ナナムの血

りゅ・りくらむ

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背信

その3

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「なんであんなことを言ったんだ」
 部屋に入るやいなや、トンツェンはツェンワに激しく詰め寄った。
 ふたりが元帥となってから顔を合わせる機会は少なくなっていたが、それでも会盟や重要な閣議で同じ場所に集まったときには出来るだけ会う時間を作り、互いに近況や悩みを語り合っている。それなのに、なんの前触れもなく突然免職を申し出たのだから、トンツェンが怒るのも無理はなかった。
「ゲルシクどのに叱責されて、わたしには力がないと思い知ったのです」
 ツェンワはうなだれたまま言う。
「撤回しろ」
 トンツェンは唸ってツェンワをにらみつけた。
「そんな思いつきでこんな大事なことを決めるな。絶対後悔するぞ」
「思いつきではありません」
 ツェンワは顔をあげた。据わった目には光がなく、まるで死人のような顔色をしている。
「わたしの力では、これ以上領土の拡大は望めない。そのことはもう何年も前から自覚していたのです」
「ふざけんな! ゲルシクどのはオレよりおまえを見込んで後継者に選んだんだ。それが、力がないだと? じゃあ、オレはなんだって言うんだよ」
 トンツェンがツェンワに飛び掛かりそうになったので、ラナンは慌てて後ろから抱きついて止めた。トンツェンはラナンの腕を振りほどこうとして暴れながら叫ぶ。
「離せよ! このバカの目を覚ましてやる」
「ツェンワどのと話し合うようにとご下命をいただいたのは、わたしだったと思ったがな」
 低く腹に響く声に、トンツェンの動きが止まった。
 部屋の主が、机の向こうで頬杖をついてにこやかに三人を眺めていた。
「失礼いたしました。ご挨拶もせず……」
 ラナンがトンツェンを放してルコンに頭を下げると、トンツェンもあたふたと礼をした。
「三人ともまだまだ若いな。まあ、この程度の無礼はラナンどのの甥に比べればどうってことないよ」
 ルコンが揶揄うように言うので顔が熱くなる。ニャムサンは取次を頼まず、いきなり扉を開く。それどころか、はじめて会ったときのように窓から飛び込んで来ることも珍しくなかった。そのうえ許しも得ずに座る、寝転がる。やりたい放題なのだ。王の居室でさえそうなのだから、ルコンの執務室でも相当な無作法を働いているに違いない。
「はあ、申し訳ございません」
 トンツェンが、ラナンの脇腹を肘で突く。
「おまえが悪いんじゃないだろ。あいつはガキのころからああなんだから。シャン・マシャンか誰か知らねぇけど、教育したヤツが悪いんだ」
 ルコンは笑顔を崩さず言った。
「そうだ。責任の一端はわたしにもあるのだから、文句を言うのは筋違いだな。子どものころから出来るだけ注意してきたつもりだが、力及ばず、ああなってしまった」
「えっ? いやぁ、そんなつもりで言ったんじゃ……」
 トンツェンは頭を掻く。いつもなら、ここでツェンワが笑い出すか辛辣なひと言を吐くはずだ。が、ツェンワは青ざめた顔を下に向けて床を見つめ続けていた。こんな彼の姿を見るのははじめてだ。ラナンは胸が痛くなって来た。
「ツェンワもルコンどのとふたりだけのほうがお話ししやすいでしょう。わたしたちは失礼しましょう」
 トンツェンの袖を引いてうながすと、ツェンワがかすれた声で言った。
「いいえ。やはりふたりにも聞いて欲しい」
 ふたたび顔をあげたツェンワはなにかを振り切ったのか、目に強い光が戻っていた。
「わたしは、子どものころから、ずっとトンツェンに負けたくないと思っていたのです。だからトンツェンより先に元帥に、しかも最も重要な東方元帥に選ばれたときには、本当にうれしかった。でも初戦で勝利しても、結局は破れて撤退し、多くの兵を失いながらも領土を広げることが出来なかった。わたしは自分に失望しました。だけど、そんな弱音は吐けないから精一杯強がってきたのです。でも、もうこれ以上、わたしのせいで兵士たちが死ぬのを見るのがイヤになってしまって……」
「ずっと演技していたのか。そんなに弱みを見せたくなかったのか」
「トンツェンは強いんです。だから自分の欠点も失敗も隠さずさらけ出すことが出来る。だけど、わたしは違う。世間の評価が怖かった。やっぱりわたしよりトンツェンのほうがふさわしいと、みなに思われるのが」
「オレたちに相談ぐらいしてくれたっていいじゃないか。みっともない自分を見せられるのが友達じゃないのかよ。オレたちはおまえのなんだったんだ」
「大事な友人ですよ。でも、だからこそ、ふたりに軽蔑されたくなかったんです」
「隠し事しておいて、なにが大事な友人だよ!」
 またトンツェンが激したので、ラナンは腕をつかんだ。
「落ち着いて、ちゃんと話を聞いてあげましょう」
 トンツェンは手を振り払うと叫んだ。
「もう聞きたくねぇよ。こんなヤツ、どうなっても知るか」
 スッとルコンに対して一礼すると、トンツェンは部屋を飛び出して行ってしまった。
 しばらく、静寂が部屋のなかを満たしていた。いたたまれなくなったラナンも部屋を出ようとしたとき、ルコンが口を開いた。
「ツェンワどのの力が足りなかったのではない。内乱を治めた唐が力を取り戻したのだ。ゲルシクどのやティサンどのでも、僕固懐恩の乱後の唐に勝つのは難しかっただろう。それを十年もの間、よく耐えて守ってくれた。ツェンワどのを東方元帥に選ばれたゲルシクどのの目は確かだったと、わたしは思うよ。そう申しても、お気持ちは変わらないか」
「はい」
 ツェンワは迷いないようすで、しっかりとうなずいた。
「ならば宮中での職を考えて、陛下に奏上いたそう。よろしいな」
「ありがとうございます」
 ツェンワはようやく緊張が解けたように、ほっとした顔を見せた。
「実は、戦い方を変えるべきだと思っているのだ。いまのやりかたでは、ひとつの失敗で形勢が逆転しかねない。これからは戦場ではなく宮廷で、やっていただけることがあるはずだ」
 ラナンは目の前が開けるように思えた。ルコンがそう考えているなら、いまの政治の流れを変えることが出来るかもしれない。
 戦い方を変える。
 このところ考えていたことの答えが、そこにある気がした。
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