ナナムの血

りゅ・りくらむ

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極栄華

その5

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 遅れてやって来たラナンを、誰もいない左の最上席の次にいるゲルシクが気遣わしげに見つめる。自分が巻き込んだせいで、ラナンに罰が与えられるのではないかと心配しているようだ。相対する右の最上席に着いたラナンはわずかにうなずいて見せる。同時に王の出座が告げられ、一同は拝跪した。
 顔をあげると、王の耳の後ろの髪の結い目がわずかに歪んでるのが見えた。
 もっと丁寧にやればよかった。
 小さな悔いを感じながらも、ラナンは唇をかみしめて漏れそうになる笑いをこらえる。これまで胸のなかにどんよりと重く沈んでいた霧はスッキリと晴れ、信じられないほどこころが軽くなっていた。
「陛下、今日は東方元帥と南方元帥について内定したいと思いますが」
 進行するゲルシクを、王が止めた。
「その前に、大相をについてお話があります。レン・ティサンより致仕の申し出があり、わたしは承諾しました。次の大相はシャン・ゲルシクでよろしいか」
 賛同の声が部屋を満たす。拝礼したゲルシクの声が震えた。
「身に余る光栄。これからも身命を賭して、お仕えする所存にございます」
 代々王の身近に仕え后妃を輩出しながら、これまでチム氏は大相という地位には無縁だった。なかば決まっていたこととはいえ、いざ指名されてゲルシクが感涙にむせぶのも無理はない。
 ゲルシクが声を詰まらせたので、王は自分で議事を進めてしまった。
「副相については保留にするとして、東方元帥のことです」
 ラナンはそっとタクナンに眼をやる。いつもと表情は変わらないものの、その瞳は異常にギラついて見えた。
「こちらはレン・ティサンより推挙がありました」
 不穏な空気を察したのか、タクナンはほんのわずか、眉をひそめる。
「レン・ティサンは、シャン・ゲルツェンを東方元帥にするようにと。わたしもシャン・ゲルツェンが適任と思う」
 議場がどよめく。つっと袖を引かれて振り向くと、満面の笑みを浮かべたツェンワがいた。
「おめでとうございます。後任がラナンなら安心して身を引くことができますよ」
 騒然とする尚論たちのなかで、タクナンは礼儀も忘れ、呆けたような顔で王を凝視している。
 王は声を高めた。
「昨年のいくさで、レン・タクラがまいた種を芽吹かせよ」
 それは唐との和平を実現させよという意味だ。郭子儀もラナンの東方元帥就任を知れば、王のこころが和睦に傾いたと察するだろう。ラナンは拝礼しながらはっきりとした声で応えた。
「陛下のお申しつけ、しかとこころに刻み、いのちをかけて務めさせていただきます」
 顔をあげると、王はうなずいた。

 閣議が終わってからも、ツェンワは燥いでいる。
「ルコンどのもびっくりされるでしょうね」
 ふたりは謹慎が解けたことをルコンに知らせるために、王宮の厩から馬を引き出したところだった。
「ラナンが東方元帥だなんて。それにしても見ました? タクナンどのの顔」
 ププッと噴き出す。タクナンは南方元帥に再任された。
「いつも冷静なタクナンどのが。天地がひっくり返っるほどの地震に遭ったって、あんな顔しないでしょうねぇ」
「まさに唐で言う『震天動地』というやつだったからな」
 背後から聞こえた太い声に、ふたりが振り向くと、馬を曳いたタクナンの憮然とした顔が眼に入った。
「どういう意味です? わたしは唐語がわからないんです」
 答えず、タクナンは逆に質問をぶつけた。
「そんなにオレの顔が面白かったか」
「ええ、とても面白かったですよ。おうちに帰って鏡で見たらどうです?」
 ツェンワは本人を目の前にしても意に介せずケラケラと笑う。タクナンは肩をすくめると、ラナンに眼を移した。
「陛下のご勘気は解けたようだな」
「なんのことでしょう」
「とぼけるな。昨年のいくさ以来、陛下が貴公に冷たくされていたことを知らぬ者はおらぬ」
「さあ、こころ当たりはありませんが」
「あまりオレをなめるなよ」
 タクナンは歯を剥いた。
「レン・タクラとコソコソとなにか企んで、陛下のお怒りを買ったのだろう。シャン・ゲルシクは騙せても、オレは騙されん」
「それってゲルシクどのは単純だって意味ですか? ゲルシクどのが聞いたら雷が落ちますよ」
 ツェンワが茶々を入れると、タクナンはジロリと視線だけをツェンワに向けた。
「シャン・ゲルシクは偉大な英雄だが、戦場以外での権謀術数は苦手でらっしゃる、ということだ。貴公も似たようなところがあるから、これからは気を付けた方がいいぞ」
「へぇ、それは脅しですか」
 ツェンワは笑いをひっこめた。
「戦場から宮廷へ、生きる場を移す貴公への忠告だ」
「ご親切にどうも。せいぜい気を付けるとしましょう」
「貴公らは誤解しているようだな。確かに驚いたが、オレはシャン・ゲルツェンの東方元帥就任を歓迎している。最近の情勢を見れば、シャン・トンツェンには荷が重かっただろう。いくさしか能のない猪武者に、唐との交渉など出来まい」
 ツェンワの顔が赤く染まった。
「トンツェンを侮辱するのはやめてください」
「で、果し合いでも申し込むか?」
「トンツェンをバカにするようなことをおっしゃるなら、そうせざるを得ませんね」
「それがダメだと言うんだ。挑発すれば簡単に思うとおりに動いてくれる。思ったことをすぐに口にする癖も、そうやって赤くなったり青くなったり感情をそのまま顔に出す癖も、改めたほうがいい。宮中の尚論たちはキツネぞろいだからな」
「意外と、あなたもその素質は十分におありのようですね」
 ラナンが言うと、タクナンはニヤリと笑いかける。
「就任祝いに、貴公にも忠告しておこう。元帥となれば、常に宮廷を留守にせざるを得ない。敵は前だけでなく、背後にもいることを忘れるな」
 タクナンは言い捨てると、馬に飛び乗りマルポ山の急坂を巧みな手綱さばきで駆け下りて行った。
 その背を目で追いながらツェンワが息をつく。
「本当は悔しいくせに。あのひとはどうも苦手です。得体の知れないところがあるというか、歯に衣着せぬように見えるけど本心は見せていないんじゃないかって感じで。仲良くなれそうにないな」
「強いて仲良くする必要はないじゃありませんか。夏になれば顔を合わせることはなくなるのですから」
「まあ、そうですけど。ラナンは気を付けた方がいいですよ。チゲルモツェンが言ってましたけど、あのひとしょっちゅうツェポン妃のもとにご機嫌うかがいに行ってるそうです。ツェポンと組んでラナンのことを追い落とそうと狙ってるかもしれない。〈背後の敵〉ってそういうことでしょ」
 ラムシャクの娘、ド妃チゲルモツェンは第二王妃だ。彼女は父や叔父のツェンワに後宮の情報を提供していた。
 第一王妃のツェポン妃マゲルドンカが、ラナンのことを「陰気な男」と言って嫌っていることも、ラナンはツェンワを通じて知った。豪放磊落に見えるタクナンはお気に召すのだろう。もっとも妃の好き嫌いに関わらず、権力拡大を狙っているツェポンにとって、現王のシャンであるナナムが目の上のこぶであるのは間違いなかった。
「ツェポンと繋がっているなら、どうしてわたしに忠告してくれたのでしょう」
「さあねぇ。遠回しの脅しなんじゃないですか? そういうところがわからないから、イヤだっていうんです」
 ツェンワは呑気な声を出して、大きく伸びをした。
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