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背信
その1
しおりを挟む「ちょっと、聞いてる? 叔父さん」
怒気を含んだ声で呼ばれて、窓の外の透きとおった青空に刷毛でさっと描かれたような雲を眺めながら物思いにふけっていたナナム・ゲルツェン・ラナンは、われに返る。顔を向けると、ギョッとするほど美しい顔が、ラナンの目を覗き込んでいた。
ひとつ年下の甥、ナナム・ゲルニェン・ニャムサンが、子供のように頬を膨らませている。
「ひとが話をしてるっつうのにぼーっとしちゃって。失礼しちゃう」
失礼と言えば、窓から執務室に飛び込んで来たと同時に机の縁に尻を乗せて、年始の賀詞もなく話し始めたニャムサンのほうだ。しかしラナンは話を聞いていなかった負い目で、つい謝ってしまう。
「すみませんでした。もう一度言ってください」
ニャムサンが〈叔父さん〉と呼びかけたことに気が付いて、心中で身構える。
ニャムサンはいつも〈おまえ〉もしくは〈ラナン〉と呼び捨てにしていた。それがわざわざ〈叔父さん〉と呼びかけるのは、不平不満をラナンにぶつけるときだ。
案の定、ニャムサンは不服げに眉をひそめて、自分が腰かけている机の分厚い天板をドンとこぶしでたたいた。
「もういくさはやめろって言ってるんだよ。ナツォクといくさバカどもを説得しろ」
ティソン・デツェン王を〈ナツォク〉という幼名で呼び捨てにして許されるのは、幼馴染のニャムサンだけの特権だった。
ラナンは頭を振って、考え事を追い出した。
「だったらニャムサンが直接言上すればいいでしょう。陛下のお部屋にはしょっちゅう出入りしているそうではありませんか」
「イヤだよ。昼寝の前にそんなつまらない話をしたら寝つきが悪くなるだろ。そもそも政治なんて一切関わりたくないから、おまえに面倒なもんをくれてやったんじゃないか」
「陛下のお部屋で昼寝?」
「そう。あそこは静かだし、日当たりがいいし、会いたくないヤツが入ってくることがないから、ちょうどいいんだよね」
ニャムサンは顔の前に両手を広げて、壁登りのために短く整えている爪を左手の小指から順番に点検しながら言う。その顔を、ラナンは不思議な気持ちで眺めていた。
まるで変っていない。
はじめて会ったときから十六年が経つのに、ニャムサンは少しも老けていない。ラナンの方は、人並みにシワが増え、白髪もちらほら出てきた。それでも四十過ぎにしては若々しいほうだと自負しているのだが、ニャムサンと並ぶと親子ほど年が離れているように見えてしまう。
「あーもう、俗世にはうんざりだ。オレも得度したいなぁ」
来年には、仏典の翻訳官のなかから、この国初の出家者が数人出る予定になっていた。仏教を国教化する礎となりうる大きな事業だ。それをニャムサンはイヤなことから逃げ出す手段のように言うので、ラナンは少し苛ついた。
「でしたら、出家をお許しいただけるよう陛下にお願いしましょう」
「出来るわけ、ないじゃないか」
ニャムサンは無念そうな顔をする。
「どうしてです? ご友人のサンシどのはご出家の予定でしょう」
ニャムサンの同僚の尚論バ・ティシェル・サンシは、出家者のひとりとなるべく修行に励んでいる。
「サンシは結婚してないから、好きに出来るんだよ」
同じく出家予定の翻訳官の名を出す。
「レン・セーナンには奥方がいらっしゃいますが」
「あのひとは子どもがもう家督を継いでるし、家族が了解してるんだろ。オレのおっかねぇ嫁は許してくれないんだよ。なんたってオレに首ったけだからな」
ニヤけるニャムサンに、ラナンは冷たく言った。
「では、奥方のお許しがあれば出来るのですね。わたしが家長として説得いたしましょう。ナナム家からこの国初の出家者が出るとは、喜ばしいことです」
「いや、待った、待った。それだけはやめて」
ニャムサンが慌て出すので微笑んでしまう。
ニャムサンはいつも妻のプティのことを『ゲルシクより怖い』と愚痴るけれど、本当はニャムサンのほうがプティと離れられないのだとラナンは知っていた。ニャムサンが間違ったことをすれば、その非を認めて謝罪するまで家に入れないという厳しさを持つプティだが、その実はとても献身的な妻だから、ニャムサンが本気で出家を望むなら許さぬわけがない。
ラナンの笑顔を見たニャムサンはまたむくれる。
「ちぇっ、揶揄いやがって。そうそう、オレはいくさの話をしてたんだった。税はあがるし、働き盛りの若い者たちが兵にとられるしで庶民はうんざりしてるんだぞ。ちょっとはヤツらのことも考えてやれよ。唐の西の方は手に入れたんだからさ、もうこっちから積極的に攻め入ることはないじゃないか」
