ナナムの血

りゅ・りくらむ

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背信

その17

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 唐軍の左翼以外では戦闘らしい戦闘の起こらないまま、ルコンは元の場所まで陣を後退させた。結果は李懐光の出来の悪い甥が捕虜となっただけだ。李懐光はわけがわからず首をひねっているに違いない。
 胡床に座るルコン、ツェンワ、ラナンの前に引き立てられ、地べたに座らされた茹瑞宝は、猟師に捕らわれた子ぎつねのようにブルブルと震えていた。
「どうして捕らえられたかわかるか」
 ルコンが唐語で問いかけると、茹瑞宝は裏返った声をあげた。
「なにか誤解しているようです。オレはしがない一兵卒だから、人質にしてもなんの利益もありませんよ」
「なんですって? 『オレを誰だと思ってるんだ』などと威張ってらしたではありませんか。堂々とそのご立派な名を名乗られたらいかがです」
 ラナンが笑いをこらえながら言うと、茹瑞宝は口をポカンと開けてラナンを凝視した。
「この貧相なじじいの顔を忘れてしまわれたか、茹瑞宝どの」
 言いながらルコンは兜を脱いだ。
「このショボくれたおやじの顔も」
 次いでラナンも兜を取って顔をあらわにすると、茹瑞宝はようやく知った顔であると気づいたらしく、驚愕の表情を浮かべた。
「惜しかったな。あのままわれらを捕らえて伯父上のところに引き立てていれば大殊勲だったのに」
 ルコンが哀れむような口調で言う。先ほどまで怯えていたのがウソのように、ふてぶてしい態度を取り戻した茹瑞宝は、大声で喚き始めた。
「そうだ。オレはあんたたちを見逃してやったんじゃないか」
「わたしたちを助けてくれたのは楊志環どのでしょう」
 ラナンが冷たく返すと、茹瑞宝は目を吊りあげた。
「あのイカレ野郎、吐蕃と通じてやがったのか」
「そんなことよりご自分の心配をなさることですね。わたしたちにはこれまであなたが頼りになさっていた伯父上のご威光は通用しませんよ」
「オレをどうするつもりだ」
「あなたはわが軍の総司令から金品を盗みました。裁きののち、罰を与えます」
「このじじいが馬重英だなんて、知らなかった」
「口を慎みなさい、愚か者」
「ちゃんと返したじゃないか」
「それは楊志環どのに言われて渋々返したのでしょう」
「返してやったんだからいいだろっ」
 茹瑞宝の叫び声がいっそう高くキンキンと響く。
 敵軍に捕らわれたことの重大さがわかっていないのか、意外と豪胆なのか。ラナンは首をひねった。
「うるさいっ」
 いきなり、唐語を解さないツェンワが怒鳴った。
「なに言ってんだかわからないけど、ムカつくヤツだな。この場で斬り捨ててやる」
 ツェンワが太刀を抜く。ラナンは口を閉ざした。ルコンも止める気はないらしく、黙ってツェンワを見ている。刃を見て顔色を変えた茹瑞宝は、前のめりになって縋りつくような視線をラナンに送って来た。
「おい、こいつはなにをする気なんだ。ちゃんと裁くんじゃないのか」
「あなたのことが気に食わないからこの場で斬る、だそうです。そのほうが手っ取り早くていいかもしれない。首はお父上のもとに確かにお返しいたします。われらに臆せず悪口を浴びせたので斬ったと添え状もお付けしましょう。敵に屈服するより死を選んだあっぱれな者と、伯父上も父上もさぞお喜びになられるに違いない」
 茹瑞宝の前に歩み寄ったツェンワが太刀を振りかぶる。
「やめてくれ。どんな罰でも受けるから、いのちだけは助けてくれ」
 茹瑞宝は、首を縮めて泣き出す。ラナンはため息をついてしまった。
「素直に裁きを受けるそうです。やめてあげてください」
「なんだ、つまらない」
 ツェンワは不満そうな顔で、太刀を鞘に納めた。
 国内の治安を司る整事大相でもあるルコンは、まるで教師のようにラナンに尋ねる。
「さて、法に照らせば茹瑞宝どのにどのような刑罰が科されることになるか、覚えておられるか」
 前の大相の時代までは、刑罰の軽重は裁く者の匙加減に任され、賄賂も横行したが、ティサンは大幅な法制改革を行い、全てのひとに公平な裁きが与えられるように整備した。事件に関しても加害者と被害者の身分や損害の大きさによって細かく課される刑罰が決められている。それでも、窃盗は重罪だ。
「双方の身分や盗んだ量に関わらず、死罪です」
「ちょ……ちょっと待ってくれ。結局、盗んでないだろ」
 また茹瑞宝が金切り声をあげると、ルコンは辟易といった顔をする。ラナンは続けた。
「が、返した者は軽くなるという規定があるので、鞭打ち五百回に数カ月の労役といったところでしょう」
「そんなあ。もう少しまけてくれよ」
「まったく甘くなったものだな。先の大相までは、よくて右手首を切断のうえ目をつぶして辺境へ追放だったのに」
「ルコンどのがそちらをご希望なら、それでいいではありませんか。いくさの捕虜ですから、国内の法に照らさずとも、陛下はお許しになるでしょう」
 ラナンが冷たく返すと、茹瑞宝は慌てて言った。
「やっぱり、鞭打ちと労役でいいです」
 ルコンは笑い出す。
「なんで貴公が決めるのだ」
「ニャムサンにお願いして、お寺のほうで使ってもらいましょう」
 ラナンは肩をすくめた。すぐに帰せば、楊志環を内通者として告発するに違いない。少なくとも和睦が決まるまでは捕らえておいたほうがいいだろう。
 寺の工事を監督をする尚論には唐語が出来る者も多いし、茹瑞宝が働くにはちょうどいい。

 数日後、兵を退いて本国に引きあげた。勝敗はついていないが、渾日進の〈土産物〉、茹瑞宝を捕虜として連れ帰ればそれなりに面目は立つ。
 都に到着すると、ルコンは励ますように言った。
「これからが本当の賭けだ。わたしとラナンどので陛下にご説明する。ツェンワどのはなにも知らなかったことにする。よろしいですな」
 ツェンワはため息をつく。
「わかりました。万が一のときには、兄とわたしでおふたりのご意志を引き継ぎます。でもそんなことがなければいいのですけど」
 三人はうなずき合うと、都に足を踏み入れた。
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