ナナムの血

りゅ・りくらむ

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極栄華

その7

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 霊州に滞陣するラナンのもとに、唐の太常少卿韋倫がやって来たのは夏の終わりだった。
 韋倫は五百人の捕虜を連れていた。唐に使いしたまま捕らえられ、南方に送られていた者たちだ。
「主上より、彼らを故国に間違えなく送り返すようにとご下命があり、まかり越しましてござります。どうか、わたしを賛普ツェンポのもとにお連れ下さい。主上のおこころをお伝えいたします」
 五月に唐主李豫が亡くなり、その長子李适が後を継いだという情報は得ていた。唐主の交代で去年の郭子儀との会見がムダになってしまうのではないか、という不安を抱いていたラナンにとって、韋倫の来訪はこれ以上ない慶事だった。
 その夜は宴を開いて盛大に韋倫をもてなす。韋倫はその歓待ぶりが腑に落ちないという顔をしていた。
「わたしが唐人を焼いて食うとでも思ってらしたのですか」
 ラナンがからかうと、韋倫は慌てたようすで首を振った。
「とんでもございません。実は郭令公より、尚結賛シャン・ゲルツェン将軍は決してわたしを害することはない、それどころか大いに歓迎してくれるだろうから気楽に行くがよい、と言われました。それが当たっていたので、不思議に思っていたのです」
「こたびのご訪問は、令公のご進言よるものですね」
「左様にございます。主上は令公を御父君のように敬われてらっしゃいますから、令公のご意見を迷うことなくお取り上げ遊ばされたのです。はて、まるでおふたりはこころ通じ合っていらっしゃるかのようにござりますな。ご面識はござりましたか」
 探るような韋倫の視線を、ラナンは笑ってかわした。
「いくさでは、敵将の思惑がどこにあるか頭を振り絞って考えるものです。お互いそうしているうちに、自然と気心が通じるようになったのやもしれませんね。両国の講和はこちらも望むところです。珍しく令公と意見が合ったようで、うれしく思いますよ」
 ラナンは手ずから韋倫の杯を満たす。韋倫は息子ほど年の離れたラナンの酌を恐縮したようすで受けた。

 韋倫と五百人の捕虜を連れたラナンは、都の入り口で大相ゲルシクと副相ルコンの出迎えを受け、さながら凱旋将軍のように華々しく王宮に向かって進んだ。
 群衆の笑顔に、馬上から手をあげて応えると、怒涛のような歓声があがる。ラナンがはじめて都に来たころには恐怖の象徴だったナナムの旗も、いまの都人たちを怯えさせることはない。彼らは明るい未来を透かして見るかのように、眼を細めて獅子の紋章を振り仰いでいた。
 拝礼する韋倫に、上機嫌の王は直接唐語で語り掛けた。
「このように長年抑留されていた捕虜が帰ってくるとは思いもしませんでした。新たな唐主は先の唐主と違い、わが国との修好をお望みということでしょうか」
「主上におかれましては、貴国とは甥舅の関係にございますれば、これまでの不幸な誤解を解き、親子のごとく末永く手を携えていきたいとの思し召しでございます」
 通訳がそれを訳すとゲルシクの眉がピクピクと動いた。唐という国は、上下関係を周辺諸国が受け入れて当たり前と思っているのだろう。親愛を表すのに悪気なく〈親子〉などと例える。しかし王はまったく意に介さないようすで、それに応えた。
「それは喜ばしいことです。しかし親子と言うには、いまのわたしには三つの悔いがあります」
「なんでございましょうか」
「ひとつには、父上である先の唐主がお亡くなりになったことをお知らせいただけず弔問することが出来なかったこと。ふたつには、御陵に供物を供えてお祀りすることが出来なかったこと。みっつには、新しい父上であるいまの唐主のご即位を知らず軍を発したことです。あなたのおかげで、このシャン・ゲルツェンの率いる東方の軍は霊武で留まることができましたが、南方元帥の率いる軍はもう剣南に入ってしまっていて、止めることができない」
 韋倫は恐懼したように体を縮めた。
「来年は蜀に抑留している貴国の兵もお返しするつもりです。どうか、わが帝の真心をお信じいただき、剣南の軍もお退きくださりませ」
「考えておきましょう」
 少しそっけない口調で、王は言った。

 王とは対照的に、ゲルシクの機嫌は甚だ悪かった。
「親子だと? われらを下に見ているのは明白ではないか。侵攻を止める必要はござらん。なにゆえシャン・ゲルツェンは戻ってらしたのだ」
 唐への対応を協議するために集められた会議で、ゲルシクは声を荒らげた。
「われらが言うことを聞いた途端、約束を反故にするつもりであろう。やつらの手口ではないか」
「しかし新しい唐主はどのような考えを持っているのかわかりません。一時レン・ケサンの軍を退いて、ようすを見てもよいのではないでしょうか」
 ラムシャクがゲルシクに反論すると、ゲルシクの声が大きくなった。
「それは甘い! 幾世代にもわたって結ばれた数々の会盟の誓いを守った唐主は、ひとりもおらぬぞ」
「まあ、それはお互いさまじゃないですか。守れぬだろう約束を押し付けたこともありましたし」
 ツェンワがヘラッと笑って言うと、ゲルシクはド家の兄弟をギッとにらんだ。
「ならば条件を緩めて欲しいと頭を下げるのが筋というものだ」
「副相はどう思う」
 王はルコンに意見を求める。
「南方の兵を退いても蜀にいる捕虜たちが戻ってこない恐れはあります。そうなれば、唐に騙されたと嘲笑の的となるでしょう」
 ゲルシクはこころ強い援軍に嬉々とした。
「さよう、さようにござりますぞ、陛下。蜀など目と鼻の先。われらの力で救出すればよいのです」
 王はゲルシクにほほ笑んでうなずきながらも、ルコンに向けて言う。
「では、唐の申し出を無視するというか」
「いえ、唐の約束の履行が先だと通告するのです。東方はこのままいったん侵攻を控え、蜀の捕虜が返って来たら南方の兵を退きましょう」
「返して来るものか」
 ゲルシクは勝利を確信したように大笑した。
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