ラナンも先ほどまで、そのことを考えていたのだ。
民の間に不満がたまり始めているという報告は、ラナンのもとにも入っていた。まだ反乱の気配はないが、なにがきっかけで彼らが暴発するかはわからない。
新たな支配地やこの国に臣従している南詔で、唐の工作によるとみえる小さな反乱が度々起こっている。唐の間者が国内の不満層に接触し、国内までもが乱れれば、めんどうなことになる。
唐とは百年以上もの間、国境や周辺国の併合をめぐっていくさを繰り返していた。先代のティデ・ツクツェン王の時代まで唐の有利に進んでいたこの争いの流れを大きく変えたのは、唐に起こった安史の乱だった。内乱のために守りが薄れた唐の領土を着々とかすめ取っていったのは、当時東方元帥だったチム・ゲルシク・シュテンと南方元帥だったグー・ティサン・ヤプラクだ。ラナンの初陣となった長安占領を経て隴右を実質的に領有し、いまはあと一歩で関中に手が届くというところまで来ている。
しかしこのごろは唐も安定を取り戻しつつある。以前のように思う通りに領地を増やすことは出来なくなっていた。
だが、現在の大相ティサンと、副相ゲルシクは主戦派だ。なにより王が領土拡大に意欲を燃やしている。大相と同等とされる王家外戚筆頭尚論であるラナンであっても、積極的な外征をやめさせることは容易に出来そうもない。
「わたしひとりで、国の方針を変えることなど出来ませんよ」
「お偉いくせに、そんなことも出来ないんですかっ」
吐き捨てるように言われて、ラナンの苛立ちは腹立ちに変わる。
元来、ニャムサンがするはずだった苦労ではないか。それを放棄して政治に関わりたくないなどと言いながら、気に食わないことがあると押しかけて来て文句を言う。
理不尽だ。
「そんなことをおっしゃるのなら、ニャムサンも閣議に出てわたしを助けて……」
言いかけたところで、部屋の外から扉がたたかれる音がした。ラナンが応じる前に、ニャムサンは扉に駆け寄って一気に開け放つ。
「わっ、びっくりした」
「なんだ、ウリンか」
外の声とニャムサンの声が重なった。
「親父の部屋に入るのに、お上品に扉をたたくことないじゃないか」
「でも、合図をしないでお部屋に入ったら叱られます」
元服を迎えたばかりのラナンの長男、十三歳のツェンシェ・ウリンが、戸口から気づかわしげにラナンの顔をうかがっている。ラナンは微笑んでうなずいた。
「当たり前です。合図もなしに扉を開けたり、窓から入るのはお行儀の悪いことです。たとえ父や母の部屋であっても、してはなりませんよ」
ニャムサンは、ウリンの肩を抱いて部屋に招き入れながら、口をとがらせる。
「嫌味を言いやがる。なあ、従兄弟どの、オレはこうしておまえの親父にいじめられてばかりいるんだ。助けてくれよ」
ウリンは目を丸くしてニャムサンとラナンを見比べる。ラナンが苦笑いを浮かべると冗談だと思ったのか、ニッコリと明るい笑顔を見せた。その目元はトゥクモによく似ている。顔の輪郭や全体の雰囲気はラナン似だが、こうして並んでいるとニャムサンとは兄弟といっても違和感がないほどに似て見えた。ニャムサンと自分とはあまり似たところがないので不思議だが、これが血のつながりというものなのだろう。
「用事があって来たのでしょう」
「はい、陛下からお使いがありました。話し合いたいことがあるので、出仕くださいとのことです」
「ほれ、来た」
ニャムサンは飛びつくように口を挟んだ。
「どうせまたいくさの話だろ。オレの言ったこと忘れないでくれよ」
ラナンは浅くうなずいた。
「努力いたします」
ニャムサンはにっこりと微笑んだ。
「よし、オレはウリンと遊びながら待ってるからな」
「なら、唐語を教えてください、ニャムサンさま」
ウリンはニャムサンの腕に絡みつくようにしてねだる。
「ちぇっ。誰かさんに似て真面目なんだからイヤになっちゃう。唐語なんか、ラナンでも教えられるだろ」
「わたしはニャムサンほどなめらかに話せませんから、教えていただければ助かります」
ラナンが言うと、ニャムサンは得意げな顔をした。
「そう? しょうがないなぁ。じゃあ、ツェサンもまとめて講義してやる」
子のないニャムサンはウリンと次男のツェサンのことを自分の子どものようにかわいがってくれる。子どもたちもニャムサンによくなついていた。
じゃれ合うふたりに、ラナンは目を細める。いつの間にか、先ほどまで感じていた腹立ちはすっかりなくなっていた。
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