ナナムの血

りゅ・りくらむ

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極栄華

その6

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 夏のはじめに開催された会盟で、重臣や各地の部族の王たちによって新しい人事が承認され、誓いの儀式が行われた。ゲルシクが大相となることで空いた副相の位にはゲルシクの要望でルコンが就く。内大相にはツェンワの兄ラムシャクが就任し、ツェンワは内副相に任命された。
 長い謹慎でルコンの権力失墜を予測している者が多かったから、ルコンの復帰と副相就任は、ラナンの東方元帥就任以上の驚きをひとびとに与えた。
 なぜ、王はルコンを罰したのか。なぜ、許されたのか。想像をたくましくした者たちは、さまざまに噂した。そんな彼らをさらに驚かせたのは、シャーンタラクシタの新な寺の竣工とともに尚論たちが仏への帰依を表明した誓約に、ルコンが名を連ねたことだった。
 この一連の出来事で、多くの者はルコンの謹慎と復帰を仏への帰依と結びつけて勝手に解釈するだろう。伝統派は、特にツェポンは焦りを感じるに違いない。
 ラナンはそのような政治的な点を強調して、ルコンを説得していた。ニャムサンやチョクヤンに協力してもらおうかと悩んだが、情に訴えればさらに頑なになってしまうかもしれないと思ったのだ。
 蓋を開けてみれば、ルコンは意外にすんなりとラナンの説得に応じた。郭子儀の陣から帰るときにラナンの言ったことをずっとこころに留めていたのだという。
「マシャンどのとともに破仏政策をすすめていたわたしが寝返るのは無責任の謗りを免れないが、陛下のご政道の障害となるのは、それ以上に不本意だからな。古い人間がいつまでも意地を張っていては、世の益にならないだろう」
 寂しげに言うルコンに、ラナンはただ頭を下げた。
 こうして、新しい大相の時代が始まった。

 東方元帥として国境に赴任する前に、ナナム家内の人事を改めねばならない。ラナンは久しぶりに領地の館に帰り、一族を招集した。
 祝福の言葉を浴びたのち、人事を発表した。国境の赴任地にも一族とナナムの兵を分散させる。一族の者の性質は、よく心得ていたから、その決定によどみはなかった。
「なにか希望のある者、意見がある者がいたら、遠慮なく言ってください」
 ラナンが一族を見渡すと、四兄が声をあげた。
「スムジェ兄上は、引き続きこの館と領地の監督で構わぬのか」
 三兄スムジェは、この地に住んでいるのに、顔を見せていない。
「兄上はどうしていらっしゃらないのですか」
「お身体の具合がすぐれないそうだ。ラナンの命令はなんでも謹んで承ると伝えてくれと言われている」
「重い病でらっしゃるのか」
 四兄はきまり悪げな顔をする。
「いや、ご心配いただくほどのものではないようだが……」
「では、スムジェ兄上にはいままでと変わらず、この地の管理をお願いするとお伝えください」
「お見舞いには行かれぬか」
 上目づかいでうかがう四兄に、ラナンはただうなずいた。
 仮病を使って出てこない者に無理に会う必要はない。そう、心中に言い訳しながら、会わずに済むことにホッとしている。
 ラナンはやるべき事が終わると、逃げるように都へ戻った。

 東方の本拠地へ出発する前日も、ラナンはいつものように王の居室に呼ばれた。
「正直に言うと後悔している」
 王はため息をついた。
「ラナンがいなくなるのは不安だ。だけど、ラナンをあまり縛るなってニャムサンに怒られた」
「縛られているだなんて思っておりません。わたしも出来れば陛下のおそばにいとうございます」
「あっちにも行きたいのだろう」
 そう言われると、そうなのだ。身体がふたつあればいいのに。その苦悩が顔に表れたのか、王は肩をすくめた。
「ほらね。でもニャムサンが、出来るだけ遊びに来てやるから我慢しろだって。ニャムサンは、来てもすぐ寝ちゃうのだけれど」
「ご無礼ばかりいたして申し訳ございません」
「わたしはニャムサンの、子どものころから変わらないところが好きだよ。そういう友がいるのはいいものだ。そこでラナンに願いがある」
「なんなりとご命令ください」
「ウリンを、王子たちの学友としてもらえないか」
 王の長男ムティは早世していたが、次男ムネは十七歳、三男ムルクは十六歳になっている。一番下の王子はまだ二歳だ。
「わたしにとってのニャムサンとサンシのように、ウリンには王子たちのよい友人となって欲しい。ツェンワの子のスムジェ・タクナンも呼ぶつもりだ」
「ありがたき幸せにございます。ツェンワも喜ぶことでしょう」
 他人と接する方法を知らぬまま世間に放り出された自分のような苦労はさせたくないと、ラナンは気を使ってウリンを育てて来た。おかげで人懐こく物おじしない、おおらかな性格の少年に成長している。真面目なのは父親譲りて、勉学も武術も熱心に取り組むので上達が早い。親の欲目かもしれないが、同世代の子どもには決して負けることはないとラナンは思っていた。年上の王子たちともうまくやって行けるだろう。
 王子の学友となれば、その王子が王となったときには側近としてお仕えすることになる。加えてナナムの嫡流であれば、重臣となるのは間違えない。
 ウリンの輝かしい将来を、ラナンは微塵も疑わなかった。

