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背信
その9
しおりを挟むルコンを総大将とする軍の編成は着々と成った。
副将はツェンワとラナン。ツェンワにとってはこれが東方元帥としての最後の仕事となる。兵数は二万。ラナンはそのなかの三千の精鋭騎馬隊を率いる。
ほぼ同時に、南詔の軍とともにトンツェンが剣南を攻めることになっていた。こちらも、トンツェンが南方元帥として戦う最後のいくさとなるはずだ。公には結論を保留したままとなっているが、王は次の東方元帥はトンツェンに決めていることをラナンに告げていた。
「レン・ケサンはツェポンに近づきすぎる」
王は眉をしかめた。即位と同時にツェポンから嫁いだ第一王妃は四人の王子をもうけている。が、王は何かというと政治に口を出したがるこの気の強い王妃が苦手で、ツェンワの姪であるおとなしい性質の第二王妃を寵愛していた。
ツェポン家はチム家やド家と同様、古くから王家と婚姻関係にあるが、表舞台に立つことは少なかった。それがこのごろは野心的な王妃に尻を叩かれ、王妃の弟、ツェポン家の若き当主ユルスンは積極的に閣議で発言し、存在感を増そうとしている。タクナンはそこに目をつけたようだ。うまいことツェポンの支持を取り付け、東方元帥の地位を狙っていた。
王がツェポン家を嫌うのは、王妃のせいだけではない。ツェポン家には熱心な伝統宗教の信奉者が多い。タクナンの要職就任とともにツェポン家の発言力が高まれば、王の進めている仏教国教化の大きな障害となりかねなかった。
王はツェポン家の台頭を、ナナム家のラナン、ド家のツェンワ、そしてチム家のトンツェンの結束で抑えようと考えているのだ。
七月。二万の軍は霊州から塩州に侵攻した。
ルコンは、深紅に白く〈馬重英〉と染め抜いた旗を掲げている。
唐で兵学を学んだ若き日に名乗っていた偽名だったが、ルコンは唐に攻め入るときはあえてそれを名乗った。
「本名よりも威力があるからな」
ルコンは苦笑いする。
ボェの国のことを、唐の人間は〈吐蕃(トゥボ)〉と呼ぶ。〈吐蕃の馬重英〉の名は、十五年前に京師を蹂躙された屈辱と恐怖の記憶を唐の人間に思い起こさせ、志気をくじくには大きく効果があった。
途上で略奪をしながら悠々と慶州に侵入したところで、ようやく前方に待ち受ける敵がいるという知らせが入った。ルコンは全軍に停止を命じ、陣を敷いた。
斥候の報告によると、大将は河東朔方都虞候李懐光だという。ルコンは落胆した顔で幕舎に入った。
「めんどうなヤツが出てきた」
「やはり、郭子儀は咸陽から動くことはないのでしょうか」
ツェンワとともに、ルコンに続いて幕舎に足を踏み入れたラナンが尋ねると、ルコンはわずかに顎を引いた。
「さすがにもうお年だからな。しかし渾日進あたりに出て来て欲しかった。李懐光は出世のためならなんでもくいものにする野心家だ。話を持っていく相手としては危険すぎる」
「話を持っていくってなんです?」
ツェンワは目を丸くした。ルコンがラナンに目配せをする。天幕のなかには三人しかいないのを改めて確認すると、ラナンは声を低めてツェンワにふたりの計画を話した。
「ルコンどのとわたしで、郭子儀に直談判するのです」
ツェンワは、言葉の意味が咀嚼できていないようすだ。空白の表情のまま、「はぁ」と息を漏らした。
「われらは直接、郭子儀と会って、和睦について話し合うつもりだ」
ルコンがその目をのぞき込むようにして、ゆっくりと語りかけると、ようやくツェンワの表情が崩れた。
「え? ちょっ、ちょっと待ってください。なんですかそれ。陛下のご命令なんですか?」
「陛下にはお話ししていません」
「それはダメ、ダメじゃないですか。陛下に……」
自分の声が高くなっていたことに気づいたのだろう。ツェンワは一気に声を潜めた。
「陛下のお許しなく敵の宰相と講和を話し合うなんて。反逆の罪を問われますよ」
「もちろん、それは覚悟の上だ」
ルコンは宙をにらむ。
「話し合いの結果を陛下にお持ちする。それでお怒りをかうならばそれまでだ。だが、陛下はご賢明であらせられる。わたしはご理解いただけるほうに賭けた」
「その前に、唐で捕まっちゃうかもしれないじゃないですか」
「それも賭けだな。十三年前、郭子儀は自ら迴紇の本陣に乗り込んで和睦を成功させている。同じく捨て身で臨もうというわれらの気持ちを汲んでくれると信じよう」
ルコンが笑うと、ツェンワは苦虫をかみつぶしたような表情になった。
「そんないのちがけの賭けをふたついっぺんにするなんて、普通じゃないですよ」
「普通にしたのではなにも変わらないから賭けるのではないか。いずれにしても、ツェンワどのは知らぬ存ぜぬをとおされよ」
「いやですねぇ。見損なわないでください。わたしだっていざとなればいのちを捨てる覚悟ぐらいあります」
憤然とするツェンワに、ルコンは肩をすくめた。
「全員が死んでしまっては意味がないではないか。ツェンワどのはラムシャクどのと力を合わせて、われらの意思を継いでいただかなくては」
ラナンは首をひねった。
「しかし李懐光をあてに出来ないとしたら、どうしたらよろしいでしょう」
「どうしたらいいと思われる」
「直接、郭子儀に使者を送りますか」
「家来を使者にするのは危険だな」
「じゃあ、どうするって言うんです?」
焦れたようにツェンワが言うと、ルコンはニヤリと笑った。
「稀学どのと久しぶりにお会いして、こんなときはどうしたらよいか相談したところ、霊州に住んでいる友人を教えてくれた」
「先生のご友人ですか」
ラナンが首をひねると、ルコンは言った。
「かつての稀学どのの部下が渾日進のもとにいる。いまでもその厳祖江という男を通じて互いの消息を伝えあっているのだそうだ。彼を渾日進へ送り、渾日進から郭子儀にわれらの意向を伝えてもらおう。まどろっこしいが」
「これから霊州に戻ってこの方を探さねばならぬのですか」
「いや、ここにいる」
ルコンは涼しい顔をして足元を指さした。
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