ナナムの血

りゅ・りくらむ

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背信

その6

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 ルコンの目論見どおりに東征の計画が決定して、会盟で尚論たちが誓い合った数日後の明け方。
「叔父さん」
 窓から呼びかける声に、ラナンは天を仰いだ。
 ケサンが窓を開けると同時に寝室に飛び込んで来たニャムサンは、あからさまに不機嫌な顔をしていた。ニャムサンの行動に慣れっこになっているケサンはそのまま部屋を出て行ってしまう。
「いい加減、窓から出入りするのはやめてくれませんか」
「ヤだよ、めんどくさい。この前、おまえの家来に取次を頼んだら、三刻も待たされたじゃないか」
「たまたま、わたしの手が空いてないときにいらしたからです。こちらにも都合があります」
「だから仕事前の起き抜けに来てやったんだ。早朝から家来の手を煩わすのも悪いから、いいだろ。そんなことよりオレが言ったこと、覚えてるか?」
「もちろんです」
「じゃあ、なんでこうなるの」
「こうなるとは?」
「オレは、いくさバカの尚論どもを説得していくさをやめさせろって言ったよな。で、おまえは努力するって言ったんだ。その本人がいくさに行くってどういうこと?」
 会盟の結果を聞いたのだろう。ルコンもゲルシクも、ニャムサンには口が軽い。
 彼にはひとをたらし込む天性の才能があった。特に自分の笑顔がどのような効果をもたらすか、充分すぎるほど自覚している。計算ずくとわかっているラナンでさえも、ニコリと微笑まれると、どうも逆らうことが出来なくなってしまう。スムジェなどは、「あれは魔物だ」と言って不必要に近づこうとしなかった。
「わたしも言ったはずです。そう簡単に国の方向を変えることは出来ないと」
「だからって、おまえが行くことないじゃないか!」
 ニャムサンは怒鳴り声をあげた。
「これは政治的な駆け引きです。ニャムサンはお嫌いでしょうから説明しませんが」
「オレが言いたいのはそんなでかいことじゃない」
 ニャムサンはドサリとラナンの寝台に腰をおろすと、爪を見つめながら眉根を寄せた。
「そう、オレが言いたいのは、なんでおまえが行くんだってこと。家族のことを考えろよ。いま、おまえにもしものことがあったら、どうするんだ。ウリンだって、まだ十三なんだぞ」
「もう十三です。家督を継ぐのに不足のない年齢ですよ」
「くいものにされるぞ」
 ニャムサンはラナンを見上げた。
「ナツォクでさえ、そうだった。あいつはいまのウリンと同じ十三で、ウリンよりずっと大人びてしっかりしていた。それでも二十歳になるまでマシャンに牛耳られて、自分の思うように行動することが出来なかったんだ」
「ウリンをくいものにしようとする者がいるというのですか?」
「いるだろうが」
「思い当たりません」
「スムジェがすっかりあきらめて、いつまでも好々爺然と田舎に収まっていると思ってるのか?」
「兄上だったら、そんな心配はいりませんよ」
「なんであんなヤツが信じられるんだ。現に十六年前は、おまえをくいものにしようと担ぎあげたじゃないか」
 ニャムサンのまっすぐな眼差しに、ラナンは目を伏せた。なにも知らなかった昔と違って、いまではラナンも当時のスムジェの魂胆はわかっている。だが、スムジェはすべてを捨てて、領地に引きこもった。その経緯を、ニャムサンは知らない。
「とにかく、わたしも尚論であるからには軍事に関わらぬわけにはいきません。どうかご理解ください」
「わかってるよ」
 ニャムサンは珍しく気落ちした表情をして下を向いた。
「なにもかも、おまえに押し付けておいてこんなこと言える義理じゃないとわかってるし、ルコンの小父さんが言うなら、どうしてもおまえじゃなくちゃダメななんだろうっていうのもわかってる。でも、オレはおまえとおまえの家族が心配なんだ。いのちを落とすようなことだけはするなよ」
 ラナンは返事を忘れてニャムサンの顔を見つめてしまう。顔をあげたニャムサンは眉をしかめた。
「なに黙って見てんだよ。気持ち悪いな」
「あなたにしては珍しいと思って」
「なにが」
「今日はやけに素直なことをおっしゃる」
「オレだってもう歳だからな。いつまでも天邪鬼でいるわけにもいかねぇだろ」
 ニャムサンは寝台にあおむけに寝転がって目を閉じた。
「いつ死んでもおかしくない歳だ。オレもおまえも。だから取り返しがつかなくなってから言っておけばよかったなんて後悔、したくない」
 差し込んできた朝日に照らされたその顔に、今日は年相応の衰えが見えた。
「ニャムサン、ひとつお願いしてもよろしいですか?」
 薄目を開いたニャムサンは、無言でラナンをジロリと見つめる。
「もしも、わたしになにかあったら、子どもたちの後見をお願いします」
「ふざけんな。絶対そんなめんどくさいことしてやらないからな。ウリンとツェサンのことが気がかりなら、生きて帰ってこい」
 天井に向かって吐き捨てたニャムサンは、起きあがると窓から飛び出して行った。ラナンは日差しに白く輝く窓辺を、しばらく眺めていた。
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