 都では、必ずトゥクモと共寝する。もう何年も肌を合わせることはなくなっていたが、妻と並んで横になりながら語り合う時間が、ラナンは好きだ。
 複数の妻を持つことを勧める者もいたが、そんな気にはならなかった。自分には男子がふたりいれば、充分ではないか。幸い、どちらも大きな病なく、順調に育っている。女子はなくとも多くの姪がいるから、他家と姻戚関係を結ぶときには彼女たちをラナンの養女にして輿入れさせた。
 その夜も、いつもと同じようにひとつの寝床で、いつもと同じようにたわいのない話をした。今度いつ、戻ることが出来るかはわからない。名残惜しく思いながら左手に横たわるトゥクモのほっそりとした指をなでると、トゥクモがラナンの指を握った。
 こういうときは、ふたりのこころが一体になっている気がする。幸せに浸りながらまどろみに入ろうとしていたラナンの胸に、突然ヒヤリと冷たくどす黒い不安の影が入り込んできて、眠りを遠ざけた。
 トゥクモは自分の妻となって、幸せなのだろうか。
 親同士が決めた結婚で、お互い夫婦となるその日まで顔も知らなかったのだ。気持ちが通じ合っていると思っているのは自分だけの独りよがりの思い込みでしかないのではないか。本当はトゥクモは不幸なのではないだろうか。
 母は不幸だった。一族の目論見で、十の半ばで親より年の離れた権力者のもとに輿入し、子をなした手柄を誇る間もなく夫を亡くし、逃亡者となり、一番美しい華の時期を隠れ家のなかで過し、ラナンの養育にすべてをささげた。その苦労が報われようというときに、そのラナンに裏切られた。ラナンはそんなつもりは毛頭なかったが、母はそう思い込んだ。
 だから他に頼るものを見つけてしまったのだろう。
 はじめて幸せを教えてくれた、父に似た面影を持つ者に。
 驚いたように目を見開いたままこと切れた母の顔、そのそばに跪いて薄笑いを浮かべながらラナンをにらんだスムジェの顔が闇に浮かぶ。
「わたしも殺せ」
 歪んだ口から吐き出された嘲るようなスムジェの声が耳朶を震わせた気がして、身じろぎをした。
「起きていらっしゃるのですか」
 妻の柔らかな声が、ラナンを追想から引き戻す。全身が強張っていた。ラナンは大きく息をついて、それをほぐす。
「ああ、そなたも起きていたのか」
「今夜はなかなか寝付けないのです。もう少しお話いたしましょうか」
「そうだな」
 闇の中で、妻の微笑む気配がした。
「ウリンは王宮でお勉強出来るのが、いまから楽しみでしようがないようです。年上の王子さま方の足手まといにならぬようもっと努力しなくてはと張り切っています」
「それはよかった。わたしが初めて王宮に上がったときには、逃げ出したい気持しかなかったのだ」
「お友達のスムジェ・タクナンどのもいらっしゃるのならこころ強いですね。ときどきふたりでニャムサンさまのもとにお邪魔して、ご講義いただいているようです」
 スムジェ・タクナンは父に似ず勉学が好きなのだ、とツェンワが自慢気に言っていたのを思い出す。よい友人であり競争相手が同年にいるというのは、ありがたいことだ。
「ウリンはすっかり大人になってしまいました。殿がいらっしゃらない間は、自分がわたくしとツェサンを守るなどと申します」
「頼もしいことだな。わたしも安心して留守にすることが出来る」
 トゥクモの気配が動く。左腕に、柔らかいトゥクモの身体が押し付けられた。
「でも、わたくしは心配でなりません。どうかご無事で」
 その身体を抱き寄せると、トゥクモはラナンの胸に顔をうずめ、背に腕を回した。
「いまからお帰りが待ち遠しい」
「まだここにいるのに」
 笑いながらそっと妻の頬に触れると、ひんやりと指先が濡れた。
「泣いているのか?」
 ラナンの問いかけに答えぬまま、トゥクモの肢が絡みついて来る。頬から首筋を滑らせるようになぞって夜着の襟元に指を這わせると、妻は切ない声でラナンの名を呼びながら仰向いた。
 その熱い唇に、自らの唇を重ねながら、ラナンは久しぶりに湧き上がって来た欲情に身を任せた。
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