したものを、加筆修正し掲載しています>
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・地名とは一切関係ありません。
※この物語は、「巷説江戸演義」と題した筑前筑後オリジナル作品企画の作品群です。舞台は江戸時代ですが、オリジナル解釈の江戸時代ですので、史実とは違う部分も多数ございますので、どうぞご注意ください。また、作中には実際の地名が登場しますが、実在のものとは違いますので、併せてご注意ください。
やり直し王女テューラ・ア・ダンマークの生存戦略
シャチ
歴史・時代
ダンマーク王国の王女テューラ・ア・ダンマークは3歳の時に前世を思いだす。
王族だったために平民出身の最愛の人と結婚もできす、2回の世界大戦では大国の都合によって悲惨な運命をたどった。
せっかく人生をやり直せるなら最愛の人と結婚もしたいし、王族として国民を不幸にしないために活動したい。
小国ダンマークの独立を保つために何をし何ができるのか?
前世の未来知識を駆使した王女テューラのやり直しの人生が始まる。
※デンマークとしていないのはわざとです。
誤字ではありません。
王族の方のカタカナ表記は現在でも「ダンマーク」となっておりますのでそちらにあえて合わせてあります
長安陥落~ ཀེང་ཤྀ་ཕབ།
りゅ・りくらむ
歴史・時代
8世紀中頃の古代チベット王国(吐蕃)。
失脚した摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの側近として流罪になったゲンラム・タクラ・ルコン。半年で都に呼び戻された彼に王は精鋭騎馬隊の設立を命じる。王の狙いは隣国唐の京師長安の征服だった。一方、マシャンの傀儡だった大相(筆頭大臣)バー・ナシェル・ズツェンはルコンの復帰を心の底では疎んじていて……。
『摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの失脚』から続くお話です。
(これだけでもわかるようにはなっています)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる