ナナムの血

りゅ・りくらむ

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背信

その20

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 それぞれの家臣と護衛の兵士たちを引き連れて、ふたりはカム東のはずれにある砦に向かった。雪の積もる険しい峠や急流の河も、この国で生きている者にとってはさほどの障害ではない。ふたりがもっとも恐れていたのは、途中でトンツェンの訃報を伝える使者と出会うことだった。が、幸いそれらしい者とすれ違うことなく、無事、トンツェンがいるという村に到着した。
 雪山と大河に挟まれた小さな村落を見下ろす山の中腹に築かれた砦は、背後の山に西日を遮られ、青い影の底に沈んで見えた。
 先触れの使者としてケサンを送る。ラナンとツェンワは馬を降り、寒風に身をさらしながら無言でその砦を見上げていた。
 やがてケサンは、常にトンツェンの側に仕えているルンタを連れて戻って来た。
「よく、お出でくださいました。殿もお喜びになられます」
 涙で顔をグシャグシャにしたルンタに、ツェンワが小声で聞く。
「トンツェンは話しをすることが出来るのか」
 ルンタはうなずく。
「だいぶ息がお苦しいようで、いままでどおりとはいきませんが」
 あまりしゃべらないトンツェンなど、想像がつかない。
「やっぱりわたしは行かないほうがいいかもしれない」
 ツェンワが尻込みするようなことを言い出した。
「なにを言うのです」
「だって、まだトンツェンはわたしのことを怒っているかもしれないじゃないですか。苦しんでいるときに、わたしの顔なんか見たくないでしょう」
 トンツェンに拒絶されるのが怖いのか、傷ついたトンツェンを見るのが怖いのだろう。しかし、ここで会っておかなくては、一生の悔いを残すこととなる。ラナンは語気を強めた。
「お忘れですか? わたしたちは陛下の名代として参ったのですよ」
「ラナンだけで大丈夫でしょう」
「陛下はふたりに命じられたのです」
 うなだれたツェンワの足元の土に、こぼれた涙が染みを作る。ラナンはその背をそっとたたいた。
「さあ、参りましょう」
 ツェンワがうつむいたまま、よろめくように歩を進める。ラナンはその震える肩をしっかりと支えながら、先に立って案内するルンタの背を追って、砦に続く急坂を登った。
 トンツェンの家来たちは一様に暗い表情を見せていた。医術師に容態を確認してから、トンツェンの部屋に向かう。
「こちらにいらっしゃいます」
 ルンタが扉をそっと開くと、ムッとした臭気が鼻を衝いた。戦場で嗅ぎなれた、死体が発するにおいと同じだ。
 もう亡くなっているのではないか。
 ラナンは心の臓が騒いだ。
 小さな灯りが、あおむけで横たわるトンツェンの姿を浮かびあがらせている。顔が布で覆われていて、こちらからはまったく表情を見ることが出来ない。ルンタが枕元に駆け寄って、「シャン・ツェンワとシャン・ゲルツェンがいらっしゃいました」とささやくと、ゆっくりと左手が上がった。
 生きている。
 ラナンとツェンワは支え合うようにしながらそろそろと、トンツェンに近づいた。
 傷が化膿しているのだろう。矢を射られたという左半分の顔を覆っている布が、ジクジクと赤黒く濡れている。だが覆われていない右側半分は、いつものトンツェンの顔だった。眼だけをふたりに向けたトンツェンは笑んでいた。
「トンツェン!」
 ツェンワが涙声で呼びかけると、かすかにうなずいて、かすれた声を出した。
「なに、泣いてるんだよ、バカ」
「だって……」
「もう、くたばってると、思ったか。よく、来てくれたな」
「陛下のお計らいです」
 ラナンが言うと、荒い息のもとで、一言一言区切るように言う。
「ありがたい。オレの、一番会いたかった、ふたりに、会えた。じゃなかったら、死んでも、死にきれない、気持ちだったよ」
 ツェンワがその手を握ると、トンツェンは握り返した。
「ツェンワ、悪かった。許してくれ」
「なんで、なんで謝るのですか。わたしが悪かったのに」
「違う。オレも、嘘をついてた。本当は、おまえが、東方元帥に選ばれたのが、悔しくて、妬ましかったのに、隠してた。気付かなかったか」
 ツェンワが首を振る。
「へへ、単純バカのオレにしては、上出来の演技だったようだな。だから、おまえが、友達失格なら、オレだって、友達失格だ。オレはずっと、おまえに、嫉妬してたんだよ。ゲルシクどのが、おまえを東方元帥に選んだのは、おまえが、兵に向き合える、将だからだ。だけど、オレは、最後まで、出来なかった。あの兵士には、幼い子供がいる、あちらの兵士には、年老いた親がいる、そんなことを、知ってしまったら、怖くて指揮が、出来なくなってしまう。オレは、目をつぶって、強いてそういうことを、見聞きしないように、していた。だから、それが出来るおまえのことが、羨ましくて、ならなかった」
 一気に話すと、トンツェンは荒くなった息を整える。やがてラナンに眼を向けた。
「ありがとな。こいつの尻叩いて、連れてきてくれたんだろう。おまえは、一番年下なのに、一番頼りになる」
 ラナンも、ツェンワの手にかぶせるように、トンツェンの手をそっと握った。熱を持ったトンツェンの指がふたりの手の感触を確かめるように、かすかに動いた。
「もう一度、三人で、飲みたかったな」
 ツェンワがしゃくりあげながら言う。
「出来ますよ。よくなって、都に帰って……。ニャムサンも、今度はちゃんとおしゃべりに付き合ってやるって言ってました」
「こんなになってから、言うか。ホント、かわいくないやつだ」
 せき込むように笑うトンツェンの胸が激しく上下した。
「トンツェン、お苦しいようでしたら無理にお話しされなくても……」
 気づかうラナンの言葉に、トンツェンはふたりが握る手首を振って応えた。
「どうせ、もうすぐ、死んじまうんだろ? わかってるんだ。だから、好きなだけ、話しさせてくれよ」
 それからは、切れ切れに、思い出話がトンツェンの口から語られた。ツェンワは涙声でそれに突っ込んだりくさしたりし、ラナンは微笑んでそれを聞いている、いつもの三人の光景になっていた。
「ダメだな。もうちょっと、気の利いたことが、言えると思ったのに、いつもと同じだ。まあ、オレの頭が、急によくなるわけが、ないからな」
「そうですよね」
「おい、こんなときくらい、気を使って、『そんなことない』とか、言えよ」
 小さな三つの笑い声が重なった。
「ゲルシクどのは、どうしてる」
「とても心配されています」
 ラナンが答えると、トンツェンは目を閉じた。
「心配なのは、こっちだ。オレが死んだら、暴走しかねないだろ……もう、暴走してるのかな」
 ふたたびゆっくりと開いた右目が、ラナンを捕える。
「オレは、このごろのゲルシクどのを見ていて、ドンツァプと同じことをしでかすんじゃないかと、怖くてしょうがないんだ」
「どういうことです」
「おまえは知らないだろうが、レン・ケサン・ドンツァプは、王のためにいのちを惜しまず戦う、忠実で立派な将軍だった。それなのに、先王陛下を殺した」
 トンツェンは息継ぎをしながら続ける。
「要因は、ふたつある。ひとつは、ドンツァプが進めていた勃律ブルシャあたりのいくさで負けが続いて、陛下のご不興を買っていたことだ。あのままだったら大相を罷免されていたかもしれないからな。もうひとつは、陛下が金城公主の影響で、仏教を優遇していたことなんだ。神の化身であるはずの王が仏を尊ぶなんて、ドンツァプには許せなかった。そして、たとえ相手が王であっても、間違いは正さなくちゃいけないと思い込んだ。ゲルシクどのも、同じようなところがあるだろ」
〈生ある限り、唐と戦い続ける〉と息巻いていたゲルシクの顔が思い浮かんぶ。もしも王が唐との和睦を選んだら……。
 背筋に悪寒が走る。
「大丈夫です」
 思わず、言っていた。
「そんなこと、絶対させません」
「頼んだ。おまえが請け負ってくれれば、安心だ」
 トンツェンの力強いまなざしに、ラナンはうなずいた。
 二日後の朝、ふたりは後ろ髪をひかれる思いでトンツェンに別れを告げた。
「ありがとう。会えて本当にうれしかった。もう思い残すことはないよ」
 ささやくように言うトンツェンの穏やかな右半分の笑顔を、ラナンは胸に焼き付ける。トンツェンの記憶にもふたりの笑顔が残るように、ラナンとツェンワは笑って部屋を出た。
 麓の村から振り仰いだ砦は、来たときとは逆の方角から差し込む朝日を浴びて、キラキラと金色に滲んでいた。
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